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いぶきネットの四季


 いつも伊吹嶺HPを閲覧して頂きありがとうございます。 平成24年3月から新しい企画として「いぶきネットの四季」というタイトルで、楽しい写真歳時記 コーナーをスタートさせました。テーマは私たち「伊吹嶺」の師である沢木欣一と細見綾子、そして私どもの主宰である栗田やすし主宰の3名の俳句をテーマに随筆風に俳句にちなむ写真を添えて、その俳句の鑑賞、思い出、あるいは季語にまつわる体験談など自由な発想で書いて頂いています。
執筆者は「伊吹嶺」インターネット部同人、会員、そしてそのネット仲間などが随時交代 して書きます。皆さんの一人でも多くの閲覧をお願い致します。
なお四季の写真を広く皆さんから募集したいと思います。写真は次のポストマークをクリックして 下さい。また写真のこのHPへの掲載の採否は伊吹嶺HP作成スタッフにお任せ下さい。

 
おかげさまで平成24年からのいぶきネット四季は好評です。平成27年からはこちらでご覧下さい。平成26年以前は下記の案内をクリックして下さい。

                       インターネット部長  国枝 隆生


   このポストマークをクリックして写真を応募して下さい。

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平成27年12月
歯朶   磯田 なつえ





歯朶(裏白)       
写真 磯田 なつえ




    丈長き丹波の歯朶を飾りたし     細見綾子
    故郷より山歯朶の束年の暮     細見綾子


 平成五年の暮から六年にかけて詠まれたこの二句、綾子先生八十六歳でした。
 この句の「歯朶」は「裏白」をさし、歳時記によれば茶色の茎の先に相対する二葉をつけることから諸向(もろむき) といって夫婦和合の象徴とし、また裏の白色を夫婦共白髪の長寿になぞらえ、さらに常緑で繁茂することからめでたい ものとしてきたとあり、季は新年です。正月のお飾りに使うために年末に「歯朶刈」(季は冬)が行われます。
 風発行所を金沢から武蔵野に移された時、綾子先生は建築用の材木を故郷の丹波からトラックで運ばせ、生家のお父 さん丹精の山茶花や牡丹を庭に移植されたとのことです。


    父の忌をあやまたずして白山茶花   細見綾子
    牡丹と移り住みたる三十年     細見綾子


 故里丹波への深い想いが伝わってきます。
 伊豆の真っ青な海辺で採られた歯朶も詠まれていますが、晩年近くなって詠まれた〈丈長き丹波の歯朶〉はお正月、 発行所の玄関や床の間に飾られ大きな存在感で、故里の野山を彷彿とさせたことでしょう。
 「歯朶刈」は私の遠い思い出にも繋がります。まだ十円玉を握って駄菓子屋へ通った子供の頃、ウラジロ採りは 格好の小遣い稼ぎになりました。何枚を束ねたのか、いくらになったのかもう忘れましたが、大きさの揃った形の良い ものを求めて、友達と手足に引っ掻き傷を負いながら裏山を駆けずり回ったものでした。
 綾子先生は明治四十年生まれで、私の母とは一つちがいでした。手織りの木綿縞、足袋の底を縫うなど綾子句を読み 返す度に母の思い出が重なります。年末には裏白に楪や干柿をあしらった母の手作りのお飾りが恒例でしたが、 卒寿を過ぎて縒りが緩くなった輪飾りが最後となりました。「風発行所」も今は更地となった由、昨年刊行なった 「細見綾子全句集」を繙いて懐かしい思い出に浸っています。


(了)



 

