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いぶきネットの四季


 いつも伊吹嶺HPを閲覧して頂きありがとうございます。 平成24年3月から新しい企画として「いぶきネットの四季」というタイトルで、楽しい写真歳時記 コーナーをスタートさせました。写真歳時記と言っても単なる季語の解説ではありません。 季語の解説は一般の歳時記に譲ることにして、このコーナーは季節の写真とそれに関する俳句、 そしてその俳句の鑑賞、思い出、あるいは季語にまつわる体験談など自由な発想で随筆風にまとめ ます。
執筆者は「伊吹嶺」インターネット部同人、会員、そしてそのネット仲間などが随時交代 して書きます。皆さんの一人でも多くの閲覧をお願い致します。
なお四季の写真を広く皆さんから募集したいと思います。写真は次のポストマークをクリックして 下さい。また写真のこのHPへの掲載の採否は伊吹嶺HP作成スタッフにお任せ下さい。

 
おかげさまで平成24年からのいぶきネット四季は好評です。平成26年からはこちらでご覧下さい。平成25年以前は下記の案内をクリックして下さい。

                       インターネット部長  国枝 隆生


   このポストマークをクリックして写真を応募して下さい。

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平成26年12月
  利行 小波

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三島 楽寿園の菊祭       




 菊の歳時記を見ると、「白菊」「小菊」「初菊」「菊作り」「菊日和」「菊の宿」「菊花展」「菊膾」「菊枕」 「残菊」等々、「菊」に関する季語のなんと多い事かと、あらためて感じる。「菊膾」「菊枕」などに見られる ように、平安時代初期に中国から渡来された当時、それは薬用であったが、やがて観賞用となり「百菊」といわれ るように多くの品種が生まれたそうだ。
    飾られて菊人形の冷たき手     栗田やすし



 これは、栗田主宰が平成一二年、名古屋城での俳句大会の折、菊花展をご覧になって詠まれた句で、自註には 「姫の手がぞっとするほど冷たかった。」とある。
 菊の香の漂う城下で、菊で装われた「姫」の白い手にそっと触れられた。その思いの外の冷たさに菊の精を受け た人形の「魂」を感じられたのでしょう。
 先日、この菊花展を私も見てきた。正門を入った所に飾られた一対の菊人形。香のまだ瑞々しい中、傾ぎはじめ た夕日が、紅、黄、白の小菊を纏った「殿」と「姫」を柔らかく包みこんでいた。本丸までの砂利道の両側には、 丹精込められた大輪菊や菊の妙とも思われる技法を凝らした様々な小菊の鉢植えに背を正す思いで見入った。 見上げると大鴉が、櫓の両の鯱にそれぞれ留まり鳴いていた。


    くくられて冬菊の香の衰ふる     栗田やすし


 菊の栽培は、春の土づくりから始まり、酷暑を超えて秋の開花までの労力は(どの植物も同じと思うが)測り 知れないと聞く。菊自身も、また、内に力を溜めながら、その時期をじっと待つのであろう。
 このような菊花展の菊も素晴らしいが一方、路地や野辺に香る小菊にも風情がある。沢山の小さな蕾をつけた白菊 の凛とした可愛いらしさ。そして突然にその香を強くする開花の朝など、決して華やかではないが、その優しい 佇まいに慰められる思いがする。
 いずれにしても、菊は昔から私たちの生活に欠かす事なく、様々な形で彩りを添えてくれる花であろう。
 初冬のまだ明るい日差しのなか、微かな香りを残して、静かに命を閉ざしてゆくそれは、人の一生とも重なると ころがありそうだと思う。 (了)
  写真 武藤光リ 
 

