トップページへ戻る
TOPページへ戻る

いぶきネットの四季


 いつも伊吹嶺HPを閲覧して頂きありがとうございます。 平成24年3月から新しい企画として「いぶきネットの四季」というタイトルで、楽しい写真歳時記 コーナーをスタートさせました。テーマは私たち「伊吹嶺」の師である沢木欣一と細見綾子、そして私どもの主宰である栗田やすし主宰の3名の俳句をテーマに随筆風に俳句にちなむ写真を添えて、その俳句の鑑賞、思い出、あるいは季語にまつわる体験談など自由な発想で書いて頂いています。
執筆者は「伊吹嶺」インターネット部同人、会員、そしてそのネット仲間などが随時交代 して書きます。皆さんの一人でも多くの閲覧をお願い致します。
なお四季の写真を広く皆さんから募集したいと思います。写真は次のポストマークをクリックして 下さい。また写真のこのHPへの掲載の採否は伊吹嶺HP作成スタッフにお任せ下さい。

 
おかげさまで平成24年からのいぶきネット四季は好評です。平成28年からはこちらでご覧下さい。平成27年以前は下記の案内をクリックして下さい。

                       インターネット部長  国枝 隆生


   このポストマークをクリックして写真を応募して下さい。

<<平成24年の「いぶきネットの四季」はこちらから
<<平成25年の「いぶきネットの四季」はこちらから
<<平成26年の「いぶきネットの四季」はこちらから
<<平成27年の「いぶきネットの四季」はこちらから
<<平成29年の「いぶきネットの四季」はこちらから(最新版)


平成28年12月
早春に咲く木瓜   鈴木 英子





栗田主宰邸の木瓜       
写真 武藤 光リ


    木瓜咲くや怠け教師として終はる   やすし

 栗田主宰の自註句集に「中・高・高専・短大・四大と何度も職場を変えての四十余年の教員生活に終止符を 打った。」とある。安堵され、ふと口にされた句だそうである。
 私が思うに、怠け教師どころか、主宰の教員生活は実に真摯で誠実そのものであり、その人生で少しの手抜 きもなく、どんな職場であっても、全力を尽くされた。特にその輝きを極めたのは、「伊吹嶺」の主宰であり、 研究者であり、教授を勤められ、かつその成果を十二分に残された大学教授の時期であると拝察する
 一方、主宰のお人柄は真面目で厳格、近寄りがたいイメージがあるが、実は漂々としていて飄逸、ユーモア の溢れた方である。ここに、主宰が多くの仲間や同人、会員、教え子さん達に慕われる所以がある。長年の俳 句人生から生み出されたものであろうか。
 掲句も人生の一つの区切りをつけた安堵の中にどこかユーモアの滲む句となっている。
 私は主宰が高校教師のころ二年ほど職場をご一緒させていただいたことがある。その頃の主宰はとてもきりっ としておられ、ハンサムでスポーツマンでいらっしゃり、素敵な青年であった。ただ、男子校であったので、 女子高生に追いかけられるということはなかったので、少し残念であった。その頃から主宰は優しさ気配りを兼 ね供えたかたである。

    空つぽの書棚に春日退職す      やすし

 この句も同じ時期に詠まれた句。退職の安堵とともに、一抹の寂しさが〈春日〉と〈空つぽ〉という語に表れ ている。研究者にとって、本は命であり必需品であろう。後継者に渡すべく書架を空けるのである。私が推測する に、それらの本はご自宅に収納されていることだろう。
 さて、木瓜の花は音読みの響きとは裏腹に、初春に梅の次に、可憐な花を咲かせる。深紅や白、ピンクの色があ り、まだ木の芽が出ていない庭を明るくしてくれる。何か心をほっと和ませてくれる花でもある。
 今後も主宰の俳句人生、研究者としての生き様は我々「伊吹嶺」の同人、会員の目標である
 
(了)


