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いぶきネットの四季


 いつも伊吹嶺HPを閲覧して頂きありがとうございます。 平成24年3月から新しい企画として「いぶきネットの四季」というタイトルで、楽しい写真歳時記 コーナーをスタートさせました。テーマは私たち「伊吹嶺」の師である沢木欣一と細見綾子、そして私どもの主宰である栗田やすし主宰の3名の俳句をテーマに随筆風に俳句にちなむ写真を添えて、その俳句の鑑賞、思い出、あるいは季語にまつわる体験談など自由な発想で書いて頂いています。
執筆者は「伊吹嶺」インターネット部同人、会員、そしてそのネット仲間などが随時交代 して書いてきました。

 
そして「伊吹嶺」誌も20周年記念を迎え、新しい体制になりました。それに合わせ、一時このコーナーの更新を中止しました。
 ただしばらくはこのコーナーの掲載は続けます。これまでの6年間の「いぶきネットの四季」をお楽しみ下さい。

 平成29年からはこちらでご覧下さい。平成28年以前は下記の案内をクリックして下さい。


                       インターネット部長  新井 酔雪


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平成29年12月


 
月光  八尋 樹炎



月の薄野
       
写真 八尋樹炎


    門を出て五十歩月に近づけり   綾子

 私は「風」の時代の綾子先生を全く存じあげませんでした。晩年からの俳句入門で当初この句は一読不躾ながら何て稚拙な俳句 なのだと思っていました。しかも、月に五十歩近づく、先生の心境がどんな状況なのか、少々大袈裟ではと、門を出て数歩か何歩 なら解り易いはず。ところが事情を把握して、稚拙な考えは自身であることを嫌と言うほど悟りました。綾子先生のこの句は、平 成六年に心不全で入院されやっと退院なさった時の句です。「月に五十歩近づけり」でなく「五十歩月に近づけり」としたところ が工夫されたところかと思います。
 病み上がりに揺れるお気持ち、苦痛を伴う入院さえ月に近づくと美の追及をされ、今あるがままのご自分を素直に呟やかれてい ます。心に季語が住み付いて、楽天的といえる人生観に、私自身、綾子先生に対する反動は大きいものでした。綾子俳句は作り上 げた俳句でなく、心のままに詠まれたものです。
 綾子先生の言葉に「私は常に素直な俳句を作ることを心がけている、良い句は嘘を言わない、自分に正直に詠む」「言葉を磨く、 言葉との新しい出会い」「年をとっても命と言うことを悲観していない。年を取ることは楽しいこと、生命感の濃いものを詠みた い。人生を愛することと同じように俳句を愛する」など、美しい日本語と自然を愛された先生、お育ちの風土なのか、まるで身に 馴染む母の木綿着のように素朴で暖かく、懐かしさで迫って来る気負いない俳句です。天性の感慨をお持ちの詩人だと思います。
 平成九年九月六日細見綾子永眠、享年九十歳まで天真爛漫に感性豊かな写生俳句を残されたと朝日新聞の「綾子を偲ぶ会」に掲 載されて辞世の句ではないかとも・・・
 神さびる姿を見せる伊吹山の銀嶺・紅葉・夕陽に育まれた主宰は、澤木欣一先生から「風」の理念を基本に据えて誌名「伊吹嶺」 を頂き、今年、目出度く二十周年記念を迎えます。夢と目的を持って会員一同が一丸となって参りました。真におめでとうござい ます。

    みまかりし師と語りゐる良夜かな   やすし

 月光を仰ぎ澤木・綾子両先生への敬意と郷愁をしみじみ永遠へ願われています。   
 
(了)