 
平成26年11月
由一の鮭   矢野孝子

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新巻       
撮影 矢野孝子




    断面の紅透き通り吊し鮭     沢木欣一
    荒縄の鮭寂光を放ちをり     沢木欣一


 沢木先生は、絵画を題材とした俳句を沢山詠んでおられる。一句の中にセザンヌやルオーやドガ等の 画家の名が詠み込まれた句。山梨県のルオー礼拝堂の版画「ミゼレーレ」や、信州上田市に建つ「無言館」 の戦没画学生の遺作のように絵画そのものを詠まれた句。絵画を観た後のその余韻の感じられる句等々 である。
 掲句は、句集『遍歴』に掲載され、昭和五十二年の作品。前書きに〈芸大九十周年記念展・高橋由一の 絵二句〉とある事から、東京芸術大学美術館所蔵の『鮭』を詠まれたのであろう。
 私が由一の『鮭』を見たのは、二十年ほど前の名古屋の美術館であったと思う。縄に吊られた鮭が 縦長の額に収まり、一切の装飾が排除された暗い画面であった。その中の半身を削がれた部分のみに スポットライトが当てられたように紅が浮き上がって見え、照明を落とした部屋の中で、油絵の肌が艶やか で印象的であった。
 一句目・先生は削がれた身の部分を〈透き通る〉と表現されている。今描かれたかのように、この干し 鮭を瑞々しく感じられたのではないだろうか。
 二句目・〈断面〉の句と同じ「鮭」を詠まれている。ある俳人(名前は忘れてしまったが)が「俳句と 言うものは祈りのようなものである。神や仏に祈るだけではなく、自然界を司るものへの憧憬と祈りで ある。」と言うようなことを何かに書いておられた。この句も、縄で吊された鮭への憧憬と祈りを〈寂光〉 という言葉で表現された。まさに吊るされた鮭が寂光浄土へと昇天したように。この二句のみを読んでも、 『鮭』の神々しさを感じ取ることが出来る。
 絵画に関する沢木先生の句の特徴としては、多くの句に前書きが添えられている事。名画と言える完成度 の高い美術作品に出会ったその感動を、今度は文芸作品として完成させられたのだ。
 前書きがあることにより、読者は作者の思いや季語の情感をより正しく深く鑑賞出来る。
(了)



平成26年10月
綾子忌   熊澤和代

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紫苑       
国枝髏カ 撮影




    みまかりし師と語り合う良夜かな   やすし  平成 9


 現代俳句文庫『栗田やすし』のインタビュー「私と俳句」の中で、「細見綾子先生にはどのような印象を持たれていますか。」との 問いに栗田先生は「母親のような思いで、先生もその様に接して下さっていました。」と答えておられる。先生の心の中に綾子先生は 棲んでおられ、名月を眺めながらお二人で心行くまで語り合われたのであろうか、明るい月の光に悲しみが浄化されていくようである。


    紫苑咲き初むと妻言う綾子の忌    やすし  平成11


 自註に「綾子先生の三回忌。妻の報告に先生の〈山晴れの紫苑切るにもひゞくほど〉を思った。」とある。綾子先生の忌日を待って いたかのように庭に咲き初めた紫苑を前にご夫妻でしみじみと師を偲ばれた事であろう。九月六日が綾子先生の忌日。


     鶏頭の種採ることも綾子の忌     やすし  平成13

     鶏頭に音なき雨や綾子の忌      やすし  平成14

 自註に「馬籠での『風』鍛錬会の折、永昌寺への畦道で綾子先生が鶏頭の種を採って手渡して下さった。」とある。鶏頭と言えばす ぐに綾子先生を思う程馴染みの深い花である。静かに雨の濡らす鶏頭を眺めながら思いは馬籠に、せっせと集めた細かな種を「はい」 と手渡して下さった綾子先生の飾らない笑顔と手のぬくもりを栗田先生は懐かしんでおられるのだろう。


