いぶきネット句会の会員がいぶきネット句会について書いたものです。ぜひお読みになって、興味を持たれた方はいぶきネット句会の仲間になりましょう。初心者大歓迎です。
なおこのページは2016年~2017年を掲載しています。過去の「いぶきネットたより」は次の該当年をクリックして下さい。
いぶきネット句会たより(2014年~2015年)
いぶきネット句会たより(2009年~2013年)
俳句との出会い 田尻 孝 (北海道) 2017年12月
平成27年4月に地元の句会に入会と同時に北海道俳句会に所属し、翌年、伊吹ネット句会に入会しましたので、平成30年4月を迎え二年のご指導を受けることになります。
仕事を辞めて時間的にも余裕ができた頃、俳句を勧められ、「お茶を飲みに遊びにおいで」と気軽な誘いが踏み出す一歩になりました。学生時代、身を入れて勉強をしなかった後悔を埋めるかのように何かを求め探し続けてきたような気がしますが句作をするとは思いもよらないことでした。
見学の句会は、顔見知りの方々でしたが灯りに照らされた皆さんの表情が実に活き活きとし、春を待つ喜びを温かな眼差しや感性で詠まれており、新鮮で充ちた時間でもあり学ぶことの出会いでした。
伊吹ネット句会の有井真佐子さんとお会いしたのは、入会後、まもなくの頃、観光で来島されることを知り、宿泊のホテルへお迎えし、我が家で俳句のお話をすることができました。俳句の歩みもジェットコスタ—のようにアップダウンがあること、兼題に草間弥生の絵が提出された話など、地元の句会とは違う句会の様子を興味深くお聞きしたことが印象に残っております。初対面という距離感も無く、あっという間に時間が過ぎ、俳句が取り持つ縁とはまさにこの様なことなのだと思いました。
花や鳥の名も知らず、読めない漢字は数多、語彙のなさに無知を思い知らされ、私にとって句作はまさに苦作でありますが生活の中に支柱を得た喜びがあります。
特に伊吹ネット句会の皆様には、古語表現や文法の丁寧なご指導を受けて有り難く思っております。また、毎月の添削指導やアドバイスが得られることも重ねてお礼申し上げます。
俳句の出会いに感謝し句作を続けながら豊かに年を重ねていきたいと思います。
芭蕉句碑 宇都宮えみ (宇和島) 2017年11月
旧宇和島市には、芭蕉の句碑が三基ある。
古池や蛙飛びこむ水の音
明治二十六年の陰暦十月の忌日に宇和津彦神社に建立。
志者らく盤花の上那類月夜哉
明治四十年に愛宕山の中腹に建立。
父母能志き里に戀し雉子の聲
弘化二年に龍光院 (四国別格霊場第六番)に建立。
ところで松尾芭蕉の伝記を記した『蕉翁全伝』には、芭蕉の生母は「伊予宇和島の産」とあり、いま一つの伝記『芭蕉翁全伝』には、「伊予国の産」とある。さらに「伊賀国名張に来りてその家に嫁し、二男四女を生ず、嫡子半左衛門命清、其次則翁也、生保元甲申の年、此国上野の城東赤坂の街に生る」とある。
母は、伊予国から伊賀国の名張に移り住み、伊賀国拓植の土豪一族出身の父、松尾与左衛門と結婚して芭蕉を産んだという。
どうしてそのようなことになったのかを、愛媛県歴史文化博物館の資料を基に調べてみた。
「豊臣秀吉は、藤堂高虎を伊予国宇和、気多、浮穴の三郡の代官に命じた。その上、伊予国宇和島(板島)城主とした。関ケ原の戦いの戦功により高虎は、伊予国の今治藩主となる。その後、伊賀国、伊勢国に移封され、津藩主となる。その時、高虎について来た芭蕉の母親は、伊賀国の名張に住むようになったのでありましょう。その姓は、桃地氏との説もあるが、藤堂氏の歴史を記した『宗国史』の「功臣年表」に該当する者は見当たらないので、芭蕉の母親の家は、それほどの家ではなかったとするのがよいでありましょう。」と博物館初代館長大石慎三郎は、寄稿文『松山藩主松平定直と伊予俳諧』で述べている。
名城公園 野崎 雅子 (名古屋) 2017年10月
我が家の最寄りの駅は、地下鉄名城線の「名城公園」。その駅を出てすぐ目の前に、名古屋城の北に隣接する名城公園がある。「住まいは」と聞かれ、名古屋の方なら「ああ、あの名城公園ね。」と、すぐわかってくれる。
家から歩いて十五分位で公園に着き一周すると、ちょうど一時間位と、散歩にはうってつけの公園である。
せせらぎの流れる「芝生広場」江戸時代の名残りある「おふけ池」「フラワープラザ」等の施設もあり、四季を通じて花見が楽しめる。
昨年、「トナリナ」という複合施設ができ、ランチを楽しむ人、ジョギングをする人が増えた。
道路をはさんで東側には、愛知学院大学の商学部、経営学部、経済学部の三学部ができ、若者の姿も増えた。
かつてベビーカーを押して散歩していた私は、二年前もう犬は飼わないと決心したにもかかわらず、今また、仔犬のリードを引いて散歩している。
絹織物と桐生 中村 正人 (桐生) 2017年9月
群馬県民なら誰でも知っている「上毛かるた」に「桐生は日本の機どころ」とうたわれている。
桐生の養蚕業・絹織物業の起源は奈良時代に遡り、朝廷に絹を献上した記録がある。そして、足利幕府から織物の注文を受けたこと、新田義貞が鎌倉討幕の軍旗に織物を使用したこと、関ヶ原の戦いでは家康軍に旗絹と竹を用意したことが知られている。
