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いぶきネットの四季


 いつも伊吹嶺HPを閲覧して頂きありがとうございます。 平成24年3月から新しい企画として「いぶきネットの四季」というタイトルで、楽しい写真歳時記 コーナーをスタートさせました。写真歳時記と言っても単なる季語の解説ではありません。 季語の解説は一般の歳時記に譲ることにして、このコーナーは季節の写真とそれに関する俳句、 そしてその俳句の鑑賞、思い出、あるいは季語にまつわる体験談など自由な発想で随筆風にまとめ ます。
執筆者は「伊吹嶺」インターネット部同人、会員、そしてそのネット仲間などが随時交代 して書きます。皆さんの一人でも多くの閲覧をお願い致します。
なお四季の写真を広く皆さんから募集したいと思います。写真は次のポストマークをクリックして 下さい。また写真のこのHPへの掲載の採否は伊吹嶺HP作成スタッフにお任せ下さい。

 
おかげさまで平成24年からのいぶきネット四季は好評です。平成25年からはこちらでご覧下さい。平成24年は下記の案内をクリックして下さい。

                       インターネット部長  国枝 隆生


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平成25年12月のU
くれなゐの色   関根 切子

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沖縄 万座毛の夕照       
写真 武藤光リ



    くれなゐの色を見てゐる寒さかな      細見綾子



 私がお手伝いしている老人ホームでは、月に一回俳句教室が開かれます。参加者は二十人くらいでしょうか。翌日、短冊に書かれた俳句が ロビーに張り出されるのですが、思わず微笑んでしまう楽しい句がたくさん並びます。ある日その中に「くれなゐの色を見てゐる寒さ かな」と書かれた短冊を見つけました。驚いて俳号を確認すると、左下にこの短冊を書いた女性の名前が記してありました。
 後日その女性を見かけたのですが、車椅子に乗った、たぶん米寿をとうに迎えているであろうその方は擦れ違う人みんなに微笑んでいて、 私にもにこやかに挨拶をしてくれました。短冊はまだ張り出されていましたが、よく見ると俳句の文字とは違ったしっかりした筆跡で彼女の 名前は書いてありました。たぶん手伝いをしていた俳句をあまり知らないスタッフが、細見綾子の句とは知らずにこの女性の名前を書いて あげたのでしょう。私はそう納得しました。
 彼女は細見綾子が大好きだったのです。だからこの句を覚えていて、思い出すままに短冊に書いたのでしょう。いろいろなことを忘れて いくなかで、大好きだった綾子の句はまだ覚えていたのです。感銘を受けた句は心の中に深く刻まれ決して忘れることはないのだと私は 思いました。
 ところで「くれなゐの色」とは何の色でしょう。作者は具体的なことは何も言っていません。花なのか、雲なのか、炎なのか。しかも 「くれなゐの色」を見て作者は寒さを感じています。山本健吉はこの句を「形が消え去り、ただ色を見ているのである。色がさむざむとした 深淵となる」と鑑賞しています。そして「俳句にならないようなことを、さりげなく言ってのけるところに、この作者の大胆さと感受性の みずみずしさとがある」と。
 前述の女性はこの句をどんな風に鑑賞したのでしょう。「くれなゐの色」に何を感じたのでしょう。ホーム三階の彼女の部屋から眺めた 夕日は、林立するビルディングを一瞬赤々と染めて、静かに沈んでいきました。
文中写真の夕照は奈良鷺沼の浮き御堂

平成25年12月
私の愛唱句   山下智子

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吾亦紅とコスモス       
写真 武藤光リ


    野の花にまじるさびしさ吾亦紅   細見綾子

昭和四年作


 綾子先生が女学校時代に父上は病没。昭和二年女子大を卒業し、養子に迎えて結婚されたご夫君は、昭和四年一月病死される。やむなく、 郷里の丹波へ引き揚げられた。しかし、同年四月母上が病没。つづいて秋にはご自身が肋膜炎を発病され病臥の日々となられた。たまたま、 往診の医師田村菁斎の勧めで俳句を始められ、松瀬青々主宰の「倦鳥」へ投句され初入選したのが冒頭の句です。綾子俳句の第一作とも言え ます。
 恐らく、綾子先生は庭に咲く吾亦紅を見止めて〈野の花にまじる〉と。初心から措辞のよろしさに驚きます。山野に自生する吾亦紅は、 茎の先に暗紅紫色の楕円球形の穂状花を沢山付けて咲きますが、たしかに、さびしい花と言えます。綾子先生は一年足らずの間に孤独に なってしまった寂寥感。沁々とご自分の姿を吾亦紅と重ねて〈さびしさ〉と吐露せずにはいられなかった事でしょう。胸の痛くなるような 句です。


    吾亦紅ぽつんぽつんと気ままなる   細見綾子
平成七年作


 綾子先生の晩年の句です。〈野の花・・〉の句から六十有余年が過ぎています。何と明るい句でしょう。綾子先生は天衣無縫の作家で心の おもむくまゝ自由奔放に作句されると言われています。その見本のような句だと思います。〈ぽつんぽつん〉は適確な写生です。〈気まま なる〉は吾亦紅をじっと見つめていると〈気まま〉に揺れていたりします。真似のできない天才綾子先生の写生句だと思っています。



    どの花も線の先端吾亦紅   沢木欣一
平成八年作



 病院へ入院中にお見舞いの方から戴かれた多くの花の中から吾亦紅を詠まれた句です。〈どの花も線の先端〉に成程そうだと納得できます。 即物具象のお手本の句ですね。
 私は長年山旅を続けてきました。晩夏から晩秋にかけて、花野の中で吾亦紅は必ず見つけます。
 吾亦紅見る楽しさよ何回も 綾子(平6)の句もあります。花野のお好きな綾子先生は何回も見られたことでしょう。
 数年前、天山北路の旅をしました。中国最北端の秘境ハナスのロッジで泊りました。大花野の中です。吾亦紅の大群落の趣でした。
 吾亦紅ぽつんぽつんと気ままなる 綾子
 どの花も線の先端吾亦紅     欣一

 句友達数名で口ずさみながら歩き回りました。私達の愛唱句になっています。


平成25年11月のU
欣一忌に思う   長崎 眞由美

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カットグラス       
写真 武藤光リ



    ウイスキーグラスに夕日欣一忌      栗田やすし



 11月5日は沢木欣一先生の忌日。栗田先生の句集『海光』が第49回俳人協会賞を受賞したとの知らせを受けた時、栗田先生は 「まず最初に、沢木、細見両先生のお顔が浮かびました」とおっしゃっています。
 又、受賞祝賀会の記念品として頂いた随想『木瓜の花』の最初のページには昭和57年3月に沢木、細見両先生を三島にお招きし、伊豆 吟行会をされた時に写された沢木ご夫妻、栗田ご夫妻のアットホームな写真が載っています。その中の「幻の『昭和俳句の青春』後編」 と題した随想の中で、栗田先生は沢木先生にはじめてお目にかかったときの印象として、面長で芥川龍之介に似た鋭い眼差しが印象的であった が、しばらくお話をうかがっているうちにその暖かいお人柄にすっかり魅せられていたと書かれています。
 日大の院生時代の3年間は毎週のように武蔵境のご自宅(「風」発行所)にお伺いし、掘炬燵に向かい合って、時には綾子先生の手料理を ご馳走になりながら、いろんな話をお聞きになられたようです。きっと栗田先生は沢木、細見両先生にとって本当の息子のように接して おられたのではと推測されます。


