句会の充実
栗 田 や す し
「伊吹嶺」の創刊時には二十七句会であったが、今では六十句会を越えた。創刊以来句会の数が増え続けていることは心強い限りである。これは各地の同人・会員の皆さんが苦労して句会を立ち上げたおかげである。句会を継続するには指導者の熱意が不可欠であることは言うまでもないが、会員一人ひとりが目標を定めて毎月熱心に根気よく実作に励む姿勢が大切である。
句会の楽しみは句会に出てくる人々と出会い、お互いが理解し合い向上する喜びを共有することにある。
俳句のような短い詩は油断をすると独りよがりに陥り、偏狭なものになる。 客観性を得るためにはどうしても多くの人々に見てもらうことが肝要である。 同時に他人様のすぐれた句をみせてもらい、それを自分の喜びとする心の広さ が必要である。両者相俟って打てば響くような充実した句会であってほしい。
(「風木舎俳話」百三十九)
とは沢木先生のお言葉である。これこそ句会のあるべき姿であろう。
私は句会そのもののレベルが向上することが大切であると思っている。
句会の指導者を中心として句会のレベルアップを目指して努力している句会は活気に満ちて自ずと充実した句会となる。
指導者は先ずしっかりとした目標を定め、自らが実作に励むとともに、会員一人ひとりの向上心を喚起しつつ、句会運営がマンネリ化することのないよう常に工夫を凝らす努力をしてほしい。
新年にあたって各句会がより充実した句会となるよう期待する。
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個人的感情の重視 栗 田 や す し
子規の俳句革新は天保以降のマンネリズム化した月並み俳句を打破することにあった。子規は新俳句の立場と月並俳句の立場を比較し、その「根底よりの相違」として、
我は直接に感情に訴へんと欲し彼は往々知識に訴へんと欲す
と説いている。
この「知識に訴へ」るというのは、理屈的な判断にまつことを意味し、理屈によって俳句を作ることであり、子規の言葉を借りれば、「理屈とは感情にて得可らず、知識に訴へて後始めて知る者」ということになる。
この「感情」を重視するということは、俳句が文学であるという自覚の上に立った、個人的感情を尊重する態度を示すものである。
子規がこのように「個人的感情」を重視したのは、子規自身の文学観からの偽りのない人間感情を「個」の意識とつなぐことによって俳句を近代に適応した文学に革新しようとしたものであった。
子規は晩年、病床で草花を写生することを楽しみとするが、連日写生を続けて到達した写生観を「病牀六尺」の中で
草花の一枝を枕元に置いて、それを正直に写生して居ると、造化の秘密が段々分かつて来るやうな気がする。
と記している。
晩年に至って、子規の写生観は子規の内面の意識、世界観をあらわすところまで到達していたのである。
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糸瓜 栗田 やすし
Nさんから貰ってプランターに蒔いた子規庵の糸瓜がひょろひょろと伸びて二つ実をつけた。それを見ていて子規庵の糸瓜のことを思った。
子規庵へは何度も出かけたが、いつ出かけても糸瓜棚から大きな糸瓜が幾つもぶらさがっていたように思う。糸瓜が年中ぶら下がっている筈はないのだが記憶の中では青々とした大ぶりの糸瓜が目に浮かぶ。
子規の絶句、
絲瓜咲いて痰のつまりし佛かな
をととひのへちまの水も取らざりし
痰一斗絲瓜の水も間にあはず
はよく知られているが、これより一年前の明治三十四年九月二日より執筆を始めた「仰臥漫録」に子規は
庭前の景は棚に取付てぶら下りたるもの
夕顔二三本瓢二三本絲瓜四五本夕顔
とも瓢ともつかぬ巾着形の者四ッ五ッ
と書き、
夕顔ノ實ヲフクベトハ昔カナ
夕顔モ絲瓜モ同シ棚子同士
夕顔ノ棚ニ絲瓜モ下リケリ