桐生の町は、徳川家康の命によりつくられた天領地で、天満宮を起点に本町一丁目から本町六丁目まで五間の街道が南北に二キロメートル貫き、街道の両側に短冊状の町割りが行なわれた。なお、「丁目」の表記は現在もそのまま使用されている。そして、街道の両脇には水車が回り、染色業や糸繰りなどに使用された。水路の覆いを取れば、今でも当時の水路を見ることができる。特に本町一丁目と二丁目は、江戸後期から明治初期の古い商家や蔵屋敷、のこぎり屋根などの建物が当時の景観を残し、江戸期の呼称「桐生新町」として保存されている。
桐生新町は市場町として栄え、天満宮境内で絹市が開かれた。その後、複雑な文様の「飛紗綾」が織られるようになると、新町で開かれる絹市は「紗綾市」と呼ばれ、関東有数の絹市として発展した。
現在は毎月第一土曜日に「買場紗綾市」として開催され、同日の「天満宮古民具骨董市」と「桐生楽市」とあわせて、「桐生三大市」と呼ばれている。
定点観察 森田 もきち 2017年8月
高校同期会70歳の時、同期生の山口青邨の次男(俳句は素人)を中心に、彼の縁で夏草同人を指導者に仰ぎ句会が発足しました。句会は毎月荻窪で午後開かれます。十年位前のことですが、午前の時間を利用して荻窪の大田黒公園を訪れました。そこで当時ご指導をいただいていた上井正司先生にお会いしました。先生は句会の時は定点観察のため大田黒公園に寄るのだと言われました。初めて聞く定点観察に付きお尋ねすると、場所を決めて定期的に訪れ句材を探すことと言われました。大田黒公園は場所も狭いし、一度観察した後は同じで新しい発見など思い浮かびませんというと、意識を持って観察を続けていると、そのうちに自ずと分かってくるよと言われました。言われるままに、句会の在る日の午前中を定点観察時間として、千葉から荻窪に行く途中の上野公園、皇居東御苑を定点観察地に選びました。
上野公園内にある東京国立博物館は、句会の在る日の午前中を過ごす最適の場所です。今までは門を入ると真っ直ぐ館内に向かっていましたが、定点観察を思い出し、入る前に館の周囲を観察して歩きました。敷地の片隅に今まで気付かなかった本を手にしたジェンナーの銅像がありました。今は種痘も影を潜め、孫たちに聞いてもその名前を知らないジェンナーですが、私には国民学校の学童時代を思い出させる懐かしい名前です。
新樹光医学書を手にジェンナー像 もきち
或る日の上野公園は土曜日の事とて大勢の人で賑わっていました。特に最近は外国人の姿が驚くほどです。国柄もいろいろです。昔は韓国や中国の人はその国らしい顔つきでそれとなく分かったものですが、今は日本人と見分けが付かず、言葉を聞かなければ分かりません。句材にしたいのですが作句は難しい。大道芸に見入る人達を観察しながら、ふと空を仰ぐと飛行船が音も無くゆっくりと大きく輪を描きながら青空を飛行しています。何十年ぶりに見る飛行船に郷愁を感じました。
秋うらら大きく回る飛行船 もきち
ある日の上野公園は雨でした。幸い小降り程度なので雨の日の風情は如何なものかと公園内を逍遥、こんもりした木陰に大きな石塔が建っています。彰義隊の墓でした。現役時代上野支店に六年間勤務していましたが、今思うと外観を上滑りしただけで殆ど知らないことに驚いています。西郷隆盛の銅像や野口英世像はともかく、王仁博士碑、上野大仏、古墳時代に作られた前方後円墳の摺鉢山、天海僧正毛髪塔、東照宮のお化け灯籠など最近知りました。彰義隊の墓所も定かではありませんでした。江戸城今は皇居となった方向を向き雨の中ひっそりと立つ墓石、彰義隊の隊士達の思いは如何ばかりのものか、思いやるだに胸の中が熱くなるのでした。
皇居向き彰義隊の墓秋の雨 もきち
句会で荻窪に行くとき、東京メトロを使用するときは大手町で乗り換えです。この午前の時間を利用して、皇居東御苑を第二の定点観測地にしました。ある日、皇居二の丸庭園で今を盛りの花菖蒲を観賞し、旧江戸城天守台跡地に着き、松と石垣、青空を写真に撮ろうと構図を考えていると、中国人夫婦が来て石垣を背景に写真を撮り始め、なかなか退きません。そのうち男性が石垣に走り寄り、石垣を背に大の字になり、笑いながら奥さんに何かを言っています。漸く去ったら次にアメリカ人夫婦が来て、芸術家風の髭を伸ばした亭主が、同じポーズで天を仰ぎ目を瞑って奥さんが撮影。次に来た若い姉弟らしき台湾人に大の字のポーズを教えた所、喜んで写真を撮り合っていました。日本人のこういう光景は見たことが無いので、外国人との観賞の受け止め方の相違を面白く感じました。
風薫る石垣を背に大の字に もきち
上井正司先生の「定点観察」に私の「俳句工房」を付け加えて、これからも大事にしていきたいと思います。
鵜沼宿と芭蕉 酒井淑子 (犬山) 2017年7月
犬山の内田の渡しより木曽川を渡った所に中山道六拾九次の五拾弐番目の鵜沼宿がある。
1688年元禄元年芭蕉十哲の一人、内藤丈草はこの内田の渡しより上洛したことだろう。故郷を捨て、旅立つ丈草に想いを馳せ、鵜沼宿の芭蕉の句碑を巡る。
中山道鵜沼宿は明治二十四年の濃尾大地震でその殆どが倒壊したと言われている。
江戸時代の「鵜沼宿家並絵図」を元に脇本陣を務めた坂井家の建物が復元され公開されている。
松尾芭蕉は貞享年間に三度にわたり鵜沼宿を訪れ坂井家に滞在したと伝えられている。貞享二年三月「野ざらし紀行」の芭蕉は坂井家に一泊して木曽川を下り桑名を経て熱田より四月に江戸へ帰った。貞享五年年岐阜で鵜飼見物をした芭蕉は七月再び鵜沼の坂井家にて
汲留の水泡立つや蝉の声
を詠んだ。
同年八月八日三度坂井家に滞在