文中写真は栗田主宰邸の春の庭 撮影 武藤光リ
 


平成28年11月
爽やか   小蜥テ民子





犬山の綾子句碑       
写真 小蜥テ民子
 相次ぐ台風の被害の報道にやりきれない思いで始まった九月だが、六日の綾子忌を過ぎると残暑も幾分やわらぐ。 
 私の住む瀬戸市では毎年九月の第二土・日曜日にはせともの祭が開催される。今年は十日・十一日であったが、両日とも 晴れて祭の会場周辺は大いに賑わったようだ。
 風歳時記によれば季語「爽やか」は(秋気澄明で快適な季節なのでさやけし、さやかとも言う。万物晴れやかにして、心 身爽快さを感ずる)とある。空気が澄んでいるので遠くまでよく見え物音もきれいに響き肌もさらりとして心も体も気持良 いということであろうか。
 こんな快適な季節は誰もが好きなせいか「爽やか」の俳句は多いように見受ける。人はどんな時に爽やかと感じるのか俳 句を通して知ることも楽しい。主宰の「爽やか」の句の幾つかを伊吹嶺誌に見てみた。


    爽やかやほどよき距離の夫婦島  (H27・7)

主宰が昨年十月に山口県阿武町で開催されたねんりんピックに出席の折の一句。夫婦島は日本海に仲良く並び浮かぶ男鹿島 と女鹿島のことで阿武町のシンボル的存在といわれる。主宰は秋晴れの海に浮かぶ二つの島の距離を〈ほどよき距離〉と認識 されたことにより、一層強く爽やかさを感じられたのではないだろうか。快適と感じる人との距離は個人にもよるし、お互い の立場や関係によっても違ってくる。また国によっても違うと聞く。〈ほどよき距離〉と主宰が感じられた二つの島の距離は 如何ほどだろう。実際に見てみたい気もする。


    さやけしや母と慕ひし人の句碑  (H19・11)

    さやけしや十六階に人集ひ    (H19・12)

    さやけしや苔を褥に綾子句碑   (H22・1)  一句目・三句目には綾子先生への主宰の深い思いがこもり、二句目には『伊吹嶺』創刊十周年を多くの人々とお祝いする大 きな喜びが込められている。
 これらの句から主宰は「爽やか」を人との交流のなかに感じられておられるように思う。俳縁を含む多くの人との交流を大 切にする主宰の姿が見えてくる。

 
(了)



 


平成28年10月
燕の子   谷口千賀子





燕の子       


    天窓の朝焼けを知る燕の子   綾子

 近所の公民館の出庇の陰にある古い燕の巣に、今年もまた燕がやって来て巣を丁寧に補修し、巣ごもりを 始めた。そこは 集団登校の集合場所になっているので、毎朝、子ども達は雛を見て楽しんでいた。孵化間も ない雛はうっすらと白い筋を刷 いたあたりが目のようで、あとは顔のほとんどが口である。日がな雛たちは 親を待ち、競って餌をもらう。次第に雛の間に 力関係が出来、大きい雛が小さいのを押しのけ、伸び上がっ て餌を取るのを子どもたちはくやしがり、「あの子にやって」 と親燕に口々に叫んだりして面白い。
 燕の子は日ごとに羽も黒々と揃い、体もふくらんで体形が整ってくるが、この間の親燕たちの健気さは 見ていて身につま される。種実ほとんど休まずに狩りと巣を往復し餌を運んでいるが、自分の食事もちゃん としているのだろうかと思わされ る。雛たちはひたすら貪欲に口をあけて餌を貰うばかり。しかし雛たちも 成長の競争なのだ。
 やがて秋には立派な若燕となって遠く旅立たなくてはならないのだから。
 雛の成長につれて巣が手狭になり、小さい雛は大きいのに押しひしがれて見えないほどだ。四羽だと思っ ていたのに、間 から顔が見えて「六羽いるよ」と子どもたちに報告された。当然餌の量も増え、大型のもの もある。かなぶんをパクリと飲 む子燕に子どもたちの喚声が上がった。とっさに浮かんだのは、