文中写真「月面」 所貞男氏提供
 


平成29年11月


 
戦争と俳句  荒川 英之



原爆ドーム
       
写真 国枝髏カ


 九月の末の修学旅行で生徒(定時制の高校生)を引率して、広島の平和祈念公園を訪れる。平和学習は修学旅行の目的 の柱の一つである。平和祈念公園では被爆体験講話を聴講し、原爆の子の像に千羽鶴を供え、資料館を見学する予定であ る。中学校に勤務していた頃は沖縄体験学習で渡嘉敷島の集団自決跡地を訪れた。小雨の降るなか、傘を足下に置いて生 徒と静かに合掌した。このように、学校の教育現場では教室を離れて平和学習が行われる。無論、国語の授業でも戦争を 題材とする教材を取り上げ、こうした平和学習に備える。
 そこで、戦争に関連する国語の教材について述べてみると、小学校では「ちいちゃんのかげおくり」や「一つの花」が 取り上げられる。「一つの花」を読んだ小学四年生の息子は銃後の苦しい生活を想像し、「戦争は絶対に嫌だ。」という 感想を抱いた。中学校では「おとなになれなかった弟たちへ…」を通じて戦争の被害者である子どもが、自分よりも弱い 立場の者に対して加害者になるという不条理を説いた。高校では「沖縄の手記から」を授業で取り上げ、当間キヨの気高 い生き方に焦点をあてた。
 こうした小説の他に、私の場合は俳句を教材として取り扱うようにしている。それは、文学としての俳句に平和思想が 盛られているからに他ならない。
 沢木先生の句で戦争に関わるものを二句紹介したい。まず、「原爆被害写真公開、惨禍に今更驚く」の前書を付す昭和 二十七年の作品である。その七句中の一句に

    秋柳手押車に火傷母子   『塩田』

 の句が見える。上五に詠み込まれた「秋柳」は、本来秋風に散った柳(「柳散る」)のことであるが、ここでは爆風で 散ってしまったことが想像され、その無残な姿は、火傷を負った母子に重ねられている。


    開戦や霰たばしる香林坊  『綾子の手』

 平成十年の作。昭和十六年十二月八日を回想した句である。戦後五十年を経てなお沢木先生の脳裡には開戦の記憶が鮮 明に刻まれている。
 昨今、北朝鮮問題が深刻化し、国際情勢は不安定であるが、このような時代だからこそ、戦争の悲惨さを改めて思い起 こしてゆく必要がある。
 
 
(了)


文中写真「原爆の子像」 国枝髏カ撮影
 


平成29年10月


 
花野  奥山 ひろ子



花野
       
写真 武藤光リ


    雲ふるるばかりの花野志賀の奥   綾子

 昭和五十年作。この年の九月二日、長野県山ノ内町の奥志賀高原を訪れた際の、一句。綾子先生は、紫の鳥兜をはじめ 咲き乱れる花や蝶、蜂が舞う花野の散策を楽しまれた。「雲」と「野」この二つの素材だけで、秋の高原のパノラマが読 み手の眼前に広がる。〈ふるるばかり〉の表現が、花野の豊かな様を表している。山本健吉氏の言葉を借りれば綾子先生 によって詠まれた「詩的空間」であり、平明なことばでありながら個性的な感じ方と表現が、綾子俳句を紡いでいく。


    奥志賀の神の隠せし花野かな   綾子

 同じ日に詠まれた句であるが、当時奥志賀高原は開発途上で、綾子先生一行も許可を得て立ち入りがかなった。人間の 手つかずの幻想的な美しさはいかばかりであったかを感じさせる作品である。〈神の隠せし〉には、奥志賀が未踏の地で あると共に、想像を超えた楽園のような場所であったことがうかがえる。