ふく志るも喰へば喰はせよきく乃酒
の句を即興で詠み、その句を自ら刻んだと伝えられる。この珪化木の句碑は現在、坂井家の隣の町家館と言われる資料館にガラス張りの小屋の中に展示されている。
同年八月十一日鵜沼を発ち木曽路を更科紀行に旅立つ。
送られつ送りつ果ては木曽の秋
と詠み美濃との別れを惜しんでいる。
芭蕉の句碑を観た後は旧中山道の雰囲気の残る街道を歩く。
脇本陣坂井家より太田宿に向かって、大安川を過ぎたあたりに高札場が当時のままに復元されている。さらに行くと「赤坂の地蔵堂」があり道標を兼ねたお地蔵様には「左は江戸せんこうしみち右は在所みち」と刻まれている。さらに峠道を上がるこの辺りにはマンション群が立ち並び現代と江戸時代があたかも交差しているような光景である。
マンション群を抜けると、うとう峠一里塚がある。頂上の旧中仙道うとう坂のこの辺りは「日本ラインうぬまの森」と呼ばれ市民憩いの散策道となっていて四季おりおりを楽しむことが出来る。
ネモフィラと鯖缶 渡辺 慢房 (ひたちなか) 2017年6月
恥ずかしながら、ネット句会に全く同じ句を二度投句してしまったことがあります。
「ネモフィラの丘より望む青葉潮」というのがその句です。
最近、TV等で紹介されることも多いので、ピンと来た方もいらっしゃると思いますが、私の住む茨城県ひたちなか市の、国営ひたち海浜公園の見晴らしの丘で、この句を詠みました。
見晴らしの丘は、春はネモフィラの丘と呼ばれ、ブルーに染まります。また、秋にはコキアの丘と呼ばれ、一面真っ赤となり、色とりどりのコスモスに縁取られます。
ネモフィラの輝くブルーと空の明るいブルー、そして丘に登ると望める鹿島灘の深いブルーの三重奏は、「浄土」というような言葉さえ頭に浮かんで来るような絶景で、思わず来るたびに、同じ句を詠んでしまったりします。
ただ、ネモフィラの見ごろは、ちょうどゴールデンウィークに重なるために、ここ数年は、異常に混雑するようになってしまいました。ひどいときには、駐車場に入るのに数時間待ち、入場券を買うのに数時間待ちというような状況になるようです。
私も、毎年楽しみにネモフィラの丘を見に行くのですが、裏技を使わないとなかなかスムーズに入場できないようになってしまいました。裏技は、ちょっとここには書けませんので、お出かけになる方は個別に御連絡ください。
ネモフィラが見ごろの時は、チューリップもまた綺麗な時期です。たまごの森というエリアでは、広々とした松林に数えきれない品種のチューリップが植えられており、木漏れ日と潮風に揺れています。こちらも是非、見逃さないようにして戴きたいものです。
また、見晴らしの丘は、ネモフィラの花が終わるとコキア(箒草)に植え替えられ、夏は一面の緑、秋には前記のように、高い空の下で真っ赤に染まる丘が楽しめます。こちらの景色も、一度は是非ご覧になって戴きたいものです。
海浜公園の中には、レストランや食べ物の屋台などもありますが、多くの方は弁当を持って来て、ピクニックを楽しんでいます。私も、いつも途中のスーパーで、ビールや食料を買って行きます。
ビールは一本ずつ、保冷用の氷と一緒に袋に入れておくと、かなり長時間飲み頃の温度が保てます。食べるものは、出来合いの弁当などでも良いのですが、現地で何か一手間かけた方が、行楽の気分をより味わえるため、簡単な材料を持って行くことが多いです。
最近の定番は、フランスパンと鯖缶です。鯖缶は、味噌煮でも水煮でもかまいませんが、私は味噌煮がお勧めです。それに、一緒にパンにはさむ適当な野菜、カットレタスやキュウリが手軽ですね。
パンや野菜を切るのにわざわざ包丁を持って行くのも大げさなので、私は百均で3本セットで売っている文房具のカッターなどを使います。また、パンに具の鯖を挟むときには、箸が無いと難儀します。
パンは2センチの厚さに切り、具を挟むための切れ目を入れます。ここに適当に崩した鯖と、スライスしたキュウリなどを挟めば出来上がり。スライスチーズやマヨネーズがあればなお良いですが、無くても全然OKです。これで、簡単で美味しいランチの出来上がり。何よりビールに合うのが嬉しいです。
鯖缶のほかに、スーパーで売っている出来合いのお惣菜などを買って行ってパンにはさんでも良いですよ。ポテトサラダなどは定番ですが、きんぴらごぼうなども、案外いけます。いろいろと試してみるのも楽しいですね。
皆さんも是非、ひたち海浜公園においで下さい。
ある床屋談義 松井徒歩(名古屋) 2017年5月
私は理容業を生業としているのであるが、頑固な性格が災いしてお客と論争となることも度々である。先日もあるお客と、休日はどうしているという話になり、私が「木蓮の花を俳句のために一時間眺めていた」と語ったのである。
するとそのお客は「そんな馬鹿な話があるか、見たまんまさっさと作ればいいだろう」と言うので、いやいやそんなに簡単にはいきませんと抗弁したのである。
すると、「たかが五七五、気取りすぎだ」と言われ、むかっときた私は「俳句を知らない人には俳句の良さや難しさは理解しにくいかもしれませんね」と返答したのである。
その後が最悪の展開となり、「知らんものには分からんというのは失礼だろう」と怒り始めたので、私も興奮して「私にも説明の能力不足があるかもしれないけれど少し突っかかり過ぎではないですか」というようなことを言ったような記憶があるが何を言ったのか?