    欣一亡し夕日まみれの師走富士      栗田やすし



の句にも夕日、それも初冬の夕日が出てきますが、夕日によって、師を偲ぶ先生の哀しみや切なさが一層深く感じられます。
沢木先生の句集をしっかり読ませていただき、是非私もいつか「欣一忌」の句が作れたらいいなあと思いました。


平成25年11月
長良川の寒月   梅田 葵

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長良川       
写真 武藤光リ


    寒月が鵜川の底の石照らす   栗田やすし

昭和四十三年作


 長良川は鵜飼のシーズンが終わると、急に秋の気配が濃くなり水も透明度を増し川本来の姿に戻る。
 少年時代から長良川に親しんで来られた師にとって、寒中の川も又振り返らずにはいられない程の感慨を持たれたのだ。
 昼間の川の表情とは違って、真闇の川は響きこそすれ或る恐怖すら感じられる。身を切られるような冷気の中、寒月は煌々と光を放つ。 その光は川底の石までも明らかに照らしている。石だけではない、師もまた照らされている物の一つである。冴え冴えとした寒月と澄み切った 川のもたらす世界を石によって言い止め、自然の大きな構図の一点を凝視した句である。
 これより後、昭和四十七年、


   月明に鵜磧の石裏返す   やすし の句がある。(自註句集による)

 昭和四十五年、立命館大学院生となられた師が、二年間の課程を終えられた年の秋に詠まれた句である。
 裏返された石の新しい面が月光に照らされた。石にとって思いがけない動きであったにせよ、そうせざるを得なかった師の心に新しい 何かが生まれたのではないか。水底の石と地上の石に何の関わりもないが、掲句と並べて読んでみて不思議なつながりを感じたのは全くの 深読みであろうか。
 ところで、寒月が鵜川の底の石照らすの句に出会ったのは、昭和五十一年九月、「風」創刊三十周年記念として刊行された 『風歳時記』であった。この年の十一月、名古屋句会に入れていただいた折、先生のお計らいで手にした歳時記である。頁を繰ってゆく うちに、ふと目に止まったのが掲句。「冬の月」の項に例句として載っていたのはこの一句だけであった。寒月が川底の石を照らしている という、思いがけない視点に神秘的なものを感じた。
 自分なりに想像を膨らませ、俳句のような短い詩形から表す事の出来る世界があるとすれば、ずっと俳句を続けてゆこう、そう思った 一句でもある。


平成25年10月のU
やすしの馬籠   武藤光リ

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木曽路の枡形       
写真と文 武藤光リ


 「木曽路はすべて山の中である。・・・」で始まる島崎藤村の「夜明け前」はほとんどの方が一度は読み、冒頭のフレーズは周知の言葉 であろう。
 若い頃に読んだこの小説によるものだけではなかろうが、木曽路の馬籠妻籠などはどこか日本の原点を思わせるものがある。そしてこの 感覚は能登や沖縄などにもその地に足を踏み入れれば感ずる郷愁にも似た物でもある。
 主宰の馬籠宿を詠った句に初めて会ったのはいつの頃だったのだろう。はっきりとは解らないが、主宰も煙草を吸って居られたのかと 思うと同時に「ガラス瓶より」に大変郷愁を感じた。戦前の煙草屋は必ずと言っていいほどそうであったし、子供の頃通った駄菓子屋も 同じような入れ物が並んでいた。その御句は、


    木曽の秋ガラス瓶より煙草買ふ   やすし (昭和50年)


 であった。そしてこの御句の親筆を何かの折に頂戴し、宝物として寝室に飾っている。
 私が馬籠宿に初めて行ったのは平成19年の秋であった。この煙草屋は何処だろうかと探した記憶がある。もちろん解ろう筈もなく、 ただ直角に曲げた坂道である枡形の辺りが似合うなと思ったりしたのであった。 馬籠宿を直に知って後、この句は単なる即物具象としての句ではなくなった。ガラス瓶は古い時代の象徴であり、ちょうど藤村が古い幕藩 体制から新しい明治への移行を「夜明け前」によって物の往来する宿場を中心にして写し取ったのと同じように主宰は在所の一軒の煙草屋を 通して時代の移り変わり、古い日本的な姿を表し、残したかったのだと気付いたのであった。
 それは単なる写生ではなかった。深い思いが入っていたのだと。
 その後句集「伊吹嶺」を読ませて頂き、同時作に以下の八句を知った。


    月残る紅葉始めの南木曽岳

    バス降りて木曽の芒に沈みたる

    椿の実はじけ寺領の藤村碑

    崖下に相寄りて燃ゆ葉鶏頭

    馬籠宿入りて出るまで菊の坂

    柿昏れて戸毎燈の入る木曽の秋

    穂芒や宿場果つれば道ほそる

    木の香よし花野の果ての製材所    やすし   



この一連の句も、それぞれに時代の変遷への思いが宿されている。
 また句集「伊吹嶺」には昭和53年作にも馬籠の句を発見することができる。
  柿熟す天つゝ拔けの馬籠宿
さらに私のホームページの「伊吹嶺歳時記」の「柿」の項にも
  柿熟す馬籠の空に昼の月
を見つけ出した。主宰は何度も馬籠宿に通われているのだ。馬籠の秋は主宰の句によって、私にはますます心に残る地となった。
 また機会を作って行かねばなるまい。


平成25年10月
雪の富士   長江克江

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富士山       
写真 国枝隆生


 早いもので平成二十五年十一月五日は沢木欣一先生の十三回忌にあたる。
 顧みれば「風」創刊五十五周年記念大会(平成十三年)まであと二週間あまりというところで、先生とのお別れを迎えてしまった。 深い悲しみの中、誰もが先生への感謝とご冥福を祈ってやまなかった。
 その二年前の八月、新宿のJR東京総合病院にご入院中の沢木先生を、お見舞いを兼ねてご挨拶に伺った。折しもせつ子さんと葵さんが お見舞いに行かれるとのことで、お供させて頂いたのである。
 内科病棟はとても静かで都会の喧噪を離れた別天地のように思った。当の沢木先生は、談話室で紫煙をくゆらせながら、午後のひとときを 楽しんでおられるようにお見受けした。「暑い中をわざわざ」と言われつつ、にこやかに私たちを迎えてくださった。確か肺機能がお悪いと 伺っていたが、お声の張りもあり、何よりお元気そうで皆ホットした。先生は「部屋へ行きましょう」と私たちを病室に案内してくださった。
 記憶は定かではないが、広い個室は調度品が茶系でまとめられ、棚には大きな花瓶に吾亦紅や桔梗が涼やかに活けられてあった。驚いた ことに棚や床には原稿の束がうずたかく積まれていて、書斎とまがうほどであった。先生は安静にしておられる時間はあるのだろうかと、 ひそかに案じたのであった。
 ふと、窓辺に寄ると、沢木先生が「お天気がよいと、そこから富士山が見えるんですよ」とおっしゃった。そのお声はおだやかで、 限りなくあたたかかった。


