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いぶきネット句会たより

    



 
いぶきネット句会の会員がいぶきネット句会について書いたものです。ぜひお読みになって、興味を持たれた方はいぶきネット句会の仲間になりましょう。初心者大歓迎です。

 なおこのページは2017年~2019年を掲載しています。過去の「いぶきネットたより」は次の該当年をクリックして下さい。

 いぶきネット句会たより(最新)

 いぶきネット句会たより(2020年~2022年)

 いぶきネット句会たより(2014年~2016年)

 いぶきネット句会たより(2009年~2013年)


着物と習い事     鈴木 未草        2019年12月   

                     

 十五年ぐらい経つだろうか。ある日和ダンスを開けたら、一度も手を通していない着物が染みだらけだった。両親が私の嫁入りの時持たせてくれた着物だ。これを見たらなんと思うだろうか。申し訳ない気持ちで一杯だった。

 程なく着付け教室に通い、何とか一人で着られるようになった。となると、何処かに着ていきたい。展覧会、音楽会、狂言の鑑賞会、友人との食事会等々。それでも、物足りず、着物を着られるであろう習い事を探した。市民講座で日程が合うのが、詩吟だった。

 最初は聴いたこともない旋律に戸惑ったが、何とか声も出るようになり、初めての大会に出た。もちろん、着物を着て。ところが、会場を見渡すと着物を着ている人は全体の一割にも満たず、がっかりした。それでも、大会があるごとに着物で出ている。

 仕事をやめると、更に選べる習い事が出てきた。茶道は特に季節にあった着物を選ぶのが楽しみだ。他にもいくつか習い事が増えているのだが、皆何処かで繋がり、日本文化の奥深さを感じている。

そして、もうこの世にいないが、貧しい中で嫁入りの着物を揃えてくれた両親に感謝している。



 

無言の証人       有井真佐子        2019年11月               

つに折れた水晶の印鑑は爆心地から約600メートルの堺町で瓦礫の中から見つかった。折れた片方は「吉岡」と刻まれていた。印鑑入れは圧力に押されたのか、金具の上下がくっ付いてベルトのパックルのようになっていた。持ち主は1945年、当時31才だった吉岡正二、私の父である。広島県警察部の国民動員課に勤めていた。

8月6日の日は自宅を出て横川駅(広島市西区)を降りた後消息不明に。一週間後、産後間もない母(私、真佐子を7月5日に出産)に代わり義理の兄たちが大八車を引いて捜し回った。手掛かりを求めてかかりつけだった堺町の「伊藤内科胃腸病科医院」へ向かったが建物は跡形もない。待合室だったと思われる場所を掘ると印鑑、印鑑入れ。割れた眼鏡レンズ、眼鏡の枠。焼け焦げて針が飛んだ時計。遺骨の一部。全て父のものと断定。よく見つかったと思う。父は私達の元に帰って来たかったのだろう。

遺骨と遺品は実家の仏壇に大切に保管、供養してきたが母も亡き今、私が願い出て世界の大勢の人に戦争の怖さを訴え、後世に伝えていきたく遺品は広島市の原爆資料館に寄贈した。


近江の歌枕       浜野 秋麦          2019年10月           

 もう二・三年前のことになりますが、所属している茶道流派(遠州流)の全国大会が長浜市でありました。ご承知の方も多いと思いますが、流祖、小堀遠州は長浜の生まれで、大名としての領地(小室藩)も現在の長浜市(旧浅井町)にありました。この記念すべき大会に何とか流祖に直接かかわる道具だてをと皆で準備しました。

 その中の一つが濃茶席の床に使われた軸「小堀遠州公筆六首詠草」でした。和歌に素養があり、多くの道具に和歌にちなんだ歌銘を付けている遠州公が、大津から領地に向かう船上で詠まれた六首であろうと推量されています。お茶席では伴頭(はんとう)が道具の説明をするのですが、この時は、念を入れて六首すべてを解説しようということになりました。三首目

   ゆる木の森

 入日さすこずゑのさきの秋かぜに

     ゆる木のもりの宮のさびしさ

予行演習の時に、この「ゆる木の森」について伴頭役が枕詞と解説していました。陰から「それは、歌枕ですよ。」と訂正を入れましたが、一般的には枕詞と歌枕の混同は珍しいことではないようです。

俳人方には釈迦に説法のようですが、辞書には、枕詞は「特定の語の上にかかって修飾または口調を整えるのに用いることば」とあります。頭につくから枕なのでしょう。(落語では落ちに関係ある解説などを冒頭に入れ込むことを「枕を振る」などと云います。)ちなみに、「さざ波」は志賀にかかる枕詞です。

歌枕の方は「古歌に読み込まれた諸国の名所」というのが一般的だと思うのですが、「歌を詠むときの典拠とすべき枕詞、名所など」という解釈もあるので複雑です。ちなみに「ゆる木の森」を典拠とする古歌は

 高島やゆるぎの森の鷺すらも

ひとりは寝じと争ふものを

(古今六帖)

ゆるぎの森の解説には「与呂伎(よろぎ)神社あたりを中心とした森」と出ていますから遠州公が「宮のさびしさ」と詠まれた宮は与呂伎神社と見てよいと思います。高島市安曇川町青柳(旧東万木[ひがしゆるぎ])に現存しています。

 そんなことがあったので、歌枕に興味を持ち、近江の歌枕を調べてみますとたちどころに四・五十は出てきます。

京の歌枕でも主なものは六・七十ですから、なかなかの数と驚くほかはありません。長年、近江に住んでいるので大体の場所は行ったことがあったり、思い浮かべたりすることが出来るのですが、中には、こんな所がと思うようなところもあります。

近江の歌枕の例として「朝妻」をとりあげてみます。JRの米原駅から、ずっと西に行った湖岸に位置します。天野川の川口に当たり、古代から湖東の港として栄えたところです。

恋ひ恋ひて夜はあふみの朝妻に

君もなぎさといふはまことか

藤原為忠(新続古今集)

蛇足ながら拙句

 朝妻の湊塞ぎて鴨の陣      秋麦

現在、朝妻は南に隣接する「筑摩」と合わせて朝妻筑摩の字名になっています。筑摩もまた著名な歌枕で、鍋冠祭りの筑摩神社のあるところです。

 近江なる筑摩の祭りとくせなむ

      つれなき人の鍋の数見む

伊勢物語第百二十段

 今度、近江の地に吟行にいらした時には歌枕巡りなどいかがでしょうか。


 

プレバト俳句を見て     武藤 光晴          2019年9月

 
みなさんもご覧になったことがあろうかと思うが、テレビに「プレバト」と言う俳句の番組がある。芸人達に俳句などの腕を競わせ、才能を査定し、順位を付けるものである。

 判定者は俳句甲子園などで有名な夏井いつきさんである。彼女の気取らない、的確な指示は俳句初心者の心に深く染みこむと思われる。回数を重ねて出演している、何人かの常連は、仲間の俳句にも的確な鑑賞を行い、進化の後を見ることが出来る。

  基本はバラエティー番組であるから、あまり、とやかくは言えないが、俳句を庶民の生活の中へ根付かせるチャンスを作ってくれていることに感謝せねばならないと思う。何かの拍子で趣味に俳句を嗜んでいることに話が及べば、「プレバト」を話題にする人々が実に多い。

  ただ、結社に学ぶ我々にとって、全く問題がないわけではない。貴方は何段なんですか、とか師範の免状をお持ちなんですね、とか聞かれる事が多い。

  私はその度に俳句は順位を競う物ではないし、句会では、参加者の誰の一句でも、みんなで、その一句をより良い物にするための話し合いをする場であり、その事こそが、最大の仕事なのです。私は少し古くから親しんでいるので、中心になってお手伝いをしています、と。

 また、これはいろいろな意見もあるとは思うが、俳句は本来、「古事記」や「日本書紀」頃から広く庶民に愛好されてきた、五七調のリズムを踏まえた歌謡の一つであり、このリズムを出来るだけ尊重して十七文字に纏めるべきで、九八等の破調は安易に、全体で十七文字だと言うだけで作って欲しくはないと思う。勿論、破調により作者の思いを込めることも可能であるから、一概には言えぬ事ではある。ただ番組内では少し安易な添削が多いように思う。

 折角テレビで俳句の話題性が大きくなっている今、現在の俳句仲間の枠を飛び出して、積極的に俳句を話題とし、一人でも多くの人に関心を持って貰いたいものだ。

  自然の営み、人の営み、その喜怒哀楽を俳句で詠いみんなが共有できる世界。それは世界の平和にも貢献できるのではなかろうか。そんな夢を見て、弛まず努力もして過ごして行きたいと思います。



