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2026年3月号 俳日和(98)
 
  わたしの俳句開眼
                              河原地英武

 もう四半世紀以上も前のことだが、当時の伊吹嶺ホームページには添削コーナーがあって、俳句を始めたばかりのわたしは次のような句を投じた。

  炎天に腕を隠して画筆もつ

 通勤バスのなかから見た景なのだが、炎天下の河川敷でスケッチをしている人が目にとまったのである。日焼け防止なのだろうけれど、両腕をしっかりとガードした長袖の服がいかにも暑そうで、そこに興が湧いたのだった。

 この句を読んだ添削担当の同人は「言いたいことはわかりますが、これはまだ俳句ではありません。説明です」と指摘し、

炎天や長袖シャツの路上画家

という添削例を示してくれた。「なるほど、これが写生なのか」と、わたしは目から鱗が落ちた思いがした。もう一例挙げたい。伊吹嶺のある句会に、

  早春や木炭画描く美術室

という句を出した。少し点は入ったが、美術室だと意外性がなく、今一つ面白みに欠けるとのコメントもいただいた。そこで後日推敲し、

  
春やパン屋に裸婦の木炭画

と大きく改変してみた。早春の明るさと瀟洒な雰囲気が出て、上々の句になったのではないかと気に入っている。

 どちらの場合も動詞を省いたところがポイントである。俳句は短い。だから理屈を述べたり、物事の説明をしたりすれば、すぐに字数は尽きてしまう。画家が絵筆でぽんぽんと色を置くように、われわれもまた言葉をいくつか置くだけで充分である。こんなふうにして、俳句とは言葉による写生であると自得し、今日に至っている。