などの句を記している。「棚子同士」は「店子同士」の子規流の洒落といったところ。この日、子規は午後八時、腹痛に苦しみ、鎮痛剤を呑むが、呼吸苦しく煩悶を極め、明け方少しだけ眠るという状態であった。
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母 郷 栗 田 やすし
私は「母郷」という言葉が好きだ。母郷という言葉には「故郷」とは違う温もりを感じる。 故郷が生まれ育った土地というのであれば、私のように旧満州で生まれ、二歳にもならない幼児期に母と兄の三人で父の故郷鏡島村(現岐阜市)に引き揚げ、成人するまでそこに住んでいた者にとって、満州も鏡島も正確には故郷ではなく、母郷であると思っている。それは、母との思い出がいっぱい詰まっている土地を母郷と言うのだと思うからである。 鏡島は長良川沿いの集落で旧中仙道の加納宿から河渡宿の中間に位置し、美濃三弘法の一つ「鏡島弘法」で知られ、縁日には参道に店が並び善男善女で賑わう。私は友達とランドセルを家に放り投げると一目散に「弘法さん」に駆け付けたものである。 「小紅の渡し」が史実に登場するのは、元禄五年というから、長良川に古くからある渡しで、今でも弘法さんの縁日には多くの参詣人が利用する。 「小紅」の名前は、対岸から嫁入りするときに、花嫁が水面に顔を映して紅を直したからとか、小紅という女船頭がいたからというが定かではない。 この手漕ぎの渡し舟にまつわる思い出は多い。対岸の「いぼ神さま」へお参りしたこと、空襲で焼けた従姉の嫁ぎ先を訪ねたことなど、その全てが母との思い出につながる。 つまり、鏡島を中心にして、伊吹山も金華山も、それに長良川、その他諸々の風物が、深く母と関わって私という人間を根底に於いて規定しているのである。
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2008年10月号(124)
句会
栗 田 や す し
俳句を鑑賞する場合、俳句が短いだけに、それが作られた時と場が明らかであれば作者の感動により近づくことが出来る。
とは言っても、句会で選をするときは作者すら分からないのだから、その俳句が何時、何処で作られたか分からないまま選をすることになる。 句会は、自分に回ってきた俳句の善し悪しを瞬時に判断する場である。その判断の材料は十七音だけである。 俳句を選すると言うことは、そこに列べられている言葉の一つ一つを理解し、一句全体を解釈した上で、鑑賞し、さらに評価するという作業である。 句会中に、隣から回ってきた俳句を見て意味の分からない言葉があれば、後から調べるとしても、その場はパスするしかない。 個々の言葉の意味を理解し、一句全体を解釈できたとしても、鑑賞、評価となると容易ではない。 句会は指導者が自分の俳句をどう理解し、評価してくれるかが一番の関心事であるのはやむを得ないとしても、披講の後、選評を聞いて自分の選がどうであったか、どこまで鑑賞を深めて選をすることが出来たかを自己評価する場であることを忘れてはならない。 俳句はひとりでは上達しにくいと言われる。伊吹嶺には七十を越す句会があるが、会員一人ひとりが句会の意味を理解し、句会のレベルを向上させる努力と工夫がなければ、個々の上達は難しいと言うことである。 伊吹嶺のインターネットの会員が、チャットやオフ句会で切磋琢磨していることの意味もそこにある。
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季語を詠む
栗 田 や す し
俳句は短い定型詩であり、しかも季語が入っていなければならない。が、単に季語が入っているというのではなく、季語が一句の中で生きて働いていなければならない。
かつて沢木先生が「俳句は季語を詠むものだよ」とおっしゃったことがある。 私たちは即物具象による写生を目指しており、それにはまず物のありよう、つまり物の形象を正確に捉えなければならない。極言すれば物の形象のないところに私たちの目指す俳句は存在しない。