    蜻蛉を翅ごと呑めり燕の子   欣一

 という沢木先生の一句。初めての餌かもしれない蜻蛉をためらうことなく翅まで呑みこんでしまった子燕の 一瞬に驚き、 その生命力のたくましさへの感動がそのまま率直な一句になっている。本当に句のお手本だと思 った。
 大きくなった子燕たちは巣で押し合い、今にも巣からこぼれそうだが、その重みに巣のあちこちも崩れかけ ている。数日 後に行くと、半ば壊れた巣は空になっていて、辺りには白い胸を反らした燕たちの鳴き声が響い ていた。
(了)



 


平成28年9月
天の川   国枝 髏カ





天の川       
写真提供 所 卓男氏




 沢木欣一先生が師である加藤楸邨と金沢から佐渡へ一週間ばかり旅行したのは、昭和十七年八月のことで あった。この旅行の目的は楸邨が芭蕉の奥の細道の足跡を辿ることにあった。この紀行については先生が書 かれた『昭和俳句の青春』に詳しく述べられている。

    天の川柱のごとく見て眠る    欣一

 掲句は「出雲崎」の前書きがあり、芭蕉の〈荒海や佐渡によこたふ天の河〉のように天の川を見るために 出雲崎に宿泊したものである。ここで先生は、
  天の川は陸から佐渡の方に向かって懸かっていた。佐渡の上に横たわっている のではないことを知ってちょっとがっかりしたが、陸から佐渡方向へ横たうと解釈しておかしいことはない。 陸から佐渡方向へのかささぎの橋と解釈した方が天の川にふさわしい。 と述べられている。私は掲句の〈柱のごとく〉と詠まれたのは一つのイメージとして把握して詠まれたので あろうと思っていたが、実景であったのだ。
 本ページに掲載した天の川の写真は星愛好家である所卓男さんが丸山千枚田で撮影されたもので、確かに 立ち上がっているように映っているし、所さんによれば、越後から日本海方面に見ても佐渡には立ち上がった ようにしか見えないとのことである。
 改めて〈柱のごとく〉には写生の強さに基づく比喩表現であることが分かる。
 なおこの旅行では先生は当時出版されたばかりの中野重治の『斎藤茂吉ノオト』を持ち歩いており、この書 に啓蒙されたことを同行の楸邨に熱っぽく語っていたという。その先生の熱意に楸邨は「沢木欣一に」の前書 きで、
    青蚊帳に茂吉論などもう寝ねよ   楸邨

  と詠んでおり、いかにも先生の文学への傾倒が強いか読み取れる。茂吉の写生の追究について、後において先生は 「写生」は古びたものでなく、「写生」はまだまだ大事にされるべきものであると述べられている。
 この頃、戦局は悪化を辿りつつある中で、先生は精一杯文学に打ち込んでいらっしゃったのだ。

 (注)天の川は三重県の丸山千枚田で撮したものであまり街の明かりがない。そして琴座、白鳥座、鷲座、蛇遣い 座、射手座、蠍座などが写っているとか。その射手座、蠍座辺りが天の川で一番濃いエリアとのことです。写真 から夏の大三角がはっきりと見えると思います。
   そしてこの時期には天の川は横たうようには見えないとのことです。その説明は以下のとおりです。

 「荒海や佐渡に横たふ天の川」は七夕の頃、芭蕉が越後の日本海側で北を見て越後の 海岸と佐渡島とを見てこの句を詠んだとされていますが、この前提では佐渡島の上は立ち上がった天の川は見えて も寝そべった天の川は見ることができません。
 能登半島の先端、珠洲市の東北端部の海岸から東の日本海に望み、天の川が地上に出始めの頃(春から夏の20時 頃〜24時頃)この状態ができる思います。この時間帯を過ぎると佐渡島から外れて能登半島の真南、富山湾に向って 立ち上がった天の川になるはずです。
 少し寝そべった「天の川」写真添付します。星座などの解説を入れてあります。今年の5月、いなべ市N公園で 撮影したものです。
文中写真も提供 所 卓男氏

