平成24年11月のU |
奈良百句
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元興寺山門 国枝隆生氏撮影
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何となく日常の些事に疲れたとき、心が乾いたときのような感じのとき、私は『奈良百句』を
ひもとく。綾子先生は「奈良大和は私のあこがれの地です。いつでも心の中に栖んでいたところです。」
と言っておられる。私もこの地は、自分の心のふるさとのような思いだ。
『奈良百句』には綾子先生の思いのひとつひとつが美しい珠玉となっていると思う。
あまりにも有名な技藝天の一連の句をはじめとして、この本は春の句が多いという印象だが、
秋から冬の句もしっとりと静かである。
高畑の棗の高木である。奈良盆地の静かなこの辺りの雰囲気に、師と一緒に浸る。
澄みきった青空には鳥の声もない。棗の存在感が際立っている。
暮るる空底明るきに棗あり 細見綾子
文章によれば、右城暮石さんの庭の柿であるとのこと。澄んだ秋空を彩る見事な柿の色が印象的で
ある。店頭の柿とは違い、この柿には生命の輝きがある。
子どもの頃、私は国語の教科書で、陶工柿右衛門が柿の色を出すために工夫をこらしたという話を
学んだ。しかし教科書の柿はさして美しくなく、納得が出来なかった。後になって秋のさかり、
葉を落とした高木に光を浴びている見事な柿を見た時、この話を思い出して、私もしばらく柿右衛門
になった。
掲句の〈空こはれずに〉という表現がはじめはよく理解できなかった。だが、柿の朱を浮かべた
空は、美しい彩りをそのままに夕闇につつまれていったのだ。感動をありのままに、というのは
こういうことなのだと気づかされる。
柿の朱を点じたる空こはれずに 細見綾子
次は古刹元興寺の晩秋である。萩黄葉を、古い甍を、また境内の寄せ仏を、音もなくしぐれが濡らして
いる。極楽坊のしっとりとしたたたずまいのまま、歴史のひとときを静かに刻んでいるのだ。
しぐれを〈音なさずして〉ととらえて句の透明感が生まれ、本当に綾子師の世界だなあと感動する
ばかりである。
古寺のしぐれや音をなさずして 細見綾子
『奈良百句』の句は、静かに対象の一点をとらえ饒舌さはみじんもない。
絞られた焦点をそのまま、私達に掌を広げて見せてくれる。
棗の空も、柿の空も、古寺のしぐれも、その時の「今」の感動なのだが、その「今」は深められて
「永遠」を裏に潜ませていることに気づかされた。
『奈良百句』は幾度読んでもそのたびに新しい感動がある。これからも読み返すことだろう。
谷口千賀子
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平成24年11月 |
稲架
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能登の刈棚田
稲掛けの手を大写し車の日 沢木欣一
稲架襖海をかくして恋路浜 沢木欣一
稲掛くる人に声かけ夜の浜 沢木欣一
句集「往還」より
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私は現役のある時期6年ほどを金沢で過ごした。中でも能登地区は私の重点担当とされ、毎週1,
2回は社用車やマイカーで訪れていた。
もちろんその当時俳句をやることになるなど毛ほども思ったことも無かった。ただ、すでに都会化
した金沢市から内灘を通り能登有料道路に入ると、なぜか本来暮らすべき場所に戻ってきたような
和む気持ちが常にしたのであった。
特に深秋の刈田の夕景と遅い冬から一気に初夏まで駆け上がる新緑の景色は、学生時代の誰でも
そうであったような詩にあこがれた一時期の思いを呼び起こすものであった。
当時は、塩田跡を見ても能登にも塩田があったのだと言う感慨くらいしか湧かず、むしろ棚田や
農村、漁村の風景にさらには冬の深雪や波の花に感動したのを覚えている。
そんな頃から20年以上も過ぎて、ふとしたきっかけで俳句を初め、伊吹嶺を知り、その系列
の風上に金沢や能登と係わりの深い沢木欣一師があることを知った。
欣一の俳句は「社会性俳句」として一般に歴史的価値を認識されているようだが、それ以上に
(もちろん、次の評価も高い物があるが)「風土性」であり、さらには「人間本来を自然との係わり
の中に詩い上げる俳句」だと思えるようになった。
そしてその表現の手法が、「物を通すことによって感動を定着させる」と言う「即物具象」の俳句
なのだ。
車窓に大写しされる手に農民の苦労と感謝を!海を隠す程の稲架に豊作の感謝と恋路浜の固有名詞に
明るい人間の性を!暗くなるまで働く人々へのやさしい眼差しを!すべて人への愛着であり、讃歌だ。
私もこんな俳句を、こんな心を込めて詩ってゆきたい。
武藤光リ