ところで、例外はあるものの殆どの季語は形象のあるものである。言葉をかえて言えば季語の殆どは物であるということである。したがって季語と自己とのかかわり方を切実なものとしたとき、一句の中で季語が働いているということになる。
天上に還らむとする風花あり 欣一
の句は、花びらのように宙に舞う風花を見て、先生は傷つきやすい繊細な神経と、凍るような大気の中で、なお天上に還ろうとする風花に強い意志を見て、自己とのかかわりが切実であると意識されたのである。つまり「風花」という物(季語)の本性を捉えた俳句で、まさに季語を詠んだ俳句の典型と言えよう。
沢木先生は
絶えず歳時記に親しんで、各季語の本情を理解しておくことが大切で、季語
と自己とのかかわり方が切実であると、一句のなかで季語が生きる。
(『俳句の基本』)
と書いておられる。
私たちは「俳句は季語を詠むもの」と言われた先生の言葉の真意をしっかり汲み取らなければなるまい。
2008年8月号(122)
濃あぢさゐ
栗 田 や す し
母の忌を修した。早いもので七回忌である。久しぶりに帰郷し父の墓にも参った。
私が母に送ったハガキがまだあったと言って、兄が厚い封筒をくれた。中には二十一枚のハガキが入っていた。年代はばらばらで、古いものは昭和四十二年のハガキで七円である。四十二年と言えば三十歳で高校の教員時代である。ハガキには
寒き灯が集ひ広場にデモの刻
寒のデモ闘争の旗首に巻き
オーバーの襟立てデモの列離る
の三句のあと「昨日は教員デモに参加しました。風邪を引くと大変なので途中で逃げ出してきましたが…」(一月十五日)とある。勤務評定反対のデモであった。
次も昭和四十五年七月十日付の七円のハガキで、「大学院日文研究室にて」とある。
洛中より。はやいものでもう今日の授業が終われば夏休みです。入学当初は食堂の場所さへわか らず、戸惑うことばかりでしたが、やっと慣れたと思ったら夏休み。(略)この頃は宿へ帰るにも裏道 を歩くことにしています。一歩裏へ入るとそこには本当の京都があります。落ち着いた格子の家並は 伝統の美しさを感じさせます。
寺町が晩学の宿濃あぢさゐ
母への手紙には俳句を書き添える事が多かった。県立高校教諭を退職して立命館大学の院生になった年のもの。宿舎は元公家様の御屋敷で冬は隙間風に悩まされた。当時、田中文雅氏(現就実大学教授)が研究助手をされており、研究室で風邪を引いて咳き込んでいると、大津の自宅に幾度も招いてくださった。もう三十年も前のことである。
寺町の路地リヤカーの冬菜売
は四十五年十二月十九日付のハガキに書き添えた一句である。 |
2008年7月号(121)
夢 の 句
栗 田 や す し
私は幼い頃からよく夢を見た。よくというよりも今でも毎夜見る。
中学生のとき岡田という校長先生が夢の研究をしているとかで、教室に来られて調査をされたことがあった。そのときの私の回答に興味を示されて、後で校長室でいろいろ聞かれたことがあった。今はどんなことを聞かれたのか覚えていないが、カラーの夢をよく見るとか、同じ夢を見たり、夢の続きを見たりするといったことであったろうと思う。夢である以上、矛盾したものであったり、時空を超えたものであったりするが、そうかと言って全く荒唐無稽ではない。ほとんどが現実と関わりのある夢である。
夢の俳句と言えば沢木先生に夢の句が多いことはよく知られている。
薔薇開く母の日に見し父の夢
終戦日ちちはは夢に現はれし
なまなまと紅葉の赤を夢の中
先生が母の日に父の夢を、終戦日にご両親の夢を見られたのは、夢が現実とは無縁の荒唐無稽なものではないことの証と言えよう。それでは、
悪漢に追ひつめられし春の夢
の句は先生のどのような現実と関わっているのか興味深いところである。
それはともかくとして、私もこれまでに夢の句を幾つか作っている。最近では
桃咲くと母に告げゐし夢の中