 
平成27年11月
沖縄と芭蕉   鈴木 英子





花芭蕉       
写真 国枝髏カ




    芭蕉布の里への小径花福木   栗田やすし
    咲き出でて焔の色の花芭蕉    栗田やすし


 栗田主宰と沖縄とのご縁はいうまでもなく深く、句集『海光』などにその思いを詠まれた句が多く見受けられる。 特に太平洋戦争で犠牲となられた父上始め、多くの方々への鎮魂句は素晴らしく、胸に沁みるものが多い。
 沖縄では今でもその悲惨な体験に苦しめられている人は多い。掲出の二句は『海光』に収められているものである。
 私はかつて、古典に書かれている植物の芭蕉のことを調べたことがあり、二つの疑問を抱いていた。
 一つ目は、文献『倭名類聚抄』(平安時代)を江戸の狩谷ゆう斉という学者がその注釈書を集めて記した『箋注倭名 類聚抄』という本がある。その中で、「ばせをば」の項に、「びん人(南方の民族の名か)灰理其皮令錫滑」という 一文があり、どうしても読解できなかった。心の隅に懸っていたのだが、「主宰と行く沖縄の旅」に参加し、芭蕉布 会館の人間国宝の平良敏子さんの工房を見学させて頂いた。その時、土間に三つのバケツに灰が水に溶いてあるのを 見て、私はこれだと思った。引用の漢文は「びん人理ふるに其の皮を灰をもってし、錫滑らかにせしむ」ということ か。芭蕉布を織る時、繊維を強くするために、何度も灰の汁に漬けるということであったのだ。芭蕉織りの工程を見学 しながら長年の疑問が氷解していくの感じた。
 二つ目は、芭蕉の花のことである。その工房の入口の庭に芭蕉の木が植えてあり、花が咲いていた。先ほどの文献 で芭蕉の花のことを「前略・・花を作(な)し、初め大萼を生じ、垂函たんの倒るるが如し」とあり、訳すと「ふっく らとした蓮の花が垂れる様である」ということである。私は芭蕉の花を見たことがなかったので、実物を見て納得 したのである。
 主宰は真っ赤な芭蕉の花を「炎」の文字ではなく「焔」の文字を使われ沖縄への万感の思いを託されたのであろう と思う。
 芭蕉の花は見飽きることなく、灰の話とともに沖縄の旅の思い出となった。


(了)



 文中写真 芭蕉布会館にて 国枝髏カ

 
平成27年10月
  山本 悦子





ほたる       
撮影 所卓男氏


 日本には約四〇種類の蛍が生息している。その中でも有名なのが源氏蛍と平家蛍で、清流に飛ぶ大型で華々 しいのが源氏蛍。田圃の隅などで、ひっそりと光る小形のを平家蛍。この源平の蛍より一回り小さい陸生の 姫蛍がいる、五月から六月にかけて、名古屋城のお堀で発生、蛍狩が楽しめる。
 八事山から湧き出る水の流れに、今年も六月二十七日・二十八日に、興正寺で「蛍放生会」が行われた。養殖 の平家蛍が八百匹、お祓いをしたあと、小学生以下の子供等により、八時頃一斉にはなたれた。水面に落ちる もの、ふわふわと空中へ舞い飛ぶもあり、蛍の行方を見守る、子供のやさしい眼差しに、あたたかいものを感じ た。
 蛍は一年近くを幼虫の姿で水中に過ごし、成虫としての命はわずか十日ほど、飛び交う「蛍火」の光は恋愛の 生殖行為である。
 当日、足許に落ちている蛍を拾い上げると、蛍は明るい光を放って私の手から離れ、突然闇から現れた蛍火と 重なり合って,木の葉の上に落ちた。しばらくして光が消えたと思ったら、雄の蛍は明るい光を放って飛び去った、 残された蛍は弱い光を点滅し、葉の上にじっとひそんでいた。葉を揺らしてみたが一向に飛び立つ気配はなか つた。
 眼前の蛍に綾子先生の句が重なりました。


    螢火の明滅滅の深かりき     (昭和五二年)         