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平成24年10月 |
鷹渡る
伊良湖岬の灯台 |
伊良湖から見た神島 |
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今年も中部、関東、東北の太平洋側で繁殖したサシバたちは、小さな群れを作りながら伊良湖岬へ
集結し、渡りの勇姿をみせてくれたことだろう。
鷹渡る白燈台を起点とし 栗田やすし
句集『伊吹嶺』に所収。昭和55年作。私は入会後にこの句を知ったので
あるが、渡りを見たことのない私にも伊良湖岬を渡る鷹の群れ、海と空の青、白灯台の美しさが鮮や
かに迫ってくる。白灯台はこの句のとおり、鷹をはじめとする渡り鳥にとってまさに旅立ちの出発地。
灯台を「起点」と認識された感覚に圧倒されるのである。
この句は先生43歳のときの作で、文学者、教育者、俳人として志を高く持ち、お忙しい中にも
充実した日々を送っていらした頃であろう。鷹の飛翔を目の当たりにされて、ご自身も大きな飛躍
を心に誓っていらしたのではないだろうか。
渡る鷹神島過ぎてより一途 栗田やすし
句集『遠方』に所収されている。神島は伊勢湾に浮かぶ島で、答志島とともに、渡りを見ることが
できる。伊良湖岬を出発した鷹は、まず九州最南端、鹿児島の佐多岬を目指す。そこからさらに南下
という、延べ一万キロという距離である。ひたすらに飛び続ける鷹への思いを託した〈一途〉という
言葉が胸を打つ。
主宰のこれらの作品に、私も鷹の渡りを見たいという気持ちがふくらんできた。一度は夜中に夫に伊良湖岬まで走ってもらったのだが、あいにく冷たい雨となり、一羽も見ることが出来なかった。
平成21年10月、豊橋で開催された伊吹嶺の全国俳句大会にあわせ、一泊すれば鷹の渡りを見られる(かもしれない)という吟行の計画に私も参加させていただいた。夕方ホテルに到着し、日が暮れるまでの短い時間、句友と辺りを散策した。ホテルの目の前の雑木山の空に、明日渡る鷹が一羽、二羽、三羽と現れては何度も旋回した。それだけで心が躍った。鷹は夕映えの空に明日の晴天を確信し、仲間に「明日の朝渡ろう」と約束をしていたように思えた。翌日、期待通り渡りに出合えた感動は今も忘れられない。
風荒ぶ辺戸の岬にはぐれ鷹 栗田やすし
平成21年作。沖縄・宮古・伊良部などの中継地では、渡り切れずに「落ち鷹」となってしまう鷹がいる。仲間とはぐれてさぞ心細いことだろう。「主宰と行く沖縄吟遊の旅」で、あの時辺戸岬で出合った落ち鷹は、翌年無事本州へ戻れただろうか。
さて、日本では里山の自然が失われ、サシバが繁殖しにくい環境へと変化しているようだ。また越冬地の東南アジア諸国では、熱帯林の伐採が問題になっていて、サシバの将来が危惧されている。いつまでも多くの鷹が渡り、そして日本へ帰ってきてくれるように、健全な自然環境であってほしいと思うこの頃である。(伊藤範子)
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月
写真提供:武藤光リ氏
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門を出て五十歩月に近づけり 細見綾子
無月なり畳にこぼす独り酒 栗田やすし
中秋の名月は旧暦の8月15日のため、毎年、いつも9月中旬ぐらいかなと思っていたが、今年は9月30日となった。さらに旧暦で3年に1回ぐらい閏月が入るので、もっとずれることがある。ちなみに2009年は10月3日が中秋の名月であった。今年は丁度台風17号の直撃を受けたので、名月は見ることが出来ないと思っていた。ところが東海地方では台風が去ったあと、午後10時頃から雲が切れ始め、台風で雲が追い払われ、まぶしいくらいの満月であった。
ところで掲出句の綾子先生の句は、平成6年、87歳の時、心不全で入院し、三ヶ月ぶりに退院した時の自分の庭で作られた句で、句集『牡丹』に収められている。
原田しずえさんは、「〈月に五十歩〉でなく〈五十歩月に〉と詠んだところは綾子俳句の情感のよろしさ」(「風」平成10年8月号)と述べている。
私は月に近づくという感覚で句を作ることが出来るとは思ったことはなかった。月は月としての存在があり、近づく対象物とは考えていなかった。しかし綾子先生は月という距離の比較出来ない対象物に対しても五十歩近づくという実感で詠まれたことの感覚に感動を覚える。そこには生きて帰ることが出来、月を見ることが出来たという感謝の気持から出た距離感覚ではないかと思っている。これはかつて詠んだ〈ポストへの径吾が径に山茶花散る 昭和43〉の句のように自分の庭から外出して、行き来している時代には、距離感を感じたとしても楽しさの対象であっただろう。しかし「五十歩月に」の句には、生きて帰ってきた感動が詰まっている。