娘の出産        宇都宮 えみ          2019年8月


 お産の兆候は見られるが、病院に行くまで休ませてくれと言って、娘がやって来たその日は、五月のさわやかな晴天だった。

ソファに横になった娘に布団を掛けながら、これから娘を待ち受けているであろう、逃げ場のない、難儀な痛みを、自らの体験に重ね合わせ、ひたすら落ち着けと自分に言い聞かせた。

私は、そっと庭に出た。青空に桃の花が映え柿の若葉と相まって、何とも美しい。ふと下を見ると、雑草も日差しを浴びて輝いている。

とっさに屈みこんだ私の手は、雑草を引き抜いていた。娘の大事な日なのに、雑草とはいえ引き抜いたりしていいのか、と思いながらも手は、その作業を止めようとはしなかった。むしろ、生まれてくる子の命と引き換えの、神への捧げ物でもあるかのように、不安とは反対に手は、静かに規則正しく動いていた。

半時ばかり続けた後、不安は胸の奥へと押しやられ、いつもの自分を取り戻していた。

その夜、娘は、元気な男の子を出産した。

 不思議なことに、翌朝の庭には、何も変わった様子は見られず、草を引き抜いたらしいあとかたも、どこにも残ってはいなかった。


 

京都の桜を訪ねて     森田 もきち        2019年7月
  
   

のどけしやおかめの像にほほ笑む娘

 京都の早咲きの桜の穴場を探す眼が大報恩寺(千本釈迦堂)の枝垂れ桜の文字で止まりました。昨年の秋、上野の東京国立博物館で「快慶定慶の御仏」として快慶の弟子行啓作の本尊秘仏釈迦如来座像、定慶作の六観音菩薩像、快慶作の十大弟子立像等鎌倉彫刻の名品が展示された特別展がありましたが、それが千本釈迦堂だったのです。これも機縁と同寺を訪れました。同寺本堂は鎌倉時代初期の創建時のままの姿で、京都(京洛)最古の木造建築物として国宝に指定されています。同寺境内の中央には阿亀桜の名で親しまれている大きな枝垂桜が満開を迎え、傍らに阿亀像があります。阿亀は本堂建築工事の大工の棟梁の妻で、夫の工事失敗を助言で救いながら事実が知れたら夫の恥と上棟式を前に自害した物語が、全国のおかめ信仰の発祥となったことを初めて知りました。本堂内にはおかめの面が多数展示されています。
 

  白川にぽつくりの音夕桜

 祇園白川通りは白川沿いに四十本の桜が続き、石畳の道、白川の流れ、料亭の灯り、舞妓さんの芸事上達を祈ってお参りする辰巳大明神、巽橋など京都らしい風情を味わえる場所とのことです。「かにかくに祇園はこひし 寝るときも枕の下を水のながるる」と詠んだ吉井勇の石碑がありました
                          



孫と俳句交流?       野上 千俊            2019年6月

令和最初のよもやま通信のためかなり緊張しています。肩の力を抜いてと呟きながらパソコンと向き合っています。

私は三年前ゴルフ場で右手首を骨折しペンを持てなくなったため作句を一旦断念しました。とはいえ俳句への関心は捨て難く左手でパソコンを操作しながらネット上に掲載されている句を読むことに専念していました。何かの拍子に[俳句・名句]を検索したところ、【俳句をやらない人でも知っている十五の名句】を見つけました。ここには芭蕉の『古池や』『閑さや』『夏草や』の三句、蕪村の『菜の花や』『春の海』の二句、さらに子規の『柿くへば』、素堂の『目には青葉』、草田男の『降る雪や』、嵐雪の『梅一輪』、捨女の『雪の朝』、千代女の『朝顔に』がありました。驚いたのは一茶の句が『痩蛙』『我と来て』『目出度さも』『是がまあ』と四句も掲載されていたことです。

 芭蕉よりも一茶の句が多いのは意外でしたが、一茶の句は読んで楽しく、平易な言葉で分かり易く、また暖かさを感じます。さらにテーマも身近なため親近感が湧きます。こういうことから一茶の句は多くの人の記憶に残るのでしょう。一茶の人気に刺激を受け分かり易い句作りを目指しているのですが、添削していただくといつも己の未熟さを思い知らされます。

 さて、この五月の連休中に家に泊まりに来ていた六年生の孫娘が『古池や』『菜の花や』『柿くへば』の三句を暗誦したので聞いてみると、担任の先生が俳句好きでこの三つは分かり易い有名な俳句なので覚えておきなさいと云われたそうです。俳句が好きかと私が尋ねると「別に」、これ以外の句はと聞くと「先生は蝉の声の句が一番好きで教えてもらったが忘れた」との返事。私がその句は『閑さや岩にしみ入る蝉の声』ではと云うと「そうだったと思う」とのことでした。この孫娘に一茶の『雀の子そこのけそこのけ御馬が通る』『名月をとつてくれろと泣く子かな』を教えたところすぐに暗誦しました。孫娘は「俳句の内容を頭の中で絵に描けば言葉はすぐに覚えられる」と自慢げに話しました。これら『古池や』『菜の花や』『柿くへば』『雀の子』『名月を』の句はいずれも詠まれている情景が浮かんでくる句であり、そのため俳句に興味のない孫娘でもすぐに覚えられたのだと知りました。一方、『閑さや』の句は情景が掴めないため覚えられなかったと思います。 

 孫娘に私が詠んだ『手を広げ通せんぼする案山子翁』を身振りをまじえて聞かせたところすぐに画用紙にその絵を描き始めました。さらに、帰り際には「また夏に来るので絵に描けるような俳句を作っておいて」と頼まれました。次に来た時には自分が云ったことを忘れている可能性がありますが、読み易く、情景が目に浮かぶような句を詠んでみようと思います。孫娘とこうした俳句を通しての楽しい時間を少しでも長く持てれば良いなあと思うこの頃です。



向島百花園          関根 切子         2019年5月                                               
     
 梅の実の転げしままや百花園        

 東京都墨田区にある「向島百花園」は江戸時代、文人墨客によって作られた庭園で、東京ドーム五分の一個ほどの庭に、おそらく百花をこえる草花・樹木が処狭しと植えられている。

 ただ百花を植えるにはあまりにも狭いため樹木は一本ずつ、草花は数株ずつ。さながらノアの方舟植物版と言ったところである。案内板によると樹木は七十数種類。草花は数知れず。竹林(と言えるかどうか)には筍が一、二本頭をのぞかせている。藤棚、通草棚、糸瓜棚、葛棚に瓢簞棚。池もあるので水生植物や湿地に咲く花、菖蒲田もある。

 草木にはすべて名札が付いていて、植物図鑑を見るように園内を歩くことが出来るのだが、春も半ばを過ぎると、方舟に乗せてもらえなかった植物たちが一斉に茂り始める。杉菜、蓬、西洋たんぽぽ、からすの豌豆、姫じょおん、などなど。頭上の樹木は芽吹いたばかりで日差しはたっぷり届き、土も肥えていて、踏みつけられることもない。方舟の乗り心地はとても良いのだろう。樹木が茂り日当たりが悪くなると、今度はどくだみが勢力を広げてくる。百花園は不法乗船の植物で溢れかえってしまう。

 園内には作業小屋があって、数人の庭師がいる。彼らは剪定や棚の補修、草花の植え付けなど丁寧に仕事をしているが、雑草はあまり取らない。杉菜もどくだみも黙認している。

 これは文人墨客たちの案外粋な計らいなのかもしれない。庶民的で、文人趣味豊かな庭として、その計らいを庭師たちは継承しているのではないかと私は勝手に思っている。

      花影に庭師の昼餉百花園          切子


      

如 庵         酒井とし子           2019年4月      

 犬山市は人口七万人余りの小さな町です。その小さな町に国宝が二つあります。一つは犬山城、もう一つが「如庵」です。如庵は名鉄犬山ホテルの敷地内の有楽苑の中にある茶室です。この如庵、実は今年の三月より保存修理のため二〇二一年秋頃まで入場することが出来ません。

ご存じのように入場門の前にはわがやすし句碑と綾子句碑の師弟句碑が隣り合っています。

    木曽川を見下ろして城冴え返る     綾子

      流燈会われも流るる舟にゐて     やすし

この如庵は流転の茶室といわれています。織田信長の弟の織田有楽により一六一八年(元和四年)京都建仁寺に建立されました。一八七三年(明治六年)祇園の有志に払い下げられ、正伝院に移築。その後、明治四十一年東京三井本邸に移築されます。次に戦火を逃れるためか昭和十二年には神奈川県大磯の三井家別荘に移築、昭和二十六年国宝に指定されました。その後昭和四十七年に名古屋鉄道に売却されて現在犬山を安住の地として現在にいたっています。