と詠んでいる。夢なんか見たことがないという人には、でっち上げの句と思われるかも知れない。夢を詠むことは夢そのものを実証出来ないだけに難しい。
俳句の詩因(感動)に嘘があってはならない。夢の中で見いだした詩因(感動)もやはり嘘があってはならないだろう。
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2008年6月号(120)
詩因を探る
「伊吹嶺」は十一年目に入った。まさしく新しい第一歩を踏み出したわけである。会員も同人もいっそう積極的に実作に励み、活動して欲しいと思う。
私たちは実作に当たっては基本を忠実に守ると言うことを忘れてはならない。
俳句は原則として有季定型の詩である。俳句が詩であるためには有季定型という条件を守らねばならない。
詩は感動がなければ生まれない。感動がないのにいくらことばを寄せ集めても詩にはならない。
そこで大切なことは感動の質である。感動には詩的なものと詩的でないものとがあることを知るべきである。普段の生活の中で喜怒哀楽の情を催すが、常識的な感動からは詩は生まれない。
例えば、子の結婚とか、孫の誕生といったこの上ない喜びといった、現実そのままのナマな感動はすぐには詩になりにくい。
自然界(人事界も含めて)には詩因がいっぱいあるが、詩因は自分自身で探らなければならない。しかも詩となる感動は主としてものの生命(美)を中心としたものである。対象の中にいかに生命(美)を見つけ出すか、これが俳句では第一歩である。
緑蔭に赤子一粒おかれたり 欣一
この句は、昭和五十五年の作で、『往還』所中の一句である。緑の美しい季節に公園や遊園地でよく見かける光景である。〈おかれたり〉であるから、涼風の木陰のベンチか敷物の上に寝かされたのであろう。その赤ん坊を一粒と詠んだことにより、祖先から代々受け継がれてきた生命として赤ん坊が光り輝くのである。
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2008年5月号(119)
堅忍不抜のレアリズム
秋の燈を点けたる家の堅かりき 徹
私が林徹氏から頂いた唯一の短冊である。この句の〈堅かりき〉の硬質な抒情に強く惹かれたことを今も鮮明におぼえている。
昭和五十年、「風」編集部より三十周年記念号の特集として「林徹論」を書くように言われたのは「風」同人になって五年目の三十八歳の秋であった。ここで私は生意気にも「堅忍不抜のレアリズム」と題し十七枚ほどの小論を書き、氏の説く即物具象は、複雑な社会の中で人間を捉えるためには思考による現象を抽象的に分析し、再び現象を通して現実を表現するものであると理解し、飴山実氏の「物離れをしかねている」という批判に対して、「物離れ」と言うよりも「物の深化」を目指すものとし
鵜篝の焔々とすぐ四十代 昭和45年
の句を例に挙げ、「四十代」という抽象的概念を「鵜篝」というまぎれもない具象物とかかわらせることによって心のうちを具象化したものと論じた。
これは大先輩に対して怖い物知らずの荒っぽい論であったが、その氏よりすぐに丁重なお便りとともに、残部の少ない中から第一句集『架橋』を送って頂いたときは思いがけない贈り物に大いに感激したものである。
以後、急に氏が身近に覚えた私は、様々な機会に名古屋までお出かけいただきご指導を仰ぐこととなったが、中でも、「伊吹嶺賞」では中山純子氏と共に選者をお願いしてきたのである。一昨年の犬山での綾子句碑除幕式と「欣一・綾子両先生を偲ぶ会」にもお出かけ頂き、次回の「偲ぶ会」は広島でと力強く約束してくださったことを思うとき、氏のご逝去は余りにショックが大きく言葉もなく、今はただご冥福をお祈りするばかりである。
2008年4月号(118)
俳句は最上の道づれ
「伊吹嶺」十周年記念号の沢木先生のご講演記録を読んで、先生に直接お会いする機会のなかった伊吹嶺会員から、「風」の俳句理念を直接お聞きしているようで大変勉強になったという声を幾つも聞いた。そこで今回は、綾子先生のご講演の一部を再録する。