    綾子師の句碑を濡らせり萩の雨    やすし  平成19


 平成十八年五月、栗田先生の夢の一つであった綾子先生の句碑〈木曽川を見下ろして城冴え返る〉が伊吹嶺十周年を記念して名鉄 犬山ホテルの敷地内に建立された。その折〈句碑除幕師に賜りし五月晴れ〉と先生はその喜びを詠んでおられる。その句碑を 濡らす萩の雨が限りなくやさしい。  句碑建立後には九月六日の綾子先生の忌日に合わせて毎年吟行会が行われ、平成二十三年五月、伊吹嶺十五周年を記念して栗田先生 の第一句碑〈流燈会われも流るゝ舟にゐて〉が建立されてからは、師弟句碑吟行会として今年も九月五日に開催された。綾子 先生を知る人も知らない人も一様に句碑を囲んで先生に思いを馳せる時、師系と言う絆の深さ、強さ、不思議さをつくづく思う。


  文中写真 武藤光リ撮影 
 

平成26年9月
原爆忌   国枝髏カ

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原爆ドーム       




  ふち焦げし原爆の日の目玉焼     栗田やすし



 今年の八月六日の広島は四十三年ぶりの雨であったが、原爆忌というと、炎天、炎暑を思い出す。
 栗田主宰の句、日常生活の一齣を詠んだものである。自註では「皿に盛られた目玉焼を見て『原爆の図』が頭を過ぎった」とある。この句のポイントである〈ふち焦げし〉から原爆の高熱により人も物も焼け焦げた イメージにつながる。そこには単なるイメージではなく、あのいまわしい原爆に対する怒り、悲しみを「ふちの焦げた目玉焼」に託したのである。
 原爆関連の俳句と言えば、沢木欣一先生も多く作られてきた。その最も早い時期に作られたのは、原爆被害写真展を見て作られた昭和二十七年である。




  人面がたちまち土塊歯牙二本     沢木欽一



を初め七句が発表されている。前書きには「惨禍に、今更驚く」と言い、ここにはほとんど無季で詠まれており、季語の立ち入る隙間はなかったのであろう。その根底には原爆の火焔地獄があまりにも強烈であったためであろう。 同様に栗田主宰は原爆資料館で詠まれた句として、



  炎熱や被爆時計の針歪む       栗田やすし



があり、針が歪んだ時計を素材に〈炎熱や〉と詠まれたのが栗田主宰の思いを代弁しており、沢木先生の〈人面が・・・〉の句の思いにつながっている。  


    浮袋赤肌重ねヒロシマ忌       沢木欣一
   妻と来て赤き鶴折る広島忌       栗田やすし


 今この二句を並べてみると、ともに日常生活の中から「広島忌」を詠んでいるシチュエーションは似かよっており、日常動作の中にも、夏になると忘れることが出来ないのが「広島忌」のテーマだろう。 また写生の対象として「赤」が詠まれているのは偶然の一致であろうか。
 それにしても栗田主宰はあえて八月六日に日帰りで広島まで出かけられて、詠まれたことの意気込みと鎮魂の思いを私たちは忘れてはならないと思う。 (了) 
 

  写真 武藤光リ撮影 
 

平成26年8月
郡上踊   角田勝代



宗祇水       
国枝髏カ撮影 




 今年も郡上踊りの日程表が届いた。「郡上八幡」は母の家があり、私の心の〈ふるさと〉である。
 また八幡は「水の町」である。まず順に浮かぶのは「宗祇水」であろう。日本百名水の一番に 揚げられており、暑い日であれば西瓜が冷やしてあったり、〈天神祭〉の日であれば振る舞い のための盃を漱いだりするのである。  夏の風物詩である鵜飼いは千数百年昔から伝わる、鵜を使って鮎を採る漁法で、今日では観光化されつつあります。清流長良川で行われる 鵜飼いは、多くの文人も訪れて作品に残しています。


    踊り待つ慕情てふ酒酌み交はし        栗田やすし

 名古屋にも、富山から売薬さんの来た頃、郡上には常宿が多くあった。叔父の家の前に低いが急な山があり、滝のように水が滔々と落ち、下の井戸では洗い物をしたり、天然の冷蔵庫とし、野菜などが冷やされていた。夜は勢い水の落ちる音が激しい雨のようでなかなか寝つかれなかった。小流れの石を起こすと、沢蟹が這い出したりして驚いた。  栗田先生が泊まられた宿での夕餉の景、踊りを待つ弾んだ心が〈酌み交はし〉により読む 側にも伝わってくる。「踊り疲れても今日は郡上泊まりなのだ」と。


