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いぶきネット句会たより

 
いぶきネット句会の会員がいぶきネット句会について書いたものです。ぜひお読みになって、興味を持たれた方はいぶきネット句会の仲間になりましょう。初心者大歓迎です。

 なおこのページは最新の年を掲載しています。過去の「いぶきネットたより」は次の該当年をクリックして下さい。

 いぶきネット句会たより(2017年~2018年)

 いぶきネット句会たより(2014年~2015年)

 いぶきネット句会たより(2009年~2013年)



  今年の枇杷         鈴木未草           2022.7月


 我が家には古い枇杷の木がある。大きくなってしまったので、実を採るのは一苦労する。ご存じのように枇杷は冬に地味な小さい花が咲き、初夏に小さい青い実を付ける。梅雨時になると独特の形の鮮やかな色に熟す。 食べ時になると鳥が来るので、ああ早く採らなくてはと長い剪定ばさみを取り出し、大きい実は生で食べ、その他は皮を剥き実を取り出してジャムにする。

 ところが、今年の枇杷は惨敗だった。数は多いが実は小さく、あまりおいしそうではない。しかも梅雨入りが遅く鳥たちの食べ放題。彼らは夜明け前に集団で来る。私が起き出す頃には既に食べごろの実が落ちている。 何十個という残骸が道路、車のボンネットに干物を干すかのように等間隔で並べてある。不思議なことに皮だけで種は見当たらない。こんな事は今までなかった。つついた跡がある程度でもっと遠慮深かった気がする。

 お陰で一週間というもの毎朝その始末。犯人は不明だったがある日帰宅すると一斉に飛び立ったのが雀たち。なるほど君たちでしたか。満足できましたか? ようやく梅雨入りし、枇杷の実は半分に減っている。

   銀色の雨粒乗せて枇杷熟るる   未草




観 劇            野崎雅子           2022.6月

 無名塾、仲代達矢の「左の腕」を観た。松本清張原作の時代劇。

江戸深川に、父と娘で、父の飴売りでやっと暮らしている。隠したい過去を持つ卯助。同じ長屋に住む銀次が板前をしている料理屋「松葉屋」に、父子共々働けるようになり、穏やかに暮らしている。

しかし、「松葉屋」に出入りしている目明しは、卯助の左腕に常に巻かれている包帯、その下に隠されている傷痕を見逃さなかった。押し入りの罪で、島送りの過去を持っていた。原作は読んでいなかったので、どうなるか観ていたが、最後は、親子は無事料理屋で働く事になり、一時間半の劇は、三回のカーテンコールで幕を閉じた。

家に帰り、パンフレットに

「一度罪を犯した人に対する不寛容さは、あの大戦を引き起こしたそれと重なる。自分は喘息とアトピーの持病があるので、本当は映像の世界の方が楽なのではと思うが、役者が生の力で訴える事が出来るのが、演劇だから。どうにか、こうにか、此処迄来れた。あと一歩、もう一歩、芝居の力を、私は信じてみたい。」

という仲代達矢の一文を読み、自分の身を削って演じてくれている。そして、このような感動を与えてくれている。その思いをしっかりと受け止めたいと思っている。



俳句の背景          森田もきち          2022.5

 

 千葉県北部に位置し利根川に続く印旛沼は、江戸時代から水運・水害対策・新田開発などのため何回も干拓事業などが行われてきた県内最大の湖沼です。

周辺には国立歴史民俗博物館・ナウマン象発掘地・佐倉ふるさと広場・県立印旛手賀自然公園などありますが、中でも甚兵衛渡しは歌舞伎「佐倉義民伝」で知られる所縁の地で、承応年間(一六五二~五五)佐倉藩の過酷な年貢の取り立てに苦しむ農民のため、幕府に直訴しようとした公津村(現成田市)の名主佐倉惣五郎を、渡し守の甚兵衛が禁を犯し深夜に舟を出して藩の追っ手から逃がし、自らも自殺を遂げたという渡船場跡です。

印旛沼周辺に住友不動産経営の泉カントリー倶楽部があり、住友グループのよしみで千葉県在住0Bのゴルフコンペが時折開催されますが、その途中印旛沼畔には川魚料理屋が数軒あり、その裏手の葦の合間に使用しなくなった小舟が舫いされたまま放置されている光景は感慨深いものがあります。

 春になり都川の付近を散策していると、野良着姿で仕事の合間に私達が餅草とよんだ蓬を摘んで、草餅を作ってくれたお袋の姿が切なく思い出されます。桃と菊と栗の板の型があり、草餅に型を付けるのが子供心に楽しみでした。