俳句は自然が相手ですから千変万化で毎日新しい。その中に人間も自然の一つとして生きている。その姿を映すのが俳句ですから俳句は私の最上の道づれでした。どんな時でも道づれで、俳句が私をひっぱっててくれたような気がする。実際そうであったと思う。そうでなかったらもっとがっくりしていた。私が元気をなくしても友達がいいのでひっぱってくれた。まさに俳句は私にとって最上の道づれであった。これは私の体験です。私はいかなる時も友達と一緒にいた。悲しい時も、寂しい時も俳句という友達があった。そういう時は作品が沢山出来たり、少なかったりするが、特に孤独な時は最上の友達であった。芭蕉はことさら孤独を求め、俳句を友建としている。そこがあの人の偉いところだと思う。ひとり旅に出て、孤独である自分が自然と親しくなる。孤独であることが自分自身にもっと親しくなれる。私たちは孤独を求める事はないが、人間は本来孤独なもので、年をとってみると一層孤独になる。そういう時に本当の事が云える俳句を友建としてほしい。大げさかも知れないが「別の人生が始まる」というが全くその通りで、俳句を友達にすると自分の人生を客観視する働きが生じるのです。
(文責 せつ子)
(これは昭和六十年七月1日と八日に「朝日カルチャーセンター・立川教室でのご講演で、先生のお許しを得て「あいち風句会報」昭60・7に掲載したものである。)
2008年3月号(117)
ハワイ歳時記
伊吹嶺では創刊以来インターネット部を設けて、世界中の俳句愛好者と手を繋ぎ、日本の伝統詩である俳句を地球規模で後の世代に引き継ぐことを目標の一つに掲げてきた。
ここに一冊の歳時記がある。それは十五年ほど前にハワイ大学に二週間ほど滞在したとき、田中文雅先生のお兄さん(ハワイ大学教授)に紹介していただいて、現地の二世のみなさんの句会に参加した時に頂戴した『ハワイ歳時記』(元山玉萩編)である。
ここにはハワイ特有の季語が納められている。たとえば「夜の虹」というのがあり、
うすれゆく王の叱咤の夜の虹 玉萩
降り尽きてヒロに雨なし夜の虹 松青
などの例句が列挙されている。が、ハワイの歴史、風土を知り、実際にハワイを訪れた人でないと「夜の虹」は理解できないであろう。季語「夜の虹」はマノア谷の夜の虹を言い、満月の夜に淡い霧があるとき、かすかに五彩をたたえるのを言い、女神の恋のかけ橋という伝説もあるという。私はお兄さんに連れて行っていただいたが残念ながら昼であった。
ハワイ特有の季語を本当に理解するには現地に立たなければならない。だからといって理解しようとしないのは間違っている。考えてみるといい。国内の季語でも家の中でじっと座っていては理解できない季語、たとえば「三河花祭」「鰊曇」「ペーロン」など幾らでもある。逆に『ハワイ歳時記』には「四月馬鹿」「涅槃」「鶯」「蜜柑」「香水」「風鈴」など馴染みの季語が満載されているのである。
中国、ドイツ、フランスなどなど、地球上のいたるところで日本語で現地の俳句を作り、お互いに交流し、理解し協力し合うことこそ伊吹嶺が目指す地球規模で日本の伝統詩である俳句を正しく後世に伝える確かな道と考えているのだが間違っているだろうか。
2008年2月号(116)
伊吹嶺季寄せ
平成二十年の元日は穏やかな一日であった。
毎年、熱田さんの初詣でお神籤を引くが、今年は「中吉」であった。熱田さん宣わく
開運の時がくる。但し、急ぐべからず。謹んで静かに事を為せば次第に意の如くなる。千 里の道も一歩から。あせらず努力せよ。
昨秋の運営委員会で「伊吹嶺」では十五周年に『伊吹嶺季寄せ』の刊行を正式に決めた。
この事業は出版部が中心となって企画編集するが、無事完成させるためには伊吹嶺の五百余名の仲間が一丸となって取りかからねばならない。
私達はこれまで合同句文集『俳句は花』(昭和62)、吟行案内『愛知の俳句散歩』(平成4)、同『新訂愛知の俳句散歩』(平9)、『伊吹嶺俳句集』(平19)を刊行した実績を持つ。