    花野尋(と)め来しよ白樺林越え   綾子

 沢木先生によると綾子先生は花野が大変お好きで、訪れた花野は数えきれないとのこと。瑞々しい感性の先生らしいエ ピソードである。この日も道路事情は困難であったが、行ってみたいという情熱にいざなわれて、山道を行かれたのであ ろう。白樺林のカーブを一つひとつ曲がるたびに、期待は膨らんでいったことが想像できる。また当時は「風」の各地で の大会に精力的に出かけられた吟行句が多く、新しい景色との出会いが句にさらなる広がりをもたらした時期でもあった。 この句が収められている句集『曼荼羅』は、昭和五十三年発刊され、五十四年蛇笏賞を受賞された。
 現在の奥志賀高原は、ホテルやゴルフ場が建設されリゾート地として人気がある分神秘的な魅力は薄れたかもしれない。 が、空の青さは勿論、ヤナギラン、竜胆、マツムシソウなどの高山植物の色彩美と、木々や草の緑の濃淡が美しく圧倒され る。標高一五〇〇メートルを超える世界は、綾子先生が訪れた四十余年前と変わらない非日常の空間である。
 
 
(了)


文中写真「ヤナギラン」 武藤光リ撮影
 


平成29年9月


 
山葵沢  松本 恵子






静岡市有東木の山葵田
       
写真 松本恵子


    四月中旬、信州を旅する一泊二日のバス旅行に参加しました。麻雀とパチンコ・お酒も好きな古稀前後の愉快な皆様でした。穂高の 碌山美術館・大王わざび園・高遠・飯田光善寺・妻籠・馬籠と巡る欲張りなスケジュールです。この時の大王わざび園で作った私の俳句 〈山葵田やアルプスの水かがよへり〉を〈アルプスの水かがよへり山葵沢〉のように、栗田先生が添削して下さり、 伊吹嶺誌七月号の一句となり、スケールの大きな句となりました。
 沢というと小さな谷川を想像しますが、大王わさび園は安曇野に湧き出すアルプスの水が広い川幅を満たしてゆったりと流れています。
 静岡市の山間にも山葵を栽培している里があります。路線バスでは不便ですが、マイカーで梅ヶ島温泉に行く安倍川沿いを走り、 有東木入口で山道に入ると五分程で茶店のある「有東木」に着きます。この地で昨年の四月、伊吹嶺の関東支部・静岡支部の合同鍛錬会 が行われました。栗田主宰のご指導のもと、総勢二十三名、茶摘みが始まったばかりの山里を吟行しました。有東木は山葵栽培の発祥の 地で、約四百年前有東木の源流に自生していた山葵を集落内の井戸頭という湧水地に植えたところ、適地で繁殖したのが栽培の始まりで、 徳川家康に献上するとその珍味を賞賛され、天下の逸品として村から門外不出の御法度品になっていたそうです。山葵沢を吹く風の涼し さ、谷川を勢いよく流れる水音を聞きながら、山葵栽培発発祥の田、昭和四十四年廃校の分校跡、八月のお盆に国指定無形民俗文化財の 盆踊りが行われる東雲寺、白鬚神社などを吟行しました。
 有東木での栗田主宰の句、
  よく笑ふ人ゐて山葵田を巡る    やすし
  黄山吹水に影置く山葵沢     やすし

 私は吟行が得意ではありません。周囲の雰囲気に気を取られてしまい集中出来ないからです。初学の頃、吟行は主宰、指導者のあとに 続き、おしゃべりするなと言われましたが、守られていません。
 梅雨明け宣言が出た七月、有東木へ出かけてみました。山葵田は寒冷紗に覆われ、真夏の日差しに耐えているようでした。
(了)




平成29年8月


 
沖縄への旅  鈴木 みすず



花月桃
       
写真 国枝髏カ


 「主宰と行く沖縄への旅」が二〇〇八年より二回にわたって行われた。観光だけではなく、いろいろな歴史を学ぶ こともでき、とても心に残った旅であった。
    海光や零れて白き花月桃   やすし(『海光』所収)

 月桃はショウガ科の常緑多年草。四月から七月にかけて白くきれいな花を咲かせる。蕾は白い先にほんのり赤く房 状で、開いた花の中は、オレンジ色に赤い模様があり、夢のようなとても美しい花である。青い海、明るい空、花月 桃の花、ああ沖縄へ来たと実感できたひと時であった。
 

    芭蕉布の里への小径花福木   やすし

 

