解釈以前
河原地英武
鴇田智哉氏が句集『エレメンツ』(素粒社)の「あとがき」に「生えている句を作りたい、と思ってきた」と述べているのを読み、あの素朴にして摩訶不思議な句の数々はまさに「生えている」という形容がぴったりだなと合点した。たとえば〈壜にさすすすき電気のとほる家〉。表現は古風なくらい端正なのに、不可解である。大概の俳句は読んだとたんに意味がわかり、解釈が成り立つ。だが、鴇田氏の作品はこの解釈をできるだけ先延ばしさせるように作られている。だから不可解さが残像のようにいつまでも脳裏を離れず、わたしの意識下に根を張ろうとするのだ。
この不可解さをさらに推し進めると怪異になる。佐藤春夫の「歩上異象」という短編小説は、むしろ怪談実話といった趣の小品だが(『たそがれの人間 佐藤春夫怪異小品集』平凡社所収)、夕暮れ時の野川の近くに、大人の背丈よりも高く、直径30センチほどの円筒形の空気の塊が、ものすごい速さで自転しているのを目撃した話である。それは蚊柱に似ているが、人に危害を加えるわけでも、追いかけてくるのでもない。ただ、不気味な生気を放ちつつ、そこに立っているだけなのだが、そのイメージが鴇田氏の言う「生えている句」と重なるのである。
そこからわたしの連想は、ジャン・ポール・サルトルの『嘔吐』におよぶ。ベンチの下あたりの大地に、マロニエの根が深く突き刺さっている。それが、木の根という意味を剥奪されると、黒々と節くれだった、奇怪でぶよぶよとした、恐ろしい、淫らな裸身に変貌するのだ。合理的な解釈以前の、まだ名前のない、存在そのものが立ち現れたのである。哲学者はそのまえで嘔吐を催したのだが、もし彼が俳句をしていたら、そこで実存的一句を物したかもしれない。
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