「明」はあかるさを表す、安心感がある。
「滅」は暗闇、不安感がただよい、滅びにつながる。
 「明滅」は「表裏」を指し「明滅滅の深かりき」に消えた一瞬の闇に不安を感じた、心の有りようが表現され た句で、思いの深さが伝わってくる、即物具象の句である。
 戦時中、八才の夏に母の里の疎開先で、初めて蛍狩りに参加した、夕暮れ村の子供たちにまざり、田圃の畦を 行きながら、田の隅に二つ浮かぶ灯は蛇の目だと教わった。貰った蛍を蚊帳に放ち蛍火を眼裏に眠った事など を懐かしく思い出した。
 今回、蛍の放生に参加した子供たち、手を合わせて受けた一匹の小さな蛍の短い命を、いつくしみながら 闇に放ったことは、きっと一生の思い出になることでしょう。
 いつか八事山の裾に、天然の蛍が見られるのを夢みて。   
(了)


   
 


 
平成27年9月
ミゼレーレ   矢野 孝子





当時のポスターから       




    悲しみの聖母の白歯さやけしや     
    秋暑し身を折る乞食キリストか    沢木欣一


 今年の春、愛知県豊橋市の美術館で、ルオーの特別展が開かれ、「ミゼレーレ」を含む百点余りの作品を 観る機会があった。
 沢木欣一句集『綾子の手』に掲載されている掲句は、前書きに〈山梨県清春・ルオー礼拝堂の版画「ミゼレーレ」に 五句〉とあり、平成七年の作。
 山梨県の清春芸術村の一角に建つルオー礼拝堂には、数点の「ミゼレーレ」が壁に飾られていると聞く。「ミゼレーレ」 とはラテン語で「憐れみたまえ」という意味。ルオーのこのタイトルの作品からなる五十八点の銅版画集である。敬虔な クリスチャンであったルオーが、宗教画家と言われる原点の様な作品であろう。
 一句目
 黒と白からなるこの一連の版画には、母子や聖母等の人物が太い線で描き出されているが、どの人物も俯きかげんで 悲しそうな表情だ。沢木先生は、その作品集の中の一点に描かれている女性の白い歯に目を止められた。美しい口元から 聖母の慈愛を感じられたのだ。高原を吹く爽やかな風の中で、その聖母と向き合っておられる。
 二句目
 数冊の画集を調べて「不幸な乞食は御身の心の中に身を避ける・・」と題の付いた作品に辿りついた。身を曲げて子供 の方へ手を延べる男は、貧しい姿ではあるが、その身を折る姿勢に優しさが感じられる。この男をイエス・キリスト思え ば、イメージが拡がって思いも深くなる。やがて磔となるキリストの背中には残暑の日差しが相応しいと沢木先生は思わ れたのだ。
 掲句を思い浮かべながら、ルオーの「ミゼレーレ」の作品の前に一度立ってみたかったが、この豊橋美術館でようやく 願いが叶った。尊敬する師と、その師の俳句によって、絵画を楽しく鑑賞する事が出来た。逆に絵画によって、掲句の 景色がより鮮明にイメージでき、考え深い句となった。俳句との縁により、貴重な一日となった。


(了)



 