    星近し一揆ゆかりの盆踊           栗田やすし

 そして忘れてならないものに郡上一揆がある。それらの重い歴史ををせつせつと語るように 唄い踊るのが郡上踊りである。
 叔父の家の通し土間には、私たち親類の?や近隣から来る子供たちのための〈踊り下駄〉が 揃えてあり、二階への拭き込まれた箱階段を上がると、窓の外には手の届きそうなところに お城が見えるのである。
 「郡上踊り吟行会」に行かれた栗田先生は、山国の美しい星空に眼を向けられ、一揆の頃も また美しかったに違いない星空の下、「郡上踊り」の唄を耳にされ、平和な今を感慨深く かみしめておられたのではないだろうか。〈星近し〉によって、凛とした〈郡上気質〉までも 伝わってくるようだ。



    腕組んでつひに踊の輪に入れず        栗田やすし

 「郡上踊り」を吟行された栗田先生であるが、狭い路地を縮んだり膨らんだりして過ぎていく 踊りの輪に、腕組みをされたまま入り損ねておられるのだ。
 ふだん、五千人ほどの人口の町だが、踊りの期間には三十万人にも膨れあがるという。男女 の数は半々ぐらいで初めての観光客でも(すっー)と輪に入り込める雰囲気ではあるのだ けれど。〈つひに踊の輪に入れず〉とついに踊られなかった先生である。〈腕組んで〉に すべて要約されていて、心情が伝わってくるようである。(了)
 
   
 

平成26年7月
栗の花   伊藤範子

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栗の花       




 独特の香りを放ち、梅雨時に淡い黄色の房を垂らして栗の花が咲く時期になった。
 子供の頃にあまり栗の木や花を見た記憶が無い私は、栗は山にだけ育つものと思っていた。家の近所に、昔から住んでいる方の 広い屋敷があり、脇道に栗の花が落ち秋には毬栗が転がる。今年もまた栗の花が咲いた。
 栗の花といえば真っ先に次の作品を思い浮かべる。


    眉濃ゆき妻の子太郎栗の花   欣一  昭25



 句集『塩田』所収。「六月、帝王切開により長子誕生 五句」の前書きがある。
 我が子との初めての対面に、綾子先生に似て黒くしっかりした眉毛だったことも嬉しく、お喜びの気持ちでいっぱいだったこと だろう。男性は決して体験する事のできない出産、しかも高齢出産の初産であり、感謝の気持ちを込めて自然と〈妻の子太郎〉の 言葉が浮かんでこられたのであろう。
翌二十六年には次の句を詠んでおられる。


     赤ん坊に少年の相栗の花    欣一  昭26

 ほかに 句集『白鳥』に
     栗の花子に叱られてばかりゐる   欣一  平2

の句もあり、歳を重ねられてもなお、栗の花に太郎さんを詠まれていたのである。
 今年、沢木先生と綾子先生の著書をくみ子さんがネットを通して販売を始められた。書店では販売していない本も多いことから、 欲しかった句集や鑑賞の本を購入できた。
 沢木先生の第十二句集『綾子の手』は、句集名の通り綾子先生への追悼句集でもある。
 その中に重体の綾子先生と、看病する太郎さんを詠まれた句があった。


