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漢 俳 市川 克代 (北名古屋)2016年12月
母が詩吟の教室を開いていた関係で、私も詩吟に親しみ、数年前まで中国の漢詩の舞台を訪ねる旅行に参加していた。
旅行中、中国の方を招待して「日中友好のパーテイ」が開かれたが、その折り、中国でも漢俳(俳句?)を作る人がいると知った。 おおむね年の多い方ばかりだったが、早稲田大学に留学していたとか、東北大学を卒業したとかいう経歴の方もいて、中日友好協会に関係する方が多かったと思う。
漢俳について説明があったように思うが、自分は中国語が分からないし、通訳の人(中国人)は多分俳句がよく分からなかったであろうし、日本語の助詞は中国人にとってなかなか難しいという情況で、印刷物で、なるほど漢字で五・七・五文字だということだけ理解した。そのとき頂いた印刷物から漢俳を三句紹介します。
@ 贈日本俳人華團 (其の三)
趙撲初(一九〇七年生まれ)
緑蔭今雨来 (緑蔭 今雨来る)
山花枝接海花開 (山花の枝 海の花に接ぎて開き)
和風起漢俳 (和風 漢俳を起こす)
漢詩のように脚韻を踏んでいる(来・開・俳)が、必ずしも必要条件ではないようだ。
A 贈日本友人 徐放(一九二一年生まれ)
詩友喜相逢 (詩友 相逢うを喜ぶ)
臨行休唱陽関曲 (行くに臨み 唱う休れ陽関の曲)
惜別嘆匆匆 (惜別匆匆たると嘆く)
王維(唐)の「元二の安西に使するを送る」のイメージ。季節は原詩より春である。脚韻はない。
B 寒山寺
呉瑞鈞(一九四三年生まれ 女性)
楓橋喜快晴 (楓橋 快晴を喜ぶ)
寒山小径通幽所 (寒山の小径 幽所に通じ)
鐘声伴我行 (鐘声 我が行く所に伴う)
張継(唐)の「楓橋夜泊」がイメージされるが、「楓橋夜泊」によれば季節は晩秋から初冬である。一、三句末は同韻。
A、Bは有名な漢詩を下敷きに、日本の和歌の本歌取のようなスタイルだが、歴史の長い中国の俳句(?)は、日本と全く違う。漢詩本来の平仄の規則を私は知らないので、脚韻以外の規則があるかどうかは分からない。
今の中国でも漢俳なるものは作られているのかしら。
兼題 有井真佐子 (広島) 2016年11月
俳句を始めた当時兼題は「季語」を出された。習い始めだから、それはそれで勉強になった。
俳句の先生が代わられ兼題は一変し独特のものになり兼題の想像が広がり私は楽しい。
例をあげると、「細長い物」」丸い物」「尖った物」「揺れる物」「楽器」「固有名詞」「菓子」「飛ぶ物」「金属」「握り手がある物」「赤いもの」「尻尾がある物」「プラスチック」「上にあるもの」「薄い物」「深いもの」「ツルツルした物」「留める物」「ふにゃふにゃした物」「溶ける物」「ごちゃごちゃしたもの」「面」「有難いもの」「パピプぺポの音を使って」「遠いもの」「擬音語・擬態語を使って」「丸める物」「穴のあいている物」など。良くも先生考えられたな〜と思う。
一番ユニークなのは前衛芸術家の草間彌生さんとの関わりである。草間さんと言えば瀬戸内海に浮かぶ「直島」にデザインされた「黄色のかぼちゃ」が有名であるが。
兼題は草間彌生さんの絵画「愛はとこしえ」を見てイメージを作句するというものだった。「愛はとこしえ」の絵は白黒の線描画で、大ざっぱに説明すると耳輪を付けた人の横顔、チョーカーをし逆さまになっている人らしき顔、目玉の様な物が沢山連なり、睫毛らしき物が大小ある。魚がいろんな方向にいて曲った長い海草のようなものが絵の中ほどに。というような独特の感性の作品だ。同じ絵を見ても体の中を通り抜けて出る言葉は皆違う。
難しい「兼題」だったが言葉と格闘しながら一句に仕上げた。イメージを作句すれば「即物具象」で学んできた私はそれが崩れる危険性が潜むのではと思いながら。
ちなみに指導された先生は「俳句甲子園」の選者をされている。
愛はとこしえの作品より
まつ毛つけ魚が遊ぶよ夜の秋 真佐子
兼題・ふにゃふにゃしたもの
初霜や我がひよめきに軽く触れ 真佐子
彦根散歩 浜野 秋麦 (彦根) 2016年10月
観光で彦根に来た方が、必ず訪れるのが彦根城でしょう。実際、お城の他には何も無いなどと云う向きもあります。何しろ、戦後九期に渡って市長を務めたのが、井伊家十六代当主という土地柄です。さしたる産業も発展せず、旧態依然の城下町の雰囲気が残っています。
JR彦根駅を出て、大通りを西へ真っ直ぐ突き当たりがお城です。いろは松の並木に沿って中堀を越え、内堀に突き当たればすぐに入場口です。ここから、天守閣まで登って、南側の京橋口へ降りて来るのが一般的な周遊コースでしょうか。いろは松の近くの埋木舎(うもれぎのや)、入場口の脇にある彦根城博物館(藩主の日常の住まいであった御殿の場所に建物を再現)、城の北側にある大名庭園の玄宮園、楽々園など付帯施設を隈無く見ていると一日費やすことも可能です。城の周辺にはこの他武家屋敷、足軽組屋敷なども残されていて、城自体の、櫓や枡形などの防衛施設とともに歴史マニアには必見です。
云わずもがなですが、天守閣にエレベーターはありません。(再建した城ではないので当然ですが)何時まで登れるかなと思う梯子のような階段です。その代わりと言っては何ですが、天守閣前の広場では一日に三、四回、ひこにゃんが迎えてくれるハズです。
天守閣から眺望できる石田三成の佐和山城跡は、JRを挟んだ東側です。こちらは彦根城と比べるとだいぶ険しい地形で、山城の雰囲気を濃厚に残した物だったのではないかと想像できます。
さて、だいぶ散漫な彦根城案内になりましたが、京橋口を抜けると、「夢京橋キャッスルロード」と名付けられた通りに出ます。規模は小さいですが、江戸時代風の街並み景観を演出した店舗が並んでいます。昼食やお土産はだいたいの用が足ります。観光シーズンはかなりの賑わいで結構なのですが、大半は年配者で(自分のことは棚に上げて)笑えて来るほどです。
彦根城で俳句となれば、森川許六を外すことは出来ません。蕉門十哲の一人、彦根藩士です。三百石の家柄とのことですから、上士の階級で、槍術、剣術、馬術、書道、絵画、俳諧の六芸に通じていたので、芭蕉から「許六」の号を授けられたと伝わっています。江戸勤番の時に芭蕉に入門しました。その入門時に提示した
十団子も小粒になりぬ秋の風 許六
の句は、許六の代表句となったばかりでなく、取り合わせ(二物衝撃)句の代表例としても知られています。