 人間国宝の平良さんにお会いできた。物静かな小柄な方であった。近くの作業所では、地べたの上に胡坐座になって、 芭蕉布を織るための芭蕉の葉を、細く割いて作業している女性たちがいた。軍手は濡れて真っ黒になり、作業の大変さ を物語っていた。
 

    糸数壕アブチラガマ
    蜥蜴這ふ砲火に焦げし洞窟(ガマ)の口   やすし
 やすし先生たちと、ヘルメットをかぶり懐中電灯を手に洞窟の中へ入った。
  ガマの中は二百七十メートルもあるが、真っ暗で一寸先も見えない。日本軍の陣地壕や倉庫として使用され、戦場が 南下するにつれて南風原陸軍病院の分室となり、軍医、看護婦、ひめゆり学徒隊が配属された。ガマの中は六百人以上 の負傷兵で埋め尽くされた。八月二十二日の米軍の投降勧告によって解放された。
 南西端の喜屋武(きゃん)岬は断崖絶壁であるが、米軍に追われたおびただしい数の住民が、海へ身を投じたという。
 穏やかに光る美しい海を見ながら、平和への思いが胸にこみ上げてきた。

 先生の句〈海光や零れて白き花月桃〉は、優しく美しい句であるが、その中に沖縄戦でのすべての思いが、 込められているように思う。  
 
(了)


文中写真「人間国宝の平良敏子さん」 国枝髏カ撮影
 


平成29年7月


 
弘川寺の桜  林 尉江






吉野の桜
       
写真 国枝髏カ


    四月上旬、西行の墓を訪ねて弘川寺に吟行しました。朝から雨脚が強く道中は吹き降りで、心配しましたが葛城山に近づくにつれ 小降りになり、寺につく頃には雨は上がり、傘を杖にして西行の墓を目指し登りました。西行の墓は落花にまみれ、墓の文字は薄れ ておりますが、西行の入寂の地に佇めば、鶯の声が響き、谷間から芽木の香りの風が吹き渡り、別天地です。
 西行の供花として東方の山に桜千本が植樹されております。弘川寺の庭に一樹の桜が咲き満ちており、
  桜咲きらんまんとしてさびしかり  綾子   (昭和22年)
 綾子先生の御句の通り、潔い美しさに見惚れました。また、境内に若木の桜が紅濃く咲いています。謂れに南朝の戦いに敗れた武将 が桜の大樹の下で自刃したと書いてあり、その大樹の株は絶えたと記されておりました。
  遅桜旅人の目を濁すまじ   綾子   (昭和55年)
 綾子先生の句で、岩手県・花巻で詠まれ先生の大きな瞳を思い出します。〈濁すまじ〉の言葉に凄まじさを感じます。朽ち絶えた桜 は後に後世の人達が植樹し現代に至ります。自刃した弘川城主隅屋卿の名をとり、「すやざくら」と、命名しその立て札が護 摩堂の前にありました。旅人である私には、凄まじさを感じました。
 さて西行記念館図録には、西行と歌を詠み交わしたとされる江口の君の絵が寺蔵の目録にありますが、展示されていなくて、非常に 残念でした。でも、文覚上人の作、一木造の西行像を拝見しました。広く張った両肩や、厚い胸や膝。同時代の作者の彫った堂々たる お姿に、行脚の飄々とした像と異なり、厨子に窮屈そうに座る御姿に暖かな思いがしました。 もう二度と見ることは無い桜を、幸運 にも句友と見る事ができ、最良の日です。
 最後に句会を寺の手配で近くの集会所で開きました。良い思い出になりました。そして

  願はくば花の下にて春死なむ
        そのきさらぎの望月のころ   西行

 この寺に住み、願い通り入寂された西行上人に合掌。帰路に着きました。
 
(了)