    梅雨寒や吸ふ吐くの息音立てて   欣一  平9

    額の花やさしと言へり綾子の子       同



 額の花の句には「太郎、付ききりで看護」の前書きがある。
 六月、綾子先生は二度にわたり意識不明に陥られたようだが、献身的な看病とご自身の気力で一旦は持ち直されたのであった。
 太郎さんは近年突然ご両親のもとへ旅立たれてしまわれた。残念でならないが、私は最近再び「風茶房」のホームページを見る ようになった。太郎さんの美しい写真に癒され、両先生の句を再確認できることもありがたい。
「言葉は花」のページ〈外套をはじめて着し子胸にボタン 綾子〉の句に、綾子先生と幼い太郎さんの写真が掲載されていた。 昭和二十八年、金沢市街の積雪を背景に、明るい笑顔の綾子先生と、眉のしっかりした、綾子先生と同じ笑顔の太郎さんだった。(了) 
 

  写真 武藤光リ撮影 
 

平成26年6月
鵜飼   坪野洋子

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撮影 武藤光リ




 夏の風物詩である鵜飼いは千数百年昔から伝わる、鵜を使って鮎を採る漁法で、今日では観光化されつつあります。清流長良川で行われる 鵜飼いは、多くの文人も訪れて作品に残しています。
 その中の一つ、芭蕉の〈面白うてやがて悲しき鵜飼かな〉はあまりにも有名な一句です。
 碧梧桐も河畔の宿から鵜飼見物をして〈闇中に山そ聳つ鵜川かな〉を残しています。昭和二十三年七月長良川鵜飼いを尋ねたねた 山口誓子は〈鵜篝の早瀬を過ぐる大炎上〉と詠み、橋本多佳子は〈早瀬ゆく鵜綱のもつれもつるまま〉と詠んでいます。 この師弟句碑は長良川畔の鵜匠屋の庭建っております。

    鮎吐きて老鵜もつとも火の粉浴ぶ        栗田やすし

 栗田主宰は昭和53年に長良川の鵜飼いで掲句を詠まれて、同時作を八句発表しておられます。その集中力には驚くばかりです。この事は、 先生が長良川河畔の鏡島で幼少から成年期を過ごして居られることを知れば、その鵜飼いに対する思いの深さも頷けます。また 〈故里の母の好みし鮎なます〉の句でもこのことを窺がうことが出来ます。
 先生は自注に「火の粉を全身に浴びて鮎を吐く老い鵜が哀れであった」と書いておられます。
 掲句は平明な言葉の眼前の写生句ですが、老いた鵜に対する哀れさが〈もつとも火の粉浴ぶ〉の「もっとも」で強調されています。 俳句の基本の「平明な言葉で句意を深く」を学ぶことの出来る句で私の心に残る一句です。
 余談ですが、鵜の首結は小魚ならば胃の中に落ちていくように加減がしてあり鵜に対する配慮もしてあると聞いた事があります。

鵜飼いの行われている長良川の川畔から少し入ったところに、山下さんの鵜庄屋があります。ここは喫茶店も併設されていて、ガラス越しに 鵜小屋の鵜たちの様子を見ながら、山下鵜匠のお話などを伺うことが出来、鵜匠さんの暮らしぶりを垣間見ることの出来る場所になっています。
 平成二十年伊吹嶺全国大会が岐阜で開かれた折、インターネット句会の皆さんとここを吟行し、鮎雑炊を頂たことが懐かしく思い出されます。 日本の誇る清流長良川の鮎の漁獲高も年々減ってきていると聞きます。
 河口堰との関係は今もって明らかにされていませんがどうなのでしょうか。このごろの川鵜の多さも見逃せない一因でしょう。大群で 川面へ降りる川鵜や黄昏時に塒へ帰る鵜の数は増えている様に思えます。
 何時までも鮎の上って来る清流に鵜飼いが残っていくことを願っています。  
  文中の写真は山下さんの鵜の家 武藤光リ撮影 
 