普段は茶室の内部は見学できませんが、月一度程の見学会では二畳半台目(三畳余り)のお茶室を見る事が出来ます。

またお正月の一月一日から六日までの六日間、如庵に隣接している書院にて初釜が催され、晴れ着姿の華やかな雰囲気の中お茶席を楽しむ大勢の人で賑わいます。お薄のあとホテルに移動してお雑煮とおせちのお接待を受けることが出来ます。このお雑煮は名古屋風といいますか、もち菜と角餅のみのシンプルなお雑煮です。

丸餅と具沢山のお雑煮で育った私ですが犬山に移り住んで四十五年余り今はこの名古屋風のお雑煮が我家の味となっています。

お雑煮をいただいた後は犬山城隣の針綱神社へ詣で、新年の無事を願うという習慣を毎年過ごしておりました。

犬山市民にとってはこの犬山城と如庵、針綱神社は観光の見どころであると同時に生活にも非常に密着しています。

この私のお正月恒例の行事もしばらくはお休みということで少し淋しいことですが、有楽苑の再開を今から楽しみに待とうと思っています。



俳句のある暮し       長谷川妙好                 2019年3月

 ネット句会にいれていただいて、ちょうど二年になる。最初のころは三句切れもわからず、句会の際にはとんちんかんな質問をしたりして、ずいぶん場を乱したのでないかと恐縮している。俳句に全く縁のなかった私が今ではすっかり俳句のある暮しになっていて自分でも驚いている。

娘曰く「よかったね。老後の楽しみが増えて」まさにその通りである。

先月熱海に旅行した。頼朝と政子がデートしたという伊豆山神社に登ると風が強かった。境内に奉納された絵馬がカラカラと鳴っていた。「絵馬カラカラと風に鳴り」が浮かんだ(そのまんまなんですけど)。季語は何にしようかと考え、センター試験も終わったことだし受験絵馬も多かったので、絵馬の鳴る音を合格の鐘の音になぞらえ「春近し」がいいかなと。推敲の結果、

      春近しカラカラと鳴る受験絵馬   妙好

 センター試験といえば私は問題が新聞に掲載されると、毎年国語だけ解いてみる。年々点数が下がって今年は特にひどかった。新聞の細かい字を読むのに骨が折れる。

以前息子に「何点だったよ」と自慢したら、「会場のあの堅い椅子に座って制限時間内に解くのとは訳が違うよ」と言われた。確かに食卓でお茶を飲みながらのんびり解くのとは違って当たり前か。自慢することでもなかったなと反省した。

       老眼のセンター試験鐘氷る     妙好

 三月には私の俳句歴も三年目に入る。石の上にも三年という言葉もあるのでとりあえず三年は続けようと思っていたがなんとか続けられそうである。みなさまどうかこれからもよろしくご指導ください。


平 凡             野崎雅子         2019年2月
             
                      

 年末のテレビの特別番組で、長寿の方々が若かりし過去の自分に呼びかけるという企画があった。

 印象に残った人は、九十歳の女性が「二十歳の自分に。年とったら、楽になれると思っていたのに、いまだに畑仕事をしているよ。」という人。

 又、七十五歳の女性は「二十五歳の時、両親に結婚するのを反対されたけど、私は今もお互いに愛し合い、この結婚は正解だったと言いたい。」という人。

 私は、自分が二十三歳の時、親友が恋愛に悩んでいて、よく当たるという銀座の占い師のところについてきてと言われ、出掛けた時の事を思い出した。

 占い師は、五十代の細面の優しい眼差しの男性だった。筮竹と手相と生年月日で占った。

 親友は「波乱万丈な人生を送る。今付き合っている人とは結婚しない。華やかな職業で世界中駆け巡る。」と言われた。

ついていくだけのつもりの私も、みてもらった。私は「浮き沈みのない平穏な人生。今付き合っている人と結婚する。相性はよい。子供は一人。」と言われた。

 それから四十余年たち、親友は、私が名古屋に来てから知り合ったイギリス人と結婚した。そしてジュエリーデザイナーとして学校で教えたり個展をやって活躍している。私は、名古屋にきて専業主婦で、子供も一人。

 あの時、これからの人生平々凡々なんてつまらないと、落胆した自分に言いたい。平凡だけど、大好きな犬を結婚したから切れ目なく飼うことができている。こんな生活をかけがいのないものと思っていると。



の片隅に      有井真佐子                       2018年12月         

 大きな病には縁遠かったのに齢を重ねて免疫力がおちたせいなのか、総合病院に何回かお世話になった。手術を受ける前は手術の事が気になり、そればかりを考えているのだが、調子が良く一週間ばかり経って退院が告げられると途端に現実に戻る。

俳句はどこで足踏みしているのだろうか、日記代わりに病院での事を俳句で残しておきたい等々。

  梅雨深し患部を照らす無影灯 

  点滴の管が絡みぬ春遠し    真佐子

病室が五階で窓側だった時は外の窓ガラスを蜘蛛の子が這っていた。

  蜘蛛の子の戻らぬままに暮れてをり   真佐子

また早朝窓からJRの電車が見え学生がグループで駅へ向かっていた。

   風薫る始発電車にサッカー部    真佐子

この時はこの光景に元気をもらった。

  看護士の白衣まぶしき四温かな   

  リストバンド外し退院薔薇芽ぐむ  

  しみじみと柚子湯でさする手術痕    真佐子

日記代わりにと拙い俳句だが、病院では家事をする事も無く集中できたので詠む事ができたのかと思う。


伊良湖岬       安藤 一紀                         2018年11月

家に居て俳句が出来ないのでもっぱら外に出ることにしている。九月末人伝に伊良湖で「鷹柱」が始まったと。早速鷹の渡りの場所、伊良湖岬の先端にあたる「恋路が浜」に行ってみる。

 灯台はこの先一里鷹を見に  一紀

 当日は前夜の雨は上がって晴天で、鷹見が初めての私には絶好の「渡り日和」と思われた。

正午前に「恋路が浜」駐車場に到着。間違いなく渡りの現場らしい雰囲気があり、バードウオッチャーらしき人達50人位が双眼鏡や図鑑、鳥を数えるカウンターや情報を入れるためのスマホを下げてたむろし、三脚に取り付け撮影準備万端の望遠レンズのカメラの放列と高価な装備に圧倒される。家族連れを思わせる関東や関西ナンバーの車、キャンピングカーなども散見される。

「今朝は既に20羽のサシバが、鳥羽方面の伊勢湾に渡った」その場の鷹見の宿の亭主の話。「ピークは台風が去って雨が上がる来週の朝」と、今年の鷹の渡りはまだまだこれからだと解説。期待を持たせるが、今日はこれからどうなのかそれが知りたいが、はっきり良いとも悪いとも言わない。それから約二時間真っ青な秋の空を見上げたが鳶が5、6羽旋回しているだけで、一向に鷹の渡りを思わせる様子は見られない。鳶の笛が虚しさを募らせるばかり。

午後三時今日の渡りを諦めて伊良湖岬からフェリーで鳥羽に渡る帰路に就く。

鷹ゐつて広さ際立つ秋の空   一紀

今回は(鷹が渡った後で)空振り。暗いうちに恋路が浜に着いて夜明の岬の空を監視する、寒さ対策をするなど準備不足。費用を換算すると一句八千円を猛省。


 十五夜        関根切子            2018年10月

  同人になったら指導者として句会を持ちなさいと言われた。まだまだ指導できる器量ではないし、句会を持てるわけはないのだが、実は一年前から週に二回、九十三歳の女性に俳句を教えている。彼女は一人暮らし。足の筋力を回復したいとのことで、私がリハビリに訪問して知り合った。

 彼女の部屋にデイサービスで書いた習字の作品がたくさん貼ってあり、とても上手だったので私が褒めて、そこから俳句のことにも話が及んだのだと記憶している。

 彼女は短歌をたしなんでいて(なんと彼女の母は柳原白蓮と親交があったとのこと)、それで俳句にも興味が湧いたらしい。

 教えていると書いたが、実は何も指導はしていない。私が訪問するといつも二十句くらい出来ていて、選句と選評を急かされる。ちょっと的外れなことを言うと突っ込まれるし、季語についてもうんちくがあり、かなり手強い。ただ九十三歳だけにアナログ人間で、私の電子辞書を驚異に思っている(電子辞書もいまやアナログだが・・・)。

私の知識は電子辞書がないと相当にあやしいことはすでに見抜かれているが、彼女は大人であり、指導者としての私をそれとなく立ててくれる。情けないかぎりである。

 先週の二人の席題は「月」。彼女の部屋から見る十五夜の月は雲間にとても明るかった。

   名月や一人暮らしの十二階     切子

   コスモスを咲かせ迎へを待つてをり 切子

 (この句は怒られました。ちなみに彼女の夫は秋山清という詩人だったそうです。)


