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過去の俳日和(2018年~20年)


2021年9月号 俳日和(44)

  汚さずに
                            
河原地英武

 
教師という職業にはジレンマがともなう。情熱を込め、知識以上のものを伝授しなくてはならないが、特定の主義・信条を押しつけることは厳に慎まなくてはならない。わたしが大学で講じている「安全保障論」は殊に気骨が折れる。日本の防衛政策や、憲法論議、領土問題や歴史認識問題など、センシティブな話題を避けては通れないからである。課外における個別の質問には割とざっくばらんに答えるが、授業時には極力中立を保ち、「反日」や「愛国」へ傾かぬよう自分なりにバランスをとっている。

 だが、ときには学生の思考にゆさぶりをかけるべく、挑発的な議論を仕掛けてみることもある。領土問題を取り上げた際には、大略次のように述べた。「われわれが領土問題で熱くなるのは、国家と自己を同一視し、日本という国家を亀の甲羅のように背負っているからだ。その甲羅を脱いで、自分を地球市民(コスモポリタン)だと思えば、領土をめぐる争いなどどうでもよくならないか。人間はたまたまこの地球に生れ落ち、束の間生きて死んでゆくのであって、だれもこの地球を所有できない。生あるあいだ、借りているだけである。そしてできるだけ汚さずに、これを次の世代に引き渡すのが現代人の役目ではないのか。個々の国家はその領土の所有者ではなく、管理者にすぎないと考えたらどうだろう。」授業後に回収したコメントシートには賛否両論書かれていたが、「コスモポリタン」という言葉に反応してくれた学生がいたのは少々嬉しかった。

 じつは「汚さずに」と語ったとき、わたしの念頭にあったのは細見綾子先生の〈蕗の薹喰べる空気を汚さずに〉という句だった。俳句的発想をすれば、この地球は人間のものですらない。生きとし生けるものが共存する場所なのである。わたしが「人間」という枠を取り払ったところで世界を認識するようになったのも、俳句の影響かもしれない。
 


2021年8月号 俳日和(43)

  電子辞書
                            
河原地英武

 
知のディレッタンティズムを気取るわけではないが、わたしの読書はジャンルを問わず、興のおもむくまま手当たり次第に読む流儀で、そのなかには相当数のマンガも含まれる。相性がよさそうだと思えば、その作家の本を片っ端から入手し、全集が出ていればそれも買ってしまう。そんなことを繰り返してきたので、自宅の二部屋が本に占拠され、巣立った子供の部屋も危うい状況だ。

 家内からは「とにかく本を始末して」と言われつづけてきたのだが、四年前に原因不明の頭痛に襲われ、一週間の入院を余儀なくされて以来、なぜだか読書欲が消え失せ、本の蒐集癖もぴたりと止んでしまった。本を買わなくなり、図書館を利用するようになった。だが、借りてきた歴史書や小説を開いても、数ページで気力がなくなるのだ。仕事に必要な文献を除けば、過去四年間に最後まで読み通した本がどれほどあったか、ほとんど記憶がない。あったとしても軽めのハウツー物くらいのものだろう。肩が凝りやすくなり、視力が悪化したことも一因にはちがいないが、つまりはこれが老化ということなのだなと、自分に言い聞かせていた。

 ところが最近、読書への欲求が戻ってきた。それも無性に長い物が読みたくてならないのだ。滞っている仕事からの現実逃避という面もありそうだが、それだけでもない気がする。まずは村上春樹の『騎士団長殺し』(文庫本四冊分)を読了し、現在は中国のSF作家・劉慈欣の『三体』シリーズ全五巻中の三巻目に入ったところ。ただし、紙の本ではない。いずれも電子書籍である。わたしが購入した掌サイズの電子書籍リーダー「Kindle」は重さが二〇〇グラム足らず。ここに数千冊分の本を収めることができる。わたしはいま、魔法のランプを手に入れたアラジンの気分で読書に勤しんでいる。

 


2021年7月号 俳日和(42)

