3月14日(金)午前8時20分、ANA-303便にて沖縄へ。那覇空港に着くと、出口で歓迎の幕を持った沖縄支部の人たちの歓待を受けた。そこにアロハシャツを着た河村仁誠さんが笑みを浮かべて立っていた。聞くと、沖縄にはご子息がいて前日から沖縄に来ていたとのこと。
沖縄支部の人たちと一緒に貸切バスに乗ると、心配していた雨が降り始めた。バスの中では、河原地英武主宰と栗田やすし顧問からご挨拶を頂いた。河原地主宰からはバスの中で行う句会についての説明。栗田先生は、「やすし晴れとはいきませんでしたが、念力がどこまで通じるか」と話された。
市内の街路樹は棕櫚や椰子などで南国風。そして、町の所々に7㎝ほどの大きさの黄色い花をいっぱい付けた高さ5mぐらいの樹木を見かけた。それが鉛色の空に負けぬ鮮やかな黄色。聞くとイッペーの花といって、桜が終わった沖縄では今が盛りなのだそうだ。そうイッペー句会のイッペーである。
ロワジールホテルで昼食を取り、「対馬丸記念館」に向かった。バスを降りると雨は止んでいた。道々沖縄の植物の説明を受けながら「対馬丸記念館」に入った。語り部から対馬丸の詳しい話を伺った。沖縄の子供たちが疎開するために貨物船対馬丸に乗ったが、アメリカ軍の魚雷によって沈められてしまった悲劇。語り部の方はそのご遺族だった。展示室の壁一面に亡くなった子供たちの顔写真。そして、紙のランドセル、ノート、筆箱、通信簿、衣服などの遺品が展示してあった。
記念館の周りにある「海鳴りの像」と「小桜の塔」を見て回った。「海鳴りの像」は、アメリカ軍の攻撃で沈んだ25隻の船に乗っていて、命を落とした人たちの慰霊碑。「小桜の塔」は、対馬丸事件で亡くなった子供たちの慰霊碑である。
首里城に着き、傘を持ってバスを降りる。時折雨がばらつく。門の前で記念写真を撮り、そして階段を上り首里城の中へ。首里城は14世紀ごろの創建で、令和元年に火災にあった。現在正殿は復元中で、作業は正殿を覆う建物の中で行われ順調に進んでいた。首里城は高いところにあり町が一望だった。沖縄の特有の赤い屋根の建物があちらこちらに見られた。瓦の赤と漆喰の白のコントラストが美しかった。
今日、明日と宿泊するノボテル(ホテル)に着いた。風呂に入り、レストラン登輝で夕食。加藤ゆうやさんと藤田岳人さんと同じテーブルで酌み交わした。泡盛を飲んだが強い強い。43度もあって眼鏡が曇った。顔が火照るのだ。向こう側のテーブルでは女性陣がビールを注ぎ合っていた。
午後8時、河原地主宰にシールに書いた俳句を2句提出した。
2日目の15日(土)、雨は上がっている。朝食を済ませ、多くの沖縄支部の人たちと一緒に8時15分にバスに乗った。係から投句一覧を受け取り、午前中に選句した。
一路、沢木欣一先生の「みやらび句碑」がある辺戸岬に向かう。着くまでに2時間半かかり、島薊や浜独の花を見ながら句碑に向かった。支部の人たちが、花と泡盛とお茶、サーターアンダギーを句碑に供えてくださった。そして、その句碑をみんなで囲んだが、いつまでたっても離れようとしなかった。記念写真を撮りやっと散開。辺戸岬は沖縄の最北端、そこにある「みやらび句碑」。沖縄の本土への思いという沢木先生のメッセージが伝わる。
昼食は、アスムイハイクスというレストランでヒージャ汁定食(山羊汁)を食べた。こくがあっておいしかった。そして、併設している「沖縄石の文化博物館」を見学した。
食後「チビチリガマ」に向かう。バスの中で選句用紙が集められ句会が始まった。沖縄支部の人たちは、投句はしないが選句には参加した。披講者は大島知津さん。マイク片手に張りのある声でとても上手だった。我々は3句選、主宰、顧問ともに5句選、それぞれに名乗りがあった。そして、両先生からの選評で句会は終わった。
「チビチリガマ」に着きバスを降りる。「チビチリガマ」は読谷村(よみたんそん)という海に隣接した農村にある。ガマというのは鍾乳洞のことで、米軍が沖縄島西海岸に上陸すると住民はガマなどに身を隠した。米軍は危害を加えないから出てくるように説得したが、鬼畜米英と教えられていたため、残虐な仕打ちを恐れて肉親相互が殺しあうなどの凄惨な集団自決が行なわれた。助かった人たちは米軍に撃たれて死のうとガマを飛び出した人たちだった。
ガマへの階段を降りた。「チビチリガマ」は浅い谷の底にあり、木々が覆いかぶさり薄暗かった。そして、谷を流れる細い川はガマへ流れていた。みんなガマの入口や平和の像に向かって手を合わせ祈っていた。そして、言葉少なくバスに戻った。
次の吟行地「座喜味城跡(ざきみじょうあと)」は、琉球国に仕えた武将読谷山按司護佐丸が15世紀初頭に築城したもの。標高120m余の丘陵地に立地しており、最も高いところからは読谷村のほぼ全域を眺望することができる。2つの郭で構成される城壁は、石灰岩の布積で、ダムの曲線を思わせる重厚で美しい曲線。入り口はアーチ状の石門である。句帳を手にバスに戻った。