栗田主宰の句、昭和58年作で、句集『遠方』に収められている。この時も丁度今年のように、無月だったのだろう。栗田主宰に晩酌のたしなみがあるとは知らなかったが、この句は、名月を見ることが出来ない今年は、せめて独りで酒でも飲もうかと、一寸わびしさがあるものの、安らかな気分で飲んでいる様子が見える。何か仕事が一段落したあとであろうか、こんな時は酒でも飲んで、リラックスしたい気持ちになりたいことは共感できる。〈畳にこぼす〉と細かいことを気にしない、中7の写生にその気分がよく伝わってくる。
ちなみに今年は私も、名月が見られないけど、気分だけは「月に一杯」という気分で晩酌をしていた。そして台風も過ぎたので、雨戸を開けたところまぶしいくらいの名月を見ることが出来たのである。(国枝隆生)
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平成24年9月 |
花野
写真提供:武藤光リ氏 |
花野見に花野の上の空を見に 細見綾子
師を恋ふや花野浄土の明るさに 栗田やすし
お二人の先生の句は数ある句の中で、私の最も好きな句である。
綾子先生は秋の千草が咲き乱れる花野が大好きで、訪れた花野は数え切れないという。
「自然の息吹に追従して私は句を作る。生命のあふれたようないのちさながらのような花の新鮮さ、それにひかれて句が生まれる。」と『綾子歳時記』に綾子先生の言葉が記され、花野の句は33句も載っている。
それにしても何という雄大な句であろうか。見渡す限りの花野の中に身を置きながら、その上の空を仰いで至福の時を味わっている。この一句の中から空の青と澄みきった空気や風までも感じとることが出来る。
栗田主宰の句も花野の美しさに感動しながらも、花野のお好きだった綾子先生を偲んでいらっしゃる様子が見えてくる。自註句集に「石灰岩に腰を下ろして花野の風に吹かれながら、いつもやさしくして下さったふだん着の綾子先生を想った。」とあるように、日頃の多忙さから一時でも解放され、花野の風を共有された喜びが句に込められているようで感動が伝わってくる。
花野は夏のお花畑のような華やかさはないが、空の青と清らかな空気と風によって咲く花も白や紫など落ち着いた雰囲気のものが多くなる。吾亦紅やヤマハハコ、ツリガネニンジン等も魅力的である。
伊吹山の花野も素晴らしいが、数年前に息子の家族と行った浅間山麓の花野は霧が少しずつほぐれて現れた花々の清々しさ、幽玄さはまさに幻想的で忘れることができない。またチングルマ句会で度々連れて行って貰った山々の花野もどれも素晴らしく、句には残せなかったが、私の心の中にはしっかりと焼きついている。特に苗場山の池塘に映った空とワタスゲの飛び交う中で見る花々の美しさは感動的でまさに花野浄土そのものであると、お二人の先生の句を思い出す度に花野へのあこがれがますます強くなっていく。(国枝洋子) |
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秋空
写真提供:武藤光リ氏 |
秋空の限り背にあるいのちかな 細見綾子
私が「風」に入会したのは昭和30年、21歳の時である。勤めていた銀行に「風」会員の人がいて、俳句をするなら「風」を勧められたからである。
当時、富山県高岡市に「風」句会があった。20代から30代の男性が10名ほどだったと思う。
夕方のしかも男性ばかりの句会へはなかなか足が向かなかったが、金沢から沢木先生、細見先生が指導に見えるときは出席していた。ある時、好きな句を書いて下さるとのことで、細見先生には次の句を書いていただいた。
秋空の限り背にあるいのちかな 綾子
昭和20年作。句集『冬薔薇』所収。前書きに、「10月25日沢木欣一氏帰還3句」とあるうちの一句。〈秋空の限り背にあるいのち〉と詠まずにはいられなかった欣一先生の戦地からの帰還、綾子先生の渾身の思いが込められている。平明な言葉で詠まれていてこのような力強さと深さが表現されていることに感嘆する。この作品を選んだ理由は、終戦前後に父、弟、妹を亡くし、その他の身内の死など、当時の私の心大きく占めていたものが「いのち」だったからである。
沢木先生には、先生が選んで書いて下さった次の句の短冊をいただいた。
枕木に一寒燈が照らせる場 欣一
その翌年31年には「風」発行所が金沢から東京へ移ったので、高岡句会で両先生にお会いしたのは三、四回くらいだったと思う。細見先生が紫色の羽織を着ておられたことをかすかに覚えている。沢木先生が高岡句会へご出席の日は、高岡の他の結社の人達も参加していた。
両先生が会員それぞれに短冊を書いて下さったのは、金沢から東京へ移られることになったからとあとで聞いた。
この二枚の短冊をもって私の俳句の旅が始まったことになる。今も宝ものとして大切にしている。若い時に始めたが、結婚後は転勤族であったので、句会がないところもあって何度か中断している。続けて句会へ出席できるようになったのは、名古屋へ来る前の千葉県市川句会からである。市川在住中の1年は、沢木先生指導の東京句会、細見先生指導の武蔵野句会へも出席していた。そして昭和62年に名古屋へ移住して現在に至っている。(中川幸子)
