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2026年10月号 俳日和(105)
 
  繊細な俳句
                              河原地英武

 
宇野信夫(1904~1991)という名前を聞いてピンとくる人はあまりいないかもしれない。生前、東京の落語家や歌舞伎役者と親交があり、彼らから実地に下町言葉を学び、それらを生かして多くの戯曲や小説を著した人だ。わたしはこの人の言葉に関するエッセイがたいそう好きで、手に入るだけの古書を集め(残念ながら大半が絶版なのである)、折に触れて読み返している。その圧倒的な日本語の蘊蓄もさることながら、それを語る言葉遣いがまことに端正で、これほど美しい文が書ける作家はめったにおるまいと思っている。先日も『まちがい言葉 おかしい言葉』(河出書房新社、1988年)という本を読んでいて、俳句を論じている文章に出会い、うれしくなった。少し長い引用になるけれども、その一部をご紹介したい。

   煎じつめると、短い詩形の「俳句」が、一番言葉を大事にしているのでは
  ないか。

   芭蕉の句に「憂き我を淋しがらせよ閑古鳥」というのがある。知人の父親
  が余暇に俳句をたしなもうと思いたち、その方の勉強をはじめ、この句にあ
  った。「憂き我を淋しがらせよ閑古鳥、は間違って伝えられたのではないか。
  こんなわからぬ話はない。憂き我を淋しがらすな閑古鳥、でなければ句にな
  らん」つまり、閑古鳥よ、悲しい自分をこれ以上悲しがらせてくれるな、で
  なければ、句にも理屈にもならないではないか、というのである。知人は、
  「憂き我を淋しがらせよ」で、初めて「詩」になるのだと言ったが、親父は
  頑として承知をしなかったそうだ。

 このくだりを読みながら、やはり芭蕉は大俳人だと感じ入った。そして、この繊細微妙な感情を盛る器としての日本語の表現力に改めて思いを致した。