夕食は、料亭四つ竹で琉球料理と琉球舞踊を満喫した。席は、沖縄の人たちと隣り合うように交互に座った。主宰と顧問の挨拶の後に宴会。沖縄のお酒や料理、踊り、俳句の話で盛り上がった。昨夜、泡盛を飲んで眼鏡が曇ったと話すと、「泡盛は割って飲むもので普通ストレートでは飲まないです」と言われた。出される沖縄の料理も説明してくれた。ラフテー(豚肉の角煮)、クーブイリチー(昆布の炒め物)、もずく、ジーマミ豆腐(落花生の豆腐)、豆腐よう(豆腐を泡盛に浸けて発酵させたもの)、ミミガー(豚の耳の和え物)などなど。どれもおいしかったが、豆腐ようは初めての味で、いわば豆腐のチーズ。箸でこそげながら食べると泡盛によく合うと教えてくれた。なるほどと納得の味。今日の吟行で詠んだ句や私の所属しているネット句会のことなども聞かれた。最後は音楽に合わせてみんなで踊った。
ホテルに戻り2句投句。そして、午後8時に河原地主宰から投句一覧を受取り、部屋で選句を行った。
3日目の16日(日)、あいにくの雨。8時15分にバスに乗り、選句用紙を提出して「斎場御嶽(せーふぁうたき)」に向かう。御嶽というのは聖地の総称で、「斎場御嶽」は琉球開闢神話にも出てくる琉球王国最高の聖地。この地で琉球王国は、国家繫栄・安寧、五穀豊穣、航海安全などを神に祈った。
「斎場御嶽」の石畳は歩きにくかった。傘を差しているし、ごつごつとした石灰岩で濡れている。2、3か所、巨大な岩がむき出しになっている崖があって、その崖が傘のように被さっていた。そこが庫理(ぐーい)と呼ばれる祭壇。シダ類がよく茂り、沖縄の樹木が御嶽を覆い、所々に庫理の巨岩の崖。聖地にふさわしい景観だった。
「ひめゆりの塔」に着き、傘を持ってバスを降りた。「ひめゆりの塔」の前で、みんな手を合わせて長いこと祈った。中には献花をした人もいた。その積み置かれた献花に音もなく雨は降っていた。
「ひめゆり」というのは、併設されていた沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の愛称である。約1150人が学んでいたそうである。沖縄戦が始まると、両校から240人が陸軍病院に動員された。病院といっても掘られ壕の中に粗末な二段ベッドを設置しただけのもの。敗戦色が濃くなると解散命令が言いわたされ、女生徒たちは壕を出た。出たというよりも放り出されたようなもの。行く当てもなくさまようことになった。その結果136人の若い命を失うことになった。
「ひめゆり平和祈念資料館」に入った。学校生活、戦争への動員、証言映像、女生徒たちの名前と顔写真などの膨大な資料。みんな真剣に資料に目を通していて前へ進まない。資料の中で特に印象に残ったのは、学校生活を紹介する写真。写真の中の女生徒はみんな笑顔なのだ。それだけに悲しい。
資料館の隣のレストショップ琉球の館で昼食。ソーキそばを初めて食べた。ソーキというのは豚のスペアリブのことで柔らかくおいしかった。麺は太めのラーメンを想像していたが、味が全然違った。うどんとも違う。
最期の吟行地「平和祈念公園」に向かった。間違えてはいけない。「記念公園」ではなく「祈念公園」である。「平和祈念公園」の刻銘碑は、沖縄戦で亡くなった方を県別にまとめて、そのお名前を石碑に記したもの。約25万人のお名前が記されている。私たちは愛知県の所に行った。そして、私は自分と同じ苗字を見付け、ひょっとして親戚なのだろうかと思ったりもした。資料館に戻り、悲惨な沖縄戦を、目で見、耳で聞き、文で読んだ。言葉もない。ただ黙すのみ。みんな声が出ない。
「平和祈念公園」を出たところで、沖縄支部の人たちとお別れ。吟行地を丁寧に案内していただいた。沖縄のことをいろいろ教えていただいた。そして、夕食を一緒に過ごし、一緒に踊り、お土産まで頂いた。そのおもてなしに感謝、感謝である。次々にお礼の言葉と握手を交わし、私たちはなかなかバスに乗ろうとしなかった。出発時間が迫ってきて、別れを惜しみつつやっとバスに乗った。
バスの中で句会が始まった。披講は、昨日と同じように大島さんのお世話になった。句会は昨日と同じ、我々は3句選、主宰、顧問ともに5句選、両先生からの選評で句会は終わった。
帰りの飛行機の中で、沖縄支部の人たちのご厚意にどう応えようか考えていた。「伊吹嶺創刊25周年記念に発刊した『沢木欣一先生の足跡を訪ねて』を贈ってはどうだろうか」などと考えていたら、栗山紘和同人会長から声が掛かった。「酔雪さん、沖縄の人たちに『沢木欣一先生の足跡を訪ねて』を贈ろうと思うがどう?」同じことを考えているものだと二つ返事だった。河原地主宰の同意があり贈ることになった。それを聞いてゆっくりと深呼吸をした。(新井酔雪)