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2025年5月号 俳日和(88)
 
  未完としての俳句

                              河原地英武

 せっかく伊吹嶺に入会しながら、なかなか投句に踏み切れない人もいるようだ。もう少し上達するまで控えたいという謙虚な気持ちゆえのことと推察するが、もったいないなと感じる。初心者ならではのよい句はたしかに存在するし、どのみち自分の句を活字にして他者の目にさらす覚悟を固めなければ、いつまで経っても本格的な俳句へのスタートを切ることはできない。

 言うまでもないことだが、伊吹嶺誌に掲載されている句がどれも完璧な出来栄えであるというわけではない。語弊はあるかもしれないが、わたしが選んで載せているのはあくまで及第点が出せる句であって、申し分なしだと太鼓判を押してのことではない。実際、わたしならば別の季語にするだろうとか、語順を入れ替えたいところだが、と思うことがあったにせよ、作者の意思を尊重し、極力手を加えないよう心がけている。

 言い添えておけば、わたし自身の句にしても同様である。毎月載せている15句のうち、会心の作と呼べるものなどそうそうないのが実情だ。ぎりぎりまで推敲を重ねているが、完璧を期していたら、いつまでもその句を手放すことはできそうにない。ある程度納得したところで、最後は割りきって、ひとまず活字にするのである。活字にすると、自信がなかった句が案外よく見えてきたり、その逆だったりするからおもしろいものだ。

 ただし、一度活字にしたらその句は完成というふうにわたしは考えていない。先日、第3句集『虫売』を出したが、そこに収められている句は、必ずしも伊吹嶺誌等に発表したとおりではない。一部はさらに推敲してある。わたしはいつも自分の句が未完であると感じている。とはいえ、未完のまま発表せずに手元に残していては、その状態を乗り越えることはできない。未完であってもいったん手放し、活字化することが肝心だ。そうすれば、客観的な目で自作を見直し、さらに完成度を高めるための機会も得られよう。