女身仏に春剥落のつづきをり 綾子(昭和四十五年)
念願の秋篠寺を訪ねたのは満開の木蓮が青空に映えて眩しかった記憶があるので春爛漫の四月頃だったと記憶
しています。
本堂の障子戸を開けると、まず最初に伎藝天が眼に止まりました。名句が生まれたこの場所に立って、剥落の
伎藝天を目の前にしていることに、気分が高揚してくるのを覚えた記憶があります。
綾子先生は最初〈伎藝天に春剥落のつづきをり〉と詠み〈女身仏に春剥落のつづきをり〉と推敲されたとか…。
ふくよかな肢体を少し傾けて俯きがちに立つ伎藝天を「女神仏」と認識された事がまず驚きです。
「春の雪」と題した文中で綾子先生は次のように述べておられます。
「昭和四十五年春に秋篠寺へ行った。過去何回も見ているのに、この日に見た技藝天は実にすばらしかった。遠く
いつからか剥落しつづけ、 現在も今、目の前にも剥落しつづけていることの生々しさもろさ、生きた流転の時間、
それらはすべて新鮮そのものだった。新しい風物の前を自分の新しい時間が通り過ぎる。〈女身仏に春剥落のつづき
をり〉は、その時の句である。」
〈春剥落の〉というところ、駆け出しの頃の私にはどうしても理解できませんでした。作品は発表されれば作者の手
を離れ読み手の自由になると聞いたことがありますが「女身仏に春」で切って「剥落のつづきをり」なのかな勝手に
思ったりしました。
〈秋篠へ夕畦焼の火に追は〉〈畦焼の火色天女の裳に残る〉など、秋篠寺に辿りつくまでに詠まれていますが、
剥落の像のところどころに残る弁柄の赤い色に道中に見た畦焼の焔を重ねておられたのでしょうか。
昔のように気軽に吟行に行けなくなった私は今、部屋に掲げた伎藝天像に癒されながら、気持ちを宥めております。
(了)
文中写真 国枝髏カ