白 鳥       鈴木 未草            2018年9月

 習字の先生に、「今回は〈文字で遊ぶ〉をテーマにして作品を作って下さい。」と言われた。さて、どうしようかと悩んだ。私は小さい頃から字が下手で、しょうもなく書道塾に通っている。上手な方は、それこそ跳ねるように、または流れるように筆を操られるだろう。私には無理だ。そこで、思いついたのが、〈鳥が飛んでいる形に文字を埋める〉というもの。書くのは牧水の有名な歌『白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ

書いた作品を持っていくと、「下手に思い切り変な字で」という注文だった。あと、もう一羽居ると遠近感が出るということなので、『幾山河越へ去り行かば寂しさのたへなむ国ぞ今日も旅ゆく』でもう一羽作った。字も全体の形も、思い切り変だった。

さて、作品展初日会場を見渡すと、そんな作品は私だけ。他の方のは例年通り、美しく優雅な作品ばかりだった。でも私の気持ちに恥ずかしさはなく、なんだかすっきり晴れ晴れしたものだった。

 俳句でも同様かもしれない。美しい句を作りたい、あこがれの先生方のように上手な句が作りたいという思いがあっても、素養のない私には、なかなか道は険しい。苦肉の策で、どこかで見たような言葉を継ぎはぎした句にしかならない。恥ずかしく思う。しかし、下手なごつごつした句でも、自分の気持ちに寄り添った作品を作った時の方が気持ちは晴れやかだ。

先生方、相変わらず独りよがりの不器用な生徒ですが、よろしくご指導お願いします。


湖の風景     浜野 秋麦            2018年8月 

               
 
 ネット句会でも琵琶湖の情景を詠まれた句がしばしば見られます。吟行に来られたのだな、と思うと特別な関心が起こります。

湖岸の景色は、一度として同じということはありません。道路や家々、田圃や畑といった、風景の構成要素は変わらないのですが、木々の彩りや作物の生育状況など、当然ながら季節を追って変化していきます。

わけても、湖そのものが留まることなく表情を変えていきます。ザックリと表現すれば、春の柔らかな碧、夏の深いブルー、秋の穏やかな水色、冬の重たい鈍色。その日の天候、風の強弱にもより、白い波頭を見せたり、縮緬皺のようなさざ波であったり、鏡のような平らかさであったりと千変万化です。雪を被った連山に取り囲まれた冬晴れの湖も美しいですが、薄霧に包まれて天まで続いている幻想的な湖も捨てがたい風情があります。

以前にこの欄で「内湖のはなし」を書かせていただきましたが、一般的な説明と安土周辺の大中之湖や西之湖だけでした。今回は我が家から北上すると最も身近にある内湖、曽根沼とその周辺を紹介します。曽根沼は南側にある荒神山と一体となって整備され(琵琶湖国定公園に取り込まれ)、緑地公園となっています。

荒神山は標高二八四mの独立峰でこのあたり(旧愛知郡)で唯一の山です。少年自然の家、子供センター、体育館、球場もあり休日には賑わっていますが、この頃、どこから来たのか猪が繁殖して被害も出ているようです。山頂には荒神山神社が有り、中腹には三、四世紀のものと云われる古墳もあります。昨年近くで発掘された稲部遺跡と共にかなり大きな勢力の豪族の本拠地であったと推測されています。こうしたことから、本来、「高神山」であったのでは、との説もあります。

曽根沼緑地は、舗道が整備され、桜、椿などの植栽があり、遠足、ピクニックで賑わっていたのですが、子供の水死事故があってから訪れる人が少なくなってしまったようです。沼自体もブルーギルばかりが増えて釣り人は減ってしまいました。しかし、冬場には多くの鴨類を間近に見ることができます。春の岸辺から見上げる荒神山の山桜も見事なものです。

どうぞ、また吟行にいらして下さい。



愛知県立森林公園         川崎みちこ      2018年7月

 私の住む尾張旭市には尾張旭市北部と一部名古屋市守山区にまたがる八百万坪ほどの広い森林公園があります。

昭和八年愛知県議会で可決、翌年開園。昭和十三年の読売新聞には全国一の広さを持つ森林公園が三百万県民の理想郷として開園、厚生体力局技師田村博士を迎えて県知事が駕籠に乗って視察したとの記事があります。

この公園には運動公園として乗馬施設、テニスコート、弓道場、野球場など、一般公園としてボート池、児童遊園地、野外演舞場、里山広場などがあり、公園の面積のほぼ半分を有料(一回二百十円)の植物園が占めています。森歩き、野の花めぐり、自然ウォッチングなど種々のイベントも開催され県民の憩いの場となっています。

植物園には一般公園から入る正門と北門、南門があり、南門は我が家から一キロほどの場所にあるので休日の暇な時間に運動と気分転換と吟行を兼ねて入園しています。

南門から入るとすぐに貸農園があり、二坪ほどの区画に季節の花や野菜が植えられています。以前ナタマメが植えられていたことがあり、巾二センチから五センチ、長さ二〇センチから五〇センチ、その剣のような長いさやを興味深く眺めたものでした。

しばらく歩くといくつかの分かれ道となり左にゆくと湿原があって秋には一面にシラタマホシクサが可憐な花をつけ風に揺らいでいます。今の湿原にはモウセンゴケやコバノトンボソウ、カキランなどがみられます。

そこを過ぎるとふるさとの森で、全国各県の代表的な花木が植えられており、京都の北山杉、新潟の雪椿、愛知のハナノキなどいながらにして見ることが出来ます。森の中には縦横に小道があり郷土の森にゆけばナンバンギセルやウマノスズクサのような珍しい植物を見ることが出来ます。

ボランティアの人たちが雑草を取り除き、名札を付けて見やすいようにしてくれているので植物園のマップを見て歩けば容易に見つけることが出来ます。水生園には花ショウブ、半夏生、山アジサイが見ごろです。

中央の展示館には今植物園で見られる花の写真やその場所、この園に住む鳥や動物の写真やはく製が展示されています。植物園の北側の大きな池には羽を広げると二メートルにもなるオオワシの若鳥が二四日間滞在したとの記録と写真があり、ニホンカモシカやコハクチョウ、クマタカなども来たことがあったと記載されています。

春には梅、桜、つつじなどの花を、夏には緑の深い森の中でセミや小鳥の声を聴きながらの避暑、秋は様々な木々の紅葉、木の実の降るさまなどを、冬には雪景色、枯草、ハダカ木など季節の移り変わりを見られるのは楽しいことです。

こんな自然豊かな環境に住むことが出来てとても幸せなことですが、なかなか思うように句を作ることが出来ないのが悩みの種です。


 
芝不器男記念館を訪ねて    宇都宮えみ      2018年6月

 愛媛県北宇和郡松野町にある「芝不器男記念館」は、不器男の生家でもある。不器男は、明治三十六年四月十九日、父・来三郎、母・キチの五男として生まれた。

庄屋の面影を残す、木造二階建ての記念館には、一階の土間や座敷を中心に、不器男の俳句に関する資料や日記帳、直筆の短冊など、ゆかりの品々が展示されている。

代表作家として活躍した、俳誌『天の川』や、『ホトトギス』に始めて掲載され、高浜虚子が鑑賞した句「あなたなる夜雨の葛のあなたかな」に関する記述もあり、当時に思いを馳せる。

 芝家では、度々句座が開かれており、当時の句座の資料には、家族それぞれの俳号も載せられている。父・来三郎(号 蜻州) 兄・悌吉(号 王国洞) 兄嫁・梅子(号 楳子) 姉・妙(号 蘭香女) 兄・馨三(号 豺腸子)などを、興味深く拝見する。

 不器男は俳号ではなく、「不器男」の命名は、『論語』の「子曰、君子不器」(子曰く、君子は器ならず)によるものだと、記念館の担当者から説明を受ける。

昭和三年不器男は、太宰文江と結婚した。庭先で撮影された、紋付き袴の新郎と、引き振袖に角隠しの新婦の写真にも目を留める。

 昭和五年二月二十四日、不器男は病魔に侵され、永眠。享年二十六。

 松野町では、早世した俳人芝不器男をしのび、俳句大会が開催されている。六十四回目となる今年の大会では、愛媛大学の青木亮人氏の「芝不器男の余白と緩急の凄さ」と題した講演が行われた。

 その時の資料から、不器男の句のいくつかを紹介してみたい。

◆天才の余韻◆

永き日のにはとり柵を越えにけり

人入つて門のこりたる暮春かな

春の月砂絵の童らにさしそめぬ

◆表現の余白、緩急◆

ふるさとや石垣歯朶に春の月

昼ながら杉に月ある河鹿かな

寒鴉己が影の上におりたちぬ

◆余韻、緩急、余白◆

夕釣や蛇のひきゆく水脈あかり

 『天の川』で活躍し、『ホトトギス』でも注目された、句歴四年の不器男の俳句を、今でも新しいと感じるのは、私だけだろうか。

    あなたなる夜雨の葛のあなたかな 不器男


『ホトトギス』に初めて掲載され、「この句は作者が仙台にはるばる着いて、その道途を顧み、あなたなる、まず白河あたりであろうか、そこで眺めた夜雨の中の葛を心に浮かべ、さらにそのあなたに故国伊予を思う、あたかも絵巻物の表現をとったのである。」と高浜虚子の名鑑賞で、一躍有名になった。