(了)




平成28年8月
龍巌石   清水 弓月





やすし句碑の除幕       
写真 国枝 髏カ


    緑雨来て龍巌石の句碑濡らす   やすし    平成23年

 この句は栗田主宰が犬山の句碑開きの当日の様子を詠まれたものである。『自註現代俳句シリーズ続編25』 には次のような註がなされている。
   「伊吹嶺」創刊十五周年を記念して、〈流燈会われも流るゝ舟にゐて〉の句碑
   を綾子先生との師弟句碑として先生の句碑の近くに作ってもらった。
 句碑開きは平成23年5月22日の日曜日。前日の21日には伊吹嶺同人総会が行われたので、同夜は名鉄犬山 ホテルに宿泊した。中山敏彦さんと同室。22日の状況を私の日記を繙いてみることにする。
   朝4時半起床。中山さんと空模様ばかり見ている。除幕式の始まる寸前より
   雨降り始める。式典は予定どおり始まるが、風と雨激しくなる。主宰の二人
   のお孫さん小百合ちゃんと夏帆ちゃんの手により除幕され、句碑が姿をあら
   わす。
 「緑雨来て」はこの雨の様子を叙されたものである。

 「龍巌石」について少し説明を加えたい。この石は伊吹山麓に産するもので、「蛇紋岩」とも呼ばれるもので ある。「龍巌」とか「蛇紋」とか呼ばれる所以は、原石が谷水に押し流されさらに激しい流れと砂利により表面 が削ぎ落とされて石の芯という固い部分が現れる。この形が「龍」や「蛇」のうろこに似ているところからこのよ うに名付けられたものである。句碑の「龍巌石」は龍の表皮の表れる前の原石の状態である。
 日記に戻ると、「除幕式が終わると雨が上がり空が明るくなる」とある。岩石というのは水に濡れると石本来 の色があらわれて美しくなる。雨に洗われた句碑龍巌石も全体が青みを帯びてどっしりと座っていた。
 このあとホテルに入り華やかな祝賀会が催された。
 除幕式、祝賀会を通して最も印象深く感動したのは、主宰のご子息智明さんから心を籠めたお礼のことばを 頂いたことである。父君である主宰のことを思っておられる気持ちがひしひしと伝わって、胸が熱くなったの を覚えている。
 
(了)



 


 
平成28年7月
藤前干潟吟行記   関根 切子





参加の仲間       


 今年のいぶきネット句会恒例「オフ句会」は名古屋市の南西部にある藤前干潟へ。野鳥観察をかねた吟行会です。四月二十四日、 国枝部長が三ヶ月前に予言したとおり好天に恵まれ、絶好の吟行日和となりました。あおなみ線の野跡駅に集合した三十一人は さっそく干潟へ出発です。
 ラムサール条約に登録さている藤前干潟は埋め立て予定地だったとのこと。市民の皆さんの運動で埋め立ては中止され、渡り鳥 の重要な中継地は保護されることになったのです。都会に残された貴重な干潟です。
 今日の干潮は十三時七分。双眼鏡を片手に吟行開始です。徐々に広がる干潟では鴫がせっせと蟹を捕らえています。少し小さい 浜鴫も餌を探している様子。仲睦まじい春の鴨も私達を迎えてくれました。河口の蘆は青々とした若葉となり、護岸の割れ目には 浜昼顔が咲いています。
 しばらくすると勇気ある数人が干潟の中へ。へっぴり腰ではありますが、危険を顧みない強者たちは回りをはらはらさせながらも 無事に帰還した模様です。
 春の日差しと水面を吹き渡る心地よい風の中、あっという間に時間は過ぎ、急かされながら隣接する稲永ビジターセンターの句 会場へ。
 長崎眞由美さんの司会で、句会はまず自己紹介から始まりました。初参加の方、またネット句会はチャットで合評会をしている ため、お会いするのは初めてという方もいるのです。楽しい自己紹介になりました。披講は熊澤和代さん。静かな会場に熊澤さんの 声と、元気な名乗りの声が響きました。