    十二階天に三角雪の富士      沢木 欣一



 平成五年のお句であるが、雲海を抜けて聳える遠富士がご入院中の先生のお心を癒してくれているのだと、深く感じ入った。
 まもなく富士山は、初冠雪の季節を迎えようとしている。この美しい富士山をもうご覧になれないと思うと切ないが、「風」の理念を 受け継ぐ「伊吹嶺」で学ぶことを誇りに思い、精進していきたい。


平成25年9月のU
辺戸岬の蘇鉄の実   国枝洋子

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みやらび句碑       


    てのひらに朱を滴らす蘇鉄の実   沢木欣一

    辺戸岬まで来てとりし蘇鉄の実   細見綾子

    本棚に辺戸の蘇鉄の実を加ふ   栗田やすし


 沖縄の透きとおった蒼い海や風土等に触れてみたいと憧れてはいたが、過去の悲惨な歴史を思うと、うわついた観光気分で訪れては申し 訳ないと、長い間行くことをためらっていた。しかし現実を知らずに目を背けてばかりいてはいけないと思い直し、栗田主宰からお誘いを 受けたのを機会に出かけることとした。
 初めて行った沖縄の人々の明るさや温かさ、そしていまだに続く苦難の歴史を背負いながらも皆さんの大らかさに救われる思いだった。
 沖縄での一番の目的はもちろん辺戸岬。暗いうちにレンタカーで那覇を発ち、辺戸岬に着いた時、丁度朝日が水平線の向こうから 出かかっている頃だった。朝日を浴びながら念願のみやらび句碑にまみえ、何度も撫でては、あたりを散策し、崖際で見つけたのが蘇鉄の実。 朝日よりも朱の濃い蘇鉄の実をてのひらに乗せて、眺めたり、握りしめたり、まさに朱の滴りを授かったようであった。
 沢木、細見両先生の句のとおりの体験が出来た幸せをかみしめていた。お誘い頂いた栗田主宰ご夫妻には感謝の思いで一杯です。

 あれから10年近くたった今でも、あの時の辺戸岬の蘇鉄の実は朱を保ったまま、我が家の玄関の棚に置いてあり、通る度に握りしめると 蒼い海、白い砂浜とともに荒々しい波しぶきの立つ辺戸岬の様子が目の前に浮かんでくる。
 栗田主宰の句のように、本棚の蘇鉄の実もまだ朱を保っているのだろうか。
 沖縄の美しい自然が壊されることがないように、平和と安全がいつまでも続きますように祈らずにはおられない今日この頃である。
  写真と文 国枝洋子

平成25年9月
小豆島   若山智子

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尾ア放哉記念館       


 もう十年以上も前のことになるが、學燈社の「國文学」で栗田先生が書かれている「自由律俳句と近代」を読んで、初めて自由律に興味を 持った。その本は山頭火と放哉の特集号であった。放哉はどんな生涯を送ったのであろうか、と思いつつ数年が過ぎた。



    放哉の終焉の地や木瓜の花     やすし



 平成二十年五月号の「伊吹嶺」誌に掲句を含めて七句の小豆島の句が掲載された。小豆島へ行き、放哉が終生の安住の地と思った南郷庵を 訪れよう、と句会の仲間と計画した。
 一泊吟行は初めてで、全員参加の選んだ日が放哉忌であった。これは幸先のよい旅になりそうと、平成二十三年四月七日、岡山から小豆島の 土庄港行きのフェリーに乗った。土庄港に着いて、まず放哉のお墓のある西光寺に向かった。「放哉」南郷庵友の会が放哉忌を修していた ので、私たちもお参りさせていただいた。友の会の人の案内で放哉の足跡を歩いた。島はオリーブの剪定の時期で、塩田跡のオリーブ畑にも 剪定の枝が積まれてあった。放哉が生活に使ったポンプ井戸から勢いよく冷たい水が溢れ出た。
 そして南郷庵に。庭には掲句の木瓜の花が咲き満ちていた。木瓜は放哉の好んだ花だったそうで、臥せてからは盆栽の木瓜を枕元に置いて いたそうである。

    師に宛てし放哉の文冴返る       やすし      
 師の「層雲」主宰、荻原井泉水に宛てた文が礼状も含めて掲示されていた。どんな思いで師にしたためたのであろうか。  翌日は島の風光明媚な地を巡った。

    千枚田細き流れに蜷の道       やすし

    草萌ゆる桟敷段なす能舞台      やすし 

    海見ゆるオリーブ園や風光る      やすし     



 中山千枚田には、日本名水百選の湯舟山の湧水を引くそうで、水を張った千枚田の爽やかな風に吹かれてみたいと思った。
 二ヶ月後、オリーブの花を見に、今度は夫と島を訪れた。白い花が咲き始めたオリーブの丘から眺めた海はきらきらと輝いていた。 この六月に『碧梧桐百句』を読み終えて、碧梧桐と放哉がやっと私の中で繋がった。
 
  写真 記念館 若山智子
木瓜 国枝隆生
オリーブ園 八尋樹炎 

平成25年8月のU
まぼろしの小瀬鵜飼

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梅雨煙る小瀬       


 「伊吹嶺」平成19年(2007年)9月号の【主宰動静】に"21日(土)〜22日(日) 昨年計画して二度とも増水のため中止した 小瀬鵜飼へ。浜田真理先生を迎えて。"とございます。
 「伊吹嶺」入会直後の私は、数々の鵜飼の句を読ませていただき是非一度と思っておりましたので喜び勇んで参加させていただきました。
 川沿いの道を車で登るほど濁流が気になりましたが、靄のなかから浮かび上がる百日紅に目を奪われておりました。円空入水の地などを ゆっくり見ているうちに、皆とはぐれてしまい円空佛を拝めなかったのは心残りでした。
 石畳と杉苔の緑、築250余年の《鵜の家 足立》母屋、玄関を入ると臼の上に置かれた鵜籠が印象的でした。


    鵜飼宿苔あをあをと送り梅雨     やすし


増水のため今夜の鵜飼は中止」 本当にがっかりしました。

    遠来の友に無情の梅雨出水     やすし
    出水して鵜飼なき夜の鮎づくし     やすし      

 宮大工によって建てられた新館の大広間、加藤東一画伯の鵜の眼に惹かれました。先生のお話をお聞きしながら、地酒「三千盛」を酌み 「鮎のフルコース」、美しく美味しい夕食でした。

    梅雨の夜半鳥屋の鵜の声獣めく    やすし


鵜の声と友の鼾に夜中に目覚めたのも懐かしい思い出です。

    日盛りの鵜が緑眼をかヾやかす     やすし      


 翌日はかんかん照りの真夏日、中庭の池には20数羽の鵜が水浴びをしておりました。羽の艶、眼の輝きに見惚れました。最長老の鵜は24歳、 身じろがず立っていたのを思い出します。
 H20年10月、岐阜でのオフ句会、句会に熱中して鵜飼を見逃し、私にとっての初めての鵜飼見物は、H22年9月「薫風」の皆さんとの長良川 でした。
 以上5句は『海光』  H十九年  所収  
  文 佐藤とみお
写真 武藤光リ 

