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2025年11月号
俳日和(94)
因果関係を断つ
河原地英武
長年俳句に打ち込んできた者の一人として、一度はきちんと俳句そのものと向き合おうと考え、「俳句の原理」を探求すべく、何度かノートにまとめかけたりもしたのだが、結局はうやむやのままとなり、最近ではその試み自体を断念するに至っている。第一の原因は根気が続かないことだが、あえて自己弁護をすれば、そもそも俳句には客観化できる本質などないのではないかと諦観したからである。
俳句をたとえて言えば水のようなもので、器に応じて変幻自在に形を変えるのだ。「俳句とは何々である」と規定すれば、そのとおりの姿をとるけれど、それと異なる定義づけをすれば、それに応じてまた別の様相を呈するといった具合である。スタニスワフ・レムのSF小説『ソラリス』(沼田充義訳、早川書房)のなかに出てくる、人の思念を意のままに実体化させてしまう謎の海のようでもある。
で、わたしはいま「切れ」について思いをめぐらせている。「切れ」とは俳句の文脈に打ち込む楔である。人間の脳は常識という名の合理的解釈を求めるように作られている。合理的に解釈できない事態に遭遇するとパニックに陥ってしまう。だからわれわれは平常心を保つために、雑多な出来事に対し、因果関係(原因と結果)という図式をあてはめ、安心感を得ようとする。俳句とは、この常識の枠を打ち破るものなのではないか。因果関係を超越したところに詩は生まれるからだ。「切れ」を入れることで因果関係を断ち切り、合理性から脱することができるのである。
とすれば、「切れ」を使わなくても非合理的世界を構築できるなら、「切れ」などなくてもかまわない。「切れ」は予定調和や合理性から離脱するための一手段に過ぎず、それ自体が必要不可欠というわけではない。……と、「切れ」の意味をつかんだ気になったものの、これもまた俳句の幻影を見ているにすぎないのかもしれない。