その後はやや滑稽な展開となり、お客が苦笑いしながら「おいおい鋏を振り回して喋るなよ、あぶないだろう」。
私もはっと我に返り、照れ笑いしながら「そうですね興奮しすぎました」と鉾をおさめたのである。
句会はじめ 新井 酔雪(岡崎) 2017年4月
職場の上司に勧められて始めた俳句。やってみるとこれが存外に面白く、一年を待たずにはまってしまった。俳句が上手くなりたいと思い、その上司に相談すると、句会に入るか、俳句結社に所属するとよいとのこと。いきなり句会だなんて、自信がない。その場で、「一句作ってください」と言われたらどうなる。第一わたしは人見知りである。それで、「伊吹嶺」のお世話になることになった。
俳誌「伊吹嶺」を読み、俳句の本を読み、勉強した。初めの数年は、栗田先生に取っていただく句も増えていった。しかし、三句選ばれるようになってからが苦しかった。どんな句がよくて、どんな句が悪いのか分からなくなった。結局独学では限界があると思い、「いぶきネット句会」に入り、誘われて「伊吹嶺句会」に入った。
栗田先生曰く、「句会は俳句を総合的に学べるよい機会だ」と。その通りだと思う。人が作った俳句に真剣に向き合う選句。選句の一時間半の沈黙が、俳句への心構えを強くする。そして披講。「あっ、取り損ねた」、独り善がりになりそうな自分を諫め、客観へと導く。最後に先生方のご講評。これがとても勉強になる。俳句の本には書いてない学びがある。今後も句会で学び、句会を楽しみとしたい。
京都・嵯峨野めぐり 梶田遊子 (名古屋) 2017年3月
私は、京都の嵯峨野をよく散策する。かれこれ数十年前に学生時代のひとときを京都で過ごしたことがあるが、嵯峨野が好きでよく散策した。ところで、その嵯峨野であるが、京都駅からの利便性がよく、京都の観光地の中でも訪れやすい地である。JR山陰本線(嵯峨野線)京都駅から約15分で嵯峨嵐山駅(昔の嵯峨駅)に着く。乗り換えがなく移動も速い。嵯峨野と言えば数々の名所や旧跡が多い。嵐山、天龍寺、野宮神社、常寂光寺、竹林の道、祇王寺、大覚寺、大沢池など、どの場所に身を置いてもよいが、嵯峨野の小径をのんびりとぶらつくこと自体が一番楽しい。JR嵐山嵯峨駅からは山陰本線の旧線敷を活用してトロッコ列車も走っている。そんな嵯峨野において、私のお気に入りは落柿舎である。落柿舎は向井去来の庵で、嵯峨野の情緒を十分醸し出す佇まいでもある。
昔も時折訪れた地であるが、俳句を嗜むようになってからはより思いを募らせて訪ねている。落柿舎の門をくぐれば不思議なことに俳句の世界へと導かれ、嵯峨野での感動句を何とか詠んでみたい気持ちにかられる。落柿舎には多くの碑があるが、やはり次の二句が代表的な碑であろうか。
柿主や梢はちかきあらし山 去来
五月雨や色紙へぎたる壁の跡 芭蕉
私は最近ご朱印にこだわっているが、落柿舎のご朱印には「柿守や梢はちかきあらし山」が記されており、感動した。
最後に嵯峨野で詠んだ私の拙句の一部を紹介したい。
鳶高く舞ふ紅葉の嵐山 遊子
妻に選る古都の土産にさくら餅 遊子
(嵐山・渡月橋付近に有名なおいしい和菓子屋あり)
遣唐使の風待ち港 八尋 樹炎 (糸島) 2017年2月
福岡県は鳥取・島根・山口と並び、元来裏日本ですが、古代、遣唐使時代は華々しい国の表玄関で数多の万葉人の往来の地でした。母の故郷が志賀島だったせいで、「金印」や、人々の暮らし向きに興味を持ち、度々出かけて行く島です。この地は主に漁業・製塩・海運に従事して居ました。
又この時代は、博多湾の入り口に浮かぶ志賀島・能古島・玄海島は共に「大宰府」への外敵侵入を防ぐ砦で、防人の島でもありました。飛鳥・奈良・平安時代の遣唐使は、大和から瀬戸内海を抜け暴風雨に遭いながら、糸島半島に辿りつくも、目指す唐・新羅は遥か彼方「万葉集」には「韓亭」と書かれているのは今の糸島市「唐泊」で、危険な外海へ出る風待ち港でした。長い時は一月も出航出来ないことはざらで、こんな航海を続けていればこそ、月や雁となり、故郷や妻に逢いたいものと、万葉人の詩が生まれたのでしょう。
星を見ても、月を見ても、波を見ても思う事は唯一つ、早く帰りたい。生き延びて妻に逢いたい。せっかく出航出来たのに、早くも風待ちかぁ・・・と遣唐使一行は落胆したに違いないのです。
韓亭能古の浦波立たぬ日は
あれども家に恋ひぬ日はなし
(作者未詳)
風吹けば沖つ白波怒みと
能古の泊まりに数多夜そ寝る
(作者未詳)
遣唐使が家を偲び、残した家族を恋しく詠んだ詩が糸島の昔と変わらない引津湾の風待ち港に詠まれ歌碑が並んでいます。そこからの眺めは悠久の時空を感じさせる古代の海そのもので、今も広がっています。
携帯電話やパソコンが揃う現代は、このような美しい夫婦愛の詩は生まれなかったかもしれません。
遣唐使派遣は、唐の混乱や日本文化の発達を理由として停止になるまで続いたそうです。
玄海の飛沫を浴びて渚を歩けば、中国文字・ハングル文字の漂着物の多さに驚いてしまいます。
志賀の海女の一日も落ちず焼く塩の
辛き恋をも我はするかも
(作者未詳)
辛い恋・・・故郷への恋詩と言われています。
冬の季語に纏わるあれこれ 鈴木未草 (知多)2017年1月 歳時記をめくり、いくつか思いつくまま書いています。 『衾(ふすま)』
詩吟の会で近代詩を合吟しました。島崎藤村の「千曲川旅情の歌」です。その一節に《しろがねの衾の岡辺日に溶けて淡雪流る》とあります。耳で聴いた時は、馬の飼料?と思ったのですが、調べると、布団の古い言い方らしい。さすが、詩人は言葉遣いが素晴らしいと感心したのでした。ちなみに、この長い詩を暗唱できる方が意外にいらっしゃる。主人もその一人です。