平成25年8月
梅漬ける

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梅漬       


    梅漬ける甲斐あることをするやうに   綾子

 初夏はなんといっても青梅の季節。梅酒、梅ジュース、梅干し漬けの時期です。梅の瑞々しい青さは生命力に溢れ、小さな一粒一粒からは、 何か大きなエネルギーをもらえるようだ。私にとって季節を実感する大事な一つが青梅と言えます。
 今年はなりが良いのか、近くの梅の木の熟梅採られずに、おびただしく落ちていた。梅干しを作る家庭が少ない事もあり仕方がないのだろう。 しかし私達の年代では、この頃になると梅酒や梅干し漬けが話題に出てまだまだ頼もしい限りです。我が家も二年ぶりに梅酒を作りました。
 梅干しの思い出となると、ほとんど実家の母まかせで、毎年当たり前のように大甕で貰っていたので、肩身が狭いのですが、両親が ふるさとの近くの梅の産地、三方五湖の福梅を買いに行く話、塩漬け、夜干し、紫蘇をもんで手指の染まったこと、干し梅の香に昼寝から 覚めたことなど、その都度父や母から電話があり、まるで自分も梅干しを作っている気分だったあの頃。
 振り返れば母の味のすっぱい梅干しが懐かしく思い出されます。きっと一生懸命甲斐のあることと作ってくれていたのでしょう。
 母亡きあと、二度ばかり梅干し漬けに挑戦しましたが、固くて家人に不評でした。きっと不甲斐ないと天国で嘆いているでしょうが、今は 塩加減のおいしい梅干しを買い求めています。
 掲出した綾子先生の句は昭和22年作、『俳句の表情』の中で、この句を自句自解されています。
  私自身も梅干しを時々は作った。梅干しを作るのには自分の条件が要る。心動かす良い梅が見つかること、またそういう時間が持てること、 梅干しを作ろうという、ふくらみのある心身、これを時間といってよいかどうか、これ等が揃わないと実現出来ない。
この句はやり甲斐のあることのように、梅漬けをしたという自己満足である。

 と書かれています。日常茶飯事の時間も、一期一会の貴重な時間もすべて生命の俳句につながっている綾子先生の生き方に習って、 一日一日を大事に暮らし、一度は満足の出来る梅干しを作りたいと思っています。
 文  福田邦子
写真 矢野孝子

平成25年7月U
栗田主宰との額田吟行

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棚田       
 ほととぎすは
 春は花夏はほととぎす秋は月冬雪さえてすずしかりけり      道元禅師 
と詠われているように、はるか古より、詩歌の夏をいろどる「時つ鳥、「時の鳥」であった。
 鳴き声は「ひそみ音」、「忍び音」といい、なかなか聞くことができない鳥の代表でもある。鋭く鳴いて一瞬のうちに飛び去ることが多く、 姿もなかなか見ることはない。

    ほととぎす棚田隔てて鳴き交はす   やすし

    時鳥しかと聴きたり狩場跡     やすし      

 栗田先生、平成19年6月の作。岡崎市額田の神尾朴水氏の招きで、せつ子さん、蒲郡の仲間と「お狩場跡」の時鳥を聞く会に参加された 時の作。「鳴き交はす」におおらかな感情がこめられ、「しかと聴きたり」と力強く詠まれ、お狩場跡に立ち尽くすやすし先生の姿が思い 出される。
 「お狩場跡」は戦国の昔には鷹狩には好適の場とされ、若き日の徳川家康も訪れたという旧跡地である。ここから百米ほど奥に、東照宮が 祀られた遺跡と、当時から当地に栄えていた弓道名残の的場の跡がある、とお狩場跡の入り口の案内板に記されている。昔は松の大木が そびえ、広い田の中にひとつの景観を作っていたが、今は芒の生い茂る草むらとなり、東側にわずかに的場らしき形を残しているのに過ぎない。

    鉢植ゑの蒟蒻の花つん立ちに    やすし


 千万町茅葺屋敷の玄関に置かれてあった「鉢植ゑの蒟蒻の花」を見逃されることなく、「つん立ちに」と、蒟蒻の花の様子をあまり 欲張らず、さりげなく詠まれた。先生の飾らない心根を見た思いで、私にとって忘れられない一句となった。
 やすし先生にはほかにも平成15年6月と20年7月に額田吟行に参加していただき、その都度、「俳句は定型詩、季語、写生である」こと を教えていただいている。基本は変わることなく、一筋であることを忘れてはならないと思う。
ささゆり  額田はササユリの保護地域で、ちょうど時鳥の声を聴ける頃、芳しい匂いとともに淡いピンクの大輪のユリが咲き乱れる。青い田とピンク 色のササユリのコントラストは素晴らしい。先生にもぜひ見ていただきたい光景である。
 文  内田陽子
写真 小田二三枝

平成25年7月
発行所詣で

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伊吹山房       


        石臼に目高ほどなる金魚飼ふ    栗田やすし      
『遠方』桃の花の部所収
 数年前のこと、伊吹山麓の三嶋池の鴨の吟行をした帰りに一人から「伊吹山荘は何処にあるの?」と聞かれた。最初、質問の意味が 解らなかったが「伊吹嶺発行所」は伊吹山の山荘にあるものと思っていたらしい。伊吹嶺発行所のことを全く知らないことに初めて気づいた。
 自分も「風」発行所に今は亡き福永京子さんに連れて行ってもらった後からは「発行所の・・・」とか綾子先生の「庭の牡丹・・・・」の 句を拝見しても身近に感じるようになった。
主宰の金魚  そこで後日、発行所見学を実行した。発行所前を徐行しながら「ほら、「栗田」と「伊吹嶺発行所」の二つ表札があるでしょ。」みんな 真剣に見ていたが、伊吹山房は見えない。そこで、一方通行を良いことに二周して裏からも見学し、玄関前から再度覗くと、発行所の 玄関脇の書庫に「伊吹山房」と標札が掛かっているのが見えた。
 そうした私たちを隣家の洗車中の人が不審そうに見ていたっけ。滝の水川両岸の彼岸桜もまだ若木だった。まさか「こんにちは」と 言うわけにもいかず。しかし発行所を見たことで「伊吹嶺」に親近感を持ったことは確かである。
 昨年、折戸句会の合同句集『折戸』を刊行した後、発行所で句会をさせていただいた。真っ白な玉砂利のお庭を吟行。冒頭句の金魚の 太っていたこと。足音に寄ってくるなど感動しきり。大きなカリンも拾い、句材に不自由することはなかった。句会場となった居間から 眺めるお庭の美しかったこと等々。緊張の数時間であった。後日、やすし先生がご自宅(またはその周辺)で詠まれた、


    わが庭の石の白さよ梅雨の月  (平成12年)

    買初めは金魚の餌と旅の本   (平成13年)

    カリンの実海を隔てし子に送る   (平成16年)
  注 カリンは原句漢字


栗田家庭園  といった句を親しみをもって拝見するようになり、これまで以上に伊吹嶺俳句に親しみと誇りを持ち、俳句への取り組みに熱が入ってきた。
再び発行所で句会の出来る日を句会の仲間と夢みている。
 文  都合ナルミ
写真 国枝 隆生 
残念ながら私のHTMLではカリンの漢字を表すことが出来ませんあしからずご了承ください。  光リ
平成25年6月U
鉄線花