  噺の枕
                            
河原地英武

 
落語家が前置きにする話を枕と呼ぶけれど、あれは聴衆の意識を自分に引きつけるためばかりでなく、本題の演目に出てくる難解なことばの解説も兼ねているのだそうで、けっこう重要な役割があるらしい。六代目三遊亭圓生はこのような「解説の枕」の達人として知られ、話術の巧みさと蘊蓄の深さは古今無双だったとか。その選りすぐりの六十五篇が『噺のまくら』という一書になっているが(朝日文庫、小学館文庫など)、わたしは文章読本としてこれを愛読したものだ。

 噺家の話芸と同列に論じるのはおこがましいが、われわれ大学の教師も授業に入るまえに枕をふることがある。わたしが学生のころは、枕だけで講義が終わってしまう豪快な先生もいた。だが、こんにちの教育現場では、シラバスどおりに授業を進行することが求められ(シラバスは教師と学生の契約なのだから、それをきちんと履行すべしという考え方が浸透してきたのだ)、枕や余談などの「話術」は不要なことと見なされるようになってきている。大学にかつてのおおらかさがなくなったと嘆く向きもあるが、わたし自身はこの趨勢に順応し、このごろは始業のベルが鳴り終わると、ちょっと事務連絡をしたあと(それが枕がわり)、さっさと本題に入ることにしている。

 ところで、俳句にも枕にあたる部分があるような気がする。前書のことではない。たとえば「見下ろせば」とか「車窓より」とかいった、自分の動作の解説や居場所の説明である。それは本当に必要なものなのか。自己と事物の出会いによって起こる感動だけを言語化すれば十分で、それを仮に「純粋俳句」と名付けてみたい。枕抜きの本題のみの俳句である。しかし、それを突き詰めてゆくと、俳句は結局、季語さえあればよいということになりかねない。それではオチにならないようだ。

 


2021年6月号 俳日和(41)

  ロートル
                            
河原地英武

 
現在務めている大学の教員になったのは1990年、31歳のときである。まだソ連も崩壊していなかったし、インターネットは専門家だけのものだった。ただわたしは新し物好きだったので、学生時代から電話回線を使ったパソコン通信に熱中しており、研究室にも自費でパソコンを入れ、流行の先端を追いかけていた。

 そうこうするうちに学内にも現代化の波が押し寄せ、全教室・研究室にパソコンが取り付けられ、事務連絡もメールでのやり取りが主流となり、授業でもすこしずつAIが活用されるようになっていった。同じ学科の還暦過ぎの教授は「僕はロートルだから、もうついていけない」が口癖だった。われわれ若手の教員は、仲間内でその口癖を真似してはおかしがっていたものだ。

 その先生はとっくに定年退職し、いつのまにか、わたし自身が還暦を越えてしまった。そして今、教室に行くことが不安でしかたない。授業自体はお手の物だ。いざとなれば何の準備がなくても、廊下を歩いている数分で話す内容を組み立て、90分間、何も見ずに講義することも平気である。何しろ30年も教壇に立ち続けているのだから。

 問題は教卓に設置された機器である。コロナ禍対策のため、この4月から教員は、全担当科目を自分でビデオ録画し、学内のネットで配信することが義務づけられた。授業を始めるまえに、あちこちのスイッチを押してその準備をするのだが、毎回手順を間違え、学生たちを待たせながら一人あたふたする始末。

 それをどこかから聞きつけたのか、同じ学科の若い先生が授業まえにわたしの教室にやって来て、手助けしてくれるようになった。こんなふうに労ってもらい、有難いやら申し訳ないやら。つくづく自分はロートルだと思うことしきりである

 


2021年5月号 俳日和(40)

  日本語の音
                            
河原地英武

 今春からロシア語の勉強を再開している。とはいっても方法は簡単で、学生時代に使った中級レベルの読本を毎日十ページずつ、時間にして三十分ほど音読するだけである。暗記しようなどという無理はしない。しかし同じテキストを何度も繰り返し読んでいるせいで、目が文字を追うまえに声が出てくる。対話文なら声色を使い、ニュース記事であればアナウンサーになったつもりで読み上げるのだ。

 このやり方はロシア語学科の学生だったころ、飯田規和先生に教えてもらった。ネイティブスピーカーと同じ速さか、それより少し早口で、テキストを読む。途中でつかえたら最初に戻って読み直す。それを繰り返し、一度のミスもなく終わりまで行けたらその課はクリアしたことになる。こんなふうに声を張り上げて外国語の文章を読んでいると、頭のなかの靄が晴れるように気分が明るくなる。

