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2025年12月号
俳日和(95)
二種類の俳句
河原地英武
以前、ある方から「事柄俳句」と「物俳句」の違いを尋ねられ、漠然と自分の印象を述べてみたものの、いざ俳句の入門書や用語辞典などにあたってみると、こうした分類は見当たらなかった。ネットで調べると二、三の関連する書き込みはあったが、今一つ要領を得なかった。たまたま今秋、俳人協会主催の関西俳句講座で講演するよう依頼されていたので、改めてこのテーマを掘り下げて話してみようと思い立った。あれこれ考えているうちに、「事柄俳句」を「物語のある俳句」、「物俳句」を「物語のない俳句」と言い換えてみると問題の所在がはっきりするように思われた。そこで演題を「物語のある俳句・ない俳句」と決めた。当日(9月11日)の講演内容はあらまし以下のとおりである。
俳句には二つの種類があるようだ。物語性のある句とそうでない句である。これは優劣の問題ではなく、俳人の系統の分類でもない。実際、同じ作者がどちらの句も作っている。まず前者について言えば、「俳句は一篇の短編小説に匹敵する」というときの俳句、そして「俳句は日付のない日記のようなもの」というときの俳句である。俳句が近世の連句の流れを汲んでいることを考えれば、その根底に「挨拶と滑稽」(山本健吉)があることは当然であり、「人間探求派」の多くの作、「境涯俳句」「社会性俳句」と呼ばれる句にも人生や社会的背景(物語)が看取できる。他方、一句から背景となる物語を紡ぎだせないような種類の俳句も存在する。すなわち「物語のない俳句」である。これにも二種類ある。その一つは「写生」を徹底させた「即物具象」ないし「即物非情」の句である。〈鶏頭の影地に倒れ壁に立つ
林徹〉はその適例だ。そしてもう一つは論理的解釈を拒むような句で、〈露地裏を夜汽車と思ふ金魚かな 攝津幸彦〉が好例であろう。こうした句からはストーリーが展開できないし、人生観や寓意を汲み取ることもできないが、不思議な読後感をもたらす。
こんなことを小一時間語ったのだが、もっと突き詰める余地がありそうだ。