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鉄線花       


        一葉の路地一輪の鉄線花    栗田やすし      
『海光』H16年所収
 この<一葉の路地>は、東京本郷の菊坂にあります。菊坂近辺には、一葉の旧居、ポンプ井戸や、通っていた質屋などが残っています。 鐙坂、炭団坂など坂の多い町で、細い路地が多くあります。一輪の鉄線の花をふと目にされた主宰は、その濃い紫色と凛とした姿かたちに、 一葉が清貧の生活の中で珠玉のような作品を世に残した、その生きざまを彷彿とされたのではないでしょうか。
一葉所縁の井戸  伊吹嶺・関東支部は伊吹嶺のHPの参加者を中心として、H14年に東京句会が始まりました。主宰ご夫妻をはじめ、大勢の名古屋の方々が 集ってくださり、上野水月ホテル・鴎外荘で設立式が行われました。そしてH16年に「菊坂句会」が発足。主宰が毎月上京してご指導して くださいました。菊坂の路地の小さな店「雑歩庵」で、簡素な定食を頂きながら、一つしかないテーブルを囲んで、それこそ膝と膝を突き 合わせるようにして、ご指導を頂きました。H18年には「欅句会」、H20年には「さくら草句会」、H22年には「山ゆり句会」が発足しました。 これもひとえに、主宰の熱い思いとご指導の賜物にほかなりません。同人も増えたので、また新しい句会ができるのが楽しみです。


    花の昼矢切の渡し込み合へり     栗田やすし

    へそ小さき風神雷神さくら舞ふ     栗田やすし

同所収二句


栗田主宰と伊吹嶺連衆  また「東京吟行会」もH17年に設立。毎回50名くらいの方々が参加してくださり、10回以上開催されました。掲句は、右の写真の東京柴又 吟行会での句です。のどかな春の午後、名古屋の方々と一緒に柴又帝釈天、矢切の渡しなどを吟行しました。
 柴又駅前の寅さんの銅像の前で、先生も帽子をかぶって、寅さんと一緒に写真を撮られたのは、とてもほのぼのとしたユーモラスな景でした。
 今回ずっと先生の句集を読みながら、関東支部が本当に主宰ご夫妻、そして愛知を中心とした他の支部の方々の、温かいご指導と支えの上に 成り立っていることを、しみじみと思いました。
 文  鈴木みすず
写真 武藤 光リ 

 
平成25年6月
細見先生自筆の原稿

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先日、整理をしていて、昭和50年頃の細見綾子先生自筆の原稿が出てきて驚いた。40年もしまったままになっていたのである。
当時、私は横浜在住中で、「風」の横浜句会へ行っていた。この細見先生の原稿は、東京新聞に連載されていた記事の原稿で、横浜句会の 指導者であり、東京新聞、中日新聞東京本社の論説主幹であった故広瀬一朗氏に戴いたものである。新聞社の紙片が添付され、それには 「紙つぶて」「放射線」の文字がある。今も中日新聞の夕刊に「紙つぶて」というコラムがある。
 細見先生の原稿には2句掲載されており、

    蕗ゆでて平生心に戻りけり     綾子

    母の年越えて蕗煮るうすみどり    綾子      

の作品にそれぞれの句の背景が綴られている。蕗がことのほかお好きだったようだ。
この文章は先生の著書『花の色』、『武蔵野歳時記』に収められている。私はこの原稿の文字に引きつけられた。先生のきっぱりとした意志 が表れているのである。沢木先生に、     

    妻の筆ますらをぶりや花石榴     欣一


という句があるが、「ますらをぶり」は男性的でおおらかの意。実際、細見先生の筆跡はまことにおおらかでのびやか、そして意志的である。 細見先生の自筆の原稿、このような宝物を持っていたのだとしみじみ思う。蕗のほか、先生の好きなものに蕗の薹がある。ずいぶん昔のことで あるが、細見先生の句会で「お餅をたいて蕗の薹を入れる。味噌汁に入れる。命が伸びたような生気を感じる。そんな食べものが嬉しい。」と 話されたことがあった。
平成5年、知立の小堤西池に先生をお迎えしてかきつばた吟行会が行われた。その折、栗田先生に同行させていただいて細見先生とご一緒に、 名古屋城、白鳥御陵、七里の渡し、そして知立を歩いた。このことは忘れられない思い出である。
今、かきつばたの美しい時期である。かきつばたに屈んで一心にご覧になっておられた先生のお姿がはっきりと目の前に浮かんでくるので ある。
 文  中川幸子
写真  国枝隆生

平成25年5月U
やすしの紫陽花

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鎌倉名月院ブルー(紫陽花)       
撮影 武藤光リ 
    
 「教え子の成長を願うだけでなく、自分自身も成長していくことが大事なんや。」
 中学2年の時、担任をしてくださった栗田先生が私たちに話してくださった岐阜弁が、今も耳の底に残っています。およそ半世紀も前に なりますか。
 中学から高校、そして大学の教師へと転身されていかれた先生。その間、ご自身のライフワークである俳句の研究と実作の両輪を回し続け、 常に高きをめざして、たゆまぬ努力をされておられた先生。
    

    寺町が晩学の宿濃紫陽花      栗田やすし


 昭和45年作。第1句集『伊吹嶺』掲載。
 前書きに「白雲荘」とあります。もうせつ子先生との間にお子さんもおられ、そんな中で、ご自身の納得する道を歩み続けておられた栗田先生 の思いが伝わってくるようです。「が」と「の」の他は漢字ばかりの楷書の趣で、実直勤勉な先生の一面が彷彿としてきます。「寺町」「晩学」 「宿」「濃紫陽花」がともに映り合って一世界を構築しています。
 同年の句に、「立命館大学」と「同志社大学」の前書きで、次の2句があり、先生の学究の一端が垣間見られるようです。
    

    垂直の梯子西日に書を探す      栗田やすし

    枯芝に鳩遊びをり神学部       栗田やすし



 また、昭和50年の句には、
    

    晩学生たりし五年や春近し       栗田やすし


があります。詠風は派手ではありませんが、〈春近し〉に万感の思いが感じられます。
 ところで、濃紫陽花は何色だったのでしょうか。私はずっと、濃い紫色と思っていました。しかし昭和51年の句を読み、濃い藍色かも しれないと思うようになりました。藍色の方が透徹感があり、先生らしいなあと思うからです。
    

    紫陽花の藍深まりし誕生日       栗田やすし


この青は名月院ブルーと称されている  第1句集『伊吹嶺』は、平成23年に再版されました。栗田主宰の「あとがきU」で、先生のお考えに触れ、心を打たれました。
 栗田先生が師と仰ぐ澤木欣一先生と細見綾子先生を失い「風」が終刊した事は、「風」一筋に学んできた栗田先生にとって「痛恨の極み」 であり、「澤木先生のお薦めにより平成十年に創刊した俳誌『伊吹嶺』が十三年目の春を迎えるにあたって、これまで歩んできた道を省み、 新たな道を探るため、初心に返るべく句集『伊吹嶺』の再版を決意した。」
 栗田先生にとって第1句集は、晩学生として一筋に学び、ご自身の道を確立していった軌跡ともいうべき大切なものなのだと思います。
 そして同時に、常に高きを求め、新たなる道を模索し、根源的なものを追い求める先生の「礎」になるものだと思います。
 文  高橋幸子
                  