『皸(ひび)』
一昔前のことです。職場を去る事になった先輩と別れのあいさつをして握手をしました。ハッとしました。皸だらけ、荒れに荒れてガサガサの手でした。お母さんの介護をされていたのです。何事にも妥協を許さない先輩でしたが、ご自分にも厳しかったのです。私は自分の手を見て恥じ入りました。、私の母も皸あかぎれ満載の手をしていたように思います。
『鼯(むささび)』
この前、登山のため、「丹沢ホーム」という宿に泊まりました。その食堂にパソコンのモニターがあって、なんだか、銀河の映像のようなものが映っていて、時々動くのです。気になって近寄ると、なんと、ムササビのしっぽだったのです。その宿の、道を挟んだ向かいの林の一本の木に巣箱があって、その中に住んでいるらしく、中に仕掛けられた赤外線カメラで、動く様子がわかるという仕組みでした。しっぽを布団みたいにしてくるまって小さい耳だけが見えました。夜行性なので丸い窓から外の様子をみたりしていました。ときどき、出ていくときもあるそうです。その宿は、登山だけでなく、渓流釣りのお客さんも来るそうで、ご主人は話好きの気さくな方でした。ムササビも安心して住みついているのです。
『マント』
雪国育ちの私は、小さいころマントを羽おって、通学していました。赤いラシャで、手が出るところにポケットのような蓋がついていました。ランドセルごと羽おれるので、とても便利。三角の帽子がついていて、少しぐらい吹雪いても平気でした。少し、重たいラシャの生地が安心でした。あのマントが懐かしくて、三か月の孫にマントを買ってしまいました。軽いふわふわのですが。
漢 俳 市川 克代 (北名古屋)2016年12月
母が詩吟の教室を開いていた関係で、私も詩吟に親しみ、数年前まで中国の漢詩の舞台を訪ねる旅行に参加していた。
旅行中、中国の方を招待して「日中友好のパーテイ」が開かれたが、その折り、中国でも漢俳(俳句?)を作る人がいると知った。 おおむね年の多い方ばかりだったが、早稲田大学に留学していたとか、東北大学を卒業したとかいう経歴の方もいて、中日友好協会に関係する方が多かったと思う。
漢俳について説明があったように思うが、自分は中国語が分からないし、通訳の人(中国人)は多分俳句がよく分からなかったであろうし、日本語の助詞は中国人にとってなかなか難しいという情況で、印刷物で、なるほど漢字で五・七・五文字だということだけ理解した。そのとき頂いた印刷物から漢俳を三句紹介します。
① 贈日本俳人華團 (其の三)
趙撲初(一九〇七年生まれ)
緑蔭今雨来 (緑蔭 今雨来る)
山花枝接海花開 (山花の枝 海の花に接ぎて開き)
和風起漢俳 (和風 漢俳を起こす)
漢詩のように脚韻を踏んでいる(来・開・俳)が、必ずしも必要条件ではないようだ。
② 贈日本友人 徐放(一九二一年生まれ)
詩友喜相逢 (詩友 相逢うを喜ぶ)
臨行休唱陽関曲 (行くに臨み 唱う休れ陽関の曲)
惜別嘆匆匆 (惜別匆匆たると嘆く)
王維(唐)の「元二の安西に使するを送る」のイメージ。季節は原詩より春である。脚韻はない。
③ 寒山寺
呉瑞鈞(一九四三年生まれ 女性)
楓橋喜快晴 (楓橋 快晴を喜ぶ)
寒山小径通幽所 (寒山の小径 幽所に通じ)
鐘声伴我行 (鐘声 我が行く所に伴う)
張継(唐)の「楓橋夜泊」がイメージされるが、「楓橋夜泊」によれば季節は晩秋から初冬である。一、三句末は同韻。
②、③は有名な漢詩を下敷きに、日本の和歌の本歌取のようなスタイルだが、歴史の長い中国の俳句(?)は、日本と全く違う。漢詩本来の平仄の規則を私は知らないので、脚韻以外の規則があるかどうかは分からない。
今の中国でも漢俳なるものは作られているのかしら。
兼題 有井真佐子 (広島) 2016年11月
俳句を始めた当時兼題は「季語」を出された。習い始めだから、それはそれで勉強になった。
俳句の先生が代わられ兼題は一変し独特のものになり兼題の想像が広がり私は楽しい。
例をあげると、「細長い物」」丸い物」「尖った物」「揺れる物」「楽器」「固有名詞」「菓子」「飛ぶ物」「金属」「握り手がある物」「赤いもの」「尻尾がある物」「プラスチック」「上にあるもの」「薄い物」「深いもの」「ツルツルした物」「留める物」「ふにゃふにゃした物」「溶ける物」「ごちゃごちゃしたもの」「面」「有難いもの」「パピプぺポの音を使って」「遠いもの」「擬音語・擬態語を使って」「丸める物」「穴のあいている物」など。良くも先生考えられたな~と思う。
一番ユニークなのは前衛芸術家の草間彌生さんとの関わりである。草間さんと言えば瀬戸内海に浮かぶ「直島」にデザインされた「黄色のかぼちゃ」が有名であるが。
兼題は草間彌生さんの絵画「愛はとこしえ」を見てイメージを作句するというものだった。「愛はとこしえ」の絵は白黒の線描画で、大ざっぱに説明すると耳輪を付けた人の横顔、チョーカーをし逆さまになっている人らしき顔、目玉の様な物が沢山連なり、睫毛らしき物が大小ある。魚がいろんな方向にいて曲った長い海草のようなものが絵の中ほどに。というような独特の感性の作品だ。同じ絵を見ても体の中を通り抜けて出る言葉は皆違う。
難しい「兼題」だったが言葉と格闘しながら一句に仕上げた。イメージを作句すれば「即物具象」で学んできた私はそれが崩れる危険性が潜むのではと思いながら。
ちなみに指導された先生は「俳句甲子園」の選者をされている。
愛はとこしえの作品より
まつ毛つけ魚が遊ぶよ夜の秋 真佐子