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平成24年8月 |
蝶たちとの出会い
写真提供:中野一灯氏
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尾根越ゆるアサギマダラに手を振れり (常念岳への尾根)
両翅の豹紋しるき深山蝶(八島湿原)
糸とんぼ水際に瑠璃の翅たたむ (白駒の池)
人それぞれに生涯があるように小さな蝶にもそれぞれに美しくけなげな一生がある。この夏の燕岳から常念岳への縦走、霧ヶ峰の八島湿原、北八ヶ岳の懐白駒の池と俳句と写真の山行を楽しみました。特に蝶の生涯に思いをいたし その美しくも逞しさに感動を覚えました。
一灯の出会ったアサギマダラは八島湿原のヤナギランの初花の咲く茎を抱く幼虫、湿原の花の蜜ででエネルギーを蓄え南へと飛び立つ。北アルプスの大天井岳から常念岳へ向う標高2500mの尾根を低く越えてゆくアサギマダラに出会い遥かなる南への旅の前途を思い激励の手を振ったことでした。奇しくもその尾根には遭難碑があり岩ひばりがしきりに鳴いていました。
岩ひばり高鳴く尾根の遭難碑
峰雲や享年若き遭難碑
伊良湖岬から神島に渡るアサギマダラを見送って芭蕉の〈鷹ひとつ見つけてうれしいらご岬〉が二重写しに深い感動を覚えたことがありましました。
その後また熊野古道尾鷲で神島から熊野灘を飛んできたであろうアサギマダラが翅を休めているところに出会いました。
夏蝶の翅で息する音すなり
と詠ったことが思い出されますそして初めて沖縄の土を踏んだ伊吹嶺の沖縄吟行で小さな湧水に群れているアサギマダラに「遥かにもここまで南の果てまで来たものよ」と大自然の営みの壮大さに深い感動を覚えました。さらに南へ飛ぶのか、ここ沖縄で生涯を終えるのか。
一方豹紋蝶は八島湿原に生まれ湿原の豊富な花の蜜に恵まれ狭いひとところで充足の生涯を全うする。瑠璃糸蜻蛉は北八ヶ岳の懐、苔深き原生林の中の白駒の池、その水辺の浮き草に生をうけ仲良くまぐはひ、子孫を残し生を終える。
これら小さな蝶は厳しい自然の中、当然のことながら戦争、原発などなど繰り返される人類の愚行をよそに俗世栄耀栄華に関わりなく、羨望も恨みなく誰に見せよとの自己顕示欲もなく美しくひたむきに生き、遥かなる渡りに、或いはひとところに棲み継いでの自足の一生。
星降るや切絵のやうな槍ケ岳
寝つかれぬぬ山小屋を出て星を仰ぎ指呼に槍ヶ岳の鋭峰を望みながらあのアサギマダラは今頃どこで翅を休めているだろうと悠久の自然に共に抱かれていることの有難さに浸りました。(中野一灯)
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向日葵
写真提供:宇佐美こころ氏 |
流燈会生涯父の声知らず 栗田やすし 49年
わが名ある父の遺書読む敗戦忌 栗田やすし 61年
暑い夏、終戦日が近づくと思い出す花に向日葵がある。
私にとって忘れられない向日葵は、二つの映画に出てくる向日葵のシーンである。一つは、小学生のときに学校の映画鑑賞で観た、新藤兼人監督の「原爆の子」。その冒頭のシーンでの向日葵。太陽に向かって輝いていた向日葵が、原爆の閃光一過ガクンと頭を垂れた。画面がモノクロであるだけに強烈で原爆の、戦争の、恐ろしさが幼い心に焼き付けられた。
もう一つは、イタリア映画の「ひまわり」。第二次大戦のロシア戦線で戦死したと諦めていた夫が生きていると聞き、探しに行くシーンでの向日葵。広大な向日葵畑の中に、現地の妻と子に囲まれ幸せそうな夫の姿を見つけたソフィア・ローレンの苦渋に満ちた表情が忘れられない。戦争の残酷さが身に沁みた。この二つの戦争に係る映画から向日葵と終戦日が結びついていったように思う。
向日葵や這ふ児の黒き膝頭 栗田やすし 44年
掲句は、膝頭が黒くなるほど元気に這い回る我が子への慈しみと喜びが、明るい向日葵に託して詠まれている。若い先生の幸せな様子が伺われ微笑ましい。戦死され、自分の子の成長を見守ることのできなかったお父様をお持ちの、先生の句であるだけに一層感慨深いものがある。
このやすし先生の句のように、向日葵が向日葵らしく詠まれる世の中がどんなに幸せなことか。来年は、久しぶりに向日葵を庭に咲かせてみようと思った。(野島秀子)
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平成24年7月 |
合歓の花
写真提供:八尋樹炎氏 |
虹飛んで来たるかといふ合歓の花 細見綾子 『技藝天』
「オ〜〜 合歓の花が咲いたね」夫の指さす渓に昨日まで見られなかった合歓の花が満開です。「まあ〜美しい」・・・モァ〜とした梅雨の湿度に似合う合歓の花です。雨を含んだ睫毛のような花弁が、雲の切れ間に一瞬、朝日を浴びて虹色に輝いています・・・