平成26年5月
花紀行   谷口千賀子

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吉野山の桜       
撮影 国枝隆生




    谷へちる花のひとひらづつ夕日         細見綾子



 春のひと日、大原野の桜を楽しんだ。十輪寺は在原業平ゆかりの寺で、花山院家の菩提寺であるだけに本堂の屋根は優美な鳳輦造りである。本堂へ続く高廊下には王朝絵が描かれ、その屋根に幾本もの 支柱が立てられて奥の業平桜を支えている。
 屋根上を雲のように覆う桜は裏山から吹きわたる風にひとひらずつ散りつぎ、高廊下になめらかな白い光となって散りこんでくる。裏山の中腹に立つ業平卿の印塔は小ぶりで周辺のたたずまいも自然だ。 静かに業平桜を見下ろしている。小さな黄蝶が印塔にまつわっていた。
 さほど遠くない大原野神社に続く山腹に「花の寺」勝持寺があり、西行桜はまさに盛りの時であった。高台の書院の白障子が少し開かれ、和服の若い女性がまるで生人形のように身じろぎもせずに桜を眺めていた。


    西行のあといくたびの草の萌え        細見綾子

 この句は吉野の西行庵で詠まれたもので、勝持寺での西行とは場所も年齢も違うが、思いは同じである。
 北面の武士佐藤義清はこの寺で出家して、以後西行と名乗ったという。俗世の頃に御所で眺めた桜への思い、世を捨てたきっかけと伝えられる待賢門院璋子への思いなど、若い西行が得度してどのように 身心を処していったのだろうかと、西行桜のしだれの下に佇ち、しばらく思いにふけった。


    仏像のまなじりに萩走り咲く    細見綾子



   竹秋の京田辺を抜けて普賢寺川を越え、一面に菜の花の畑が続く中を大御堂観音寺へ詣でた。菜の花の先に桜並木の参道が続く。山里の小さな堂宇ながら、ここに天平時代の国宝の十一面観音像が蔵されている。 この像は護岸寺や聖林寺の観音と並んで有名であり、白洲正子氏の著書にも載せられている。幸いにも開扉されて均整のとれたお顔を拝することが出来たが、本堂の扉も開かれて真正面に菜の花が見渡せた。
 観音の御目には明るい黄色の菜花は何よりの供花のように思われ、掲句を思い出した。仲春の川辺では、グループや家族連れが楽しんでいた。
 

    春水の鳴り流るるを子に跳ばす    細見綾子



 散って来た花びらを中年の女性が唇に当てて吹いた。高く微妙な音色がひびき、私も真似てみたが、うまく音が出なかった。
 草笛ならぬ花笛というべきか、散りたての花びらでなくてはうまく音が出ません。と女性はほほ笑んだ。 
  文中の写真は西行桜 国枝隆生撮影 
 

平成26年4月
 磯遊び
 内田陽子
   
   
母残し来て束の間の磯遊び  栗田やすし(平16

  蒲郡より海沿いに西へ約二十キロほど行くと、西尾市吉良町に入る。掲句は平成十六年に三河湾リゾートリンクスで「伊吹嶺同人総会」が開催された折の句である。句集『海光』にも収められていて、先生のお母様への深い愛情を身に沁みて感じる一句である。
 〈母残し来て〉の表現で、お母様の年齢や境遇も想像される。肩へ来る磯の日差しの暖かさに、残してこられた人への思いが籠る。〈束の間の磯遊び〉の措辞が、おのずから示される先生のお気持ちそのものであろう。
 春彼岸の頃大潮にあたると、一年のうちでもっとも潮の干満の差が大きく、砂浜が遠くまで干上がる。わが町蒲郡竹島の砂浜には多くの人たちが集まり、潮干狩りの人たちで埋め尽くされる。
 「海の眺めは蒲郡」と鉄道唱歌で歌われ、かつての海岸線は豊川から流れ出た砂が打ち寄せられて浜を形成し、砂防の松林が彩りを添えていた。全国でも屈指の観光地として君臨したが、昭和三十四年の伊勢湾台風が様相を一変させた。七十年代「蒲郡ホテル」「常盤館」と相次いで営業をやめた。竹島漁協は「それでも蒲郡は海で生きていくしかない」と、ほかに先駆けて潮干狩りに目を付けた。「竹島あさり」のブランドとして今日に至ったのも、当時の先駆者のおかげである。