 
平成27年8月
香良洲への祷り   谷口 千賀子

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三重歴史資料館       




    草萌ゆる予科練生の夢見し地     栗田やすし

 この句は、津市香良洲の歴史資料館、以前は若桜会館と言われていた施設で詠まれたものである。この 近辺にはかって三重海軍航空隊が置かれ、飛行予科練習生が学んでいた。やがてこの中から特攻隊員とし て多くの青年が散っていったのである。
 私たちが香良洲を訪れた時、かつての校舎や練兵場は土筆が生い揃う野原となっていた。若桜会館には 旧海軍旗がひるがえり、門近くには戦死された特攻隊員の氏名を刻んだ大きな石碑が建てられている。 会館内には、予科練生の訓練の様子や生徒達の若々しい笑顔の写真が掲示されている一方、特攻で散った 隊員の遺影や遺書があり、その真摯な表情や文言は見る者の胸にひびいて切ない。壁面の「終戦の詔勅」 の額が一層思いを深くしている。
 展示室の入口近くに、やすし師の「草萌ゆる」の色紙が掲げられている。そうなのだ。現在の昭和一桁 生まれは幼時から教育勅語を学び、当時は皆が軍国少年少女であった。その少年たちが当時花形の海軍航空 隊にあこがれ、祖国への尽忠の思いを胸にこの地での訓練に励んでいたのだ。その思いを〈予科練生の夢見 し地〉と少年たちの姿に重ねて詠まれた中に、限りない哀悼が込められている。
 私の友人のご主人であるT氏は、この香良洲で予科練生の日々を過ごされた。当時を多くは語られないが、 訓練の厳しさは相当なものであったようでご自宅で当時を偲ぶ「精神棒」と称する太い棒を見せられたこと がある。また特攻隊への志願は挙手によるそうだが、挙手をためらうことは出来なかったと話された。戦後、 残った訓練生の仲間は年に一度香良洲に集まり、石碑の手入れなどをして来たという。しかしT氏も現在は 九十歳、数年前からは仲間も減り、香良洲で集まることもなくなった。近年は集まった数人で、T氏が弾く ギターで校歌を歌い、香良洲の方角に向かって黙祷を捧げているということであった。私の友人はこの一月 に亡くなり、T氏との接点は切れてしまったが、今年も香良洲への祷りはささやかに続けられていること だろう。  
(了)


   
 


平成27年7月
楝の花   国枝 洋子





あふちの花       
撮影 国枝洋子




  楝の花仰げば若き日のごと     細見綾子(昭和四十四年)

 「栴檀」の古名は「楝」で五〜六月頃関東地方より西の暖地に多く、落葉高木で、薄紫の五枚の花弁がかたまって煙る ように咲き満ちた模様はまるで夢の世界に誘い込まれるようである。
 綾子先生も楝の花を仰ぎながら、若かりし日のあれこれに思いを巡らし、うっとりと眺められていらしたのだろう。
 東北育ちの私にとって楝の花はなじみがなく、若き日の想い出は皆無であるが、転勤族の夫について名古屋に住むように なり初めてこの花に出会ったのは、名城公園だったように思う。その日は曇天で大木からこぼれ落ちる花を拾って見上げる と、雲の中に溶け込みそうな薄紫の花が風に乗って舞い落ちる様が美しく、初めて見るこの花を少女のように拾い集めては 眺めていたことを思い出した。
 その花が「栴檀」ということも俳句に出会ってから知った「楝の花」ということも、私にはめずらしいと思った花がこの 地方ではよく見られる花木であることもこの時知った次第である。
 ちなみに楝は花だけでなく、実もまた可愛らしい。緑色の実が黄色になり、葉が散り果てた後もいつまでも残り、青空に 映えて美しい。別名「金鈴子」の名の通り鈴のように下がり、童話の世界に引き込まれそうである。


  吉野川清き流れの花樗      綾子(昭和五四年)
  寺裏は楝の花のうす紫       綾子(昭和六二年)
  


 綾子先生は若い頃からこの花に親しまれていらしたのだろう。当たり前に身近にある花。普通の暮らしの中で出会え る花。そんな中でも気品が漂い、何かほっとするような安心感の持てる花のように思われる。
 我が家の近くの公園にも小さい楝の木はあるが、少し足を伸ばして桑名の九華公園まで行くと外濠付近や船だまりの 辺りに大木の楝がある。花時を見計らって行ってみようと思っている。 
 
(了)


   
 


 
平成27年5月
紙漉き   小柳津 民子

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紙漉き       
写真提供 国枝髏カ




 昨年十一月に岐阜県美濃市の本美濃紙が、埼玉県小川町・東秩父村の細川紙や島根県浜田市の石州半紙とともに「和紙・ 日本の和紙技術」として、ユネスコ無形文化遺産に登録されました。
 栗田主宰はその本美濃紙の紙漉きの句を多くお詠みになっていますが、自註現代俳句シリーズ九期には次の句をはじめと する五句がおさめられています。