まさに、綾子先生の〈虹飛んで来るかといふ〉の感動を頂きました。
この、飛躍した感性は天性のものでしょう。中々言えるものではありません。
和語の美しさ、言葉をひねるのでなく素直に、単純に自然を認識する言葉が自然に出てくる状態に自分を置く事を痛感した一句です。
いぶきネット句会の幹事を担当して、約三年が過ぎました。
私は綾子先生の健在な頃を存知あげませんが、月に四度の挨拶をネットで発信する度に「風」の時代の歳時記を掲句させて頂いています。中でも
つばめつばめ泥が好きなる燕かな 細見綾子
等は、童謡の世界へ引き込まれた一句となって頭から離れません。
俳句からぬ、単純 無垢であり、純粋さに、幼い日々の郷愁が甦るのです。
栗田主宰が母と慕われた俳人・・・温かいお人柄が忍ばれます。一度もお会い出来なかった事が残念でなりません。(八尋樹炎)
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洞窟
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蜥蜴這ふ砲火に焦げし洞窟の口 栗田やすし 『海光』
平成20年6月21日、沖縄の南城市玉城字糸数にある糸数壕(アブチラガマ)で詠まれた句である。編集部の一員として私もご一緒させていただき、衝撃的な感動を受けた先生の一句である。
沖縄慰霊の日を明後日に控えたこの日も、強烈な日差が降りそそぎ大変な暑さだった。糸数ガマへ下りる狭い穴の口は、沖縄戦での米軍の放った艦砲射撃の跡も生々しく、そこを這う蜥蜴のテラテラと光る不気味さとで、戦争の悲惨さを先生は訴えられたのではないだろうか。
糸数ガマの中は真の闇で、昭和20年5月、このガマにいた負傷した兵隊は百数十人。見放され置き去りにされた重症患者ばかりであったという。寝たままで水も食糧も救助も無いなか次々に命を落としてゆき、戦争の終った8月、奇跡的に生き残って出られたのは9名であった。その中でも最後のお一人になったのが、北名古屋市に住む日比野勝廣さんである。その日、偶然にもガマを出たところに車椅子の日比野さんがいらっしゃっていたのだ。
骨いまだ残るてふ洞窟滴れり 栗田やすし
滴れる洞窟の凹みは隔離の場 〃
語り部となりし老爺に?時雨 〃 以上『海光』
日比野さんは戦後、犠牲者の冥福を祈りつつ沖縄に感謝の気持ちを込めて、慰霊の訪問を百十数回もされたと聞く。私達がそこで日比野さんにお会い出来たのも感動であった。父上を戦争で亡くされている先生の想いは、私達では推し測ることのできない深いものであっただろうと思う。
翌年、平成21年6月29日に日比野勝廣さん(85歳)逝去の記事が新聞に出ていた。
日比野さんの著書『今なお、屍とともに生きる』を読むと、改めて先生の一句一句の重みが、ひしひしと胸に迫って来るのである。(牧野一古)
(注)洞窟に入ろうとしているのは栗田主宰です。
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平成24年6月 |
青梅
写真提供:村上 知氏 |
青梅の最も青き時の旅 細見綾子 『伎藝天』
去る6月10日、第5回「風」の会の時、栗田主宰のご挨拶のなかで、この句についてお話しをなさったと聞いて、掲句についての思いを書いてみる。
12年前、平成12年7月29日に「伊吹嶺」第3回吟行会を伊吹山、関ヶ原古戦場で行った。この吟行会の準備を亡き福永京子さんと計画し、下見を岐阜の「風」同人である故戸倉良忠さんにお願いしてご一緒して頂いた時のこと。
東首塚で待ち合わせ、当日はあいにくの雨で伊吹山に登ることは断念した。
東首塚から家康が最後の首実検をした陣地内を廻り、関ヶ原の激戦地跡へ馬鈴薯畑の畦を傘を連ねて歩いた時。戸倉さんが突然梅の木をさすり、ながら「綾子先生の〈青梅の最も青き時の旅〉の句はここで生まれたんだよ。」とうれしそうに立ち止まり、話してくれた。雨に産毛を濡らした青梅はしっとりと美しかった。自分は田舎育ちとのこと、梅の実はいつも身近に存在し、木の梅は青いもんだとの思いだった。こんなにまじまじと見つめ、美しいと思ったことは初めてであった。この梅の木の先の沼にはモリアオガエルの卵が真っ白い泡を盛り上げていたのも印象深い思い出である。
この時、戸倉さんとの出会いがなかったら青梅の美しさには生涯気づかず、句の美しさも解らずじまいだったと思う。師たちが作品を作ったその時期にその場所に出会うことの大切さを思った。
つい最近のこと。句会の吟行で「金華山」に登った。やすし主宰の〈城山の崖一つ葉の暑さかな〉の句の解釈がどうしても出来なかった。城山に立ち、崖に密集している一つ葉を見て〈暑さかな〉の意味をようやく納得できた。この時も戸倉さんの話を思い出して感謝した。(都合ナルミ)
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今年竹
