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2025年8月号 俳日和(91)
 
  季重なり考

                              河原地英武

 俳句とは季節の移ろいを主題とした文芸だと考える。季節そのものというより、その変化に関心を寄せることが大切なのではないか。過ぎ行く季節を惜しみ、来たる季節を迎え入れる気持ちこそが俳句の根幹部分だと思うのである。たとえば同じ秋であっても初秋と仲秋と晩秋はそれぞれ明らかに異なる。夏から秋へ、秋から冬への推移もまことに繊細微妙だ。細見綾子先生の〈冬になり冬になりきつてしまはずに〉(『桃は八重』)は、その微妙な推移をみごとに言い留めた一句だと感じる。

 俳句が季節の推移を詠むものだとすれば、季語もまた動的に解したほうがいいのではあるまいか。再び綾子先生の句を引けば、〈昨日より今日新しき薺花〉(『冬薔薇』)の「薺花」は静止した存在ではない。昨日の薺花と今日の薺花は違うのである。新しさが加わった薺花なのだ。すなわちこの句の季語である「薺花」はそれ自体のうちに動的なエネルギーをはらみ、変化しつつあるといってよい。季語とは静止的・固定的な存在ではなく、揺らぎながら移りゆくものだと思われる。

 こう考えると、季重なりに対しても否定的に捉えるのでなく、その肯定的な一面にも光を当てたくなってくる。一般に季重なりの弊害は、季節感が曖昧になったり、読者の誤読を招いたりするリスクが高いことだろう。それゆえ(1)主季語がはっきりしている場合、(2)季語を重ねることによって、季節の移ろいが一層ヴィヴィッドに伝わる場合には、季重なりはむしろ俳句における重要な技法となり得る。(1)の例としては〈啄木鳥や落葉をいそぐ牧の木々 秋櫻子〉や〈でで虫が桑で吹かるる秋の風 綾子〉、(2)の例としては〈美しき緑走れり夏料理 立子〉などが思い浮かぶ。実は「竹の秋」「麦秋」「小春日」「冬うらら」等々、季語そのものが季重なりになっているケースも少なくない。季重なりの問題についてはさらに深く考察してみたいと思っている。