  最高点句     一湾の潮引く速さ鳥曇     矢野孝子
  高点句       群鳥の影を曳きゆく大干潟    酒井とし子
        トリトンの揺らぎより出づ蜆舟    国枝隆生
        引潮の光の中を燕来る     西村信子
        春の鴫岩間の蟹を一ト突きに   矢野孝子
        求愛の爪色淡く潮まねき     内田陽子


 パソコンをオフにして参加する「オフ句会」。皆さんといろいろなお話が出来て、チャットとはまた違った楽しい緊張感のなか 元気をいただいた一日でした。 


(了)



 写真 国枝髏カ


平成28年6月
鵜飼の句に思う   新井 酔雪





鵜飼舟       
写真 栗田 やすし


 栗田先生の句集『自注現代俳句シリーズ九期14(俳人協会)』を読みたいと思い、購入しようとインター ネットで検索した。すると、「ご購入にあたっては著者または結社等にお問い合せください」とあった。 そこで、緊張しながら、先生に電話すると、残念ながらもう手元にはないとのことだった。
 Kさんに相談すると、「わたしのをコピーしたら」と貸していただけた。早速コピーして二つ折りにし、 背にボンドを塗って製本した。次の日、ボンドが乾くと早速読み始めた。先生の俳句の一句一句がすらすら と読めた。もっと句を味わうようにと思うが、止まらなかった。
 この句集を一気に読み上げると疑問がわいた。三百句のうち二十九句に鵜飼の句が多いのはなぜか。しかも 句集の前半に集中しているのはなぜか。
 鵜飼の句を詠んだ年を見ると、先生が岐阜にお住いの頃のものがほとんどだった。そして、これらの句は、 先生の第一句集『伊吹嶺』に収められている。つまり、鵜飼が俳句の格好の題材であり、身近にあったと いうことである。しかし、それだけではない気がする。
 わたしがまだ現役の教師だったときの研修で、NHKの番組「日曜美術館」の女子アナウンサーの講演を 聴いたことがある。その方の結びの言葉に、「どうか先生方、子供たちを褒めてやってください。芸術家に しても、作家にしても、小学校や中学校の先生に褒められたことが、その道に進む動機になったと言っていま す。そして、子供のときの体験が必ずその作品に投影されています。」とあった。
 栗田先生は、二歳のときから岐阜市鏡島にお住まいである。そして、鏡島小学校、精華中学校、岐阜高等 学校、岐阜大学へと進まれる。つまり、幼少期から青年期までを長良川の近くで過ごしておられる。言わば 鵜飼は、先生にとっての原体験ともいえるものではないか。
 その証左ともいえる句を見付けた。
 

    鵜篝の靡くを祖なる火と思ふ    昭和51年

 自注「赤々と川面を照らして眼前を過ぎゆく篝火。その妖しく燃えさかる炎は、幼友達と胸をときめかして 真っ暗闇の河原で見た炎でもある。」


(了)



 


平成28年5月
山吹   角田 勝代





八重山吹       
写真 武藤 光リ


 我が家の小さな庭には白山吹がある。ことに寒さの厳しかった今年もよくよく目を近づけると、間違いなく新芽が 萌え出ていた。

    山吹の咲きたる日々も行かしめつ     綾子

 綾子先生の『私の歳時記』では、「五月に入ると日光が鮮明になる。心から美しいなと思う日がある。」とあり、 山吹の花がお好きであったことが分かる。
 綾子先生はまた「ずっと前、大阪の富田渓仙の万葉春秋というのを見た。幾双かの屏風に書かれたもので、椿、木 ささげの中に山吹の一株が書いてあった。やせた山吹の一株であったが、なんと山吹の美を発揮しておったことか、 ひきしまった茎にふれれば、ぴんとはね上がるような、しなやかな強さがあり、花はさえざえと黄色だった。」とも おっしゃっている。
 私は白い、特に一重の山吹の花が好きで、今年もそんな季節がやって来た。朝毎、庭に出て、ポン!ポン!と咲く 山吹の花をひとつ・ふたつ・・と数える時間を今から心待ちにしている。