写真提供:宇佐美こころ氏
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幾本の神父の墓の今年竹 沢木欣一 『遍歴』
1年中で一番、竹の美しい季節となった。竹が皮を脱ぐひそやかな音にも新しい息吹が感じられる。この時期ふっと思い出す句がある。それは掲出の「今年竹」の句である。
昭和五十三年 前日瀬戸の登り窯を御覧になった沢木先生は、この日快晴の多治見修道院に足を運ばれた。掲句はこの折詠まれたものである。
修道院の葡萄畑を抜け一番奥まった処に墓地がある。墓地と言ってもせいぜい400平方米程である。当時は土葬であったのか新しい墓は寝墓の土がこんもりとしていた。隣はと見ると、その形のまま凹んでいて胸が痛んだ記憶がある。
墓地の裏手は深い竹藪であった。先生は、故国を離れてこの地に眠る神父に思いを馳せられたのであろう。「幾本の」今年竹のさヽやかな蔭と風を、天然の手向けと認識されたのではなかろうか。今は墓地も整備され一画づゝコンパクトに仕切られ、墓ごとに季節の草花が植えられている。竹藪も小さくなり親竹をしのぐ程に伸びた今年竹の風が吹き通るばかりである。
竹落葉時のひとひらづゝ散れり 細見綾子 『伎藝天』
犬山有楽苑の入口近くに建てられた綾子先生の句碑、六年を経たいま周囲の景色とけこんで更に趣を深くしている。とりわけ竹落葉の頃になると一層句碑に息の通っているようである。思わず「時のひとひらづつ」と呟いてみる。掲句は昭和四十五年、不破の関で詠まれたもので、とどまることのない時間というものに、散りゆく竹の葉をかさねていらしたのであろう。
句碑に散る竹の落葉にご逝去から十五年の先生を偲んだ。(梅田葵)
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平成24年5月 |
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薔薇
写真提供:宇佐美こころ氏 |
黄の薔薇を活け病室を明るくす 栗田やすし
昭和61年、奥様のお母様が入院された際の句です。この句を読むと、ちょうどこの季節に亡くなった母のことを思い出します。
私が伊吹嶺のホームページに出会って俳句を始めたのは、ちょうど母が入院した頃でした。2月上旬に病気が見つかって入院し、5月に亡くなるまでの三ヶ月間、週末は必ず帰省して、母を見舞いました。その往復の電車の中では、伊吹嶺に投句する句を作っていました。
母は花が好きで、庭でいろいろな花を育てていたので、時折その花を切って病室に持って行きました。入院したばかりの頃は福島はまだ寒く、やっと匂い始めた沈丁花を切って持って行ったところ、「春の匂いだね」と喜んでいました。
その後、水仙、チューリップ、菜の花、花周防など、その折々に庭に咲く花を持って行って病室に飾ると、体調の優れない時も、幾分か気が休まるようでした。ほとんど病室から出られない日々でしたので、窓辺に飾った花を見て、「ああ、もうこの花が咲くようになったんだねぇ」と、春が闌けて行くのを感じていました。
母が亡くなった時には、病院の近くの大きな藤棚に、みごとな藤の花が垂れていました。今でも藤の花を見ると、母を見舞いに通った病院のことを思い出します。
母が育てていた鉢植えの君子蘭は、現在は父が世話をしており、十年以上たった今も、ちょうどこの時期にみごとな花を咲かせています。(渡辺慢房)
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白牡丹
写真提供:矢野孝子さん |
白牡丹讃へ讃へて母との刻 細見綾子
庭の牡丹と向かい合うようになったのは、何時頃からであろうか。勿論、細見綾子先生の牡丹の句に出会ってからである。 先生の健在な頃は、「風」誌に毎年のように先生の牡丹の句が載り、次第に牡丹に憧れを持つようになった。
「俳人なら牡丹を詠まないと」と決心して、1株の蕾の付いた苗を購入したのが「牡丹の俳句」との始まりである。それからは、冬になれば固く尖った芽に触れて息吹を確かめ、赤い芽がほぐれ始めると蕾を数え、洗濯物を干しに出るたびに蕾の膨らみに触れてみた。はち切れそうな蕾が、ある日ふっと柔らかくなると、それからしばらくは落ち着かない。先生が花の咲く期間を<牡丹に領せられたる七日かな>と詠まれているように、1週間ほどは、風の音や雨の音にも敏感になって来る。
先ず、『綾子俳句歳時記』で、季語の「牡丹」を開いてみた。 昭和13年から平成5年までで例句が107句あり、他の季語と比べても例句数が突出して多く、「牡丹」は別格と言える。 この例句を読んでいるだけでも、1冊の句集と思えて来るのは、その年その年の先生の様子が多くの例句から窺い知ることが出来るからである。
掲出句は、昭和46年出版の句集『技藝天』に掲載されている。発行所の庭の数株の牡丹の中には、生家の丹波から50年を経た古株が移植されていると聞く。その中でも白牡丹は格別であろう。