  蕗              長谷川妙好            2022.4月    

 

 三月に入っていつもの散歩コースで蕗の薹を見つけた。個人のお宅の庭である。あまりの鮮やかさに思わず数をかぞえてしまった。広い庭のあちこちにさみどり色が二十余りも顔を出していた。

 このお宅は塀もなければ生垣もない。路地続きに庭があり、奥に木造の古い家が建っている。庭のまん中に井戸があり、大きな火鉢がいくつも植木鉢として再利用されている。梅干しを漬ける甕もいくつか並んでいる。縁の下には稲架を作るときのための丸太が突っこんである。子どものころを思い出させてくれる、なつかしいものにあふれたお宅である。

 二週間ほどして再び通りかかると蕗の薹は青々とした蕗に変わっていた。

「蕗になりましたね」

 庭の掃除をしていた住人の女性に思わず声を掛けた。名前も年齢も知らないけれど会えば挨拶はする。時には短い会話も交わす。

「この蕗は苦いんですよ。昔ながらの味です。蕗の薹も苦いんです」

「わかります。田舎で子どものころ食べたことがありますから」

「蕗が育ったらよかったら取りにきてください」

「ありがとうございます」

 礼を言って別れた。

 母が元気なころは田舎に帰ると蕗を土産に持たせてくれた。細いし灰汁が強いので調理に手間がかかり、家族も好まないのでうれしい土産ではなかった。竹藪の湧き水のそばにいっぱい生えていて、それを母と一緒に取る。指先が焦げ茶色に染まる。母はたくさん持たせようと一生懸命取るのだが調理の手間を考える娘は乗り気ではない。蕗よりも蕨とか薇などを取り置き、下処理しておいてくれた山菜や筍の方がうれしかった。その母も今は施設暮らしで山菜を採って持たせてくれることはもうない。

 新潟がふるさとの友人がいる。春になるとふるさとの兄夫婦からこごみや山独活が宅急便で届く。そのお裾分けをもらっていたのだが、高齢と病気で山に入れなくなったからと届かなくなって久しい。

「あの味がなつかしいよね」

「もう一度食べたいね」

 山菜の季節が来るたびに友と交わす会話である。

 もしあのお宅の蕗がいただけるのなら、久しぶりになつかしい苦みに出会えるかもしれないと密かに楽しみにしている今日このごろである。



鳥籠(とこ)の山ってどこの山?    浜野秋麦                  2022.3月

 以前にこの欄で、近江の歌枕について書かせていただいたことがあります。「吟行にいらした時には歌枕巡りなど如何ですか。」と結んでいます。今のご時世小旅行と云えど、なかなか難しい状況ですので、せめては紙面で紹介してみようと思います。

ちなみに辞書には、歌枕とは「古歌に読み込まれた諸国の名所」となっています。身近な所からと探しますと、私の住む彦根市内にもありました。

   犬上(いぬかみ)の鳥籠の山なる不知哉川(いさやがわ)

         いさとを聞こせ我が名告(の)らすな

              万葉集巻十一2710 詠人知らず

 

犬上とはこのあたりの郡名で甲良町、多賀町など今も残っています。不知哉川というのは現在の芹川であろうと特定されています。「犬上の鳥籠の山なる不知哉川」が、「いさ」を引き出すための序詞(じょことば)として使われています。「犬上の鳥籠の山にある不知哉川の名のように、さあ、知らないと言って私の名を明かさないで下さい。」くらいの意味でしょうか。「名告らすな」と云うのは言霊の息づいていたこの時代にあって、名前を知られてしまうということは、大きな意味をもっていたから、と解釈することが出来ます。

もう一つ、同じ地名の詠まれた歌として

    淡海道(あふみぢ)の鳥籠の山なる不知哉川

      日(け)のころごろは恋ひつつもあらむ

              万葉集巻四486 崗本天皇

全く同じ地名がセットで使われています。不知哉川までが序詞として使われていることも変わりません。「淡海道の 鳥籠の山にある不知哉川の、いさ(不知)というように先のことは分らないが、ここしばらくは恋い慕っていよう」くらいの意味でしょうか。

さて、不知哉川は現在の芹川として、鳥籠の山はいったいどこの山だったのでしょうか。キーポイントとなるのは東山道です。東山道には「鳥籠の駅」があったと伝えられており、近くの山が鳥籠の山と呼ばれていたようです。東山道と芹川の交わるあたりと考えると、従来から説のある「正法寺山」「大堀山」が有力候補になります。現在の地図には正法寺山も大堀山もありませんが、正法寺町にある「鞍掛山」が第一候補で間違いないと思います。(芹川の対岸の大堀山とおぼしき丘の麓「旭森公園」に歌碑があると聞いていますが、未確認です。)