『愛知の俳句散歩』の序で沢木欣一先生は、
この書は愛知県下の『風』の同人、会員百七十名の総力を結集して例句や解説に約十年を かけたという。『俳句散歩』と地味な名称であるが、実質は正確緻密で地方吟行案内とし ては完璧の出来ばえである。
と書いてくださった。
今回の『季寄せ』も例句は「風」「伊吹嶺」に掲載された作品に限ることとする。従って、
『俳句散歩』の折に積極的に県下の各地を吟行したように、この企画をバネにして各自がいろんな季語に幅広く挑戦して貰いたい。今回は五年計画であるが、同人、会員五百余名のパワーを結集して立派に完成させたいものである。
千里の道も一歩から。「あせらず努力する」ことを神に誓った元日であった。
2008年1月号(115)
伊吹嶺の10年
「伊吹嶺」創刊以来十年の歳月が流れました。十年一昔、創刊の年還暦であった私も古希を迎えました。今更ながら歳月の容赦ない早さに驚いています。「伊吹嶺」の十年は実に永かったと思いたいのに、実感として瞬間に過ぎ去った感じですが、この間、「伊吹嶺」は同人・会員の皆さんは勿論のこと、俳壇の先輩、それに多くの友人に支えられて今日まで歩んで来られたことに感謝の念でいっぱいです。
私たちは十周年を迎えるに当たり
一、細見綾子先生の句碑の建立
二、記念賞の募集と顕彰
三、十周年記念大会と祝賀会の開催
四、合同句集『伊吹嶺俳句集』の刊行
五、「伊吹嶺」十周年記念号の発行
の五つの記念事業を企画しましたが、この記念号(一月号)の発行をもって完結することになります。これも偏に、運営委員会を軸に各部の皆さんが一丸となって推進してくださったおかげと感謝しています。
私は「伊吹嶺」創刊号に「先ず十年後の『伊吹嶺』を楽しみに仲間とともに努力たい。」と書きました。また、
「伊吹嶺」は 俳句における文芸性の確立 を念願して創刊された「風」の理念を基本に 据え、即物具象の俳句をめざすとともに、日本の伝統詩としての俳句を若い世代に正しく 伝えることを目指す。
とも書きました。この指標は今も変わることはありません。
「伊吹嶺」が創刊以来力を注いでいるのはインターネットの活用です。
「伊吹嶺」を創刊した平成十年四月十一日の「中日新聞」で文化部の金井記者が「平成俳句事情」⑤を書いています。
この一月、インターネット上に「俳句雑誌『伊吹嶺』創刊のご案内」が載った。
「伊吹嶺」の主宰は栗田やすしさん=名古屋市・栗田やすしさんが支部長を務める俳誌「 風」(沢木欣一主宰)愛知県支部の二十五周年を期しての創刊だが、ホームページでの創 刊宣言というのはなかなか新鮮だった。(略)
インターネットのもつ即時性、データーベースやリンク機能は俳句世界にも新しいスタ イルを生み出しつつある。(以下略)
とあり、「インターネット俳句はお気軽な遊びを量産するだけの危険性をはらんでいる」とする俳人の指摘に対して「かといって 俳句の本質とインターネットは無関係」と、無関心を決め込むのもどうか。(略)現在の俳句会の主流形態である結社が、何時までも中心とはかぎらない。」と結んでいます。
「伊吹嶺」のインターネットの十年はまさに試行錯誤の十年でしたが、インターネット部を中心に着実にその成果を上げつつあることを大変頼もしく思っています。
それだけ俳誌「伊吹嶺」の役割が一層重要になったと言えましょう。
この十周年を機に、私たちは更に気を引き締めて二十周年に向けて、「気宇壮大」の気構えを忘れることなく、前進したいものです。幸い「伊吹嶺」には新しい力が台頭しつつあります。新旧力を合わせて、これからも勇猛心を奮い起こして俳句作りに邁進しましょう。
最後になりましたが、この記念号のために玉稿をお寄せ下さいました諸先生、先輩、友人に心よりお礼申し上げます。
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