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2021年7月号 俳日和(42)
 
  噺の枕

                             河原地英武

 
落語家が前置きにする話を枕と呼ぶけれど、あれは聴衆の意識を自分に引きつけるためばかりでなく、本題の演目に出てくる難解なことばの解説も兼ねているのだそうで、けっこう重要な役割があるらしい。六代目三遊亭圓生はこのような「解説の枕」の達人として知られ、話術の巧みさと蘊蓄の深さは古今無双だったとか。その選りすぐりの六十五篇が『噺のまくら』という一書になっているが(朝日文庫、小学館文庫など)、わたしは文章読本としてこれを愛読したものだ。

 噺家の話芸と同列に論じるのはおこがましいが、われわれ大学の教師も授業に入るまえに枕をふることがある。わたしが学生のころは、枕だけで講義が終わってしまう豪快な先生もいた。だが、こんにちの教育現場では、シラバスどおりに授業を進行することが求められ(シラバスは教師と学生の契約なのだから、それをきちんと履行すべしという考え方が浸透してきたのだ)、枕や余談などの「話術」は不要なことと見なされるようになってきている。大学にかつてのおおらかさがなくなったと嘆く向きもあるが、わたし自身はこの趨勢に順応し、このごろは始業のベルが鳴り終わると、ちょっと事務連絡をしたあと(それが枕がわり)、さっさと本題に入ることにしている。

 ところで、俳句にも枕にあたる部分があるような気がする。前書のことではない。たとえば「見下ろせば」とか「車窓より」とかいった、自分の動作の解説や居場所の説明である。それは本当に必要なものなのか。自己と事物の出会いによって起こる感動だけを言語化すれば十分で、それを仮に「純粋俳句」と名付けてみたい。枕抜きの本題のみの俳句である。しかし、それを突き詰めてゆくと、俳句は結局、季語さえあればよいということになりかねない。それではオチにならないようだ。