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2020年12月号 俳日和(35)
 
  俳句的時間

                             河原地英武

 先日、教授会のあと、新任の教員に呼び止められ、人からわたしが俳句をやっていると聞いたのだが本当かと尋ねられた。そうだと答えると、嬉しげに「やはりそうですか。河原地さんはほかの先生と何かちがうなあと感じていました」と言われた。学内の仕事のほうは手を抜いているように思われたわけはあるまい。他の教員がけっこう殺気立ち、ぴりぴりとした感じで校務をしているのに、わたしだけがのんびりしているように見えるのだろう。その教員もまたおっとりとした性格で、着物を着たら落語家でも通りそうな雰囲気があり、要するにわたしとは何かと気が合うのだ。

 実際、はたから見ると、俳句をやっている者は独特の空気をまとっているのかもしれない。わたし自身、ときにキャンパスのなかで魅入られたように樹木を見上げ、学生から「先生、どうしたんですか」と声を掛けられたこともある。校舎から校舎へ移動する途中に池があるのだが、その前では必ず立ち止まり、水のなかに潜んでいるザリガニを見ずにいられない。授業中であっても、冬日にきらめきながら雨が降り出すと、「ほら、雨が降ってきた。これを時雨と言うんだ」とつい受講生に教えたくなるのである。自分のなかにはいつも俳句の時間が流れていることを自覚する次第である。

 だが、これを浮き世離れしているとか、風流だとか言われると、わかっていないなあと反論したくなる。たとえば「プレバト!!」を見ているだけの受動的な俳句愛好家はいざしらず、われわれのように俳句結社に所属し、切磋琢磨している者は本気の度合いが異なる。芭蕉の言葉を借りれば、まさしく「この一筋につながる」という思いで俳句と向き合っているのだ。俳句的時間を生きるということは、ふてぶてしいほど肝の据わったことなのだとわたしは自負している。