感動の所在
河原地英武
俳句の基本は写生である。だが、いくら写生とはいっても、絵画のように細かく描きこむことはできない。十七音でいえることは限られているからだ。むしろこう考えてはどうか。俳句で述べられているのは氷山の一角であって、言外(余韻、余情、余白)の部分のほうがはるかに大きいのだ、と。
俳句とはわれわれの古い記憶を呼び覚まし、それを生き生きと再現させる装置なのではないかと思うことがある。俳句の言葉そのものに感動があるのではない。感動がひそんでいるのは、われわれ(作者と読者双方)の記憶のなかである。俳句の言葉とは、心の奥の感動を呼び起こすためのきっかけ、あるいは呼び水のようなものではないか。
俳句をドアを開けるための鍵に見立てることができるだろう。鍵はあくまでも手段であって目的ではない。目的は、ドアの向こう側へ出ることだ。鍵そのものをいくら飾り立てたり重厚に作ったりしても、鍵穴にすんなり入らなければ用を成さない。俳句に即していえば、言語で伝えることに腐心するあまり、言葉を詰め込み過ぎてしまっては、読者の鑑賞の余地はなくなり、感動をもたらすこともできまい。
うろ覚えで恐縮だが、「指を見ず、月を見よ」という禅の教えを引きながら、俳句を説いている書物を読んだ記憶がある(R・H・ブライス著『俳句』だった気もするけれど、今は確認できない)。それによれば、俳句とは月をさし示す指であって、その指をいくら見つめても意味はない。肝心なのは、指がさしている月のほうなのである。月こそが感動の在り処であって、指(すなわち俳句)の役目は、その位置を正確に示すことなのだ。
芭蕉に「いひおほせて何かある」という有名な言葉がある(『去来抄』)。「すべてを言ってしまったら一体何が残るのか」という意味の反語である。俳句では、どれだけ(どこまで)省略できるかを学ぶことも重要なポイントと思われる。
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