プロセスの醍醐味
河原地英武
技術の進歩のおかげで、大学の授業もずいぶんと様変わりした。教員が教室に入ってまず行うのはOA機器の電源を入れること。ついで正面のスクリーンを下す。板書はあまりしない。パワーポイントで作成した資料があるので、それをスクリーン上に映し出せば事足りるからだ。学生もノートに書き写すことがなくなった。各人がタブレットやノートパソコンを持参しているので、そこに打ち込めば済むし、われわれが準備した教材はオンラインで配信されるので、そもそも書き取る必要すらない。
例えばわたしの場合なら、ウクライナ戦争の現況だとか、米中の国力の比較だとか、インド太平洋のパワーバランスだとか、国際政治上の様々なトピックスをわかりやすく図式化し、ぱっぱとスクリーンに映して説明する。学生は複雑な事象を視覚的に捉え、文字通り瞬時に見て取るわけである。教師は教材を作成するために、少なからぬ時間をかけ、データを収集し、自分なりの仮説を立てて合理的な解釈を導いてゆく。学生はその結果をスクリーン上に示され、世界の見方を教えられるのだ。これはテレビのニュース解説者と視聴者の関係に似ている。考えるのは解説者の仕事で、視聴者はその上澄み部分を享受するのである。だが、学問の醍醐味は、受売りの知識を覚えることでなく、自分なりに推論し、試行錯誤しながら考えるプロセスにあるのではないか。いまの教育現場は、学生からこのプロセスの醍醐味を奪っているように感じられる。
同じことは俳句にも当てはまる。句会の指導者による添削は、作者から推敲というプロセスの醍醐味を取り上げてしまうリスクを伴う。添削された句に、あまり創作の喜びはない。句会で無点だった句を家に帰って見直し、語順を入れ替えたり、様々な季語の可能性を試したりしながら、もう一度練り上げてゆく。そのプロセスこそが芸術に不可欠な創造性の発露であって、俳句という創作行為の肝心要なところなのである。
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