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2021年5月号 俳日和(40)
 
  日本語の音

                             河原地英武

 高校生のころ萩原朔太郎の詩に傾倒し、そのいくつかを暗唱しようと手帳に書き写していた。わけても好きだったのは「殺人事件」や「酒精中毒者の死」や「猫」といった口語自由詩で、その奇想と精緻な表現力にすっかり魅了されたのである。

 朔太郎は日本語の特性をとことん考え、そしておそらく、詩的言語としての日本語にしばしば絶望していたのではあるまいか。というのも、たとえば『誌の原理』のなかに、つぎのような一節が見いだせるからである。「日本語には平仄もなくアクセントもない。故に日本語の音律的骨格は、語の音数を組み合す外にないのであって、所謂五七調や七五調やの定形律が、すべてこれに基づいている。然るにこの語数律は、韻文として最も単調なものであり、千篇一律なる同韻の反復にすぎないから、その少しく長篇に亙るものは、到底倦怠して聴くに堪えない。」

 わたしも大学でロシア語を学び、朔太郎と同じことを感じた。ロシア語の空気を震わせるような重低音や、強弱とイントネーションから生まれる独自のリズム感などと比べると、日本語は平板で単純な音の連続ではなかろうかなどと考えたのだ。実際、標準語に関していえば、日本語の音は母音が五つ、子音が十三で、世界の主要言語のなかでもかなり少ない部類に属するだろう。

 ところが日本語を学んでいる外国人ユーチューバーたちの動画を見ると、ほぼ例外なく日本語の音は美しいと言っている。アニメや映画の日本語は、意味がわからなくても、自然界の音のように明澄で優しく、心地よいのだそうだ。いま海外では、一九八〇年代にわが国で歌われたシティ・ポップが一大ブームになっているけれど、軽快なリズムに乗った日本語の魅力も一役買っているらしい。ちょっとうれしい話だ。