    母あらば山吹明かく何云わん    綾子

 綾子先生は「すでに母は亡かった。母が在ってくれたならば、山吹の明かく咲く縁側で何を話そうか、なつかしく、 恋しく、母のことを私はいつまでも思い出す。」とも。

    山吹の茎にみなぎり来し青さ    綾子

 『風俳句歳時記』から見つけた一句。今まさに新芽が出ようとする瞬間を捉えて〈みなぎる〉と表現されたことに 深く感動を覚えた。
 山吹は成長が早く毎年花が終わると、絡み付くような細い枝を解きながら、思いっきり刈り込むのだが、その勢い と言ったら見事なほどで、青々とした新芽に隠れていた純白の小さな花が開くと庭のその隅だけが目の覚めるような 明るさになる。
 その山吹はまだ若く、数年前、小さな株を知人から譲り受けたもので、母の居た頃にはなかった。これからの毎朝、 しばらく白山吹の咲くのを楽しみに庭へ出たい。
 さて山吹の花を数えながら縁側で亡き母と何を話そうかと思う。


(了)



 文中写真は白山吹 武藤光リ 撮影


 
平成28年4月
丹波からの発信   廣島 幸子





細見綾子生家       
写真 国枝髏カ


 犬山に綾子句碑が建立されたこともあって、綾子先生はとても身近な存在となった。時折訪ねて、先生の息づかいに 触れて帰ってくる。
 平成二十三年四月、チングルマ句会で綾子生家を吟行する機会があった。兵庫県氷上郡青垣町、丹波高原の青々と した山に囲まれたのどかな里である。桜が散り始め、桑、柿、麦が芽吹き、土筆が伸び、燕が飛び交っていた。そこ にはなつかしい暮らしが散らばっていた。

    でゞ虫が桑で吹かるる秋の風     綾子

 昭和六十年十一月高座神社前に句碑建立。先生二十五歳の時の句、自句自解によると、「桑畑まで歩いて来て見れば、 ここは全くの秋風。桑にでんでん虫がしがみついている。秋風にさらされているものは、自分だけでなかった。」除幕 式で「私は生涯丹波の原型を背負って生きてきた。」と挨拶された。味わえば味わうほど奥深くて好きな句になって くる。ときめきをもって訪ねた生家、師の姫鏡台、屋敷神、土間、蔵、釣瓶井戸等、目をこらして心に焼き付けた。 また絵硝子の母校も眺めてきた。


    春訪はむ絵硝子のこるわが母校    綾子

 『綾子全句集』に載っている最後の句である。やさしくて、あたたかい句を作る原点を見た。
 対談「わが俳句を語る」から、昭和四十年に母校の小学校の校歌を作詞されたことを知った。「土の恵みの香りの中 に・・・健やかに生い立ちて」の歌詞に込められた気持ちを子供たちに語って丹波の土の匂いは今は分からなくても五 年十年いや二十年後に分かる時が来ると話された。
 句集『存門』のあとがきでは「あらゆるものが森羅万象の中の一つで一緒のものでないかという感じは年を取るとと もに強くなる。自然だけは本当に好きなんです。あらゆる自然が無条件に好きですね。朝起きて天気が良ければ楽しく なるし、有り難いことだと思います。」とある。
 先生の関連の本を読んで、俳句を作る楽しさは自然に素直に向き合い、日本の言葉の美しさを自分の言葉で紡ぎ出す ことと思った。 


(了)