この許六の墓所は彦根駅から城に向かう途中の左側一筋奥に入った長純寺に在りますが、少しわかりにくい所です。昨年、三百回忌の法要があったのですが、その時は、墓所の存在も知らずにおりました。実際に、許六が葬られたのは、別号の一つである「五老井」と名付けた庵の土地だそうです。五老井の庵は城下を離れた佐和山から続く山並みの裾(現、彦根市原町)にありました。
彦根には、近江蕉門五老井の流れを汲む俳人がおられ、結社もあったと云うことなので、そうした由緒に繋がる場所も訪ねてみたいと思っています。
青い空と青い海と 鈴木みすず (ふじみ野) 2016年9月
七月の初旬に、夫婦でハワイに結婚記念の旅行をしました。いつもは子供たちの家族と一緒に行くので、ハワイ島、マウイ島などいろいろ観光するのですが、今回は二人だけだったので、ホノルルのワイキキで一週間をのんびりと過ごしました。
夕日がことのほか美しく、宿が浜辺からすぐ近くだったので、毎日浜辺を散歩して、夕日を眺めました。四階建ての船で、サンセットクルーズも楽しむことができました。
日曜日は浜辺の近くの教会の礼拝に出席しました。ステンドグラスがとても美しい教会で、出席者は二千人くらい、日本の教会とは規模が違います。スチールギターの演奏で、讃美歌はゴスペルソングと、明るく親しみやすい礼拝でした。説教もユーモアがあり、笑い声が時々聞かれました。
何よりもどこまでも透き通って、抜けるように青い空、潮目の色がグラデーションになっている海の色。空気がきれいだったこと、星空が美しく、星が数え切れないほど見えたことなどが、楽しい思い出となりました。
巨船見ゆ藍の潮目の濃く薄く みすず
潮風の抜くるトロリー夏の雲 みすず
散 歩 西村 信子 (名古屋) 2016年8月
北に小牧城、南には遠く名古屋駅のツインタワー、東の空には飛行機の離発着を望む。
春には畦に土筆、犬ふぐり、と日々緑の色が濃くなる。耕転機が土を返すと、その後ろに白 鷺、烏と餌をあさる。 用水に水が流れだすと鯉が一気に増えて胴をくねらせて鯉の恋が始まる。
田に水が張られると、吹く風も涼しくなり四方より蛙のな鳴き声で賑やかになる。
散歩のたびに農作業の方を遠くからながめ、時には近寄って、鎌を研いでいる砥石を見せてい ただく。
花の咲く頃には、三椏の咲くお宅の庭へおじゃまして手に触れてみたり、大山蓮華の咲くお宅 へ足を運び枝を引き寄せ薫りを楽しむ。
花に誘われ気付けば、農家さんのお庭におじゃまして犬に吠えられる始末。
青田に風が吹くとまるで龍が走る如くに青田がうねり身が竦む。
稲が実ると投網を打つ様に雀が広がったり投網を引く様に雀が稲の中へ入る景は見ていてあき ません。
秋には、畦道に蝗がびっしり夕日を浴び、こんなにも沢山いるものかと驚く。刈入れは今も稲 架を組んで干す所もあり、日々散歩が楽しくなります。
一年を通しての農村風景は、私にとっては目新しい景色ばかりです。何か句材は無いものか と「見える人には見える。聞こえる人には聞こえる」と口ずさみながらの散歩。
これが句に困った時の俳句工房です。
キャスリン・バトル 関根 切子 (東京)2016年7月
キャスリン・バトル虹立つやうに唱ひたり 細見綾子
平成二十年に伊吹嶺に入会した私は、もちろん細見綾子先生のことは何も知らず、綾子先生に師事した方々が思い出話をするのを羨ましく思っていた。
数年前のこと、林徹著「細見綾子秀句」の中に掲句を見つけ、その鑑賞を読んで驚いた。鑑賞は「昭和六十三年、八十一歳の作。綾子が東京文化会館でキャスリン・バトルを聞いたのは六月四日の土曜日である。キャスリン・バトルは白人黒人の混血ソプラノ歌手。句集題名『虹立つ』はこの句からとられた。「虹立つやうに唱ひたり」はソプラノ以外ではあり得ない。うまい比喩である。唱声が視覚化されていて、当日の歌がいかに素晴らしいものであったかを読者は想像することが出来る。」とあった。
その昭和六十三年六月四日、当時高校生だった私は東京文化会館でキャスリン・バトルを聞いていた。素晴らしい歌声だった。真っ赤なドレスの胸に大きな黄色いリボンを結びその端が裾まで流れ、それはまるで虹のようであった。
私はその日綾子先生とすれ違っていたかもしれない。何より同じ場所で同じ歌声を聞いていたのだと思うと嬉しかった。綾子先生との繋がりを密かに胸に秘めていようと思った。(結構しゃべってしまっているのだが・・・)
余談になるが「細見綾子秀句」のあとがきによると、綾子先生が最初の結婚ののち住んだのは東京の本郷区小石川原町とのこと。私が住んでいる文京区白山はその原町だったところである。九十年前綾子先生はこの白山に住んでいたのだ。これも不思議な縁であると勝手に思っている。
吟 行 野崎 雅子 (名古屋)2016年6月
私が俳句を始めてから、休みの日に夫と出かける際、吟行地となる所へ行くようになった。
その際、夫は趣味の写真撮影をする。夫はアマチュアの写真の会に属していて、奈良の鹿の角切り、愛知県半田市の潮干祭の写真で賞を貰っている。
夫は「君が俳句をやっていなかったら、行かなかった所へ行けたお陰で撮れた写真だ。」と、喜んでくれた。
本当に、私自身俳句との出会いのお陰で、やって居なかったら行かなかった所へ行け、俳句独特の多くの言葉を知った。
何より、日常の中の今まで見過ごして来た事に目をとめる事ができ、又感動できる感性が以前に比べはたらいていると思う。
又、俳句の仲間、先輩との出会いも大変貴重な宝である。
日々の営みに感謝し、もっともっと俳句に自分の気持ちを詠めるよう研鑽を積んでいきたいと思っている。
犬 山 橋 安藤 一紀 (小牧) 2016年5月
犬山と言えば、師弟句碑とそこから見上げる白帝城を思い描くが、俳句を習う前は犬山橋だった。三連のトラス橋が如何にも頑強で鮮明な印象がある。昭和30年代の遠足は古里の岡崎では、市内は志賀重昂の南北亭のある釈迦堂、蒲郡の竹島、香嵐渓の足助などで高学年になって遠方の東山動物園や犬山遊園の遠足になる。犬山は滅多に行かれない待望の場所だったからか、今だに郷愁を感じる。
犬山橋は、木曽川を跨ぎ愛知県犬山市と岐阜県鵜沼市を結ぶ交通の要所だった。現在は電車専用と自動車歩行者用の二つの犬山橋が架かっているが、平成12年までは三連トラス橋を名鉄電車と自動車歩行者が共用し、国道41号線としても長く使っていた。その頃橋で電車は徐行しているものの橋の本体が不気味に揺れ、鋼鉄の車輪を橋上の線路に軋ませ、自動車の直ぐ脇を併進するので、車を運転して渡る間電車の来ないことを期待して、何時も弱者的な緊張感を味わった。朝夕の通勤時や行楽期は激しく渋滞し、交通誘導の鉄道員が手旗を持ち立番した。