文中写真 国枝髏カ
 


平成29年6月


 
俳句の道火  岸本 典子






寒月句碑
       
写真 国枝髏カ


    寒月が鵜川の底の石照らす   栗田やすし  

 栗田主宰の自註句集には「冴えざえと輝く寒月に、長良川の水は冷たく、澄み切っていた。」(昭和43年)と記されています。 主宰の人柄通り、清潔さと潔さを感じます。
 この句が主宰のふるさとの岐阜伊奈波神社の境内に第二句碑として建立される事となり何と喜ばしい事でしょう。鵜、鵜川、 鵜飼、鵜匠、鵜碩と主宰の句は広がっていきます。鵜に対するやさしさを感じ、とても心を惹かれます。
 私たちは時々長良河畔に出かけ、鵜小屋で庭に遊ぶ鵜を見乍らランチを頂き、喉を揉んだり、指を?ませたりする鵜臭の近くへ 寄る事もちょっとためらいがありましたが、主宰の句で楽しませて頂きました。鵜のビー玉の様に光る緑眼を何とか句にしたいと ころですが。
 綾子先生の感性は誰にでもあるものでなくひとつひとつの句に引き込まれ、その場所に行ってみたい、同じ感動をその 場所で味わって見たい、と思い吟行に行くのです。土の匂い川の匂い土臭く地上的な自然が大好きという先生の中には故 郷の丹波という原風景があるのですね。人間も自然は無条件に好きという、目覚めて天気がよければ楽しくなると、俳句 は作る対象を見て言葉が自然に発してくるような状態に自分を置くのだと、作意を越えた率直さが我々に限りなく親しみ 深い魅力を讃えているのです。じっと物を見ないといけない。そして感動を言葉にするということを栗田主宰にもさんざ ん言われてきました。

  日盛りの鵜が緑眼をかがやかす   (平成19年)
 じっと見るという初心を思いださせて頂く句です。
  春の陽が揺らぐ鵜川の底が透き   (昭和45年)
  鳥舎の灯を消してより鵜の寝静まる  (昭和47年)
  鵜の鳥屋に病みし一羽が羽繕ふ   (昭和53年)
 
 「俳句の道火を消さないように」との教えにも忠実になり、仕切りなおさなければと深く感じております。
 句碑除幕式の前日、私たち係は会場に集合し、真っ先に白い布に覆はれた句碑を囲みました。
 布の上から碑を撫で、碑を眺め、肩を叩き合い乍ら碑を称え合う。明日の儀式のために傍で作業をして下さっている方々には さぞ稀有に写っていた事でしょう。
 雨に備えてテントを張り、明日は大降りになりませんようにと祈り乍ら会場を後にしました。
 句碑開き当日は、やはり雨でした。でもさすが主宰のご運の強さ、式典が始まる頃には雨も上がり、御神楽の鈴の音も社に良く 響き、除幕も滑らかに執り行われました。
 祝賀の会に参加させて頂き、会員である幸せを噛み締めて居ります。
 
(了)


文中写真 国枝髏カ
 


平成29年5月


 
光の春  倉田 信子



野梅
       
写真 武藤光リ


 二月に入ると、四日の立春に暦の春が始まるが、陰暦二月(きさらぎ)の風はまだまだ寒い。「春は名のみの風の 寒さや・・・」と『早春賦』の曲が口をついて出てくる。けれどいくら寒くても二月は「光の春」。寒さの中で光の強 まりに春を感じる。綾子先生の句の、
    きさらぎが眉のあたりに来る如し   (「桃は八重」所収)

 はかすかな春の気配を「眉のあたり」で繊細に把握し、実感された句だ。「きさらぎ」と声に出してみるとなぜか清 浄な春浅い気を感じる。まさに「きさらぎ」は早春の光なのだ。
 私の住まいの近くには里山がある。二月半ば、私も早春の光を探しに里山へ出かけてみた。二月の里山は鳥たちの 声と木々を揺らす風の音がするばかりだった。それでも高い木々の間から射す光には明るさがあった。梅の花がそこ ここに咲き、甘い香りを放っていた。春告草と呼ばれるとおり春を知らせてくれていた。