 じつは日本語の文章を読むときも、心のなかでいつも声を出している。あるいはむしろ、筆者の想像上の声を聞きながら読んでいるというべきか。そんなだから一字一句もとばすことができず、読書にはかなり時間がかかる。ものを書く場合は、ほんとうに小声を出す。先に書いたところを音読しながらでないと次の文が思い浮かばないのだ。妻に「何ぶつぶつ言っているの」と笑われたこともある。

 作句や選句の際にも、知らず識らず声を出している。俳句は短いし、漢字の視覚的効果は絶大だから、ぱっと見ただけで意味はわかる。だがわたしには、意味と同じくらいに語調やリズムが重要なのである。もっと正直にいえば、自分の呼吸に合わない句はなんだかなじめず、心地よくないのだ。わたしは俳句に対しても、音読による快感を求めているらしい。ほかの人はどうなのだろう。

 


2021年4月号 俳日和(39)

  音 読
                            
河原地英武

 今春からロシア語の勉強を再開している。とはいっても方法は簡単で、学生時代に使った中級レベルの読本を毎日十ページずつ、時間にして三十分ほど音読するだけである。暗記しようなどという無理はしない。しかし同じテキストを何度も繰り返し読んでいるせいで、目が文字を追うまえに声が出てくる。対話文なら声色を使い、ニュース記事であればアナウンサーになったつもりで読み上げるのだ。

 このやり方はロシア語学科の学生だったころ、飯田規和先生に教えてもらった。ネイティブスピーカーと同じ速さか、それより少し早口で、テキストを読む。途中でつかえたら最初に戻って読み直す。それを繰り返し、一度のミスもなく終わりまで行けたらその課はクリアしたことになる。こんなふうに声を張り上げて外国語の文章を読んでいると、頭のなかの靄が晴れるように気分が明るくなる。

 じつは日本語の文章を読むときも、心のなかでいつも声を出している。あるいはむしろ、筆者の想像上の声を聞きながら読んでいるというべきか。そんなだから一字一句もとばすことができず、読書にはかなり時間がかかる。ものを書く場合は、ほんとうに小声を出す。先に書いたところを音読しながらでないと次の文が思い浮かばないのだ。妻に「何ぶつぶつ言っているの」と笑われたこともある。

 作句や選句の際にも、知らず識らず声を出している。俳句は短いし、漢字の視覚的効果は絶大だから、ぱっと見ただけで意味はわかる。だがわたしには、意味と同じくらいに語調やリズムが重要なのである。もっと正直にいえば、自分の呼吸に合わない句はなんだかなじめず、心地よくないのだ。わたしは俳句に対しても、音読による快感を求めているらしい。ほかの人はどうなのだろう。

 


2021年3月号 俳日和(38)

  連作の効用
                            
河原地英武

 伊吹嶺に入会するすこし前のことだが、俳句が気になり出し、小西甚一著『俳句の世界』(講談社学術文庫)を読んだ。そのなかに「生存する作家を史的叙述のなかに採りいれることは、たいへん困難であり無理でさえある。(中略)しかし、山口誓子だけは例外とする。昭和俳人のなかで、確実に数百年後の俳句史にも残ると、いまから断言できるのは、かれ一人である」という記述を見出し、俄然誓子に興味をもった。さっそく『自選自解 山口誓子句集』(白鳳社)を入手し、熟読した。

 誓子の作品の哲学に通じる深い洞察と言葉遣いの精緻さにすっかり魅了され、俳句に対するそれまでの認識が一変した。自分でも無性に句が作りたくなり、インターネットで見つけた伊吹嶺のサイトに投句をし始めたのである。栗田先生が『山口誓子』(おうふう)の著者であることもネットで知り、不思議な縁を感じた。

 誓子の句のなかでは〈夏の河赤き鉄鎖のはし浸る〉に圧倒された。ここに込められた独自の時間感覚と鉄鎖の存在感に驚かされたのである。その印象はいまも変わらない。この句は第三句集『炎昼』に収められている。「夏の河」と題された連作五句の冒頭にある。当時の誓子は連作と呼ばれる作句方法を実践し、一つのテーマで数句、ときには十句以上を発表していた。連作「夏の河」の他の四句についてはめったに言及されることがないし、記憶している人もほとんどいないだろう。だが、それらなくしては「鉄鎖」の句も生まれなかったのではあるまいか。

