上手さを求めるのではなく
河原地英武
誰しも俳句の腕を上げたいと願うのは当然のことであって、そのために我々は句会などで切磋琢磨しているわけだが、しかし目指すところが「上手い俳句」だとしたら、それは違うのではないかという気がする。
何が「上手い俳句」なのかと問われると、ちょっと説明しづらいのだが、たとえば言葉のやりくりが巧みで、「上手い!」というほかない句、表現に無理がなく、余裕すら感じられ、明らかに年季が入っていることがわかる句、一般読者の嗜好を熟知し、万人受けのする発想で手堅くまとめられた句といったことになるだろうか。
もちろん、上手いに越したことはないけれど、上手さにはどこか古さというか、新味を求める葛藤の欠如を感じてしまうのである。私はある句会で「俳句における職人ではなく、芸術家をめざしたい」という趣旨の話をしたことがある。これは決して職人を貶めてのことではない。名工と呼ばれる人々の、日々精進を重ね、少しでもよいものを作ろうとする精神(それを英語ではクラフトマンシップという)は讃嘆すべきものだ。そのうえで、型の伝承や再生産ではなく、常に新たなものを希求する芸術家の魂に寄せて俳人のあり方を考えたいのである。
こんなことを記しているのも、昨今のAIの恐るべき進化が気になってしかたないからである。いまやAIは。「上手さ」にかけては凡百の俳人をしのぐほどの作品を生み出せるようになりつつある。それもたちどころに数十句どころか数百句でも作ってしまえるのだ。AIは過去の句の膨大な蓄積のうえに、いわば「自己模倣」しながら量産する。こうなれば「上手い」俳人をめざしても勝ち目はない。
我々は不器用でも、一句一句に魂を込め、自分の殻を破るような気概のある句を作ってゆくほかないのではないか。最近強くそう思う。
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