犬山橋の下流方向に真三角形で程よい高さの伊木山173mがあり、木曽川の流れに正対して絶景を映している。内藤丈草の「別れの岩跡」は犬山橋の直下にある。この流域で行われる木曽川鵜飼の篝火も犬山橋に付随する夜景だ。周りには、楓の寂光院、桃太郎神社、氷場跡、対岸には川上貞奴の貞照寺、鵜沼宿跡など名称旧跡が豊富だが、犬山と言えば、師弟句碑とそこから見上げる白帝城がイメージされるが三連トラス橋の「犬山橋」も懐かしい。
内藤丈草のこと 酒井 淑子 (犬山) 2016年4月
芭蕉十哲の一人とも四哲の一人ともいわれている内藤丈草は尾張国犬山生まれ本名を内藤林右衛門、寛文二年(一六六二)生まれ、四十三歳で元禄十七年(一七〇四)二月二十四日に没。父は犬山城主成瀬正虎に仕えている。丈草三歳のとき生母と死別。少年時代漢学を学んでいる。
二十歳頃に犬山先聖寺の玉堂和尚に参禅、その後病気を理由に武士を捨て遁世、のちに京に出て深草に隠棲している。元禄二年(一六八九)落柿舎で芭蕉に会い入門、蕉門に名を知られるようになった。元禄七年(一六九四)大阪の芭蕉の病床に駆けつけた。
看取りの場で
〇うづくまる薬のもとの寒さ哉
を詠んだ。その後三年の喪に服している。
元禄十三年(一七〇〇)母の三十三回忌には故郷の犬山に帰っている。
犬山市内の丈草の遺跡
@ 犬山城正門前の句碑
〇涼しさを見せてやうごく城の松
A 丈草産湯の井戸跡(丈草生誕地)
市内新道の町家の敷地内に丈草産湯の井戸がひっそりと遺されている。
B 七言絶句碑
犬山資料館前には丈草の七言絶句の漢詩の碑がある。
C 先聖寺の句碑
〇ながれ木や篝火の空の不如帰
D 西蓮寺の丈草坐禅石と句碑
丈草が坐禅をしたといわれている岩と句碑がある。
〇精霊にもどりあはせつ十年ぶり
E 丈草別れの岩
犬山鵜飼の乗船場近くの内田の渡し跡には「丈草別れの岩跡」がコンクリートに埋もれるようにある。
F 尾張冨士の中腹にある句碑
〇水底を見て来た顔の小鴨かな
丈草の遺跡探訪のコースは尾張冨士の句碑以外は比較的狭い範囲に点在しているので犬山にお出かけの折にはぜひ遺跡巡りをお勧めしたい。
金のなる木に花が咲きました 大野 絹子 (名古屋) 2016年3月
十年前に人差し指位の枝をいただいて挿した「金のなる木」が、五十センチ程になりました。
年中軒下に置いてあり、暮れに寒さよけの為、大きめのゴミ袋に入れようとしたら、いくつもの枝先に小さなつぼみが沢山ついていました。雪の前日には袋の口を結んで翌日には、ほどき太陽に当てたりして、お正月過ぎにとうとう花が開きました。待ちに待った可愛い花です。
それに今年は東山植物園「椿の苑」で拾ってきた椿にも、花が咲きました。椿も五〜六年かかっています。又庭隅の一坪畑には、グリーンピースが一メートル近くに育っています。これも十年前にこちらへ越してきて種を買ったもので、毎年引き継いで沢山の実をつけてくれます。大好きなグリーンピースを思い切り食べたい一心で育てています。
このように自然に接する気持ちは俳句を作るようになって培われたと思っています。新参者ですが、皆さま宜しくお願いします。
ネット句会に入会して 中村 正人 (桐生) 2016年2月
私がネット句会に入会したきっかけは、?俳句会の選句結果の講評を見たことです。講評欄には、入選句ばかりでなく、問題点のある多数の俳句も併せて講評をしており、大変勉強になると思いました。しかし、パソコンは不得手のため、多少不安を抱えながらも、駄目元で試してみようと入会しました。
入会すると、沢山の温かい歓迎のメールをいただき、驚くやら嬉しいやらで不安も吹き飛び、やる気が出ました。
投句、投句一覧、選句一覧、合評会、添削の手順を経て、原句が見違える俳句に変化し、
ネット句会の素晴らしさが分かりました。特に合評会は、参加者から様々な意見や質問が次々となされ、質問に対する返答も直ちに行われます。また、その場に応じて添削句も提示されます。このような状況を目の当たりにし、参加者の熱気が画面をとおし、ひしひしと感じられます。五十句あまりを一時間ほどで処理するスピードとパワーには圧倒されます。そして、様々な知識や俳句の理解を深めることが出来、大変有り難く思います。単刀直入な短い言葉のやり取りの中に、お互いが理解し合い、着々と句会が進行します。これがネット句会の醍醐味であると実感しております。
おかげ様で入会して一年を迎え、ネット句会は生活のリズムにすっかり溶け込んでいます。皆様のご指導、ご意見をとおして、即物具象の写生句を目指します。今後とも、よろしくお願いします。
ラジオ生活 鈴木 未草 (知多)2016年1月
二〇一一年《ご覧のアナログ放送の番組は本日終了しました。今後はデジタル放送をお楽しみ下さい。》のテロップを最後に、我が家からテレビは姿を消しました。以来ラジオの生活です。
それまでの流れっぱなしの状態から、番組を選んで聴くようになりました。朝の六時から七時半は時計がわりにワイド番組を聞き、語学と邦楽はタイマーで録音、夜は音楽を楽しんでいます。
困ることは、ニュースの映像がないので、詳細が理解しにくいこと、旬のドラマやタレントさんの話題、流行語に付いて行けないことです。ですから、旅先の宿泊場所などにテレビがあると、思わず見入ってしまいます。特にCMが新鮮で面白いです。
この生活はいつまで続くか分かりませんが、今のところまずまず快適です。
神 楽 有井真佐子 (広島) 2016年1月
中国山地沿いの広島県、島根県などの農村では秋の収穫が終わると、いたる所で神楽が奉納される。これは農耕民族である日本人が日の神天照大神に五穀豊穣の感謝と祈願をこめて行なわれるものだ。
「口上、舞い、音」で成り立っている神楽。神楽では囃子方を「楽人」と呼び普通は舞台の左袖に座り楽器(大太鼓、小太鼓、銅拍子、笛)を奏でるが、これも楽譜は無く耳と体で覚えていくものと知り驚いた。後継者を育てる為か子供神楽もあり幼稚園児、小学生、中学生もがんばっている。