井手の里        森田 もきち               2018年5月

 京都の桜の穴場を探していると、JR奈良線奈良駅の五つ手前の玉水駅を下り、井手の里を一望できる高台にある地蔵禅院の絢爛な枝垂れ桜が眼に留まりました。京都府の天然記念物に指定されており、京都円山公園の枝垂れ桜の兄弟木に当たるとのことです。崖の上に鐘楼があり、そこから枝垂れ桜が下方に崖に沿い枝を広げていました

  鐘の鳴る崖よりしだれ桜かな   もきち

 井手の里は、奈良時代万葉集の撰者の一人であった左大臣橘諸兄が治め別荘のあった地で、井手の里を愛した橘諸兄は玉川の堤に美しい山吹を植えました。また古来より蛙の名所として知られ、井手を詠んだ和歌の中でも蛙に関するものは八十三首に及び、鴨長明の無名抄にも記されています。このように井手の里は古来ヤマブキとカワズの名所として知られ、歌枕として多くの和歌に詠まれました。

 里を流れる井手の玉川は、木津川の支流で両側の桜は桜の名所として知られ、古来多くの歌に詠まれた日本六玉川の一つとも言われています。堤には三々五々歌碑が立ち、詠み人としては紀貫之、後鳥羽院、藤原俊成、定家など、源実朝の名前もありました。因みに八王子が故郷の私も、小学校時代遊んだ多摩川が調布(砧)の玉川として六玉川の一つだということを初めて知りました。

  花の雲井手玉川の歌碑巡り    もきち


古典を読む   長谷川妙好              2018年4月

 子育て中に友人達と古典を読み始めて四十年近くになる。最初は子供の教育に役立つかもと思い遠山啓先生の水道方式の本などを読み始めたが、そのうち古典を読もうと言うことになった。大学時代に源氏物語を読み通さなかった悔いが残っていたからである。

 一か月に一度集まって、子供が幼稚園に行っている間に源氏物語を読み進めた。子供の発熱、友の転勤等なかなか進まなかった。結局十年以上かかって五十四帖をやっと読み終えた。まだまだ読みきったという気がしなかったので二回目に挑戦した。二回り読み通すのにゆうに二十年以上はかかったと思う。

 そのころにはすでに子供の手は離れていたが親の介護等新たな問題が出てきた。それでも枕草子、徒然草、方丈記と読み進めた。今は平家物語に挑戦している。

現在は新たな問題として互いの病気、不調、連れ合いの病気等出てきたが何とか細々と続けている。古典に触れ続けたこともさることながら、四十年近い友との信頼関係はなにものにも代え難い宝物となっている。

 昨年からそれまで全く興味のなかった俳句を晩学の身で始めた。ネット検索をしていぶきネット句会に入れていただいた。古典を読み続けてきたからといって歴史的仮名遣いや古文法が出来ているわけじゃない。毎回投句するたび冷や汗の連続である。毎回丁寧に添削していただいて本当に感謝している。

 平家物語を読んでいると、十三世紀のあのころも二十一世紀の今も人は争い、結局賢くなっていないなと痛感する。


 

 俳句と私     野上千俊           2018年3月

 私が俳句に興味を感じたのは五十年以上も昔で高校二年の時でした。古文担当の教師から芭蕉の「荒海や」の句や蕪村の「菜の花や」の句を例に「わずか十七の文字で大宇宙を描写している、これは究極の芸術だ。」と聞いた時です。

 両俳人の句に関心を持ったもののこの時点では自ら句を詠む気はありませんでした。ところが大学二年の冬に事情が変わりました。

 うっすらと雪が残る朝にのろのろと街を走る車を眺めていると突然「雪景色初めて通る乳母車」が頭に浮かび、この句を面白半分で毎日新聞に投句したところ掲載されました。  これに意を強くして作句に挑みましたが一向に句ができずいつしか俳句への関心も消えてしまいました。

 次に句を詠もうと思ったのは三年前で、何かゴルフ以外の趣味をと考えた結果でした。詠むには勉強が必要と思いNHK学園の俳句通信講座を受講しました。半年間基本を学んだ後、一年弱入門コースで投句の添削指導を受けました。しかし、ゴルフ中に右手首を骨折し文字が書けなくなり、学園にインターネットでの投句を相談するも無理と分かり、やむなく受講継続を断念しました。この講座において添削していただいた句の中で「母逝きし日に木犀のはらはらと」が気に入っています。

 右手首の事情からネットでの投句・添削が可能なところを探しました。そんな時伊吹嶺のホームページを見て直ちに加入をお願いしました。今月で入会後一年が経過しますが、この間添削を通して丁寧に指導していただき感謝の連続です。添削いただいた句で一番の気に入りは「夕映えを過ぎる白鷺朱に染まる」です。竜田川を飛び立った白鷺が夕日を浴び赤く輝いていた光景が思い出されます。

 これからも何とか頑張って投句を続けますので添削をよろしくお願いいたします。




春の月     川崎みちこ    2018年1月

 まだ新芽の伸び始めていない早春の夕暮れ、裏道を車で走って帰るととても大きな月を見ることがあります。薄いクリーム色の大きな月が目前の藪の中から昇ってくるのを見ると手を伸ばせば触れることが出来そうな気がしてきます。多分浅い靄がかかっていてそれがレンズの役目をして大きく見えるのだろうと思います。

  外にも出よ触るるばかりに春の月 中村汀女 

この句はこのような月を見たときのものなのでしょう。

 夏の星

 若いころ燕岳に登った時、山腹の山小屋で満点の星空は圧巻でした。山小屋の屋根と周りの木々に囲まれた狭い空に大粒の星がぎっしりと詰まっていてうす赤色、ほの白いもの、青白く光るものなどさまざまな光を放って輝いているのです。屋根の上に登って手を伸ばしたら大きな星がつかめそうな気がしました。

 秋の雲

 秋の良く晴れた日に山の中腹あたりを歩いていて、少し疲れて山小屋の縁先に腰かけて見上げる空、真っ青な空に白い雲がゆっくりとうごいて、目の前の色づき始めた木々の上をかすめるように行くとき、その雲に手が届くほどに感じるときです。こんな雲を見ていると心地よい幸せに包まれてゆくような気がします。

 山小屋は手の届くほど鰯雲   川崎みちこ

 砂漠の星

 初日の出を見ようと真っ暗な砂漠の中に案内された時のこと、朝の日が昇る前のひとときを大きな満点の星空を見上げるとき、計り知れない神秘に包まれているような気持になります。空に透明な大巨大なお椀のようなものが被さっていて、そこに無数の小さな星が巨大な半円を描いて隙間がないほどに輝いているのです。地球が丸いということを実感するひと時です。

 宇宙はこんなにも広くあまたの星があって地球はそれらに包まれているのだということ、この感動をどのように表現したら的確なのか、言葉が見当たりません。

 以上、私の数少ない経験の中から取り留めのないことを書かせていただきました。読んでいただけたら幸いです。


思わぬ発見     安藤一紀    2018年1月

吟行予想だにしなかった「思わぬ発見」をする。それが実に面白く、タイミングよく言葉を見つけ俳句となって選を受けることもある。
十二月最初の吟行をネット仲間と行うことができた。その時の思わぬ発見を羅列してこの吟行を紹介します。その日は、名古屋市中心部の「鶴舞公園」から東隣りの「名古屋工業大学」「郡道」の四人の吟行。キーワードは十二月、公園、大学構内、旧街道。公園の名称は「つるま」となっているが、「つるまい」と呼ぶ人も多いとか。開設以来110年の歴史を持ち、戦後に進駐軍の接収にあった暗い時期を除き、緑豊かな憩いの場、スポーツやレクリエーションの場所として、広く市民に親しまれ俳句にも詠われてきた。吟行の集合場所が鶴舞公園の図書館であったので、温かい図書館で一、二句作ることを目論んで定刻一時間前に到着する。ところが、図書館は休館日。時雨雲の下、兎にも角にも一句と玄関前に佇んで付近を見渡す。すると、今まで気が付かなかった目前の茂みに等身大の老人座像が目に止る。風化が進んで側面の解説が読み辛いが、目元が優しく凛凛しいお顔で無性に親しみを感じる。石像は、日本で最初の理学博士伊藤圭介で名古屋市が誇る偉大な人物だったことが解る。