  艶やかや箱入り娘といふ蜜柑   栗田やすし (平22

 「自註俳句シリーズ」よりの一句。「箱入り娘」の可愛いネーミングに感心されたとある。露地栽培の早生蜜柑のうち、園地を限定し木の下にシートを張るマルチ栽培を行い、水分を調節することで糖度を高めた早生蜜柑の特選品である。蒲郡を代表する「蜜柑」を飾ることなく、素直に詠まれた驚きの一句である。身近な句材を見つけることの大切さも学ばせていただいた。
 なお写真は竹島の潮干刈り風景と満潮の竹島です。これを見ると、天童よしみの「珍島物語」の「海が割れるのよ 道が出来るのよ」の出だしの歌詞が思い出されましたので、付け加えさせて頂きました。
                                    写真も内田陽子

 

干潮の潮干刈り風景 
 
満潮の竹島
 
平成26年3月
寒牡丹   倉田信子

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二上山       
撮影 国枝隆生




    二上を背山とするや寒牡丹     細見綾子



 細見綾子先生の第八句集「天然の風」の中の大和路百五十三句中に収められている句である。
 奈良県當麻町の石光寺は寒牡丹で有名である。花の咲く頃は 背山の二上山から吹き下りて来る風に混じって雪が飛んで来ることもしばしば あるのである。藁苞の中で寒さに負けじと咲く花は何とけなげな姿であろう。
 かなり前になるが、句友と春浅い二上山へ登った。雄岳に近づく頃から雪が降りはじめ、頂に着いた時は吹雪だった。大津皇子の墓もすべて 白く煙り、神秘的というより恐ろしい雰囲気だった。急いで下山し当麻寺近くまで来て振り返った二上山は雄岳の頂上へと雪が舞い上っていた。 風に乗った雪が私達に舞い飛んだ。


    飛雪来ることのしばしば寒牡丹    細見綾子

 当麻寺から一キロ程離れて石光寺があるのだが、たくさんの寒牡丹の菰を一つづつのぞいて歩くのは楽しい。牡丹は本来初夏五月の花だが 冬咲きの牡丹があるのではなく、植物の生理を利用して冬に咲かせるのである。春蕾を摘んで樹勢を高め、初秋に葉を付け根から取ってしまう と花芽が急速に発達して、冬のうちに蕾を持つのである。寒い時藁囲いの中で二・三輪咲く姿は趣深い。


    寒牡丹かすかな息を苞の内    細見綾子



 寒牡丹に命をみとめ、その息をも感じられる先生の感性。まさに寒牡丹と一つになってしまわれたようだ。
 もう一つ。
 下の句は寒牡丹を去り難い気持ちが〈また戻り〉にそのまま出ていて、とても共感させられる。
 夏の牡丹に寄せられた先生の句は沢山あり、先生と牡丹は切り離せないが、寒牡丹の句からはまた違った先生の思いが伝わってくる。
 何だか石光寺の寒牡丹を見に行きたくなった。綾子先生にお逢い出来るかもしれない。そしてもう一度二上山へも登ってみたい。


    帰らんとしてまた戻り寒牡丹    細見綾子



 
  文中の写真は石光寺の寒牡丹 国枝隆生撮影 
 

平成26年2月
苦学生   八尋樹炎

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学窓の芝生       
撮影 武藤光リ




    外套の裾ほころびて卒業す     栗田やすし



 晴々とした大学卒業の日 春光の中ふと、外套の裾のほころびに気付かれた主宰・・・
 一句の底に流れる淡い感傷とたゆまない努力の思いが、山口誓子の学問のさびしさに堪へ炭をつぐを彷彿とさせられた。結句 〈卒業す〉の強い言い切れに、かえって様々な事を連想させ、余韻の残る句に共感できた。
 私の思い出を書かせて頂けば・・・
 一九五三年(昭和28年)東京の大学に進学する先輩を博多駅に見送り、すし詰めの普通列車の窓から顔出した先輩に、テニス部一同が、 餞別に二冊の週刊誌を送った。
 戦後の学生は、ほとんどが苦学であった。東京迄の道程は約二十四時間と聞いて、その遠さを思いながらも、大学進学への憧れは隠せな かった。学生の売血アルバイトの話も話題になった頃である。
 衣食住にも窮する時代であったが、本が読め、進学出来ればそれだけで羨望の的であったことを思い出す。