平成25年5月
かきつばた

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知立の杜若       
撮影 国枝隆生 
    
    天然の風吹きゐたりかきつばた      細見綾子


 昭和六十年、綾子先生七十八才の作。平成四年刊行の句集『天然の風』に収められている。『天然の風』には

 
小堤西池 五句

 遠かすむまで湿原のかきつばた

  大沼をゆるがせにけり雉子啼いて

 伊勢物語さながらのかきつばた

 天然の風吹きゐたりかきつばた

 青芦があれば葭切り早や鳴けり

が収められている。先生は「風」愛知支部俳句鍛錬会に出席のため、来られ、小堤西池に立ち寄られたものであった。 その五月十二日は、雨上がりの好天で、湿原には遠かすむまで一面にかきつばたが咲いていた。
 と、ここまで書いてきて鍛錬会や小堤西池にご一緒した「風」の連衆のことが記憶にないこと に気がついた。あまりにも次の情景が鮮明だからである。
 俳句を得ようと小堤西池を歩いていた私は、かきつばたを眺めながら綾子先生が独りしゃがんで いられる姿に出会った。周囲には誰も居ない。邪魔にならないよう私も少し離れたところに腰を おろした。綾子先生はかきつばたを見ておられるが、焦点をどこに定められているか視線の先は わからない。ただじっとして居られるだけであった。離れてはいるが二人だけで過ごした時間。 そういう情況が三十分ばかり続いた後、誰かの呼び声で先生は腰を上げられた。
 その後のことも記憶にない。ただあの時の先生の横顔だけが目に焼き付いているのである。 その後、天然の風吹きゐたりの句を見て、先生はあの時かきつばたを吹く風に全身を委ねて いたことを知ったのである。
 故人になられた「雉」の林徹先生は『細見綾子秀句』の中で、(天然の風吹きゐたりの句を) 「何といふ風か牡丹にのみ吹きてと並ぶ、花に吹く風を詠んだ綾子名句である。」と評されている。
 本文を書くにあたり、手持ちの『天然の風』を繙いたところ扉に天然の風吹きゐたりかきつばたと染筆 して頂いていた。何時お願いしたのか思い出せないが先生の手蹟を目にし、嬉しい限りであった。  
 文  清水弓月
                 綾子師の写真は伊吹嶺誌2001年1月号より転載 





平成25年4月のU
綾子の木蓮

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白木蓮       
 
    
 沢木先生、細見先生にお会いしたことがない私は、断片的な知識しか持っていなかった。「伊吹嶺」 15周年記念号の記事、下里編集長の「欣一・綾子 戦時下の青春」の論文は両先生の俳句鑑賞への 大きな助けになっている。
 沢木先生と細見先生が結婚をなさったのは、戦時下の青春時代をくぐり抜けた終戦後、昭和二十二 年であった。

    木蓮の一片を身の内に持つ      細見綾子


 掲出句は昭和二十五年、細見先生四十三歳で身ごもられた折の作品。人生で最も喜ばしくおめでた いことは何か、と問われれば、この世に生を受けたこと、新しい命の誕生と答えたい。
 細見先生は、授かった命を〈木蓮の一片〉と感じられたというのである。木蓮の花は清らかで凛と しているが、柔らかな花弁の形には、どこかあたたかさがあり、それでいて神秘性を秘めた風情が ある。
 どんなに医学や科学が発達しても、様々な生命の誕生にかかわる目に見えない不思議な力は、確か に存在しているように思われる。木蓮の花はそんな力を内在するような花で、細見先生の掲出句には、 ただ感じ入るばかりである。
 林徹先生は、この句について『細見綾子秀句』の中で、次のように述べておられる。
 木蓮が動かない。それも白木蓮でなければならぬ。花びらの彎曲度と言い、厚みと言い、比喩 が決まっている。
また続けて、
 咲き出した純白の木蓮を目にした時点から、この句は発想されたもののように思う。
と述べておられる。
 細見先生は結婚当時、金沢に住んでおられた。冬の時期が長いだけに、春の訪れの喜びはひとしお だったことだろう。金沢での新しい暮らしにも慣れ、もうすぐ母親になろうという頃である。空に 明るさが戻ってきた四月、木蓮が豊かにそして清らかに咲き始めたのをご覧になった。大空へ向かい 上を向いて花弁を開いて咲くその姿は、のびやかで清潔感にあふれ、希望に満ちているように感じら れる。
 その年の六月、長男太郎さんを出産。いわゆる高齢出産で、実際に難産だったそうである。その時、 金沢の病院で次の句を詠まれておられる。

    子と並び寝てゐるや杏時置き落つ   昭和25      


 その後、次々とお子さんの句を数多く詠まれている。

    白木槿嬰児も空を見ることあり      昭和25

    蕗の葉に蟻ゐることも子の歳月      昭和26      




 日々、わが子の成長を見守り、身辺をいろどる自然やものの命を諾いながら歳月を重ね、女性と して母親としての幸せも実感なさっていらしたのであろう。
 文  伊藤範子
                             写 真 武藤光リ 


平成25年4月
綾子の距離感

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蓬生       
写真 武藤光リ 
    

 春になると、畦道のどこにも蓬が生えてくる。そして桜の季節になると、花の吉野が懐かしくなる。 細見綾子先生は昭和五十三年に風関西支部鍛錬会に参加した後、吉野山に訪れ、句集『存問』に 「吉野山二十三句」を発表なさっている。この一連の句で、私が好きな花の句は

    谷へちる花のひとひらづつ夕日      細見綾子


で、この句は吉野の中千本の高台から眺めた情景を彷彿とさせる句であるが、今回取り上げたい句は 次の句である。

    西行庵十歩離れずよもぎ摘む      細見綾子



 まず綾子先生には距離感にこだわった句が多い。初期の〈鶏頭に三尺はなれもの思ふ〉から 亡くなられる直前の〈門を出て五十歩月に近づけり〉など綾子先生の距離感覚は身についた 特有なもので、しかもその距離感が一句を構成する上で、最適な距離感として働いている。 随筆『花の色』で「どうも自分は距離に関心を持っていることに気付いた。距離感の中に何かを明瞭 ならしめることを好んでいるかもしれない。」とおっしゃっており、それは「鶏頭」の句や 〈寒卵二つ置きたり相寄らず〉のような綾子先生自身の身の内に確信を持った距離感である。
 そして掲出の「西行庵」の句については、『奈良百句』において「西行庵を十歩と離れずに摘んだ ことを面白く思う。」と述べている。さらに「西行庵」の句や〈光堂よりの数歩に雉子啼けり〉 などは初期の句と違って、固有名詞に対する距離感を詠んでいる。これは次第に歴史的な対象物に 対する思いを間接的に述べようとした配慮の行き届いた距離感であると思った。
 そして綾子先生の「西行庵」の句を読むたびに思い出す句として、

