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2021年3月号 俳日和(38)

  連作の効用
                            
河原地英武

 伊吹嶺に入会するすこし前のことだが、俳句が気になり出し、小西甚一著『俳句の世界』(講談社学術文庫)を読んだ。そのなかに「生存する作家を史的叙述のなかに採りいれることは、たいへん困難であり無理でさえある。(中略)しかし、山口誓子だけは例外とする。昭和俳人のなかで、確実に数百年後の俳句史にも残ると、いまから断言できるのは、かれ一人である」という記述を見出し、俄然誓子に興味をもった。さっそく『自選自解 山口誓子句集』(白鳳社)を入手し、熟読した。

 誓子の作品の哲学に通じる深い洞察と言葉遣いの精緻さにすっかり魅了され、俳句に対するそれまでの認識が一変した。自分でも無性に句が作りたくなり、インターネットで見つけた伊吹嶺のサイトに投句をし始めたのである。栗田先生が『山口誓子』(おうふう)の著者であることもネットで知り、不思議な縁を感じた。

 誓子の句のなかでは〈夏の河赤き鉄鎖のはし浸る〉に圧倒された。ここに込められた独自の時間感覚と鉄鎖の存在感に驚かされたのである。その印象はいまも変わらない。この句は第三句集『炎昼』に収められている。「夏の河」と題された連作五句の冒頭にある。当時の誓子は連作と呼ばれる作句方法を実践し、一つのテーマで数句、ときには十句以上を発表していた。連作「夏の河」の他の四句についてはめったに言及されることがないし、記憶している人もほとんどいないだろう。だが、それらなくしては「鉄鎖」の句も生まれなかったのではあるまいか。

 一対象に一句では、意識は静止したままである。連作とはこの意識を「動」の状態にし、その運動から生じる勢いのなかで句を作る方法なのだろう。連作として公表するか否かは別として、一つのテーマ、一つの句材でたくさん詠む効用は大きいと思われる。



2021年2月号 俳日和(37)

  肯定的関係
                            
河原地英武

 パソコン作業中の息抜きによくユーチューブで音楽を視聴しているが、最近のお気に入りは鬼束ちひろの「月光」だ。テレビドラマの主題歌にもなったから知っている人も多いはず。サビの部分で英語の歌詞を交えつつ「この腐敗した世界に堕とされた」「こんなもののために生まれたんじゃない」「どこにも居場所なんて無い」というフレーズを繰り返すとき、ちひろの顔が般若面のように見え、自分が生きる世界を全否定するほかない人間の心の痛みが突き刺さるように伝わってくるのである。自己と世界との関係を、たとえ絶望的なものにせよ、とことん突き詰めてゆくのが真のアートなのだろう。

 俳句もまた同じだと思う。自分と句材である対象との関係を、季語を軸に突き詰めてゆき、極限に至ったとき一句が成立するのだ。ただし俳句におけるその関係は、あくまでも肯定的なものでなくてはならないとわたしは信じている。

 師走のある日、京都府立植物園を一人吟行した。無残なくらい枯れ果てたカンナの一群があった。夏に来たとき、あれほど誇らしげに咲いていた花の変貌ぶりに気が滅入った。俳句をやっていなければ、一瞥して通り過ぎてしまうところだが、あえてこれを詠んでみようと思い立った。

 だらしなく垂れ下がった葉に触れたり、萎れて生気のない花弁をちぎって指でしごいたりしているうちに、ふと土色の葉が艶を帯び、光沢を放っていることに気づいたのである。それは我が家のリビングのワックスがけしたフローリングを想起させた。リビングはわたしにとって心地よい場所だ。それが枯れたカンナと結びつき、〈床板の艶にカンナの枯れてをり〉という句ができた。このとき、自分とカンナとのあいだに肯定的な関係が生まれたように感じ、何だか晴れ晴れとした気持ちになった。



2021年1月号 俳日和(36)

  ささやかな決意
                            
河原地英武

  この一年を振り返るにつけ、なんと主体性のない怠慢な時間を過ごしてしまったことかと慚愧に堪えない。前半は新型コロナウイルス禍に翻弄され、日常生活のペースがめちゃくちゃになった。勤務先の授業はオンラインに切り替わったが、そのノウハウがわからず、ひたすらパソコンに向かい悪戦苦闘する毎日。月に数回出かけていた句会も軒並み中止となりメール方式になったが、これもパソコン画面上でのやり取りで、「座の文芸」ならではの温もりが今一つ実感できない索漠たる思いを禁じ得なかった。

 後半は徐々にペースをつかみ、政府の専門家会議が提唱する「新しい生活様式」にも慣れてはきたが、やる事なす事がルーティンワークと化し、毎日ノルマをこなすだけでくたびれてしまうのだった。夜更かしの常態化もいけなかった。それが一因で気持ちの張りを失ってしまったように思われる。新型コロナウイルスとの闘いは長期化の様相を呈している。となれば腹をくくり、自分自身で工夫してメリハリのあるライフスタイルを作らねばなるまい。消耗するだけの暮らしからは何も生まれない。

 まずは俳句の実作。一昨年来わたしは吟行のおもしろさに目覚め、戸外で出会う事物や動植物とじっくり向き合うようになった。すると芭蕉が「松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へ」、「物の見えたる光、いまだ消えざる中に言ひとむべし」(『三冊子』「あかさうし」)と説いた意味がおぼろげながらにわかってきた気がしたのである。これをさらに突き詰めてゆけば、自分が希求する俳句の姿がはっきりと見えてくるのではないか。外出自粛を口実に、つい机上であれこれ言葉をやりくりするだけの句作に陥りがちだったが、俳句を頭のなかだけで作ることを脱却しなくてはならない。俳句は「自分の外側」にある。今こそこの考えを徹底化しようと意を決している。



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