とりわけ島根県の西部石見の人は神楽好き。石見神楽で用いられる衣装は「舞衣」と呼ばれ、大正時代ごろから次第に華美になり現在のような金糸、銀糸の豪華絢爛の衣装になった。鬼が着る豪華な衣装は三〜四年かけて仕上げるものもあると聞く。金額も一着数百万円もするものがあるそうだ。石見神楽は八調子の激しいリズムで舞うため、光を反射させ波しぶきを型どった鏡のようなものや、風土をあらわす荒波、渦巻き、雲などを胴板やガラス玉であしらい刺繍で止めて奥行きをもたせてある。また衣装の重さも二〇〜三〇sもあり激しく舞う舞い人には体力がいるようだ。
石見神楽の代表演目「大蛇」に蛇胴(蛇の胴体)は欠くことが出来ない。これは一年間ねかせた竹を割ってパーツパーツに胴をつくり、それ用に漉いた石州和紙に特別な糊で重ね貼りして作るそうだ。そのものに色を塗り、うろこを手書きし、つなぎ合わせ頭、尻尾の部分を付けてある。
やはり圧巻は「大蛇」が出る神楽であろう。舞台で大蛇に巻きつかれた武将が大蛇の首を落とす場面では大蛇は口から煙を吐き、あばれ迫力満点だ。この時は楽人の鳴物も最高潮に達する。
また違う神楽団で赤、黄、緑色の大蛇三匹が、からみあって最後に渦巻き状態で舞台に立ち上がるのを見たことがある。これはこれで美しくもあり迫力もある。
広島市内の文化交流館では修学旅行生や外国の人に神楽を鑑賞してもらおうと、いろんな演目がおこなわれている。
客席へ大蛇降り来る里神楽 真佐子
結果せぬ西瓜の蔓の伸び放題 顛末記
市川克代 (北名古屋) 2015年11月号
十年程前空き家となった隣を買って畑にし、夫が、野菜作りを始めた。直ぐに、じゃがいもや大根を始め苺などの収穫も楽しめる様になった。そこで三、四年前からあこがれの西瓜作りに挑戦。昨年は、種ありや種なしの西瓜がよく出来た。殊に黒っぽい皮の種なし西瓜はおいしくて、西瓜好きの母は無論のこと、西瓜の黒い種を嫌がる孫もよく食べ、皆に好評だった。
自信を得た夫は今年はこの黒皮の種なし西瓜をもっとおいしく沢山作ろうと張り切って準備をした。土を耕し、継苗を五本買い、農協ではお勧めのちょっと高い肥料を購入した。苗は順調に育ち、教えに従って余分な蔓はカットし、水をやり、日よけを外し、肥料を足し、稲藁を敷くなど、手入れの甲斐あって、五本の苗はドンドン生長し、次々に花を咲かせた。
さてここからが私の仕事。毎朝勝手口から畑に出て、雌花に受粉させる。今朝は何個受粉させたよなどと夫に報告、早く大きくなれと楽しみにしていた。
ところが、西瓜の実(子房)は一向に大きくならない。変だなと思ったのが七月始め。その間も蔓は元気よく伸びて狭い畑からはみ出す勢いである。私は、野菜作りの本を見て連作障害ではないかと思ったが、夫は継苗だから大丈夫のはずだと言い、蔓が伸び過ぎて実に栄養が回らないのではとか、甘みを増すとかいう高い肥料が良くなかったのではとか、色々考えていたようだ。連作障害を疑った私は違う畑の雄花で受粉をしたらいいかもと思いついて、近所の畑のおじさんから雄花を貰い、冷蔵庫に入れておいて、毎朝受粉作業を続けた。そのうちに西瓜の実は何個か育ち始めたが、日照り続きで水やりが大変だった。夫が、その苗を買った苗屋で、「かくかくしかじか」と話すと、苗屋の婆さまに「そりゃあ、あんたさん、種なしの苗ばかりでは実が出来るはずがないわね」とあっさり断言された。私は内心雄花を貰って良かったと思った。
しかしである。その後大きく育った西瓜を切ってみると、どれも水分不足のせいか、いわゆる棚落ち状態で、悔しさのあまり食べてはみたが、去年の西瓜の味にはとても及ばない。雄花が草臥れていたのか、日照りのせいか、ともかく今年の西瓜作りは終わった。
友人にこの顛末を話すと「種なしの作物が増えているけど子供にはあまり食べさせない方がいいらしいよ」と西瓜作りから近頃の出生率の低下に話が及んだ。
俳句はじめ 新井 酔雪(岡崎) 2015年10月号
俳句に出会ったのは、丁度五十歳のときである。きっかけは、職場の上司が俳句をやっていたこと。特に勧められたわけではないが、趣味のなかったわたしは、自分も俳句をやってみようと思ったのである。
もう一人の上司は、休日になると電車に乗って出かけ、あちこちを散策していた。それならわたしは、あちこちを散策して俳句をつくろうと思った。つまり吟行である。しかし、当時はそんな言葉さえ知らなかった。
初めて出かけた場所は、名古屋市千種区の覚王山日泰寺とその周辺である。なぜその場所かといえば、「ふるさと あいちの散歩道」(愛知県教育振興会)の第一巻の一頁目に載っていた場所だからである。
散策は楽しかった。知らない土地を歩くのは楽しいし、自然、歴史、文化財などに触れるのも楽しい。しかし、俳句はさっぱりだった。一句もできなかった。たった十七音なのに一句もできないのである。
その日の帰り、本屋に立ち寄った。藤田湘子著「新20週俳句入門」(立風書房)が目に入り、すぐに購入した。「20週」というところに惹かれたのである。そして、この本の中で推薦していた「入門歳時記」(角川書店)を購入した。この二冊が初めて買った俳句の本である。
数カ月の間、毎週のように出かけ、俳句をつくっていた。そうこうしているうちに、うまくなりたい、いい句をつくりたいと思うようになった。第一自分がつくった句が、いい句かどうか分からない。
上司に相談すると、句会に入るか、俳句結社に入るといいと言われた。いきなり句会は自信がないので、俳句結社に入ることにした。いずれ句会に入ろうと思っていたので、県内の結社をと考えた。
「伊吹嶺」は、即物具象を標榜しており、インターネットも充実していた。見本誌を求めると、栗田先生からお電話をいただいた。驚くやら、恐縮するやらで、これは「伊吹嶺」にお世話になるしかないと思い、入会となった。
鮒鮨の旬 浜野 秋麦 (彦根) 2015年9月号
鮒鮨や彦根の城に雲かかる
蕪村の有名な一句です。彦根が詠まれた句といえばこの句が浮かぶというのは、私だけではないでしょう。
この句の情景は、季語「鮒鮨」が夏ですから当然、夏の真昼。湖畔の茶店で鮒鮨を賞味していると彼方の彦根城の上に一片の白雲が浮かんでいる。と云ったところでしょうか。
しかし、鮒鮨を良く知っている「近江の人」の中には、ん?と思う人もあるかも知れません。夏が鮒鮨の旬とは考えられないからです。
鮒鮨づくりは、春に捕れたニゴロブナ(琵琶湖の固有種で、この減少が価格の高騰に繋がっています)を塩漬けすることから始まります。鱗と、卵巣を除いた内臓すべてを取り、文字通り塩の中に漬け込みます(この工程を「塩切り」と云います)。
