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2024年10月号 俳日和(81)
 
  詩因・感動

                              河原地英武

 俳句の核には詩因や感動がある。詩因とは、人を詩作に向かわせる誘因(動因・原因)のことで、感動と同義である。では感動とは何か。それは感情の高ぶりのうち、快感をもたらすものだ。怒りや憎しみや絶望など、負の高ぶりは感動と呼べない。それは本人のみならず周囲の人々をも不幸にするだけだろう。すべからく文学は、読者に幸福感をもたらさなくてはならない。感動の前段階として、まず驚きがある。驚きとは、日常と隔絶した現象に遭遇したときに引き起こされる驚異の念だ。第一に驚きがあって、それが心を揺さぶり、快感をともなえば感動になる。

 感動は、向こうからは歩いて来ない。栗田やすし先生はこう述べておられる。「句作りには、常識というコレステロールを捨て去ることが絶対に必要なのです。常識というコレステロールに覆われて、見たものを何の感動もなく見過ごしてしまいます(48頁)」「『ものに感動する心』は常に自ら養いつづけなければ細ってしまうものです。……吟行に出掛けるのも、自分の中に眠っている『感動する心』を目覚めさせるためなのです。……自分には才能がないのではないかと思う前に、『感動する心』が痩せてはいないかと考えてみるべきと思います(56頁)」(以上、『実作への手引(合本)』)。

 感動は「自家発電」によって生み出すしかない。わたしの場合、吟行などで始めは興が湧かなくても、目にしたものをとにかく五七五にしてゆく。すると、それが呼び水になって、次々と細かなところが見え出し、気持ちが乗ってくる。何かに憑依されたかのように、思いがけない言葉を発する瞬間が訪れることもある(まれにだが)。そして自分で自分の句に驚くのだ。そこに俳句の醍醐味がある。感動について縷々述べたが、実は、自分の句に自分が感動したいのではないかと思う。