兼題・ふにゃふにゃしたもの
初霜や我がひよめきに軽く触れ 真佐子
彦根散歩 浜野 秋麦 (彦根) 2016年10月
観光で彦根に来た方が、必ず訪れるのが彦根城でしょう。実際、お城の他には何も無いなどと云う向きもあります。何しろ、戦後九期に渡って市長を務めたのが、井伊家十六代当主という土地柄です。さしたる産業も発展せず、旧態依然の城下町の雰囲気が残っています。
JR彦根駅を出て、大通りを西へ真っ直ぐ突き当たりがお城です。いろは松の並木に沿って中堀を越え、内堀に突き当たればすぐに入場口です。ここから、天守閣まで登って、南側の京橋口へ降りて来るのが一般的な周遊コースでしょうか。いろは松の近くの埋木舎(うもれぎのや)、入場口の脇にある彦根城博物館(藩主の日常の住まいであった御殿の場所に建物を再現)、城の北側にある大名庭園の玄宮園、楽々園など付帯施設を隈無く見ていると一日費やすことも可能です。城の周辺にはこの他武家屋敷、足軽組屋敷なども残されていて、城自体の、櫓や枡形などの防衛施設とともに歴史マニアには必見です。
云わずもがなですが、天守閣にエレベーターはありません。(再建した城ではないので当然ですが)何時まで登れるかなと思う梯子のような階段です。その代わりと言っては何ですが、天守閣前の広場では一日に三、四回、ひこにゃんが迎えてくれるハズです。
天守閣から眺望できる石田三成の佐和山城跡は、JRを挟んだ東側です。こちらは彦根城と比べるとだいぶ険しい地形で、山城の雰囲気を濃厚に残した物だったのではないかと想像できます。
さて、だいぶ散漫な彦根城案内になりましたが、京橋口を抜けると、「夢京橋キャッスルロード」と名付けられた通りに出ます。規模は小さいですが、江戸時代風の街並み景観を演出した店舗が並んでいます。昼食やお土産はだいたいの用が足ります。観光シーズンはかなりの賑わいで結構なのですが、大半は年配者で(自分のことは棚に上げて)笑えて来るほどです。
彦根城で俳句となれば、森川許六を外すことは出来ません。蕉門十哲の一人、彦根藩士です。三百石の家柄とのことですから、上士の階級で、槍術、剣術、馬術、書道、絵画、俳諧の六芸に通じていたので、芭蕉から「許六」の号を授けられたと伝わっています。江戸勤番の時に芭蕉に入門しました。その入門時に提示した
十団子も小粒になりぬ秋の風 許六
の句は、許六の代表句となったばかりでなく、取り合わせ(二物衝撃)句の代表例としても知られています。
この許六の墓所は彦根駅から城に向かう途中の左側一筋奥に入った長純寺に在りますが、少しわかりにくい所です。昨年、三百回忌の法要があったのですが、その時は、墓所の存在も知らずにおりました。実際に、許六が葬られたのは、別号の一つである「五老井」と名付けた庵の土地だそうです。五老井の庵は城下を離れた佐和山から続く山並みの裾(現、彦根市原町)にありました。
彦根には、近江蕉門五老井の流れを汲む俳人がおられ、結社もあったと云うことなので、そうした由緒に繋がる場所も訪ねてみたいと思っています。
青い空と青い海と 鈴木みすず (ふじみ野) 2016年9月
七月の初旬に、夫婦でハワイに結婚記念の旅行をしました。いつもは子供たちの家族と一緒に行くので、ハワイ島、マウイ島などいろいろ観光するのですが、今回は二人だけだったので、ホノルルのワイキキで一週間をのんびりと過ごしました。
夕日がことのほか美しく、宿が浜辺からすぐ近くだったので、毎日浜辺を散歩して、夕日を眺めました。四階建ての船で、サンセットクルーズも楽しむことができました。
日曜日は浜辺の近くの教会の礼拝に出席しました。ステンドグラスがとても美しい教会で、出席者は二千人くらい、日本の教会とは規模が違います。スチールギターの演奏で、讃美歌はゴスペルソングと、明るく親しみやすい礼拝でした。説教もユーモアがあり、笑い声が時々聞かれました。
何よりもどこまでも透き通って、抜けるように青い空、潮目の色がグラデーションになっている海の色。空気がきれいだったこと、星空が美しく、星が数え切れないほど見えたことなどが、楽しい思い出となりました。
巨船見ゆ藍の潮目の濃く薄く みすず
潮風の抜くるトロリー夏の雲 みすず
散 歩 西村 信子 (名古屋) 2016年8月
北に小牧城、南には遠く名古屋駅のツインタワー、東の空には飛行機の離発着を望む。
春には畦に土筆、犬ふぐり、と日々緑の色が濃くなる。耕転機が土を返すと、その後ろに白 鷺、烏と餌をあさる。 用水に水が流れだすと鯉が一気に増えて胴をくねらせて鯉の恋が始まる。 田に水が張られると、吹く風も涼しくなり四方より蛙のな鳴き声で賑やかになる。
散歩のたびに農作業の方を遠くからながめ、時には近寄って、鎌を研いでいる砥石を見せてい ただく。
花の咲く頃には、三椏の咲くお宅の庭へおじゃまして手に触れてみたり、大山蓮華の咲くお宅 へ足を運び枝を引き寄せ薫りを楽しむ。
花に誘われ気付けば、農家さんのお庭におじゃまして犬に吠えられる始末。
青田に風が吹くとまるで龍が走る如くに青田がうねり身が竦む。
稲が実ると投網を打つ様に雀が広がったり投網を引く様に雀が稲の中へ入る景は見ていてあき ません。
秋には、畦道に蝗がびっしり夕日を浴び、こんなにも沢山いるものかと驚く。刈入れは今も稲 架を組んで干す所もあり、日々散歩が楽しくなります。
一年を通しての農村風景は、私にとっては目新しい景色ばかりです。何か句材は無いものか と「見える人には見える。聞こえる人には聞こえる」と口ずさみながらの散歩。
これが句に困った時の俳句工房です。