夏の土用の頃に塩切りした鮒を取り出し、丁寧に水洗いし、一日くらい干してようやく飯漬けとなります。桶の中に飯と鮒を交互に詰め、落とし蓋、重石を乗せ、水を張ります。こうして漬け込んだ物は晩秋には食べられますが、正月のご馳走として食卓に供されることが多かったようです。鮒鮨の季節としては冬の方がピンと来るような気がします。
鮒鮨が夏の季語となっているのは、「鮨」の副季語と位置づけられているからでしょう。「鮨」は当然「なれ鮨」で飯を使って乳酸発酵させる食品ですから夏に作るのが最適です。乳酸菌は高温下で優先的かつ急速に増殖するため良好な発酵が得られるのです。なれ鮨でも多くの物は数日で食べられるようになります。熟成に長期間を要する鮒鮨が例外であったのかも知れません。
「鮒鮨」が秋とか冬の季語であったとしたら、蕪村の句の鑑賞もだいぶ違ったものになっていたことでしょう。でも、やっぱり彦根の城には夏雲の方が似合っていそうな気もします。
「俳句ってなあーに」 橋本 勝行(一宮) 2015年8月号
私の購読している「中日新聞」に平和の俳句を募集しており毎日朝刊に記載されています。選者は金子兜太氏といとうせいこう氏です。
七月四日の新聞には、「私の選んだ平和の俳句」のタイトルで有名人の三名が選ばれた俳句が記載されています。
その三句は
シベリヤの捕虜六年で貝になる
平和とは坂に置かれたガラス玉
立ち止まり犬と平和の風を嗅ぐ
当日の一面には平和の俳句として次の句がありました。
一炊の夢の戦後か夏椿 鈴木まさゑ
広辞苑で「俳句」の意味を調べると「季題や切字をよみ込むのをならいとする」と書いてありますし、俳句には季語が必要であると思います。
三名の選ばれた俳句には季語が無いと思います。上記四句の中では、鈴木さんの俳句が季語もあり佳句と思います。ネット句会では季語の無い俳句は選ばれません。
中日新聞の読者が五・七・五ならば季語がなくても俳句であると認識されると困ると思いつつ毎日紙面の平和の俳句を読んでいます。
我がふる里 西村 信子 (北名古屋) 2015年7月号
生まれも育ちも京都。
遊び場は清水寺。夏には音羽の滝壺が水泳場。水の冷たさに泳ぐと言うより足を浸す。
中学校の前は六波羅蜜寺。私達は「六波羅さん」と呼び、昔は荒れ果てたお寺でした。六波羅さんを取り囲む道は不思議な道が多く、行き止まりかと思えばL字の道や抜路地と子供心にも楽しい道でした。
その中でもっとも怖い道は「六道さん」と呼ぶ六道珍皇寺。怖いもの見たさで学校帰り、友と六道さんの鐘楼を覗く(幽霊の人形が置いてあった)。覗いてはキャアと走り六道を抜ける。あとは八坂の塔の横の急坂を登り家路へ。
子供の頃の二年坂界隈は静かで春、秋ぐらいは人出も多くなりますが、真夏ともなれば閑散として人一人通らず鎮まりかえる。
土曜の昼からは会社の寮から謡のお稽古が洩れ聞こえ昼寝の夢うつつに聞く。
六月に入ると旅館の一室から祇園囃しの練習の笛の音が夜風に乗って聞こえる。お囃子が聞こえだすと、「祇園祭や!」と心が弾み、我が家も「コンコンチキチンコンチキチン」と口遊み浮かれ立ちます。今では考えられない程、のどかな良き昭和時代。
結婚を機に転勤で転々とする。まさかこの地、北名古屋が終の住処になるとは思いもよりませんでしたが、自然豊かな町にも馴染み、良き友にも恵まれる。
俳句を嗜むようになり、あらためてふる里の好さを再確認しています。
万 年 筆 松井 徒歩 (名古屋) 2015年6月号
句会での筆記、普段のメモ、日記等、以前は鉛筆かボールペンだったが、今は万年筆を使っている。
高校の進学祝に万年筆を貰った記憶があるが、当時ビックのボールペンが流行りだしたので使うのをいつの間にかやめてしまった。
それが去年の秋、雑誌「サライ」付録の万年筆を使ってみたら中々の書き味で虜になってしまったのである。
それなりの万年筆が欲しいのだが、妻の目が気になるので千円から三千円の安価なものを数本買い求め、パイロットの露草、ペリカンのロイヤルブルー、パーカーのブルーブラックの三種のインクで楽しんでいる。
句会提出の短冊も、句の内容に応じてインクを使い分けている。
勿論清記の段階で第三者の筆跡に替わってしまうのであるが私のそれなりの儀式なのである。
いつの日か奥の細道のような私なりの紀行文を万年筆で認めてみたいと夢見るのは欲張りであろうか。
遍路装束の移り変わり 宇都宮 えみ (愛媛) 2015年5月号
脱ぎ捨てゝ冥土姿へ更衣 沢木欣一
掲出句は、沢木先生が昭和五十四年三月下旬、四国巡礼の旅で詠んだ「遍路」三十句の冒頭句である。菅笠・白衣・手甲・脚絆・頚から札ばさみ、数珠・頭陀袋を提げ、金剛杖を持つ遍路姿に変身したと沢木先生は、著書「俳句の基本 私の俳句吟行」で語っている。
愛媛県歴史文化博物館編集の、「四国へんろの旅 絵図・案内記と道標」の解説を借りるなら、遍路絵馬に描かれた遍路の姿として、瀬戸内海の野忽那島(松山市)宇佐八幡神社には、明治十七年の四国遍路絵馬が奉納されている。
絵馬には男性五名、女性十名、女児二名の計十七名の遍路の姿が鮮明に描かれている。それによると、当時の遍路衣装は、現代の白装束でなく、縞や格子柄、紺木綿などの着物を着ていることがわかる。また、遍路道具を見てみると、頭に菅笠を被り、首に「奉納四国中」と書かれた札鋏みをかけ、手甲で覆われた手には杖を持ち、脛に脚絆を付けている。全員の菅笠の前側に書かれた「い」の文字は、伊予国の遍路を意味する。下部には絵馬を奉納した十七名の願主の名前が記されている。
女性が多いのに驚かされる。松山周辺や島嶼部は、明治から昭和初期にかけて、通過儀礼として若者遍路の習俗が盛んな地域であった。娘遍路には母親や祖母が付き添い、見聞を広めて嫁に行ったという。
愛媛県内子町出身の地理学者・村上節太郎が、愛媛の人々の暮らしや産業、町の賑わいを中心に撮影した写真資料の中に、四国遍路の遍路道の風景も撮影されている。
昭和九年、畑野川(久万高原町下畑野川)の遍路宿の写真に見える遍路は、菅笠を被り、杖をつき、木綿の着物を着て、地下足袋をはいている。背中に運搬具を付け、白布で包まれた荷物を背負っている。
昭和三十三年、四国霊場六十一番札所香園寺の参道の入り口付近で撮影された、夫婦と思われる二人組の遍路は、ともに菅笠に白装束姿で頭陀袋をさげ、地下足袋をはいている。また、男性は首に納経帳ばさみをさげている。
昭和に一般化した白装束も、戦後の混乱期を経て、やがて遍路の服装として定着する。