    青芝の議論のあとの独りかな    栗田やすし

 主宰の自註によれば、「太陽の季節で始まり六十年安保闘争で終わる学生時代です」と書かれている。この時期すでに句歴があり戦後の 俳句における社会性俳句の時代をくぐり抜けてこられた訳である。
 諸説ある、大学紛争の発火点・・・ 一九六〇年(昭和35)に日米安保条約の改定に調印したことから、国民の中に反対運動が起き、ご存知、連日のように安保闘争で国会を埋め 尽くされていた。
 学友と青芝の上で、口角泡飛ばす議論の後、下句の〈独りかな〉は誰しも思い当るような心の屈折をさらりと詠まれ、抗う空しさであろうか。
 主宰にとって何色かの栞を挟む、青春の一ページそのものではなかろうか。


 
  文中の写真は樹炎氏の従兄弟の大学時代のもの 
 

平成26年1月
風木舎   武田稜子

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牡丹の芽 (葉は寒牡丹のもの)       
撮影 武藤光リ


 「風」の主宰である沢木欣一先生が亡くなられて今年の十一月五日は十三回忌にあたる。時の過ぎ行く速さに驚くばかりである。
 平成十三年十一月二十三日、東京新宿京王プラザホテルで開かれた「風」五十五周年記念大会に参加した後、同月五日に逝去された沢木先生 をお参りさせて貰おうと、武蔵野にある「風」の発行所、「風木舎」を訪れた。
 門を入ると綾子先生が一番お好きであった牡丹が赤い冬芽をつけていた。思わず走り寄ってそっと触れた。



    遅々として暮らしてゐるに牡丹の芽     細見綾子



 お庭は人工の手を加えず自然そのままの雑木林のようで梢には色鳥の声が弾け、朴の葉が音を立てて散り、鈴生りの柚子が金色に輝いて いた。濡れ縁には月桂樹の葉が干されてあり、今まだ、そこに綾子先生がいらっしゃるような思いに駆られた。書斎に案内され、沢木先生の 遺影に手を合わせご冥福をお祈りした。
 書斎の床の間や壁際には書籍がうず高く積まれ、その膨大な数に驚いた。その中に「投句箱」と書かれた段ボール箱を見つけ、「あゝ、 ここに毎月全国からの投句が集まって来ていたのだ。」と胸が一杯になった。  書斎の中心には先生の定席であった掘炬燵があり、この場所で病と闘いながらも、お好きな煙草を美味そうにくゆらせながら、原稿を書か れ、選句されていたのだと、胸に迫るものがあった。そして先生亡き後も炬燵にはお決まりの灰皿と愛用の眼鏡だけが残されていた。



    灰皿と眼鏡主の亡き掘炬燵       栗田やすし      


 太郎さんより「どうぞ母も参ってやって下さい。」と案内して頂いた奥まった部屋に綾子先生の遺影と遺骨が安置されてあった。沢木先生 がお庭でお世話されていたのであろうか、真っ赤な薔薇の花が一本、鶴首の花瓶に挿してあり、綾子先生の遺影を明るく、やさしく包んで いた。
 「風木舎」を去る時、折からの夕日が発行所のポストと両先生の表札を淡く染めていた。その表札の温もりに手を触れ、お二人の先生に心 からの感謝と最後のお別れをして、「風木舎」をあとにした。  
  文中の写真は「風同人会報」平成13年1月号より転載した 
 

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