    紙を漉く紙とならざるもの滴らし     やすし(昭和四十三年)

 紙漉きの工程のなかでも漉きの作業は技術と経験が必要といわれます。 主宰は掲句でその本質を〈紙とならざるもの 滴らし〉と簾の下の滴りに注目し端的且つ明快に詠まれました。〈紙とならざるもの〉の措辞が簾の上の幾層にも重ねられ ていく白い〈紙となるもの〉をも読み手にイメージさせ一句の深い情趣となっています。自註には「『岐阜県蕨生紙漉き村』 の前書があり、初めて紙漉きを見た。紙を漉く女の人の手は凍えんばかりに赤かった。」とあり、紙漉きの真情をとらえよ うと熱心に紙漉きを見学される主宰の姿が目に浮かびます。
 私が初めて間近に見た紙漉きは、平成十七年に宝塚句会で吟行した兵庫県西宮市の名塩和紙です。名塩和紙は雁皮を原料 とし、六甲の泥を混ぜて漉かれ、泥の種類により青・白・黄・淡黄・茶褐色の紙となります。泥を加えるので変色や虫が つくこともなく古くから文書や美術品に使われているとのことでした。また、溜め漉きという力の要る漉き方なので男の 仕事で、見学させていただいたお宅では息子さんが跡を継ぐとおっしゃっていました。窓辺に据えられた漉き舟に低く灯り がともる昔ながらの作業場で、俳句の上でしか知らなかった紙漉きを見ることができ嬉しかったことを覚えています。
 今回、この文を書くにあたり主宰の句を何度も読むうち、昔高校の授業で聞いた言葉を思い出しました。「覚えたものは 笊から水が落ちるように大方は残らない。が、笊の底にいくらかは残る。それで良いのだ。」というものです。年を経た今、 確かにそう思え学び続ける大切さをあらためて思いました。 
 
(了)


   
 

 
平成27年4月
春の雪   八尋 樹炎

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青菜       
写真 八尋樹炎




  春の雪青菜をゆでてゐたる間も   細見 綾子(昭和五十年)

 春降る雪は牡丹雪、降る間に消えて積もることが少ない。ちらちらと花びらのように舞う牡丹雪に思いのこもる時間がゆる やかに流れてゆく。
 静けさに、肘付いて眺めていると、催眠にでも掛かったように来し方を振り返る・・・
 日常の他愛のない厨ごと、暮らしの一瞬を切り取った女性ならではの柔らかさ、平明な作為のない奥深さを学んだ。青菜と雪 の色彩対比が美しい。「春の雪」に春への鼓動と期待が滲んでいる。


  春立ちし明るさの声発すべし    細見 綾子(昭和四十九年)

 先ず(明るさの声)が飛び込んできた。勝手な推量だが、金沢の生活体験が言わしめたのではあるまいか。金沢の冬といえば、 重苦しい鉛色の曇り空、湿り気の多い雪との共存「立春」と聞いても暦に上のことであろうが、気持ちは春へと心躍るものが 有る(明るさの声発すべし)自然からの問いかけに命の叫びにも似て、心のままに詠まれたのであろう。気取らない、感性に 驚いている。
 約十年住み馴れた金沢を離れ東京の武蔵野市に移り住まれた頃 綾子先生の一番充実した時代であった。母として、妻として 平凡な日常生活の中から詩情溢れる秀句が多い。
 「和語」より


  能登の柚子一枚の葉が強くつく      
  すみれ植う父子や髪をふれ合はし
   薔薇植ゑし手足のよごれ四月尽    細見 綾子


 