 一対象に一句では、意識は静止したままである。連作とはこの意識を「動」の状態にし、その運動から生じる勢いのなかで句を作る方法なのだろう。連作として公表するか否かは別として、一つのテーマ、一つの句材でたくさん詠む効用は大きいと思われる。



2021年2月号 俳日和(37)

  肯定的関係
                            
河原地英武

 パソコン作業中の息抜きによくユーチューブで音楽を視聴しているが、最近のお気に入りは鬼束ちひろの「月光」だ。テレビドラマの主題歌にもなったから知っている人も多いはず。サビの部分で英語の歌詞を交えつつ「この腐敗した世界に堕とされた」「こんなもののために生まれたんじゃない」「どこにも居場所なんて無い」というフレーズを繰り返すとき、ちひろの顔が般若面のように見え、自分が生きる世界を全否定するほかない人間の心の痛みが突き刺さるように伝わってくるのである。自己と世界との関係を、たとえ絶望的なものにせよ、とことん突き詰めてゆくのが真のアートなのだろう。

 俳句もまた同じだと思う。自分と句材である対象との関係を、季語を軸に突き詰めてゆき、極限に至ったとき一句が成立するのだ。ただし俳句におけるその関係は、あくまでも肯定的なものでなくてはならないとわたしは信じている。

 師走のある日、京都府立植物園を一人吟行した。無残なくらい枯れ果てたカンナの一群があった。夏に来たとき、あれほど誇らしげに咲いていた花の変貌ぶりに気が滅入った。俳句をやっていなければ、一瞥して通り過ぎてしまうところだが、あえてこれを詠んでみようと思い立った。

 だらしなく垂れ下がった葉に触れたり、萎れて生気のない花弁をちぎって指でしごいたりしているうちに、ふと土色の葉が艶を帯び、光沢を放っていることに気づいたのである。それは我が家のリビングのワックスがけしたフローリングを想起させた。リビングはわたしにとって心地よい場所だ。それが枯れたカンナと結びつき、〈床板の艶にカンナの枯れてをり〉という句ができた。このとき、自分とカンナとのあいだに肯定的な関係が生まれたように感じ、何だか晴れ晴れとした気持ちになった。



2021年1月号 俳日和(36)

  ささやかな決意
                            
河原地英武

  この一年を振り返るにつけ、なんと主体性のない怠慢な時間を過ごしてしまったことかと慚愧に堪えない。前半は新型コロナウイルス禍に翻弄され、日常生活のペースがめちゃくちゃになった。勤務先の授業はオンラインに切り替わったが、そのノウハウがわからず、ひたすらパソコンに向かい悪戦苦闘する毎日。月に数回出かけていた句会も軒並み中止となりメール方式になったが、これもパソコン画面上でのやり取りで、「座の文芸」ならではの温もりが今一つ実感できない索漠たる思いを禁じ得なかった。

 後半は徐々にペースをつかみ、政府の専門家会議が提唱する「新しい生活様式」にも慣れてはきたが、やる事なす事がルーティンワークと化し、毎日ノルマをこなすだけでくたびれてしまうのだった。夜更かしの常態化もいけなかった。それが一因で気持ちの張りを失ってしまったように思われる。新型コロナウイルスとの闘いは長期化の様相を呈している。となれば腹をくくり、自分自身で工夫してメリハリのあるライフスタイルを作らねばなるまい。消耗するだけの暮らしからは何も生まれない。

 まずは俳句の実作。一昨年来わたしは吟行のおもしろさに目覚め、戸外で出会う事物や動植物とじっくり向き合うようになった。すると芭蕉が「松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へ」、「物の見えたる光、いまだ消えざる中に言ひとむべし」(『三冊子』「あかさうし」)と説いた意味がおぼろげながらにわかってきた気がしたのである。これをさらに突き詰めてゆけば、自分が希求する俳句の姿がはっきりと見えてくるのではないか。外出自粛を口実に、つい机上であれこれ言葉をやりくりするだけの句作に陥りがちだったが、俳句を頭のなかだけで作ることを脱却しなくてはならない。俳句は「自分の外側」にある。今こそこの考えを徹底化しようと意を決している。



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