 綾子先生は「野梅」がお好きだ『武蔵野歳時記』に
   梅の花はどういうものか、切り枝にすると、つまらない。清澄な空気が必要である。広い虚空が必要なのである。 私たちは梅の花を見て、ほんとうは虚空を楽しんでいるのかも知れない。その意味から私は庭の梅よりも、野梅といわ れるものの方が好きである。
 と書いておられる。里山を歩いてみても先生の思いに共感できた気がした。

    梅を見て空の汚れのなきをほむ   (「曼荼羅」所収)
    梅咲けば雑木林のあからめり   (「存 問」所収)
 山裾を歩いていると人家の入口に辛夷の木があって、銀色の大きな花芽が青空に輝いていた。そこに春の光を集める ように綾子先生にこんな句がある。
    青天のこぶしはじめは光りなり    (「存 問」所収)
 本当に先生は早春の光りを感じ見つめていらしたのだとあらためて思わされた。
 白い辛夷の花が咲く頃もう一度里山を訪ねてみたい。  
 
(了)


文中写真 国枝髏カ
 


平成29年3月


 
菜の花の黄色に思う  上田 博子






菜畑
       
写真 国枝髏カ


 鷹羽狩行著の『名句を作った人々』をめくっていると「作意を超えた率直さ細見綾子」が目に飛び込んできた。 第一句集『桃は八重』の中の
    菜の花がしあはせさうに黄色して   (昭和十年)
    チュウリップ喜びだけを持っている  (昭和十三年)

の句が最初に取り上げられていて明るさが基調の一貫して変わらないと評されている。
 私が俳句を始めた原点がこの菜の花の句だったのです。平成四年発行『細見綾子俳句文庫』で二頁にわたる満開の菜の 花畑の写真を見ていると菜の花は確かに幸せの黄色、正に花菜浄土の黄色と思った、この様に思ったことが俳句になる、 口から出た言葉がそのまま一句になる事が面白いと、〈幸せさうに黄色して〉に甚く感動したものでした。
 綾子先生の感性は誰にでもあるものでなくひとつひとつの句に引き込まれ、その場所に行ってみたい、同じ感動をその 場所で味わって見たい、と思い吟行に行くのです。土の匂い川の匂い土臭く地上的な自然が大好きという先生の中には故 郷の丹波という原風景があるのですね。人間も自然は無条件に好きという、目覚めて天気がよければ楽しくなると、俳句 は作る対象を見て言葉が自然に発してくるような状態に自分を置くのだと、作意を越えた率直さが我々に限りなく親しみ 深い魅力を讃えているのです。じっと物を見ないといけない。そして感動を言葉にするということを栗田主宰にもさんざ ん言われてきました。
自註句集『細見綾子集』に「私は黄色い花を見るとなんだか幸せそうに思う。」と、こう思えるのはとても素適なことですね。
菜の花の句を少し上げてみると
 菜の花のおぼろが空につづくなり (昭和六年)
 花菜咲き水をじやぶじやぶ水仕事 (昭和十三年)
 三島の富士近し菜種の花つづき  (昭和五十七年)
 水ぎはまで埋む菜の花長良川   (平成五年)
 
 どの句からも菜の花の咲き様が目に浮かんできます。
 綾子先生のお齢迄自分も自然としっかり向き合って感性を絶やさぬよう磨かなければと遅まきながら再確認したところです。
 
(了)