『綾子俳句歳時記』には、母上や故郷を詠まれた句が少なくない。<父母と在りし日の牡丹目の前に>の句があるように、牡丹の咲く頃になると先生は庭の牡丹を前にして、ご両親を思い出し、牡丹に語りかけておられるのだ。それは亡き母上がされたと同じように牡丹を讃える言葉であったに違いない。そして、生家で母上と並んで牡丹を見ていた光景が、今のこの瞬間に母上と過ごしているように思えて来たのである。
後の平成4年の作に<何故の牡丹なるかと人問へり>があるが、先生は何と答えられたのでしょうか。(矢野孝子)
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平成24年4月 |
能郷の猿楽
猿楽 |
残雪の能郷白山 |
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雪解風吹きぬく組立て能舞台 沢木欣一
笛の音の一気に春を呼びにけり 〃
深谿を背に花冷の能舞台 栗田やすし
沢木欣一先生の句は、昭和59年作で、句集『眼前』に掲載。毎年4月13日に根尾能郷地区にて能狂言が上演される。小さな集落で代々世襲制で引き継がれ、能の素朴な所作などから「猿楽」と言われている。以前見に行った時は、素朴すぎるくらい拙い笛などが聞かれたが、今は地元住民で作る保存会が伝統を受け継いでいる。
沢木先生はこの能郷を訪れた時、一気に11句を作られた。1句目、当時は立派な能舞台があるわけではなく、日頃は倉庫に収められて、上演の時にレールの上を回して能舞台を作る。それを「組立て能舞台」と詠まれている。この時期になるとようやく能郷白山の雪が溶け出して、斑ら嶺になる。少し冷たい雪解風であるが、春がようやく訪れたという印象である。2句目は有名な句で、「伊吹嶺」4月号で清水弓月さんも鑑賞なさっている。演じられる能の〈笛の音の一気に〉のリズム感が本当に春が来たという実感が湧く。
栗田主宰の句は、昭和53年作で、句集『伊吹嶺』に掲載。同時作に〈花冷の床踏み鳴らし獅子の舞〉もある。栗田主宰はいずれも花冷えを詠んでいる。見ている能は花冷えの印象であるが、確実に春が来ていることを感じていらっしゃる。
丁度この頃は根尾の薄墨桜が咲く頃で、季節によってまだ蕾の頃から、満開に近い時もある。昨年私が訪れた時は、五分咲きぐらいであった。猿楽は毎年、曜日に関係なく4月13日に上演されるので、見に行く時は覚えやすい。
この猿楽の時期になると、私はいつも元「風」同人の長村雄作さんを思い出す。長村さんは毎年のように、「風」連衆を猿楽に案内されていた。今の「伊吹嶺」の方にも長村さんに案内された方も多いのではないか。私は愛知「風」支部の新年大会などにいつもお会いしていたことが懐かしい。長村さんというと、大変酒好きであったが、次のような句と猿楽の句を紹介したい。(国枝隆生)
岩魚酒回して呑めり生身魂 長村雄作
治聾酒に酔うて幾度も聞き返す 〃
下萌えに尻据ゑて観る古猿楽 〃
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木瓜の花
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木瓜咲くや怠け教師として終る 栗田やすし
「木瓜の花」はいろいろな種類があり、その色合いから妖艶な趣を感じる花で私の好きな花の一つです。
また「ぼけ」という語感から「呆け」と言う言葉を連想するのは私だけでは無いように思います。
木瓜の花を詠んだ句は漱石の「木瓜咲くや漱石拙をまもるべく」や「其愚には及ぶべからず木瓜の花」があります。漱石が小説「草枕」に書いた「拙を守る」と言う信条とともに語られるのが「木瓜の花」です。漱石は「余も木瓜になりたい」と主人公に言わせています。ちなみに「拙」を広辞苑で引いてみると「つたないこと。自分の事をへりくだっていう語」などとあります。
やすし先生は2010年6月号の伊吹嶺誌「伊吹山房雑記」に漱石のこれらの句についてと揚句の出来た経緯をともに述べておられます。
「およそ40年近くの教師生活を終えたとき、ふと口を突いて出た句」といっておられますが「木瓜咲くや」にはただの写生ではない深い心情を窺がうことが出来ます。
私事で恐縮ですが、水道も無く釣瓶井戸を使うのが無理だった子供の頃、山の湧水が溜めてある池の水で朝の顔を洗っていました。
その池畔には木瓜の低木が一本植えてあり、水温む頃には深紅の木瓜の花が水面に映り、その美しい光景は今でも映像として鮮明に脳裏に甦らすことが出来ます。
またこの花は桜や躑躅などと同じく秋に時ならぬ花を咲かせることがあります。
去年の秋に伊賀の芭蕉生家を訪れた折のこと、釣月軒の庭先に薄紅色に帰り咲く木瓜の花が美しかったことをこの文章を書きながら思い出しました。
ちなみに木瓜の花の花言葉は「先駆者」「指導者」「妖精の輝き」「平凡」となどと言うそうです。(坪野洋子)