 文中写真 国枝髏カ


平成28年3月
摩文仁を詠み継ぐ   武藤 光リ





摩文仁の丘から       
写真 武藤光リ


 栗田主催は毎年沖縄を訪れている。それも毎月に近い沖縄行である。
 第二次大戦による惨劇は広島、長崎の原爆投下、東京大空襲など枚挙に事欠かないことではあるが、青い海や自然の 残っている沖縄で見聞きすると決して戦争を繰り返すべきでないと私にも思える。今また交戦も已むなしの風潮がある が全世界の一人一人が阻止せねばならないことだ。
 主宰の沖縄に対する思いは戦死された父上に対する悲憤から来る思いと、師沢木欣一の不戦への思いや日本人のルー ツを思わせる沖縄の生活環境を後世に伝えたいとの思いの両者が昇華したものではなかろうか。  両師共沖縄の全土に渡って多くの佳句を残されているが、今回は平和の礎がある摩文仁の句を取り上げてみた。

  崖下に自決の壕や蚊食鳥  栗田やすし(平成十七年)
  玉砕の岩垣闇や蚊喰鳥   沢木欣一(昭和四十三年)


 栗田主宰は欣一師と同じ処で蝙蝠を見たのだ。そして同じように蝙蝠に戦争の影を見ている。沖縄の蝙蝠は本州の 蝙蝠と違いだいぶ大きいそうだから不安感も余計に大きく思われる。
 その他にも欣一師は

  赤とんぼ算を乱せり死者の丘
  熔樹の根いはほ抱けり死者のため
  唖蝉や怒りしづむる腹の波   以上「沖縄吟遊集」より


栗田主宰には

  赤土(あかんちや)に幾万の霊甘蔗青む
  春愁やガラスケースに手榴弾
  慰霊の日礎にすがり婆泣ける   以上「海光より


 と詠まれている。もちろんほんの一部にすぎないが。
 欣一師の句は即物具象であるがやや直裁的であり、栗田主宰の句は同じ即物具象でも、物に自分の思いを載せている。 柔らかい表現であるが、読み返すほどに作者の真情や戦争への怒りの心が伝わってくるように思えた。
 私も摩文仁の丘は二度ほど訪れているが、ただ胸が苦しくなるばかりで両師のように上手くは詠めないが、戦争を二度 と起こさないためにも再訪して詠んで行きたいと思っている。  


(了)



 文と写真 武藤光リ


 
平成28年2月
塩田句碑を訪ねて   安藤 一紀





塩田句碑       
写真 安藤一紀


 沢木欣一先生の塩田句碑を訪ね句友の二人と秋の奥能登を旅行した。もう、一年も前のことだが、今でも句碑の白い文字 と、先生を語ってくれた塩田夫の笑顔が脳裏に映る。


    塩田に百日筋目つけ遠し     欣一
    塩田夫日焼け極まり青ざめぬ    欣一


 先生のことはその旅行まで、栗田主宰や伊吹嶺の先輩の話、そして句集の中でしか分らなかった。奥能登を訪ねて、先生 との時の隔たりは有るが、同じものを見たという淡い近親感ができた。輪島から車で約一時間、国道二四九号線を日本海に 沿って北上すると、やがて荒磯に続く急斜面に白米の千枚田が見えて来る。秋晴れの棚田の稲穂が一面黄金に輝き、日本海 のマリンブルーと相俟って素晴しい眺めだ。展望台から見下ろす棚田に、男衆十四、五人が丸太を組んで高稲架を作って おり収穫への活気が伝って来た。
 棚田から三〇分北上し曽々木海岸に着く。波打ち際まで砂地の散策広場があり、海を背にして際立つ大きさの『塩田句碑』 が納まっている。句碑は、副石を左右に据え丸みを帯びた灰色の巨石で、塩を思わせる真白な文字が清清しく、無性に懐か しい。曽々木の冬は、「波の花」が舞う怒涛渦巻く海岸だが、その時は、秋の静かな潮騒だった。句碑の海岸から僅か一〇 分で、先生が句材にされた塩田に到着した。幸運にも、百日筋目を付け通した塩田夫その人が、目の前の塩田で筋目をつけ ていた。暫らく黙って作業を見守る。それが、塩田夫の他にNHKの朝ドラ「まれ」のディレクターと、塩田夫役の役者 さんらが、放映に向けドラマの実技の練習中であることが判る。程なく塩田夫の角花豊さんから沢木先生のことを聞くこと が出来た。先生は、「百日」と詠まれたが、「本当は、その倍の筋目をつけている。」と語った。塩田の仕事ができるのは、 四月から一〇月までという事だから、その位の計算になるのか?雨の日を考えると少し疑問に思えたが、実際に見た塩田の 作業は、塩田に砂を撒き、その砂にたっぷりと潮水をかけ、日に晒す。砂の筋目は、潮水を掛けた砂が日に当たり、水分が より良く蒸発するよう千羽で砂を押し筋目を着ける。繰り返えす、真夏の日の下の作業が百日続くというのである。
先生は、自然を相手に行われる塩田夫の作業が、どれ程に重労働であるかを俳句に残された。先生を語る塩田夫は、真っ黒 を通り越し、正に「日焼け極まり青ざめた」顔で、丁寧にそして優しい眼差しで沢木先生を語ってくれた。 