 ネットオークションで入手した細見綾子著「和語」にN氏へ謹呈の筆書きサインや、N氏当ての便箋五枚のお手紙が添えられ て居りお人柄を偲んでいる。
 師独特の文字に少々たじろいでいるが、読めまいこともなく・・・綾子先生に、お会い出来ないことがとても惜しまれて ならない。
 
(了)


  文中写真も 八尋樹炎
 

 
平成27年3月
花の柴又、矢切   栗生 晴夫

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伊吹嶺俳句会 柴又吟行       




    へそ小さき風神雷神桜舞ふ     
    花の昼矢切の渡し混み合へり     栗田 やすし


 掲出の栗田先生の句は2008年4月の初めに、東京吟行会で寅さんの柴又帝釈天と矢切の渡しを吟遊した時のもので ある。中部よりも大勢の方々が参加され、総勢四十名を越える吟行会になった。
 当日は丁度桜が満開、天候にも恵まれ絶好の花見日和。柴又駅前の寅さん像に迎えられ、朝早く家を出られた方々もほっと 一息。団子屋、見世の並んだ狭い参道を通り抜け帝釈天へ。境内では早めの花祭りが行われていて、稚児行列を見学、美人の 尼さんにも出会うことが出来た。本堂にお参りし、重要文化財である外壁の檜の木彫り彫刻の絢爛さには圧倒された。 外の寺苑は飛花落花。
 その後江戸川土手に出て、手漕ぎの矢切の渡しに運良く乗ることが出来た。最期は柴又に戻り、老舗の川魚料理屋川甚で 昼食、句会後無事お開きとなった。 当時の私は伊吹嶺に入会ホヤホヤ、先輩のアドバイスで伊吹集に投稿を始めたばかり。 当日の日記には、「東京吟行会。散々。自分の実力は幼稚園レベル。さすがにベテランは上手。」とある。句は残っていない。

 さて掲出の第一句。最初は句の意味が分らなかった。たまたま先生の近くで彫刻を見ていたのにである。先生は確かに 彫刻の一つ一つに立ち止まり、時間をかけて見ておられた。先輩の「先生はよくものを見ていられる。」とのコメントで初めて、 〈へそ小さき〉の持つ小さな発見とその感動の意味に気づいたのである。写生、即物具象の生きた例として鮮明に私の記憶に 残っている。
 先生は生家に近いお紅の渡しをよく句にされているが、矢切でも掲出の第二句を詠まれた。ゆっくりとした句のリズムが、 江戸川の流れを渡る手漕ぎ舟にふさわしく、時はまさに桜どきの昼間。私の大好きな句である。
 この稿を書くに当たって先日何年振りかで柴又に行き、本堂の風神雷神の小さなへそもよく見てきた。あいにく風が強く 矢切の渡しはお休みだったが、運賃が百円から二百円になっているのに時の流れを感じた。
もちろん名物の草だんごを買って帰った。柴又の草餅には本物の草の匂いがあり、ふるさと紀の川の土手の蓬を 思い出す。一年中信州の蓬を使っているとのことである。

    草餅を焼く金網をよく炙り      栗田 やすし

 
(了)


  写真 武藤 光リ 
 

 
平成27年2月
「風」以前の栗田主宰   丹羽 康碩

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柿畑       
撮影 武藤 光リ




    青芝の議論のあとの独りかな     栗田 やすし



 昭和三十三年三月、大学二年の時の作です。この月の句会に〈朝刊をかすめる春の鳥の影〉が出句され、句会報に 「俳句を始めて一ヶ月……全くの初心者です」という書翰記事も残されている。そこには自身の俳号を「やすし」と したことについても触れ、「やすしは本名靖(きよし)からとったものです。もともとやすしと読むべきもので…… これでよみがえったような気がします」と続けられている。
 俳句を作るようになって恐らく十句目前後の作品ではないかと想像するが、そう考えるとその完成度の高さに驚か される。「青芝の議論」という明るい広々とした中で車座に語り合う同好の若者数名。その後の「独りかな」という 孤独感、「かな」という切れ字を使ったことによりその深さを現わしめし、前半との落差の大きいことを強調して いる。
 当時私達は栗田主宰・清水弓月さん・宗宮まことさんたちと桜井幹郎さんを中心に岐阜二十歳句会を結成し、ホト トギス系の俳誌「阿寒」に投句し、毎月定例の句会を開き、会報も発行していた。句会報というのはその「岐阜二十 歳句会報」のことで、ルーズリーフに謄写版で印刷した二十頁前後のものである。
 自註句集の二句目は、