落葉積む翁坐像の膝の上    和嗣

園内には有形文化財も多く、その一つ「普選記念壇」が図書館の直ぐ傍にある。日当たりのよい階段状の野外劇場で、普段は将棋愛好家が駒を持ち寄って「少年の秘密基地的特別な場所」となっていた。吟行に来て見ると、将棋指しの姿は無く、麻雀に興ずる高齢者が囲む三卓と、後ろで黙って観戦する同年輩ばかりで「唖然」とする。

翁らの野外麻雀冬うらら  一紀

公園の片隅にひっそりと建つ像のない異様な台座(構造物)がある。説明書きにより、名古屋出身の内閣総理大臣加藤高明の銅像があったが、供出され台座だけが残ったものだと解る。

供出の像無き台座冷まじき   一紀

台座の場所からボート遊びの出来る竜ケ池が見える。近づくと周辺で巷で話題の「ポケモンGO」により、訪れた大勢の異様な行列に出くわし、「どっきり」。公園散策を譲り、大学構内、郡道へと吟行場所を移した



俳句との出会い  田尻 孝   (北海道)   2017年12月     

 平成27年4月に地元の句会に入会と同時に北海道俳句会に所属し、翌年、伊吹ネット句会に入会しましたので、平成30年4月を迎え二年のご指導を受けることになります。

 仕事を辞めて時間的にも余裕ができた頃、俳句を勧められ、「お茶を飲みに遊びにおいで」と気軽な誘いが踏み出す一歩になりました。学生時代、身を入れて勉強をしなかった後悔を埋めるかのように何かを求め探し続けてきたような気がしますが句作をするとは思いもよらないことでした。

見学の句会は、顔見知りの方々でしたが灯りに照らされた皆さんの表情が実に活き活きとし、春を待つ喜びを温かな眼差しや感性で詠まれており、新鮮で充ちた時間でもあり学ぶことの出会いでした。

伊吹ネット句会の有井真佐子さんとお会いしたのは、入会後、まもなくの頃、観光で来島されることを知り、宿泊のホテルへお迎えし、我が家で俳句のお話をすることができました。俳句の歩みもジェットコスタのようにアップダウンがあること、兼題に草間弥生の絵が提出された話など、地元の句会とは違う句会の様子を興味深くお聞きしたことが印象に残っております。初対面という距離感も無く、あっという間に時間が過ぎ、俳句が取り持つ縁とはまさにこの様なことなのだと思いました。

花や鳥の名も知らず、読めない漢字は数多、語彙のなさに無知を思い知らされ、私にとって句作はまさに苦作でありますが生活の中に支柱を得た喜びがあります。

特に伊吹ネット句会の皆様には、古語表現や文法の丁寧なご指導を受けて有り難く思っております。また、毎月の添削指導やアドバイスが得られることも重ねてお礼申し上げます。

俳句の出会いに感謝し句作を続けながら豊かに年を重ねていきたいと思います。


芭蕉句碑     宇都宮えみ   (宇和島)   2017年11月  

               

旧宇和島市には、芭蕉の句碑が三基ある。

古池や蛙飛びこむ水の音

 明治二十六年の陰暦十月の忌日に宇和津彦神社に建立。

志者らく盤花の上那類月夜哉 

明治四十年に愛宕山の中腹に建立。

父母能志き里に戀し雉子の聲

弘化二年に龍光院 (四国別格霊場第六番)に建立。

ところで松尾芭蕉の伝記を記した『蕉翁全伝』には、芭蕉の生母は「伊予宇和島の産」とあり、いま一つの伝記『芭蕉翁全伝』には、「伊予国の産」とある。さらに「伊賀国名張に来りてその家に嫁し、二男四女を生ず、嫡子半左衛門命清、其次則翁也、生保元甲申の年、此国上野の城東赤坂の街に生る」とある。

母は、伊予国から伊賀国の名張に移り住み、伊賀国拓植の土豪一族出身の父、松尾与左衛門と結婚して芭蕉を産んだという。

 どうしてそのようなことになったのかを、愛媛県歴史文化博物館の資料を基に調べてみた。

 「豊臣秀吉は、藤堂高虎を伊予国宇和、気多、浮穴の三郡の代官に命じた。その上、伊予国宇和島(板島)城主とした。関ケ原の戦いの戦功により高虎は、伊予国の今治藩主となる。その後、伊賀国、伊勢国に移封され、津藩主となる。その時、高虎について来た芭蕉の母親は、伊賀国の名張に住むようになったのでありましょう。その姓は、桃地氏との説もあるが、藤堂氏の歴史を記した『宗国史』の「功臣年表」に該当する者は見当たらないので、芭蕉の母親の家は、それほどの家ではなかったとするのがよいでありましょう。」と博物館初代館長大石慎三郎は、寄稿文『松山藩主松平定直と伊予俳諧』で述べている。


 

名城公園    野崎 雅子 (名古屋)   2017年10月               

 我が家の最寄りの駅は、地下鉄名城線の「名城公園」。その駅を出てすぐ目の前に、名古屋城の北に隣接する名城公園がある。「住まいは」と聞かれ、名古屋の方なら「ああ、あの名城公園ね。」と、すぐわかってくれる。

 家から歩いて十五分位で公園に着き一周すると、ちょうど一時間位と、散歩にはうってつけの公園である。

 せせらぎの流れる「芝生広場」江戸時代の名残りある「おふけ池」「フラワープラザ」等の施設もあり、四季を通じて花見が楽しめる。

 昨年、「トナリナ」という複合施設ができ、ランチを楽しむ人、ジョギングをする人が増えた。

 道路をはさんで東側には、愛知学院大学の商学部、経営学部、経済学部の三学部ができ、若者の姿も増えた。

 かつてベビーカーを押して散歩していた私は、二年前もう犬は飼わないと決心したにもかかわらず、今また、仔犬のリードを引いて散歩している。


 絹織物と桐生     中村 正人 (桐生)    2017年9月

 群馬県民なら誰でも知っている「上毛かるた」に「桐生は日本の機どころ」とうたわれている。

桐生の養蚕業・絹織物業の起源は奈良時代に遡り、朝廷に絹を献上した記録がある。そして、足利幕府から織物の注文を受けたこと、新田義貞が鎌倉討幕の軍旗に織物を使用したこと、関ヶ原の戦いでは家康軍に旗絹と竹を用意したことが知られている。

 桐生の町は、徳川家康の命によりつくられた天領地で、天満宮を起点に本町一丁目から本町六丁目まで五間の街道が南北に二キロメートル貫き、街道の両側に短冊状の町割りが行なわれた。なお、「丁目」の表記は現在もそのまま使用されている。そして、街道の両脇には水車が回り、染色業や糸繰りなどに使用された。水路の覆いを取れば、今でも当時の水路を見ることができる。特に本町一丁目と二丁目は、江戸後期から明治初期の古い商家や蔵屋敷、のこぎり屋根などの建物が当時の景観を残し、江戸期の呼称「桐生新町」として保存されている。

桐生新町は市場町として栄え、天満宮境内で絹市が開かれた。その後、複雑な文様の「飛紗綾」が織られるようになると、新町で開かれる絹市は「紗綾市」と呼ばれ、関東有数の絹市として発展した。

 現在は毎月第一土曜日に「買場紗綾市」として開催され、同日の「天満宮古民具骨董市」と「桐生楽市」とあわせて、「桐生三大市」と呼ばれている。



定点観察        森田 もきち       2017年8月
 

 高校同期会70歳の時、同期生の山口青邨の次男(俳句は素人)を中心に、彼の縁で夏草同人を指導者に仰ぎ句会が発足しました。句会は毎月荻窪で午後開かれます。十年位前のことですが、午前の時間を利用して荻窪の大田黒公園を訪れました。そこで当時ご指導をいただいていた上井正司先生にお会いしました。先生は句会の時は定点観察のため大田黒公園に寄るのだと言われました。初めて聞く定点観察に付きお尋ねすると、場所を決めて定期的に訪れ句材を探すことと言われました。大田黒公園は場所も狭いし、一度観察した後は同じで新しい発見など思い浮かびませんというと、意識を持って観察を続けていると、そのうちに自ずと分かってくるよと言われました。言われるままに、句会の在る日の午前中を定点観察時間として、千葉から荻窪に行く途中の上野公園、皇居東御苑を定点観察地に選びました。

上野公園内にある東京国立博物館は、句会の在る日の午前中を過ごす最適の場所です。今までは門を入ると真っ直ぐ館内に向かっていましたが、定点観察を思い出し、入る前に館の周囲を観察して歩きました。敷地の片隅に今まで気付かなかった本を手にしたジェンナーの銅像がありました。今は種痘も影を潜め、孫たちに聞いてもその名前を知らないジェンナーですが、私には国民学校の学童時代を思い出させる懐かしい名前です。