(了)



 文と写真の塩田夫 安藤一紀


平成28年1月
  伊藤 範子

写真の上でクリックすれば大きな絵となります。
左上の元に戻るの矢印をクリックで戻ります。



富山の某旅館にて       
撮影 伊藤 範子




文机に血圧計と鏡餅     栗田 やすし (平成二七年)

 栗田先生は毎年書斎に鏡餅を飾っていらっしゃるのである。机には血圧計もあるという、取り合わせの意外性と俳味に、 身近な生活の中に句材はいくらでもあるのだと学ばせていただいた。年頭にあたり、句作と執筆のため、健康管理の大切 さもお感じになっていらしたのだろう。


餅を切る母の諸手や帰家の卓  沢木 欣一 (昭和一七年)

 昭和十四年、沢木先生は四高に入学、俳句を始められた。掲句は富山に年末に帰省された折に作られたものであろう。 餅は、適度に固まったときに両手で体重をかけて力を込めて切る。若くして確かな作句力が窺え、帰省の喜びと、餅を切る お母様を見つめる眼差しの優しさが感じられる。


母よりの能登の豆餅塩強し     沢木 欣一 (昭和三三年)

 昭和三十三年、沢木先生、細見先生は既に武蔵野市に転居されていた。母上から届いた餅は、能登の塩の効いた豆餅 だった。この塩味は、豆が傷みにくい様に塩を効かせたのだろうか。上京した息子夫婦を思い、郷土色ゆたかな豆餅を 送ってくださったお母様の心遣いと、遠く離れた地からお母様を思う微妙な思いが〈塩強し〉にくみ取れる。

餅のかびけづりをり大切な時間   細見 綾子(昭和三九年)

 『綾子俳句歳時記』によると、「綾子の家には毎年丹波から丸餅が送られてくる。綾子は『そのまるいまどかな面(おも て)というか表情を見ると、はじめて正月が来たような気がする』(『花の色』所収「餅」)という。」と記してある。 丹波の餅であれば、黴を削るのも愛しい時間なのである。平仮名を多く用いられたことにも、先生の俳句への美意識が 窺える。
 私ごとになるが、転勤していた頃、実家から蜜柑や伯父が搗いた餅を送って貰っていた。名古屋に住むようになり、 毎年のように餅搗きに参加した。餅搗きは親戚総出の一大行事だった。私の手返しは呼吸が合わず、「まだまだ年季が 足りないね」と伯母に笑われたことも懐かしい。俳句を始めてから知った季語「餅配」。伯母は私の実家はもちろんのこと、 方々へ、餡子、きな粉、大根おろしの餅を重箱にぎっしり詰めて届けてくれた。伯父が搗いた餅は歯ごたえがあり、 とても美味しかった。もう一度父や母と一緒にあの餅を食べたいと思うのだが、それは叶わない事となった。  (了)

 

 

 
 
copyright(c)2003-2007 IBUKINE All Right Reserved.