    あまりにも赤き病み柿いとほしむ      栗田 やすし



 昭和三十八年十月二十日、流域俳句会により山口誓子夫妻を招いての柿山吟行会があった。吟行先は岐阜県本巣郡 席田の富有柿畑。掲句はこの吟行会での作。昼食後の句会で誓子の特選を得、誓子から染筆短冊を贈られたことが 自註に記されている。
 「病み柿」というのはこの年の柿が炭疽病に侵されていて、十分に熟れてはいたが暗褐色の斑点ができていたので ある。そうした柿に寄せる感情を「いとほしむ」という語に示したのであり、「あまりにも赤き」にはその感情を 惹起させた契機が示されている。
 流域俳句会というのは天狼系で、当時、栗田主宰はそこの同人であった。ちなみに国枝隆生さんもこの吟行に参加 されており、〈柿畑を離れ来たりし荷車よ〉の句がある。(文中写真は昭和33年頃の新聞記事) (了)
  新聞写真提供 丹羽康碩 
 

 


平成27年1月
なづな粥   中村 たか

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なづな粥       
撮影 国枝 髏カ




    なづな粥泪ぐましも昭和の世     沢木 欣一



 俳句の何も分からないまま、句会に入れて頂いた私は、主宰が沢木欣一と聞いてもピンと来ない有様だった。この 句に出会った時、初めて心に響くものがあった。
 子供ながら私も戦争の時代を体験してきたが、沢木先生はどのように生きて来られたのかと、思い巡らせた。
 昭和に入り日本は五・一五事件、二・二六事件が起こり、軍部が台頭し、日中事変が勃発、さらに第二次世界大戦に 突入してしまう。
 沢木先生は高等学校時代から俳句の道に進む決意を固めておられた。「十二月八日、ラジオで私は愕然とした。目の 前が真っ暗になった。日本が破滅するかもしれないと、理屈でなく肉体が感じた。」と書いておられる。まさにその通り 日本中が苦難の道を歩むことになる。
 無謀と思われる戦争に学徒出陣を余儀なくされ、ご自分の五年間の俳句を遺書のつもりで恋人の細見綾子先生に託し て出征された。

    秋山の襞を見てゐる別れかな      欣一(昭和18)



 昭和十九年、既に戦局は末期となる。悲惨な戦場にあって心の支えは俳句であった。「当時のうら若い青年にとって 俳句は心の平衡を保つ最上の武器であった。」と後に書いておられる。死と向き合う過酷な日々であったのだ。
 昭和二十年八月、日本は無条件降伏する。やっとの思いで引き上げて来た日本は焼け野原だった。

    南天の実に惨たりし日を憶ふ      欣一(昭和20)

    短か夜の飢えそのままに寢てしまふ   欣一(昭和21)

    人面がたちまち土塊歯牙二本      欣一(昭和27)

 原爆、焼土、飢え、誰しもその中を生きる為に必死であった。焼け跡も片付かぬ昭和二十一年五月、沢木欣一による 俳句雑誌「風」が創刊されたのであった。
 そして昭和の終焉にあたって、詠まれた冒頭句が欣一師にとって昭和を振り返ることは己の青春を振り返ることで あった〈泪ぐましも〉の言葉の重さが切ないばかりである。 (了)
  文中写真 武藤光リ 
 

 

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