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2026年1月号 俳日和(96)
 
  主役としての季語
                              河原地英武

 俳句は心をときめかせるものでなくてはならない。心のときめきをもたらすのは驚きである。驚きは常識や予定調和が打ち破られたときに生れる。つまりは意外性が肝心だ。周知のように、取合せの句は〈季語+事物〉の形をとる。季語も事物も、言葉としてはいわば手垢にまみれたものであって、それ自体に目新しさはない。ただ、その手垢にまみれた言葉が新鮮に感じられるとすれば、取合せの妙によるのだろう。

 季語と事物をどう取合せるか。そこに季語が「近い」とか「遠い」とか「動く」とか「動かない」とかいった問題が出てくる。しかし結局のところ、季語と事物の距離の取り方は主観の問題であり、作者と読者それぞれの感性によるところが大きいので、絶対解は存在しない。手堅く、無難にまとめるか、リスクを冒して新境地を求めるか、覚悟の問題になりそうである。……というようなことをわたしは今まで持論とし、人にもたびたび語ってきた。

 だが、これは大きな錯誤ではないかと最近思うようになっている。俳句において季語は主役であるからだ。俳句は季語という主役のために作られるべきであって、脇役である事物のほうに合わせて季語を変えるのは本末転倒ではなかろうか。われわれは季語が「近い」「遠い」「動く」「動かない」という議論を一度やめるべきではないか。これは季語という「主役」に対して失礼千万なことだ。

 事物を優先し、それに合わせて季語を探すという姿勢で作句するから季語が「動く」とか「近い」とかいった発言になる。そうではなくて、「この季語のための一句なのだ」という心構えをもてば、季語を取り換えるのでなく、事物のほうを「近い」「遠い」「動く」「動かない」と言わなくてはならないはずである。そのような発想に立てば、季語の「近い」「遠い」「動く」「動かない」問題はそもそも生まれない。