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いぶきネット句会たより

    



 
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   餅 搗       伊藤範子(名古屋市)    2023年11月


 母の生家は農家で、伯母は働き者の婿養子さんをもらい、蜜柑畑と田圃を守ってきた。
 子供時代の記憶にあるのは蜜柑狩りで、畑の急な斜面を、自分も蜜柑と共にころころ転がっていたことをおぼろげに覚えている。
 田圃は約1反で、その田圃の一角で作った餅米で、親戚は年末に餅を搗いてもらっていた。伯父が搗いた餅は歯ごたえがあり、水っぽくなく、とても美味しかった。
 転勤族だった私たち家族が名古屋に住むようになってから、毎年手伝いと称しては出かけ、餅搗きを楽しませてもらった。
 餅搗きは玄関の中に入った三和土で行っていた。6畳ほどあっただろうか。怪我をしないよう「マメに」との言い伝えか慣習か、大豆の束が臼の脇に置いてあった。下駄箱や建具に新聞紙を貼り、細かい餅が飛び散って、こびりつかないように準備がしてあった。
 名古屋に住んでいた叔母は、小豆餡を大鍋に一杯炊いて、叔父に送ってもらい、既に着いていて台所からは甘い香りが漂っていた。
 餅米を蒸す竈は、小ぶりのドラム缶を煮炊き用に改良したようなもので、庭で餅米をせいろ2段で蒸していた。薪を焚く係は年長の孫、火の番は年少の孫たちだった。
 石臼は湯を注いで温めてから使った。餅を搗くのに臼が温かい方が良いと伯母は言っていた。1番初めより2番目、3番目と臼が温まるにつれて、餅搗きも佳境になる。搗くのは、伯父、従弟、お婿さん、年上の孫、夫。
 伯母は、「餅を搗く前の捏ねる作業が大切」と言っていた。小柄な伯父だったが、筋肉質で、腰を入れてしっかり餅米を捏ねた。搗くのも流石で、軽々と杵を振り上げ、手首を上手く使って杵を振り下ろして搗いていた。お婿さんも毎年手伝いをしていたので、上手だったし、年長の孫も若くて元気なので力強く搗いた。
 手返しは、餅米が熱く、中腰の腰に負担もかかり、案外大変である。夫と私は素人同然なので上手く返せず、リズムも合わず、皆の注目の中、返す手に杵が振り下ろされそうになり、失敗ばかり。「まだまだ年季が足りないねえ」と伯母に言われて大笑いが起こるのだった。私たちで搗いた餅は、勿論我が家の餅となった。
 11時を過ぎると、昼餉用の餅を搗いた。熱湯を足して、柔らかく柔らかくしてからひと口大に分けていく。小豆餡、きな粉、大根おろしと3種類を作った。伯母が神棚と仏壇に供え、従弟が私の生家と従姉の嫁ぎ先へ、重箱にぎっしり詰めて配ってくれた。従弟が戻ってくると、お嫁さんが作ったポテトサラダと吸い物、大根の甘酢漬け、従姉が作った煮込みハンバーグ、私の実家が依頼した出前の寿司が、2台の座卓に所狭しと並んだ。
 母は、電話で食事に来るようにと招かれるのだが、徒歩で5分のところを、父や弟に連れてきてもらって20~30分後に車で漸く到着。伯母は「遅いねえ。地球の裏側から来たのかね」といつも言うのだった。
 母は手術と治療の後遺症で喉が狭窄し、誤嚥が心配な状態だった。噎せながら時間をかけて、病後は僅かな食事を摂っていた。若い頃は背が高かったが、晩年小さく細くなってしまっていた。座布団にちょこんと座り、時には携帯用ミキサーで料理を擂り潰し、少しずつ少しずつ食べていた母の姿が今も目に浮かぶ。
 そんな母だったが、自分が生まれた家で、大勢の親戚と食事の席をともにできた餅搗きの日が、1年で一番嬉しく幸せなひとときだったのではないだろうか、と、師走を迎えるたびに思う。


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