キャスリン・バトル 関根 切子 (東京)2016年7月 キャスリン・バトル虹立つやうに唱ひたり 細見綾子
平成二十年に伊吹嶺に入会した私は、もちろん細見綾子先生のことは何も知らず、綾子先生に師事した方々が思い出話をするのを羨ましく思っていた。
数年前のこと、林徹著「細見綾子秀句」の中に掲句を見つけ、その鑑賞を読んで驚いた。鑑賞は「昭和六十三年、八十一歳の作。綾子が東京文化会館でキャスリン・バトルを聞いたのは六月四日の土曜日である。キャスリン・バトルは白人黒人の混血ソプラノ歌手。句集題名『虹立つ』はこの句からとられた。「虹立つやうに唱ひたり」はソプラノ以外ではあり得ない。うまい比喩である。唱声が視覚化されていて、当日の歌がいかに素晴らしいものであったかを読者は想像することが出来る。」とあった。
その昭和六十三年六月四日、当時高校生だった私は東京文化会館でキャスリン・バトルを聞いていた。素晴らしい歌声だった。真っ赤なドレスの胸に大きな黄色いリボンを結びその端が裾まで流れ、それはまるで虹のようであった。
私はその日綾子先生とすれ違っていたかもしれない。何より同じ場所で同じ歌声を聞いていたのだと思うと嬉しかった。綾子先生との繋がりを密かに胸に秘めていようと思った。(結構しゃべってしまっているのだが・・・)
余談になるが「細見綾子秀句」のあとがきによると、綾子先生が最初の結婚ののち住んだのは東京の本郷区小石川原町とのこと。私が住んでいる文京区白山はその原町だったところである。九十年前綾子先生はこの白山に住んでいたのだ。これも不思議な縁であると勝手に思っている。
吟 行 野崎 雅子 (名古屋)2016年6月
私が俳句を始めてから、休みの日に夫と出かける際、吟行地となる所へ行くようになった。
その際、夫は趣味の写真撮影をする。夫はアマチュアの写真の会に属していて、奈良の鹿の角切り、愛知県半田市の潮干祭の写真で賞を貰っている。
夫は「君が俳句をやっていなかったら、行かなかった所へ行けたお陰で撮れた写真だ。」と、喜んでくれた。
本当に、私自身俳句との出会いのお陰で、やって居なかったら行かなかった所へ行け、俳句独特の多くの言葉を知った。
何より、日常の中の今まで見過ごして来た事に目をとめる事ができ、又感動できる感性が以前に比べはたらいていると思う。
又、俳句の仲間、先輩との出会いも大変貴重な宝である。
日々の営みに感謝し、もっともっと俳句に自分の気持ちを詠めるよう研鑽を積んでいきたいと思っている。
犬 山 橋 安藤 一紀 (小牧) 2016年5月
犬山と言えば、師弟句碑とそこから見上げる白帝城を思い描くが、俳句を習う前は犬山橋だった。三連のトラス橋が如何にも頑強で鮮明な印象がある。昭和30年代の遠足は古里の岡崎では、市内は志賀重昂の南北亭のある釈迦堂、蒲郡の竹島、香嵐渓の足助などで高学年になって遠方の東山動物園や犬山遊園の遠足になる。犬山は滅多に行かれない待望の場所だったからか、今だに郷愁を感じる。
犬山橋は、木曽川を跨ぎ愛知県犬山市と岐阜県鵜沼市を結ぶ交通の要所だった。現在は電車専用と自動車歩行者用の二つの犬山橋が架かっているが、平成12年までは三連トラス橋を名鉄電車と自動車歩行者が共用し、国道41号線としても長く使っていた。その頃橋で電車は徐行しているものの橋の本体が不気味に揺れ、鋼鉄の車輪を橋上の線路に軋ませ、自動車の直ぐ脇を併進するので、車を運転して渡る間電車の来ないことを期待して、何時も弱者的な緊張感を味わった。朝夕の通勤時や行楽期は激しく渋滞し、交通誘導の鉄道員が手旗を持ち立番した。
犬山橋の下流方向に真三角形で程よい高さの伊木山173mがあり、木曽川の流れに正対して絶景を映している。内藤丈草の「別れの岩跡」は犬山橋の直下にある。この流域で行われる木曽川鵜飼の篝火も犬山橋に付随する夜景だ。周りには、楓の寂光院、桃太郎神社、氷場跡、対岸には川上貞奴の貞照寺、鵜沼宿跡など名称旧跡が豊富だが、犬山と言えば、師弟句碑とそこから見上げる白帝城がイメージされるが三連トラス橋の「犬山橋」も懐かしい。
内藤丈草のこと 酒井 淑子 (犬山) 2016年4月
芭蕉十哲の一人とも四哲の一人ともいわれている内藤丈草は尾張国犬山生まれ本名を内藤林右衛門、寛文二年(一六六二)生まれ、四十三歳で元禄十七年(一七〇四)二月二十四日に没。父は犬山城主成瀬正虎に仕えている。丈草三歳のとき生母と死別。少年時代漢学を学んでいる。
二十歳頃に犬山先聖寺の玉堂和尚に参禅、その後病気を理由に武士を捨て遁世、のちに京に出て深草に隠棲している。元禄二年(一六八九)落柿舎で芭蕉に会い入門、蕉門に名を知られるようになった。元禄七年(一六九四)大阪の芭蕉の病床に駆けつけた。
看取りの場で
〇うづくまる薬のもとの寒さ哉
を詠んだ。その後三年の喪に服している。
元禄十三年(一七〇〇)母の三十三回忌には故郷の犬山に帰っている。
犬山市内の丈草の遺跡
① 犬山城正門前の句碑
〇涼しさを見せてやうごく城の松
② 丈草産湯の井戸跡(丈草生誕地)
市内新道の町家の敷地内に丈草産湯の井戸がひっそりと遺されている。
③ 七言絶句碑
犬山資料館前には丈草の七言絶句の漢詩の碑がある。
④ 先聖寺の句碑
〇ながれ木や篝火の空の不如帰
⑤ 西蓮寺の丈草坐禅石と句碑
丈草が坐禅をしたといわれている岩と句碑がある。
〇精霊にもどりあはせつ十年ぶり
⑥ 丈草別れの岩
犬山鵜飼の乗船場近くの内田の渡し跡には「丈草別れの岩跡」がコンクリートに埋もれるようにある。
⑦ 尾張冨士の中腹にある句碑
〇水底を見て来た顔の小鴨かな
