自句への愛着
河原地英武
ロシア政治の研究者として、ひと頃は毎年ロシアを訪れていたものだが、コロナ禍以降、そしてウクライナ戦争の開始以後、それもぴたりと止まった。この先また行くことはあるのかどうかわからないが、語学力が錆びついてしまうのも惜しいので、学生時代に使った教材を引っ張り出し、ときたま音読などしている。そんなことをしていると、ロシアでの体験があれこれとよみがえり、少々感傷に浸っている。
若い時分、家内と幼い子供を伴って1年ほどモスクワで暮らした。ロシアの主食はパンである。フランス人が細長いフランスパンを買うように、ロシア人はバトンと呼ばれる、日本のコッペパンを二回りばかり大きくしたごつごつとしたパンを買う。パン屋ではそれを求めて列ができるが、なかなか進まない。店員が棚からバトンの1つを取って渡すのだが、客はそれを入念にチェックし、端が少しでも欠けていればすぐに交換を要求するのだ。店員も慣れっこになっていて、無言で別のと取り換える。それを客がまたチェックするという具合なので、けっこう時間がかかるのである。われわれもロシア人の流儀にならい、家内が覚えたてのロシア語で「ダイチェ・アジン・バトン」(バトンを1つ下さい)と言って、同じように吟味していたのを懐かしく思い出す。
それが俳句とどう関係するのかと言われそうだが、ロシア人のバトンへの執着、いや愛着を、われわれも自作の句に対してもつべきだと感じるのである。投句用紙の上で文字をごちゃごちゃと書き直したり、読み返すことをしていないのか、字余りに無頓着だったり、歴史的仮名遣いをないがしろにしたり、画数の多い漢字(たとえば「薔薇」など)は辞書で調べるのが億劫なのか安易にカタカナ表記にしたりと、作者の思い入れがあまり伝わらない作品に遭遇したときはとても残念な気持ちになる。上手いか下手かは二の次でいい。何より大事なのは、自分の句をいとおしむ心だと思うのだ。
|
|