    西行庵綾子の摘みし蓬つむ       鈴木みや子     

を思い出す。この句は平成十三年の春に私もご一緒させて頂いた時の句で、みや子さんは西行庵に たどり着いて、すぐに綾子先生の句を思い出されたのであろう。早速、あたりの蓬を摘み始めて、 綾子先生と同じ体験を行うことによりこの句を作られたのは、まさに綾子先生への相聞句であり、 みや子さんの胸の中には常に尊敬して止まない綾子先生の姿があったのであろう。
 文    国枝隆生
                             写真西行庵 牧野一古 


平成25年3月のU
ゐぬふぐり

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ゐぬふぐり(実名はオオイヌノフグリ)       

 早春の野に、いち早く青空色の小花を咲き広げるいぬふぐりの花は、好きな花の筆頭に上げたい花 です。この花を見ると、まるで赤ちゃんの笑顔に出会ったときのような高揚感を覚えるのは、私一人 ではないはずです。
 例年になく寒い日が続く今年、春が待ち遠しくて、探梅ならぬ、いぬふぐりの花を探して野に出ま した。
 細見綾子先生は、山辺の道での嘱目で以下の掲句を句集『技藝天』に収めておられます。



    古き道古きがままに犬ふぐり     細見綾子


 「山の辺の道」は史実に現れる我が国最古の道と言われており、奈良盆地の東に連なる美しい青垣の 山裾を縫うように続いている古道です。沿道には、万葉集ゆかりの地名や伝説が残り、神さびた社や 古寺、古墳などが点在しており、訪れる人を古代ロマンの世界へと誘い、俳人に限らず誰でもが何度 でも訪れたくなる古道です。
 この句の出だしの平明なフレーズ<古き道古きがままに>は、最古の道だというこの道の謂れを思 えば、動かしがたい措辞であることがわかります。
 またこの句の「いぬふぐり」は単にそこに咲いていたというような安易なものではなく、まさに赤 ちゃんの笑顔に出会ったときのような高揚感から出た言葉だと思います。
 「季語に気持ちを托す」とか「季語が動かない」とか、俳句の基本を学ぶ時に聞く言葉ですが、 難しいそのテクニックを明らかな例示をもって教えてくださる、まさに「目から鱗」の一句なのです。  この愛らしい花を見るたびに、いつも湧き上がる疑問が、その花の名前の由来です。いぬふぐりの 実の写真を見る機会を得て、その疑問が解けました。そうだったのです。この花の名前はその実の姿 かたちから付いたのだのです。今まで気にも留めなかったこの実を、一度ゆっくりと見てみたいと 思っています。
 文  坪野洋子
                             写 真 国枝隆生 


平成25年3月
桜吹雪

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桜吹雪       国枝隆生氏撮影




    あめつちのくづれんばかり桜ちる     沢木欣一


 『往還』は昭和61年3月21日に刊行された沢木先生の第8句集で、掲句は昭和55年作。 集中、桜の句は前後して10句、その中でも掲句には殊に胸を突かれるような思いがした。
 この句に危機感がたゞよっているように思われたからである。以後、桜吹雪を見るとつい口をつい て出る忘れられない一句となった。
 平成7年頃であろうか、大阪造幣局を見学した折のこと、旧正門前で桜吹雪に遭遇した。落花は地 に渦巻き、梢は空へ吐き出さんばかり、放心状態で立ち尽した記憶がある。この体験から、先生の お句をそれまで表面的にだけで解釈していたことに気が付いて本当に恥ずかしかった。
 掲句がどこで詠まれたかは調べる術を持っていないもどかしさはあるが、改めてこの句と向い合った。
 突如として起った桜吹雪は、地上と天上の境もなく、眼前のものを埋め尽さんばかりであろう。 〈くづれんばかり〉は、天地の均衡を破らんばかりという只今の桜の散りざまである。それはまるで 個の主観など寄せ付けないような、非現実的とも言える現象ではなかったろうか。
 桜吹雪のまっ只中、先生は時空を超えて桜と一体となり、そのいのちを共有されている。このこと は、句の表記が桜の一字を除いて、すべてひらがなであることにも現れている。例えば「天地の崩れ んばかり桜散る」とされたならば、漢字の固さに弾じかれそうで、桜のひとひらひとひらのたおやか さが失われてしまい、自然と一体とされる先生の心と桜との距離感が出てしまう。
 この句をいくたびも声に出して読んでいるうちに、自分が自分でないような、不思議な世界にいる ように思われた。しかし、一番はじめに感じた或る危機感は拭い切れなかった。 先生はこの前年 (昭和54年)還暦を迎えられた。『往還』のあとがきに「・・・・小さい自己を離れたいという 志向が増し、自然や人間の万相をありのままに見たいと念願するようになった」とある。
文  梅田 葵


平成25年2月のU
有松絞り

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絞り会館      国枝隆生氏提供 

若いくくり女
 伊吹嶺十五周年記念に参加して、長年憧れて居た、「有松絞り」の見学が叶った。
 「五十三次鳴海宿」北斎や広重の浮世絵に画かれた有松絞りのその繁盛ぶりは、400年前、絞り染め の手拭いが創られたことからだそうだが、今も粛々と伝統を守っている事に驚いた。軒は低めだが、 重厚な卯建が連なっている。
 風が冷たい日であったが、海鼠壁、連子格子の家並、趣のある風情に感動しきり・・・絞りの工程 や技法の実演、「絞り会館」日本の美を堪能出来て、時の流れをかみ締めた。
 薄日差すガラス戸を背に、中年のおばさんが鹿の子絞りを括っていた。


    くくり女と同じ冬日にうづくまる     細見綾子


土産に買い入れた絞り  私も、(うずくまって)尋ねる「肩が凝りませんか」「座り続けて膝は痛くありませんか」にこや かに返ってきた言葉は、「馴れて居ますから、家に居る時より楽しいです」指の指紋も失せ、繰り 返す絞りの速さに(くくり女)の職人魂を肌で感じた。
つくづく綾子先生の「くくり女と同じ冬日にうづくまる」の(うずくまる)ことで、(くくり)女と同じ目線に感じ入るものは沢山あった 筈だが、内なる思いは言わず、一気に詠まれた一句一章は、同じ時間の現場体験である。益々お人柄に親しみを覚えた。
 今も有松の技が受け継がれた(絞りと染め)色彩の風が忘れられない。
栗田主宰の九州での教えが頭を過ぎる、「見たままを小細工しないで詠む」「私意」に凝り固まらない「写生」の感動であった。
写真と文 八尋樹炎