最近では、「若者は白装束の遍路衣装に抵抗を感じているのでは」との考えから、デザインを学ぶ専門学校生らが、ピンクや青などカラフルな遍路衣装を考案したことも話題になっている。
先日、地元の若者と変わらない服装の、まだ少年のような「お遍路さん」とすれ違った。
人混みの中、二・三メート先の道を見つめ、歩き続ける。そのひたむきな眼差しに、心の中ではあったが、おもわず手を合わさずにはいられなかった。
いぶきネット句会に参加して 弓野スミ子 (静岡) 2015年4月号
ドキドキしながらいぶきネット句会に参加申し込みをしたのは、3年前。
国枝様からの加入紹介が終わったとたん、全国のいぶきネット句会の皆さまから歓迎のメールが受信欄にみるみる届き、びっくりするやら嬉しいやらでした。なるほどネットで繋がるとはこういうことかと思いました。
ネット句会の真骨頂はやはりチャットでした。それぞれの投句に疑問や質問、添削そして感嘆の声。いろいろ交わる全国からのご意見にいつもどきどきしながら参加。作品だけでなく添削にもそれぞれの方の色が出るのも楽しいものでした。残念だったのは、自分なりに添削したものを発信できなかったこと。自信をもって発言するには、やはりチャット予習にかける時間が十分でなかったと反省です。
俳句やチャットのメッセージでこんな人かなと想像していた方々にお会いできたのが、ネット句会オフ会でした。家庭の事情でなかなか参加できませんでしたが、やはり初めて参加した蒲郡豊橋のオフ会は新鮮な驚きでした。同じ場に身を置きながらこんなにも見るものがちがうことと、そして湧きあがった思いを五・七・五の言葉に収めこと、「即物具象」の一端に触れることのできた大事な時間となりました。
皆様にご指導添削を受けながら毎月五句投句するは楽しくもあり苦しくもありでした。不十分な句ではありますが、自分の中の過ぎた時間を俳句の中に込めることができたとも思います。
福島を訪れて
瘤太きしだれ桜や地震の里 スミ子
娘の晴れの日をむかえて
春近し聖書を抱き婚約す スミ子
桜が咲き始め、娘も医療奉仕団の一員として連れ合いとアフリカに出発します。これからどんな時間が流れるか楽しみです。
いぶきネット句会は、皆様とご一緒に俳句の世界に浸かる豊かな時間です。
俳句の勉強 西居トンボ (草津) 2015年3月号
伊吹嶺に入会して一年になる。残念ながら、まだまだ俳句らしい句は作れていないが、句会のお陰で作句が楽しくなってきたことは確かである。
句材を探しに出かけることは多くなったし、用事などで出かけた時も句材がないかといろんなところが気になる。
さて、作句の勉強をいろんな教材でやっているが、添削例を教材にするのが一番効果があるように思う。
毎月の句会による添削例を初めとして、WEBや俳句雑誌、添削専門書などである。文法的なことに始まり、季語のこと、説明・報告になっていること、無駄な言葉、ふさわしい言葉、表現の順序などの指摘があり、結果としての添削例を示される。原句が俳句に様変わりしているのである。なるほどと感動するばかりである。
だが、指摘されていることが作句に反映できていないのが現状であるが、続けていくことで少しでも改善することを願い、今日も作句に取り組んでいる。
合評会 野崎 雅子 (名古屋) 2015年2月号
毎月十五日、十六日午後九時ちょうどにパソコンの前に座り、チャットルームに入室する。パソコンの画面を凝視すると、進行係の方の「九時になりました。始めましょう。」と、書き込みがある。投句に付いている番号が出、その句に対する意見が次々と書き込まれる。それをわすれないように、投句一覧表の横にメモしていく。
そして、自分の句の番号が出ると、とても緊張する。「これは、どういう状況で詠まれたのですか」と、質問が書き込まれる事がある。キーボードを打つのが遅いので、単語で答えるのが精一杯の私。それを察知してくれ、そういう状況でしたらと、即座に添削した句を提示してくれる。拙句が直ちに佳句になる。すごいと感動していると、もう画面は次に移っている。
このように、一時間があっという間に過ぎる。投句一覧表のメモは、真っ黒になっている。それを見て、沢山の事を学べたと確認でき、充実感でいっぱいになる。
毎回、限られた時間に、投句された句の殆どを合評し、納得できるまで合評される。
これは、偏に部長はじめ同人の方々の、ご尽力のおかげと、感謝している。それと、会員の方々の俳句にたいする熱意ある姿勢にあるのではと思う。
私は、入会してまだ一年にも満たないが、もっと研鑽を積み、肩の力を抜いて参加できるようになりたいと思っている。
旅先での投句の愉しみ 梶田 遊子(名古屋)2015年1月号
私は、これまで転勤や出張、さらに大好きな旅や出歩くことで多くの地を訪れてきた。俳号である「遊子」の由来もそこにある。特に、数年前に俳句を始めてからは、出かける機会がさらに増えた。訪れた地の風物にじっくりと触れ、感動や発見を手帳に認め、俳句として詠むことを意識してみると、独り旅や独り吟行もなかなか面白い。
ここ三年ほど前から、訪れた地に投句ポストがあれば、推敲して投句することを心がけている。そんなことを継続しているうちに句歴の浅い私でも、選に入る機会が生まれてきた。望外の喜びを味わうとともに、俳句活動に対しても大きな励みにもなる。また、さらなる楽しみは記念の句集やホームページに掲載されたり、賞品が頂けることである。その賞品がその土地の名産品等であれば、より一層嬉しい。その土地との関わりがさらに深まったと実感できるからである。そんな訳で旅先での投句が最近愉しみになってきた。この一年で選に入った句をここで紹介したい。
トンネルを抜けて因幡の薄紅葉
(岡山県津山市)
松島の小島眺めて夏深む
(宮城県松島町)
秋扇旅の古城に忘れけり
(愛媛県松山市)
柔らかな心 市川 克代 (北名古屋)2014年12月号
新聞の投稿俳壇で知人の句を見つけた。次の一句である。
鶏頭のまだやはらかき朱色かな
選者の評は「この朱色がやがて秋の大気の中で鮮烈な色となってゆく変化を予想させる」とあった。
一読、鶏頭の触れてみたいような柔らかい感触を私は思い浮かべて、〈やはらかき〉がこの句の味わいと思った。
選評の「やがて鮮烈な色となる変化を予想させる」ところまでは思い至らなかった。〈まだ〉は「時が来れば期待される状態になるが、今はそうでない」の意味がある。