新樹光医学書を手にジェンナー像     もきち

或る日の上野公園は土曜日の事とて大勢の人で賑わっていました。特に最近は外国人の姿が驚くほどです。国柄もいろいろです。昔は韓国や中国の人はその国らしい顔つきでそれとなく分かったものですが、今は日本人と見分けが付かず、言葉を聞かなければ分かりません。句材にしたいのですが作句は難しい。大道芸に見入る人達を観察しながら、ふと空を仰ぐと飛行船が音も無くゆっくりと大きく輪を描きながら青空を飛行しています。何十年ぶりに見る飛行船に郷愁を感じました。

秋うらら大きく回る飛行船        もきち

ある日の上野公園は雨でした。幸い小降り程度なので雨の日の風情は如何なものかと公園内を逍遥、こんもりした木陰に大きな石塔が建っています。彰義隊の墓でした。現役時代上野支店に六年間勤務していましたが、今思うと外観を上滑りしただけで殆ど知らないことに驚いています。西郷隆盛の銅像や野口英世像はともかく、王仁博士碑、上野大仏、古墳時代に作られた前方後円墳の摺鉢山、天海僧正毛髪塔、東照宮のお化け灯籠など最近知りました。彰義隊の墓所も定かではありませんでした。江戸城今は皇居となった方向を向き雨の中ひっそりと立つ墓石、彰義隊の隊士達の思いは如何ばかりのものか、思いやるだに胸の中が熱くなるのでした。

皇居向き彰義隊の墓秋の雨       もきち

句会で荻窪に行くとき、東京メトロを使用するときは大手町で乗り換えです。この午前の時間を利用して、皇居東御苑を第二の定点観測地にしました。ある日、皇居二の丸庭園で今を盛りの花菖蒲を観賞し、旧江戸城天守台跡地に着き、松と石垣、青空を写真に撮ろうと構図を考えていると、中国人夫婦が来て石垣を背景に写真を撮り始め、なかなか退きません。そのうち男性が石垣に走り寄り、石垣を背に大の字になり、笑いながら奥さんに何かを言っています。漸く去ったら次にアメリカ人夫婦が来て、芸術家風の髭を伸ばした亭主が、同じポーズで天を仰ぎ目を瞑って奥さんが撮影。次に来た若い姉弟らしき台湾人に大の字のポーズを教えた所、喜んで写真を撮り合っていました。日本人のこういう光景は見たことが無いので、外国人との観賞の受け止め方の相違を面白く感じました。

風薫る石垣を背に大の字に       もきち

上井正司先生の「定点観察」に私の「俳句工房」を付け加えて、これからも大事にしていきたいと思います



鵜沼宿と芭蕉    酒井淑子  (犬山)      2017年7月       

犬山の内田の渡しより木曽川を渡った所に中山道六拾九次の五拾弐番目の鵜沼宿がある。

1688年元禄元年芭蕉哲の一人、内藤丈草はこの内田の渡しより上洛したことだろう。故郷を捨て、旅立つ丈草に想いを馳せ、鵜沼宿の芭蕉の句碑を巡る。

中山道鵜沼宿は明治二十四年の濃尾大地震でその殆どが倒壊したと言われている。

江戸時代の「鵜沼宿家並絵図」を元に脇本陣を務めた坂井家の建物が復元され公開されている。

 松尾芭蕉は貞享年間に三度にわたり鵜沼宿を訪れ坂井家に滞在したと伝えられている。貞享二年三月「野ざらし紀行」の芭蕉は坂井家に一泊して木曽川を下り桑名を経て熱田より四月に江戸へ帰った。貞享五年年岐阜で鵜飼見物をした芭蕉は七月再び鵜沼の坂井家にて

の水泡立つや蝉の声

を詠んだ。

同年八月八日三度坂井家に滞在

ふく志るも喰へば喰はせよきく乃酒

の句を即興で詠み、その句を自ら刻んだと伝えられる。この珪化木の句碑は現在、坂井家の隣の町家館と言われる資料館にガラス張りの小屋の中に展示されている。

同年八月十一日鵜沼を発ち木曽路を更科紀行に旅立つ。

送られつ送りつ果ては木曽の秋

と詠み美濃との別れを惜しんでいる。

芭蕉の句碑を観た後は旧中山道の雰囲気の残る街道を歩く。

脇本陣坂井家より太田宿に向かって、大安川を過ぎたあたりに高札場が当時のままに復元されている。さらに行くと「赤坂の地蔵堂」があり道標を兼ねたお地蔵様には「左は江戸せんこうしみち右は在所みち」と刻まれている。さらに峠道を上がるこの辺りにはマンション群が立ち並び現代と江戸時代があたかも交差しているような光景である。

マンション群を抜けると、うとう峠一里塚がある。頂上の旧中仙道うとう坂のこの辺りは「日本ラインうぬまの森」と呼ばれ市民憩いの散策道となっていて四季おりおりを楽しむことが出来る。


ネモフィラと鯖缶      渡辺 慢房 (ひたちなか)      2017年6月

 恥ずかしながら、ネット句会に全く同じ句を二度投句してしまったことがあります。

「ネモフィラの丘より望む青葉潮」というのがその句です。

 最近、TV等で紹介されることも多いので、ピンと来た方もいらっしゃると思いますが、私の住む茨城県ひたちなか市の、国営ひたち海浜公園の見晴らしの丘で、この句を詠みました。

 見晴らしの丘は、春はネモフィラの丘と呼ばれ、ブルーに染まります。また、秋にはコキアの丘と呼ばれ、一面真っ赤となり、色とりどりのコスモスに縁取られます。

 ネモフィラの輝くブルーと空の明るいブルー、そして丘に登ると望める鹿島灘の深いブルーの三重奏は、「浄土」というような言葉さえ頭に浮かんで来るような絶景で、思わず来るたびに、同じ句を詠んでしまったりします。

 ただ、ネモフィラの見ごろは、ちょうどゴールデンウィークに重なるために、ここ数年は、異常に混雑するようになってしまいました。ひどいときには、駐車場に入るのに数時間待ち、入場券を買うのに数時間待ちというような状況になるようです。

 私も、毎年楽しみにネモフィラの丘を見に行くのですが、裏技を使わないとなかなかスムーズに入場できないようになってしまいました。裏技は、ちょっとここには書けませんので、お出かけになる方は個別に御連絡ください。

 ネモフィラが見ごろの時は、チューリップもまた綺麗な時期です。たまごの森というエリアでは、広々とした松林に数えきれない品種のチューリップが植えられており、木漏れ日と潮風に揺れています。こちらも是非、見逃さないようにして戴きたいものです。

 また、見晴らしの丘は、ネモフィラの花が終わるとコキア(箒草)に植え替えられ、夏は一面の緑、秋には前記のように、高い空の下で真っ赤に染まる丘が楽しめます。こちらの景色も、一度は是非ご覧になって戴きたいものです。

 海浜公園の中には、レストランや食べ物の屋台などもありますが、多くの方は弁当を持って来て、ピクニックを楽しんでいます。私も、いつも途中のスーパーで、ビールや食料を買って行きます。

 ビールは一本ずつ、保冷用の氷と一緒に袋に入れておくと、かなり長時間飲み頃の温度が保てます。食べるものは、出来合いの弁当などでも良いのですが、現地で何か一手間かけた方が、行楽の気分をより味わえるため、簡単な材料を持って行くことが多いです。

 最近の定番は、フランスパンと鯖缶です。鯖缶は、味噌煮でも水煮でもかまいませんが、私は味噌煮がお勧めです。それに、一緒にパンにはさむ適当な野菜、カットレタスやキュウリが手軽ですね。

 パンや野菜を切るのにわざわざ包丁を持って行くのも大げさなので、私は百均で3本セットで売っている文房具のカッターなどを使います。また、パンに具の鯖を挟むときには、箸が無いと難儀します。

 パンは2センチの厚さに切り、具を挟むための切れ目を入れます。ここに適当に崩した鯖と、スライスしたキュウリなどを挟めば出来上がり。スライスチーズやマヨネーズがあればなお良いですが、無くても全然OKです。これで、簡単で美味しいランチの出来上がり。何よりビールに合うのが嬉しいです。

 鯖缶のほかに、スーパーで売っている出来合いのお惣菜などを買って行ってパンにはさんでも良いですよ。ポテトサラダなどは定番ですが、きんぴらごぼうなども、案外いけます。いろいろと試してみるのも楽しいですね。

 皆さんも是非、ひたち海浜公園においで下さい。


ある床屋談義    松井徒歩(名古屋) 2017年5月
  
     
 私は理容業を生業としているのであるが、頑固な性格が災いしてお客と論争となることも度々である。先日もあるお客と、休日はどうしているという話になり、私が「木蓮の花を俳句のために一時間眺めていた」と語ったのである。
 するとそのお客は「そんな馬鹿な話があるか、見たまんまさっさと作ればいいだろう」と言うので、いやいやそんなに簡単にはいきませんと抗弁したのである。