平成25年2月
春の富士

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三島からの富士       栗田せつ子氏撮影


 昭和五十六年春、主人が名古屋の短大から三島の日本大学へ勤務先が変更となったため、三島市 南端で、狩野川近くに小さな家を設けた。 二階の北窓を開けると真正面に富士山が見えて、朝起きる とまず今日の富士山はどんな姿を見せているかと、窓を開けるのが愉しみであった。 富士山は晴れた 日でも頭だけに雲がかかっていて姿全体を見せてくれないことがあるのに、曇った日でも裾までよく 見せてくれることもある。 その姿が膨らんで見える日もあれば、小さく見える日もある。気象条件に よるのだろうか。 柿田川湧水
私は、生まれ育った名古屋の地を初めて離れた開放感もあって、三島の生活を存分に楽しむことが 出来た。東洋一の柿田川湧水を訪ね、 棒切れで湧水の深さを確かめようとして足を取られそうに なったこともあった。その大量の湧水が集まって柿田川となるが、そこは四季を 通じて絶好の吟行地 であった。
伊豆の韮山は北条政子の生誕地である。昭和五十七年三月、名古屋句会の一泊吟行会を北条氏・ 源頼朝ゆかりの地で行うことを決め、主人が 車で長男と沢木、細見両先生をお迎えにあがった。 お忙しい両先生とご一緒出来た二日間はとても緊張しっぱなしであったが、今から思えば 何とも贅沢 な、もったいない勉強の機会であった。夜の句会で細見先生の出された句は、 


    春の鳥茅葺屋根に来て啼けり     細見綾子
    墓の頭に菜の花おきてゆくもあり     細見綾子



一句目は、伊豆の願成就院の大寺の葺き替えした茅を雀がつつきに集まって騒いでいる様子を そのまま詠まれた句であるが、季語の 「春の鳥」によって明るい鳥の声が弾んで聞こえてくる。寺の 裏には源頼朝の旗挙げの神社がある。二句目は、北条寺で詠まれた句。 お婆さんが政子の弟北条義時 のお墓へ菜の花を供え、その残りの花を一本ずつ苔むして並んでいる墓に供えて行くのをご覧になって詠まれた ものである。
翌日、両先生に三島の家に立ち寄っていただいた。細見先生は


    新居より手にとるばかり春の富士    細見綾子
    三島の富士近し菜種の花つづき    細見綾子



    と詠んでくださった。
栗田せつ子

平成25年1月のU
凍て滝

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平湯の滝      2枚とも藤田岳人氏撮影 

 平成十八年、ライン川句会主体の吟行会が十名程で高山と飛騨古川にて行われた。この年は雪の多 い年であった。この吟行会に栗田主宰ご夫妻も参加されたのである。
 最初に訪れたのは平湯の滝で貸し切りバスを利用した。バスを降りると周りは雪一色で、大きな 木々が姿を見せているのみであった。そこからは歩いて滝に向かったのであるが、一面の深い雪が 除雪された道を、足を滑らせながら数百米位歩いたのだろうか、やがて滝が現れた。その滝の姿を見 て、皆一様に驚いた。
 滝は流れ落ちる水がそのまま凍って、何条もの筋状になって垂れ下がっており、そのさまは青白く 光って、神秘的でさえあった。滝へは積雪に阻まれて近づくことさえ出来ず、数十米手前から眺めて いるしかなかった。
 そんな滝を眺めながら、深い雪に静まりかえる周りの景色に、主宰は身体全体で感じられるものが あったのであろう。下記の句を詠まれたのである。


    滝凍てて全山音を失へり     栗田やすし


 雪はしばしば我々を神秘的な世界へと誘ってくれる。
 それは自分がまだ二十代の頃、冬になると何度もスキーに出かけた。夜行列車で座席の下で眠って、 長野辺りの駅に到着するともう朝である。眠る間も惜しくて、宿に荷物を置きスキー場に飛び出して いった。スキーは本当に楽しいと思った。
 そんなゲレンデスキーにも飽きかけていた頃、先輩に誘われて数人でツアースキーに出かけた。 志賀高原の横手山山頂から滑り降りて、草津白根山の横を通り、草津温泉まで滑り降りて、温泉に ゆったり浸かり、泊まって帰るというコースである。このコースは途中に小屋などなく、雪一色の 世界であるので、遭難の危険などを考え、三月末の天候が安定する頃に出かけるのである。
 横手山から滑り降りて、白根山の手前にかかる頃には、全くの雪一色の世界に身を置くことになる。 三月末の快晴の日差しは熱く感じられるほどで、周りは真っ白な世界で雪以外何もない。シーンとし て音さえしない。大声を出しても雪に吸収されてしまいそうで、自分の身さえ吸い込まれそうで、 怖く感じられる程であった。
 主宰のこの句の、<全山音を失へり> に出会ったとき、自分ははからずも若き日のこのツアー スキーの体験を思い出して、我が意を得たりと思ったのである。
 主宰の名句の一つに数えられるこの句の誕生に立ち会えたことは幸せであった。この吟行会は そのあと夜に、飛騨古川の三寺参りを見学し、高山の古びた民宿に泊まって、明くる日は高山見物し て帰ったのである。楽しい二日間であった。
藤田岳人


平成25年1月
草餅のこと

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草萌えの小川       


 春の摘草は子供の頃の楽しみの一つであった。畦川にいち早く顔を出すのが芹。続いて蕗の薹や 野蒜が黒土を割って出る。野草は次々と生えたから摘むのには少しも困らなかった。それら野草の 中で最も身近で多く摘んだのが蓬。その頃「蓬」などと呼ぶ子は一人もなく、誰もが「もち草」の 俗称で呼んでいた。草餅を搗く為に摘むのだから、そう呼ぶのは至極当然なことであったと言えよう。 私たちは手に手に小刀や小鋏を持ち日当たりの良い畦に散らばった。風の冷たさに首をすくめながら も、長い冬から解放された喜びでどの子の声も弾んでいた。春の訪れが遅い山里の子にとって摘草は 春の行楽も兼ねていたのだ。
 もち草はなるべく発芽したばかりの小さいものがいい。その方が香りも強く色も濃いから、 仕上がりもよい。けれど小さいから篭一杯にするにはかなりの根気を要する。ついつい大きいものを 摘んでは母からダメ出しを受けた。量が足りないとき急遽「親もち草」や「たんぽぽ」を混ぜ入れた こともあった。そうやって摘み溜めた蓬で、ひと春に少なくとも三度は草餅をつくった。


    草餅を焼く金網をよく炙り     栗田やすし


 掲出した主宰の句は昭和54年作。私が俳句に親しんで半年後の句会で出会った句で、第一句集 『伊吹嶺』に収められている。当時「風」名古屋句会は旧名古屋国鉄会館で行われており、出席者が 10人あると「今日は盛会だね」という言葉が飛び交っていた。そんな中、写生が何たるかも分からず、 「即物具象」などという言葉さえ知らず、ただただ五・七・五と指を折りながら俳句に取り組んで いた私は、掲出句に出会ってその実感を伴った描写に衝撃を受けた。何だか心が軽くなって「見た ものを素直に詠むというのはこういうことなんだ…」と思ったことを鮮明に覚えている。今にして 思えばあの時が「即物具象」の輪郭をおぼろげながらも理解した初めではなかったかと思う。
 搗きたての草餅は柔らかくあたたかで黄粉をまぶして食べると美味しい。餡をつめた少しひん やりとした食感の草餅も美味しい。そして日数が過ぎて固くなった草餅はこんがり焼いて食べると 美味しい。そんな時は醤油をつけて香ばしさを楽しむのもいい。もちろん焼くときは金網をよく炙る ことをお忘れなく!
下里美恵子

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