長年俳句に親しんできたが、一向に進歩がない。対象物を客観的に描写しようとしているが、言葉だけで心が伴わない。どんな心で物を見ているかが大切と今頃気づいた。
掲句の作者を存じあげているだけに、彼女の柔らかな感性が、燃え立つような鶏頭ではなく「まだやはらかき」鶏頭の朱色に心惹かれたことと得心した。
文は人なりというが、わずか十七文字でもその中に人間性が表われる。素直な心で優しくありたいと思う
一ヶ月のサイクル 新井 酔雪 (岡崎)2014年11月号
五日、十日、十五・十六日、二十四日。
種明かしをすれば、この日付は、いぶきネット句会の日取りです。五日=投句締め切り、十日=選句締め切り、十五・十六日=合評会、二十四日=句会報締め切り、となっています。普通、句会と言えば三時間程度で終了となりますが、インターネットで行うとこのような日取りとなります。そして、合評会と句会報締め切りの間には、同人の方による添削指導があります。合評会と添削指導は、人に自分の句を見てもらえるよい機会となっています。
「いぶきネット句会」の流れの中に、日々の作句、二週間に一度の独り吟行(県内散策)、月末の「伊吹嶺」への投句が入ってきます。ほぼ一ヶ月にわたる「いぶきネット句会」ですが、俳句のある生活のサイクルを生みだしています。自分にとって、大変ありがたい存在です。
俳句を止めることは、生涯ないと思います。これからも「いぶきネット句会」の一ヶ月のサイクルの下、俳句を学んでいきます。そして、いつの日か、何処かの句会に入れていただこうと考えています。いつまでも、俳句を楽しみ、週二度のお酒を楽しんでいきたいです。
出会い 野崎 雅子(名古屋) 2014年10月号
昨年の十月二十日に、伊吹嶺全国大会が静岡市であり、出席した。新幹線の中で、先生や句会の仲間に、最近なかなか句を作れない事、それとやっと作り推敲して出来た句より簡単に作った句の方が句会で採られたりして、わからなくなってきていると、悩みを相談した。それに対して、誰もが皆そういう経験はするという事、又多くの句にふれる事が大切であるというアドバイスを頂いた。
全国大会の第三部では楽しみにしていた河原地英武副主宰の講演があった。講話の中で、俳句を作るという事は、環境問題にも関わり、又歴史的仮名遣いの継承をしている事等により、俳句をやっているだけで、そうでない人よりはるかに大きな社会的役目を果たしている。その事に自負心をもっていいと言われた。それを聞き、今までの自分は無意識にいつも人と比較して、自分に自信が持てなかった。それでいて人に認められたいという自意識過剰の所があったという事に気付かされた。俳句を作る、俳句と向き合う、それだけでいいのだと、肩の力が抜けたのがわかった。
帰路、新幹線の中の私は、生涯やる事が出来る趣味に出会えた喜びに満たされていた。
俳句の楽しさ 橋本 勝行(一宮) 2014年9月号
趣味として楽しんでいる俳句ですが、ネット句会に所属していますので投句、選句という作業があります。皆さんが苦労して作句された中から五句しか選べませんので苦労します。主宰と同じ句が選句できればと、いつも苦労していますが、一致しないことが多いようです。六月分の選句をしてから「伊吹嶺俳句教室」の「俳句推敲十箇条」を読み直して、再度選句しましたが一致しませんでした。
今回「伊吹嶺俳句教室」の主宰の講義内容を読み直しましたが、忘れていたことばかりで再度勉強することにしました。俳句は言葉探しであり、単語を正確に理解することの重要なことが講義されています。俳句工房を持つことも勧められています。
私の住まいは農村地帯で現在は田植が終わり、少し足を延ばせば雉の鳴き声も聞くことができます。大変贅沢な場所に住んでいると思います。
「伊吹嶺俳句教室」は、三年分保存していますので、私の宝物として勉強して作句力を向上させて行きたいと思います。
感 謝 西居 トンボ (滋賀) 2014年8月号
私が俳句に興味(意識)を持ち出したのは、NHKのフォト5・7・5を見てからである。しかも、ほぼ毎回滋賀県の方が入選され、親近感を持ったのかもしれない。
で、昨年初めに通信教育で勉強を始めた。課題の投句をして添削を受けたが、もう一つ要領を得ない。自分の問題が何かが分かってこない。
これではダメとWebで俳句結社を調べている中で「伊吹嶺」を見つけた。紹介を読んでこれだと嬉しくなった。とにかく、すべてがネット上で済んでしまうことが何よりであり、添削の例をみて自分に合っているのではと即入会することに。
初回の投句をこの4月に行い評価をいただいたが、「俳句には程遠いと」いうことを思い知らされた。
指摘いただいた「即物具象」・「歴史仮名遣い」と「推敲に時間をかけること」を心がけ、毎月一句でも選句に入るように精進したい。そのためには、出不精だが、毎月の句材探しにウォーキングを兼ねて外へ出る機会を増やさないと。入会して二ヶ月だが、伊吹嶺に出会えたことに感謝している。
ひとりごと 宇都宮 えみ (愛媛) 2014年7月号
俳句と殆ど縁の無かった私にも、「ネット句会」との偶然の出会いがあり、愛媛から参加して半年ほどになる。
一回目の添削のご指導で、「選句された句は、どうして選ばれたのか考えなさい。」とのご指摘をいただいた。今は分からないが分かりたいと思った私は、俳句を知るため本屋、図書館へ通うようになった。ところが、読むほどに分からなくなり、今は闇の中に落ち込み、バタバタしている。
また、「多くを作り、多くを捨てろ」と書かれた入門書に疑問をもった。せっかく作句したものを、捨てるなんて! でも、最近なんとなく、余計なことを考えなくなったような、目の前が明るくなったような気がする。「捨てるのは、雑念なのかも!」俳句を詠むことで心が解放され、浄化されているのかもしれない。
そういえば移り変わる季節に敏感になり、自然と向き合い、自然がより身近に感じられるようになった。闇の中にいても、自然も微笑んでくれている。
俳句の道は、遙か彼方に見えるが、いや、暗闇では見えないはず。今は見えないでいる自由を楽しむことに・・・。
灯がともる 西村 信子(北名古屋) 2014年6月号
母の忌に妹が色紙に母の句を書いて来ました。
その句を読んだ時に涙が溢れ、俳句でこんな事も詠んでいいの〜との思いから、俳句を詠みたくなりました。まず「通信講座」を受け始めその中で俳句のイ・ロ・ハ・を教えて頂きました。