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平成24年3月 |
蕗の薹
写真提供:宇佐美こころ氏 |
蕗の薹見つけし今日はこれでよし 細見綾子
特に今年は寒さが繰り返しやって来て、まさに<冴返る>と言える。多くの俳人は神経を研ぎ澄まして季節を実感している時であろう。今年は何時までも早春のように思える。
早春を感じる物の一つを挙げるとしたら、<蕗の薹>を挙げたい。一般的には、萌木色の卵の形と形容され 美しいイメージではあるが、寒さに痛めつけられた芽は、赤みを帯びた厚い苞を付けていたり、歪な姿の事も多い。以前、うっすらと雪の中に透けて見える蕗の薹を見つけたことがあるが、緑や紅が滲んで美しく、摘んでしまうのが勿体ないくらいであった。
北海道の旅で出会った群生の蕗の薹も忘れられない光景である。黒土の大地に、さみどりの蕗の薹がどこまでも続き、まるで点描画のようであったが、遠目にも蕗の薹と分かったのは、他の草木に先がけて萌え出ていたからであろう。
蕗の花が<ばっけ>と呼ばれているのを知ったのは、津軽半島の最先端の村であった。なぜそう呼ぶのかは土地の人も知らないようであったが、<化ける>を語源としているのではないだろうかと思う。 強風で草木の育たない断崖に、丈を伸ばして倒されそうに吹かれて咲いている花は、蕗の薹が化けたとは思えないだろうか。
蕗の薹を雑煮に散らしたり焼いたりされた細見先生を思い出し、「細見綾子歳時記」を開いてみた。先生は植物を特に好んで詠んでおられ、植物の項には例句が沢山載っている。言うまでもなく<蕗の薹>の例句も多く並んでいる。勿論<牡丹>の例句は百句以上と別格であるが、他に多いのは<梅><桜><萩><曼珠沙華>そして<蕗の薹>である。
掲出句は昭和53年の作で、句集「存問」に掲載されている。前のページに「反古焼きに出て見つけたる蕗のたう>があるので、この句もご自宅の庭の景色であろう。その日は何か満ち足りない思いで過ごされたのであろうか。ふと反古を焚くことを思いついて出て行った庭で、蕗の薹を見つける事が出来たのだ。この出会いを機に思い切りよく、気持ちを切り替えようとされた。先生にとって「蕗の薹」は、<これでよし>と思えるほどに存在感のあるものであった。早春の引き締まった空気の中で、背筋を正された先生の姿や、潔い心の動きを感じ取ることが出来る。(矢野孝子)
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牡丹の芽
写真提供:宇佐美こころ氏 |
牡丹の芽戦乱の世に桜色 沢木欣一
遅々として暮らしてゐるに牡丹の芽 細見綾子
武蔵野の土やはらかし牡丹の芽 栗田やすし
沢木欣一先生の句は、平成3年作『交響』に掲載。この平成3年は湾岸戦争が始まった年で、毎日TVでイラク攻撃のニュースがリアルに放送されていた。言わば劇場型戦争である。沢木先生は牡丹の芽を見ていると、今の〈戦乱の世〉に思いはつながってきたのであろう。砲火の色を桜色とも感じられたのであろうか。しかし戦乱の世の中であっても牡丹の芽は毎年桜色の芽吹きを見せてくれるところによりどころを求めているとも考えられる。
沢木先生のこういう素材を読むと、かっての社会性俳句が思い出されるが、この句はその範疇でなくて、言わば戦乱の世の中をシニカルな視線で詠まれたのではないと思っている。同句集に〈ひきがえるバベルバブルと鳴き合へり〉の句があることから、ことさらそういう印象を持った。
細見綾子先生はこよなく牡丹を愛され、おびただしい牡丹の俳句を作っていた。しかし牡丹の芽の句はわずか数句ぐらいしか詠まれなかった。掲出句は昭和53年の作で、『存問』に掲載。この頃の細見先生は70才を過ぎた頃で、この前の句集『曼荼羅』で蛇笏賞を受賞されたばかりで、心身とも充実されていた頃であろう。
そして盛んに日常的に風木舎の牡丹を詠まれていた頃である。この句には、毎日、自分はゆったりとして生活しているが、今年も牡丹が芽を出したという自然の営みに感謝しているように感じた。
後年の昭和63年の〈老ゆことを牡丹のゆるしくくるなり〉の境地に通じているものがあるようにも思う。
栗田やすし主宰の句は、平成22年に句集『海光』で俳人協会賞を受賞された。その受賞祝賀会が2月23日に行われた。その翌日に伊吹嶺関東支部の連衆と神代植物園を吟行したときの句である。この日は春らしい暖かい日和で、公園には梅が満開で、福寿草などが咲き競っていた。そして栗田主宰は公園の中で牡丹の芽に気づいた。公園の土はよく鋤き込まれ、春の日差しにふっくらとしていたことを私も覚えている。非常にシンプルな詠みぶりであるが、受賞祝賀会が終わってほっとされたことから心が弾んでいるような句である。(国枝隆生)
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