丈草の遺跡探訪のコースは尾張冨士の句碑以外は比較的狭い範囲に点在しているので犬山にお出かけの折にはぜひ遺跡巡りをお勧めしたい。
金のなる木に花が咲きました 大野 絹子 (名古屋) 2016年3月
十年前に人差し指位の枝をいただいて挿した「金のなる木」が、五十センチ程になりました。
年中軒下に置いてあり、暮れに寒さよけの為、大きめのゴミ袋に入れようとしたら、いくつもの枝先に小さなつぼみが沢山ついていました。雪の前日には袋の口を結んで翌日には、ほどき太陽に当てたりして、お正月過ぎにとうとう花が開きました。待ちに待った可愛い花です。
それに今年は東山植物園「椿の苑」で拾ってきた椿にも、花が咲きました。椿も五~六年かかっています。又庭隅の一坪畑には、グリーンピースが一メートル近くに育っています。これも十年前にこちらへ越してきて種を買ったもので、毎年引き継いで沢山の実をつけてくれます。大好きなグリーンピースを思い切り食べたい一心で育てています。
このように自然に接する気持ちは俳句を作るようになって培われたと思っています。新参者ですが、皆さま宜しくお願いします。
ネット句会に入会して 中村 正人 (桐生) 2016年2月
私がネット句会に入会したきっかけは、㏋俳句会の選句結果の講評を見たことです。講評欄には、入選句ばかりでなく、問題点のある多数の俳句も併せて講評をしており、大変勉強になると思いました。しかし、パソコンは不得手のため、多少不安を抱えながらも、駄目元で試してみようと入会しました。
入会すると、沢山の温かい歓迎のメールをいただき、驚くやら嬉しいやらで不安も吹き飛び、やる気が出ました。
投句、投句一覧、選句一覧、合評会、添削の手順を経て、原句が見違える俳句に変化し、
ネット句会の素晴らしさが分かりました。特に合評会は、参加者から様々な意見や質問が次々となされ、質問に対する返答も直ちに行われます。また、その場に応じて添削句も提示されます。このような状況を目の当たりにし、参加者の熱気が画面をとおし、ひしひしと感じられます。五十句あまりを一時間ほどで処理するスピードとパワーには圧倒されます。そして、様々な知識や俳句の理解を深めることが出来、大変有り難く思います。単刀直入な短い言葉のやり取りの中に、お互いが理解し合い、着々と句会が進行します。これがネット句会の醍醐味であると実感しております。
おかげ様で入会して一年を迎え、ネット句会は生活のリズムにすっかり溶け込んでいます。皆様のご指導、ご意見をとおして、即物具象の写生句を目指します。今後とも、よろしくお願いします。
ラジオ生活 鈴木 未草 (知多)2016年1月
二〇一一年《ご覧のアナログ放送の番組は本日終了しました。今後はデジタル放送をお楽しみ下さい。》のテロップを最後に、我が家からテレビは姿を消しました。以来ラジオの生活です。
それまでの流れっぱなしの状態から、番組を選んで聴くようになりました。朝の六時から七時半は時計がわりにワイド番組を聞き、語学と邦楽はタイマーで録音、夜は音楽を楽しんでいます。
困ることは、ニュースの映像がないので、詳細が理解しにくいこと、旬のドラマやタレントさんの話題、流行語に付いて行けないことです。ですから、旅先の宿泊場所などにテレビがあると、思わず見入ってしまいます。特にCMが新鮮で面白いです。
この生活はいつまで続くか分かりませんが、今のところまずまず快適です。
神 楽 有井真佐子 (広島) 2016年1月
中国山地沿いの広島県、島根県などの農村では秋の収穫が終わると、いたる所で神楽が奉納される。これは農耕民族である日本人が日の神天照大神に五穀豊穣の感謝と祈願をこめて行なわれるものだ。
「口上、舞い、音」で成り立っている神楽。神楽では囃子方を「楽人」と呼び普通は舞台の左袖に座り楽器(大太鼓、小太鼓、銅拍子、笛)を奏でるが、これも楽譜は無く耳と体で覚えていくものと知り驚いた。後継者を育てる為か子供神楽もあり幼稚園児、小学生、中学生もがんばっている。
とりわけ島根県の西部石見の人は神楽好き。石見神楽で用いられる衣装は「舞衣」と呼ばれ、大正時代ごろから次第に華美になり現在のような金糸、銀糸の豪華絢爛の衣装になった。鬼が着る豪華な衣装は三~四年かけて仕上げるものもあると聞く。金額も一着数百万円もするものがあるそうだ。石見神楽は八調子の激しいリズムで舞うため、光を反射させ波しぶきを型どった鏡のようなものや、風土をあらわす荒波、渦巻き、雲などを胴板やガラス玉であしらい刺繍で止めて奥行きをもたせてある。また衣装の重さも二〇~三〇㎏もあり激しく舞う舞い人には体力がいるようだ。
石見神楽の代表演目「大蛇」に蛇胴(蛇の胴体)は欠くことが出来ない。これは一年間ねかせた竹を割ってパーツパーツに胴をつくり、それ用に漉いた石州和紙に特別な糊で重ね貼りして作るそうだ。そのものに色を塗り、うろこを手書きし、つなぎ合わせ頭、尻尾の部分を付けてある。
やはり圧巻は「大蛇」が出る神楽であろう。舞台で大蛇に巻きつかれた武将が大蛇の首を落とす場面では大蛇は口から煙を吐き、あばれ迫力満点だ。この時は楽人の鳴物も最高潮に達する。
また違う神楽団で赤、黄、緑色の大蛇三匹が、からみあって最後に渦巻き状態で舞台に立ち上がるのを見たことがある。これはこれで美しくもあり迫力もある。
広島市内の文化交流館では修学旅行生や外国の人に神楽を鑑賞してもらおうと、いろんな演目がおこなわれている。
客席へ大蛇降り来る里神楽 真佐子
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