五年目に入り「文法」「切れ」「リズム」などが解らない事ばかりで、教えて頂ける方も無く、そんな時に「伊吹嶺」へ入会、縁あってネット句会に出会う。本格的な句会を知らない私には、チャットでのご意見や丁寧なアドバイスに感謝です、文法の事も飛び交い解らなかった事も少しずつ理解できる様になり、一言も見落とさない様に必至でパソコンに見入っています。
もう一つの楽しみは九州、東京、長野と郷土色豊かな俳句に巡り合え、お祭・神事などのお話しが話題にのぼり、是非足を運んでみたくなります。
家に居て句会に参加出来る喜び、ネット句会ならではです。伊吹嶺の「即物具象」「平明」の難しさに苦労していますが、ご指導のお陰で遠くに灯りが見えて来ました。俳句を力に元気を頂いています。
伊吹嶺賞 松井 徒歩 (名古屋) 2014年5月号
昨年の一月半ばに訪ねてきた友人が一冊の本を置いていった。このエピソードから一句出来上がったのだが、この句を眺めているうちに「日脚伸ぶ」から「夏来る」まで句を作って「伊吹嶺賞」に応募しようと急に思い立った。
前回の「いぶきネットたより」で書いた「普通の街なかの句を作ってみたい」という願望を生業の句を混ぜながら実践してみようと思ったのである。
何せ初めての経験なのでとにかく外を歩き回り、理容業の自分の店を観察し、思い立つままに句を作りはじめた。十句ぐらい句が集まると、ここに梅の句ここに桜の句と、全体像がおぼろげながら見えてきて、手ごたえが掴めかけてきたのである。結果的には「初仕事」から始まることとなり、十句、十二句、十五句と増えていく句を毎日眺めながら、新しい句と入れ替えたり、並べ替えたり、推敲したりと、満足にはとても届かないのだが、すこしづつは良くなってきているという実感はあり、今思い返せばとても楽しい体験であった。
もちろん今年も「伊吹嶺賞」に挑戦するつもりである。
即物非情 荒川 英之(半田) 2014年4月号
かりかりと蟷螂蜂の皃を食む 誓子
山口誓子の代表句である掲句について、沢木欣一先生は著書『日々の俳句』(求龍堂 昭58・1)に、
「かりかり」という擬音が絶妙。もちろん音などするはずもなく虚音であるが、即物非情の感覚が従来にない新しさを示す。
と述べられ、〈かりかり〉を「虚音である」と断定された。
ところが、昨年の夏に六歳の息子が、オオカマキリを捕らえ、生きたバッタを餌として与えたところ、まさしくカリカリと乾いた音を立ててカマキリはバッタの脚を食べはじめたのだ。私はしばしその音に聞き入った。生き餌を与えるのは残酷だと感じる人もいるかもしれない。しかし、沢木先生が述べられた「即物非情」を感受した上で、捕食者と被食者の生命をいとおしむ情をもつことは、わが子の成長にとって大切なことではなかろうかと思った。
カマキリはバッタを食い尽くしたかのように見えたが、あとに二枚の翅だけがきれいに残されていた。妻は、「カマキリも不味いところは残すのね」と笑った。
ばつた食ふ蟷螂翅をあましたり 英之
伊吹嶺の句会 東口 哲半 (京都) 2014年3月号
これを書いておりますのは十二月も中旬を過ぎた頃、街の様子もずいぶん慌しく感じられてきました。多くの方がそうかもしれませんが、私は毎年この時期になると、月日のたつ早さを嘆いては、今年の俳句生活がどうだったのかを自身に問い掛けています。
私のなかでは、今年、京都に句会が出来るという大きな動きがありました。俳句は『いまわれ ここ』を詠むものといわれていますが、毎月の句会でメンバーと顔を合わせていますと、句作のそれとは別に、今日の場がそれぞれの人生の『今』で成り立っていることに気持ちが昂ります。顧みれば各々に色々とあったはずですが、野暮なことには触れず、ただ限りなく心を静めた先に見えるものを詠み、また、それを遠慮なく批評し合う空気感に高まるのです。
私が聞くところ、伊吹嶺のどの句会も変わらぬ熱心さで、そんな様子を、俳句をしている母に告げると、「あなた恵まれているわよ。それだけ熱心な方が周りにいることは、そう無いと思うわ。」と羨ましがります。
そんな信頼の置ける伊吹嶺会員との出会いに思いを馳せ、良い勉強を重ねていきたいと思っています。
季語がやって来る 阪本 弘子 (瀬戸) 2014年2月号
俳句を始めてから「知らない事が多すぎる」ことに愕然とします。言葉は言うまでもなく樹木、花、昆虫など「都会の子だから・・・」と訳のわからない言い訳をしています。季語も多く難しい。
先日、アサギマダラを教えていただきました。何と我が家の藤袴にも来ているではありませんか。美しい蝶で海を渡ると知ると愛おしさでいっぱいになりました。
俳句を始めて間のない友達と庭の花を眺めている時に、このアサギマダラが「待ってました〜」とばかりに藤袴に止まってくれました。その数時間後にその友達から三句の俳句がメールで届き、とても嬉しかった。私は友達や俳句仲間と俳句の交換をしたいと思っています。感動を共有できることは素晴しい。
「感動した時に季語が向こうからやって来る」と誰かが言っていました。どうしたらやって来てくれるのでしょうか。その日を楽しみに待ちながら、毎日の暮らしを大事にして俳句を続けていきます。
「早く来ないかなぁ・・・」。その時には俳句をせっせと送ります。
作句あれこれ 森田もきち (千葉) 2014年1月号
いぶきネット句会のチャットに参加していて、句についての受け止め方の様々ある事に感心します。これまでの経験、感受性の相違など考えれば当然かもしれません。ゴルフ場に行く途中には未だラジオの受信状況が悪い場所があり、終戦の日の雑音のひどいラジオを思い出して句に詠んでも、分かる人が少なくなりました。また私は酒を詠んだ句はあまり好きではありません。
句会で誰にも採っていただけない時は淋しいものです。一句でも採っていただけないものかと、そのためには皆さんにわかっていただけて、かつ共感を感じる句の必要があると私は思います。しかし迎合の句であってはならないし、さりとて自分の考え中心の独りよがりになってもいけないと思います。幸いネット句会では同人の懇切な添削があり、大変勉強になります。自選句二句を会報に出す時、出すのは自作句か添削句か迷いますが、先生のご指導を尊重して添削句を出しています。しかし発想の原点が私と異なる場合は、申し訳ありませんが自作句を出させていただいております。何年経っても迷いは尽きません。
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