文中写真 武藤光リ
 


平成29年2月


 
イソヒヨドリ  牧野 一古






イソヒヨドリ
       
写真 国枝髏カ


    巌頭に磯ひよどりや卯波立つ   やすし

 平成二十二年五月十八、十九日、第三回伊吹嶺俳句鍛錬会が鎌倉と江の島で行なわれた。上記の栗田先生の句は二日目 の江の島で詠まれたものである。富士見の岩と称された大きなゴツゴツとした岩が波に洗われながらドッシリと浮かん でいる。その岩の上にイソヒヨドリがじっと佇んでいた。私もちょうど居合わせたが〈巌頭〉と〈卯波〉の取り合わせ にウーンと唸ってしまった。巌頭というと黒い岩を想像し、卯波というと卯の花の白いイメージの波、そこに身動きも せずにイソヒヨドリの青い背と腹の赤みがかった褐色が眼前に迫ってくる。写生句といえども、なんと色彩豊かな奥深 く広がりのある句であろうか。
 ちなみにその時の私の句は〈いそひよどり富士見の岩を離れざる〉。あまりの素直さに苦笑するばかりである。
 私が初めてイソヒヨドリを認識したのは沖縄であった。平成十一年、摩文仁の丘に立った時、のびのびときれいな大 声で鳴く鳥がいた。青と赤の取り合わせもお洒落なイソヒヨドリであったが、あちらこちらで鳴いてくれていた。「沖 縄ではヒヨドリと言えばイソヒヨドリのことなのか」などと沖縄特有の鳥と思ってしまったが、とんでもない思い違い であったのだ。野鳥図鑑を調べてみた。
   ほぼ全国の海岸の岩場に留鳥としてすみ、岩、松の枝、電柱、屋根等に体を立ててとまり、尾をゆっくり上 げ下げする動作をする。時には海岸から離れた城壁やビル街で見ることもある。
 なるほど意識するようになれば、わが蒲郡も海辺の街であるからあちこちで見かける。母の家の近くでも駅でも鳴い ていたのだ。鳥自体が爽やかな色であるからであろうか、一応夏の季語でもある。ほかにも奈良の吉野山でも行くたび にイソヒヨドリを見かける。はじめはこんな山奥にと驚いたが、営巣しているらしかった。わざわざ江の島へ行かなく ても沖縄へ行かなくても、意外に身近な場所で遭遇するイソヒヨドリを、先生のように格調高く詠んでみたいものであ る。
 
(了)



 


平成29年1月


 
秋篠の里  坪野 洋子






秋篠寺
       
写真 国枝髏カ


    女身仏に春剥落のつづきをり   綾子(昭和四十五年)

 念願の秋篠寺を訪ねたのは満開の木蓮が青空に映えて眩しかった記憶があるので春爛漫の四月頃だったと記憶 しています。
 本堂の障子戸を開けると、まず最初に伎藝天が眼に止まりました。名句が生まれたこの場所に立って、剥落の 伎藝天を目の前にしていることに、気分が高揚してくるのを覚えた記憶があります。
 綾子先生は最初〈伎藝天に春剥落のつづきをり〉と詠み〈女身仏に春剥落のつづきをり〉と推敲されたとか…。 ふくよかな肢体を少し傾けて俯きがちに立つ伎藝天を「女神仏」と認識された事がまず驚きです。
 「春の雪」と題した文中で綾子先生は次のように述べておられます。
 「昭和四十五年春に秋篠寺へ行った。過去何回も見ているのに、この日に見た技藝天は実にすばらしかった。遠く いつからか剥落しつづけ、 現在も今、目の前にも剥落しつづけていることの生々しさもろさ、生きた流転の時間、 それらはすべて新鮮そのものだった。新しい風物の前を自分の新しい時間が通り過ぎる。〈女身仏に春剥落のつづき をり〉は、その時の句である。」
   〈春剥落の〉というところ、駆け出しの頃の私にはどうしても理解できませんでした。作品は発表されれば作者の手 を離れ読み手の自由になると聞いたことがありますが「女身仏に春」で切って「剥落のつづきをり」なのかな勝手に 思ったりしました。
 〈秋篠へ夕畦焼の火に追は〉〈畦焼の火色天女の裳に残る〉など、秋篠寺に辿りつくまでに詠まれていますが、 剥落の像のところどころに残る弁柄の赤い色に道中に見た畦焼の焔を重ねておられたのでしょうか。
 昔のように気軽に吟行に行けなくなった私は今、部屋に掲げた伎藝天像に癒されながら、気持ちを宥めております。
 
(了)


文中写真 国枝髏カ