 すると、「たかが五七五、気取りすぎだ」と言われ、むかっときた私は「俳句を知らない人には俳句の良さや難しさは理解しにくいかもしれませんね」と返答したのである。
 その後が最悪の展開となり、「知らんものには分からんというのは失礼だろう」と怒り始めたので、私も興奮して「私にも説明の能力不足があるかもしれないけれど少し突っかかり過ぎではないですか」というようなことを言ったような記憶があるが何を言ったのか?
 その後はやや滑稽な展開となり、お客が苦笑いしながら「おいおい鋏を振り回して喋るなよ、あぶないだろう」。
 私もはっと我に返り、照れ笑いしながら「そうですね興奮しすぎました」と鉾をおさめたのである。



句会はじめ    新井 酔雪(岡崎)   2017年4月

 職場の上司に勧められて始めた俳句。やってみるとこれが存外に面白く、一年を待たずにはまってしまった。俳句が上手くなりたいと思い、その上司に相談すると、句会に入るか、俳句結社に所属するとよいとのこと。いきなり句会だなんて、自信がない。その場で、「一句作ってください」と言われたらどうなる。第一わたしは人見知りである。それで、「伊吹嶺」のお世話になることになった。

 俳誌「伊吹嶺」を読み、俳句の本を読み、勉強した。初めの数年は、栗田先生に取っていただく句も増えていった。しかし、三句選ばれるようになってからが苦しかった。どんな句がよくて、どんな句が悪いのか分からなくなった。結局独学では限界があると思い、「いぶきネット句会」に入り、誘われて「伊吹嶺句会」に入った。

 栗田先生曰く、「句会は俳句を総合的に学べるよい機会だ」と。その通りだと思う。人が作った俳句に真剣に向き合う選句。選句の一時間半の沈黙が、俳句への心構えを強くする。そして披講。「あっ、取り損ねた」、独り善がりになりそうな自分を諫め、客観へと導く。最後に先生方のご講評。これがとても勉強になる。俳句の本には書いてない学びがある。今後も句会で学び、句会を楽しみとしたい。


京都・嵯峨野めぐり  梶田遊子 (名古屋)   20173

 私は、京都の嵯峨野をよく散策する。かれこれ数十年前に学生時代のひとときを京都で過ごしたことがあるが、嵯峨野が好きでよく散策した。ところで、その嵯峨野であるが、京都駅からの利便性がよく、京都の観光地の中でも訪れやすい地である。JR山陰本線(嵯峨野線)京都駅から約15分で嵯峨嵐山駅(昔の嵯峨駅)に着く。乗り換えがなく移動も速い。嵯峨野と言えば数々の名所や旧跡が多い。嵐山、天龍寺、野宮神社、常寂光寺、竹林の道、祇王寺、大覚寺、大沢池など、どの場所に身を置いてもよいが、嵯峨野の小径をのんびりとぶらつくこと自体が一番楽しい。JR嵐山嵯峨駅からは山陰本線の旧線敷を活用してトロッコ列車も走っている。そんな嵯峨野において、私のお気に入りは落柿舎である。落柿舎は向井去来の庵で、嵯峨野の情緒を十分醸し出す佇まいでもある。

昔も時折訪れた地であるが、俳句を嗜むようになってからはより思いを募らせて訪ねている。落柿舎の門をくぐれば不思議なことに俳句の世界へと導かれ、嵯峨野での感動句を何とか詠んでみたい気持ちにかられる。落柿舎には多くの碑があるが、やはり次の二句が代表的な碑であろうか。

  柿主や梢はちかきあらし山    去来

   五月雨や色紙へぎたる壁の跡   芭蕉

私は最近ご朱印にこだわっているが、落柿舎のご朱印には「柿守や梢はちかきあらし山」が記されており、感動した。
 最後に嵯峨野で詠んだ私の拙句の一部を紹介したい。

鳶高く舞ふ紅葉の嵐山      遊子

  妻に選る古都の土産にさくら餅  遊子

(嵐山・渡月橋付近に有名なおいしい和菓子屋あり)



遣唐使の風待ち港     八尋 樹炎  (糸島) 2017年2月

 福岡県は鳥取・島根・山口と並び、元来裏日本ですが、古代、遣唐使時代は華々しい国の表玄関で数多の万葉人の往来の地でした。母の故郷が志賀島だったせいで、「金印」や、人々の暮らし向きに興味を持ち、度々出かけて行く島です。この地は主に漁業・製塩・海運に従事して居ました。

又この時代は、博多湾の入り口に浮かぶ志賀島・能古島・玄海島は共に「大宰府」への外敵侵入を防ぐ砦で、防人の島でもありました。飛鳥・奈良・平安時代の遣唐使は、大和から瀬戸内海を抜け暴風雨に遭いながら、糸島半島に辿りつくも、目指す唐・新羅は遥か彼方「万葉集」には「韓亭(からどまり)」と書かれているのは今の糸島市「(から)(どまり)」で、危険な外海へ出る風待ち港でした。長い時は一月も出航出来ないことはざらで、こんな航海を続けていればこそ、月や雁となり、故郷や妻に逢いたいものと、万葉人の詩が生まれたのでしょう。

星を見ても、月を見ても、波を見ても思う事は唯一つ、早く帰りたい。生き延びて妻に逢いたい。せっかく出航出来たのに、早くも風待ちかぁ・・・と遣唐使一行は落胆したに違いないのです。

韓亭能古の浦波立たぬ日は
  あれども家に恋ひぬ日はなし
          (作者未詳)

風吹けば沖つ白波怒みと
   能古の泊まりに数多夜そ寝る
           (作者未詳)

遣唐使が家を偲び、残した家族を恋しく詠んだ詩が糸島の昔と変わらない引津湾の風待ち港に詠まれ歌碑が並んでいます。そこからの眺めは悠久の時空を感じさせる古代の海そのもので、今も広がっています。

携帯電話やパソコンが揃う現代は、このような美しい夫婦愛の詩は生まれなかったかもしれません。

遣唐使派遣は、唐の混乱や日本文化の発達を理由として停止になるまで続いたそうです。
玄海の飛沫を浴びて渚を歩けば、中国文字・ハングル文字の漂着物の多さに驚いてしまいます。

志賀の海女の一日も落ちず焼く塩の
   辛き恋をも我はするかも

                  (作者未詳)

 辛い恋・・・故郷への恋詩と言われています。




冬の季語に纏わるあれこれ   鈴木未草 (知多)2017年1月

 歳時記をめくり、いくつか思いつくまま書いています。

『衾(ふすま)』

詩吟の会で近代詩を合吟しました。島崎藤村の「千曲川旅情の歌」です。その一節に《しろがねの衾の岡辺日に溶けて淡雪流る》とあります。耳で聴いた時は、馬の飼料?と思ったのですが、調べると、布団の古い言い方らしい。さすが、詩人は言葉遣いが素晴らしいと感心したのでした。ちなみに、この長い詩を暗唱できる方が意外にいらっしゃる。主人もその一人です。

『皸(ひび)

一昔前のことです。職場を去る事になった先輩と別れのあいさつをして握手をしました。ハッとしました。皸だらけ、荒れに荒れてガサガサの手でした。お母さんの介護をされていたのです。何事にも妥協を許さない先輩でしたが、ご自分にも厳しかったのです。私は自分の手を見て恥じ入りました。、私の母も皸あかぎれ満載の手をしていたように思います。

『鼯(むささび)』

この前、登山のため、「丹沢ホーム」という宿に泊まりました。その食堂にパソコンのモニターがあって、なんだか、銀河の映像のようなものが映っていて、時々動くのです。気になって近寄ると、なんと、ムササビのしっぽだったのです。その宿の、道を挟んだ向かいの林の一本の木に巣箱があって、その中に住んでいるらしく、中に仕掛けられた赤外線カメラで、動く様子がわかるという仕組みでした。しっぽを布団みたいにしてくるまって小さい耳だけが見えました。夜行性なので丸い窓から外の様子をみたりしていました。ときどき、出ていくときもあるそうです。その宿は、登山だけでなく、渓流釣りのお客さんも来るそうで、ご主人は話好きの気さくな方でした。ムササビも安心して住みついているのです。

『マント』

雪国育ちの私は、小さいころマントを羽おって、通学していました。赤いラシャで、手が出るところにポケットのような蓋がついていました。ランドセルごと羽おれるので、とても便利。三角の帽子がついていて、少しぐらい吹雪いても平気でした。少し、重たいラシャの生地が安心でした。あのマントが懐かしくて、三か月の孫にマントを買ってしまいました。軽いふわふわのですが。




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