いずれにしても、巨大古墳と比べても見劣りするくらいの小さな丘です。こんな所が歌枕として定着したのは不思議ですが、平安時代も中期以降には東山道の旅人が増え実際目にする機会も多く、なだらかな山容に愛着を抱かれたのでは、とする説があります。

鳥籠の山の名が歴史に登場するのは壬申の乱が初めではないかと思います。緒戦の「息長(おきなが)の横河」で敗れた近江(大友の皇子)軍が、追撃する大海人皇子の軍に反撃した所とされています。

二番目の歌の作者「崗本天皇」は岡本の宮で統治した天皇の意で、舒明天皇または(舒明天皇の皇后であった)斉明天皇であろうとされています。舒明天皇であれば天武天皇(大海人皇子)の父にあたり、鳥籠の山は朝廷との因縁も浅からぬ場所であったことが伺えます。

余談ですが、舒明天皇の諡号は息長足日広額(おきながたらしひひろぬか)天皇とされ、壬申の乱の緒戦の地
「息長」とも無縁ではないようです。この戦いはまた「息長川の戦い」とも呼ばれ、息長川は現在の天野川であり、その川口は「朝妻の湊」で、これもまた歌枕の地です。



句会の新たな試み        新井酔雪             2022.2月     

    

 コロナウイルスの影響も弱まり、やっと句会ができるようになったと思ったら、また元に戻ってしまった。それでも十一月、十二月と、句会を行うことができたのは幸運であった。久しぶりに句会の仲間の笑顔を見るのはうれしものだ。

それにしても、俳人はたくましい。会って句会ができなければ、会わずに行う句会を考えるのだから。

「いぶきネット句会」とほぼ同じようなやり方をしている句会がある。電子メールで投句と選句を行い、係が投句一覧と選句一覧を作成して配信しているのである。電子メールをやったことがない人はどうしたかというと、この際にやり方を覚えたそうだ。句会の仲間に教えてもらった人もいるという。

句会の仲間のほとんどが電子メールをやったことがないところは、郵送でやっているとか。葉書で投句し、ワープロで投句一覧を作成し郵送する。そして、選句は葉書。これはなかなか大変である。だから毎月ではなく、隔月で行っているそうだ。

インターネット上の無料のサイト「夏雲システム」を導入している句会もある。このシステムのサイトから投句や選句をすると、自動的に投句一覧や選句一覧などを作成してくれる。「夏雲システム」に登録してあれば、これらの資料を自由に閲覧できるのである。

さらに、この「夏雲システム」にズーム(zoom)を取り入れている句会もある。ズームというのは有料のテレビ電話である。パソコンの画面に句会の皆の顔が映り、話し合うことができる。そして、その画面に資料を提示することもできるのである。ちょっとした句会の雰囲気だ。

俳人は転んでもただでは起きない。病気になったら病気の句を詠む。句会ができなかったら工夫をして句会を行う。この気概がある限り句会はなくならない。

句会に入りたいが入ることができない伊吹嶺会員のために考えられた「いぶきネット句会」。当然のことながらコロナウイルスの影響を全く受けていない。ありがたいことである。先人のご努力があって今の句会がある。感謝、感謝である。これからもいぶきネット句会員の皆様とともに俳句を学んでいきたいと思う。




雁のねぐら入り          高橋佳代            2021.12月

         
    古九谷の深むらさきも雁の頃       細見綾子

 冬の淡い夕焼けを仰いで私たちは待っていた。枯れ葦の取り巻く蕪栗沼の畔は十一月末の日が落ちると雪や風がなくても、かなり冷え込んできた。沼の片隅には白鳥やオオヒシクイの小さな群れが、水に首を突っ込み真菰の根を食べている。真菰のない広い水面は黒ずんだ空を映して静かだ。
誰かが声をあげ指さす彼方を見ると、遠い山際に薄く刷毛で書いたような筋が現れた。
それがはっきりと雁の群れだと私にも感じられる頃には、四方八方から同じように鉤になり竿になった群れが此方に向かって来る。まるで山脈から限りなく湧き出るようだ。

やがて私たちが立つ上空はおびただしい雁の飛翔と叫喚が渦巻き、それをただ呆然と仰いだ。すでに夕焼けは消えて薄暗くなった空に月が輝きだし、次々と横切る雁の姿を浮かび上がらせるのだった。

 旋回していた万羽の一羽が沼に降り、続いて数羽が着水すると、無数の雁がたちまち水面を埋めていく。絶え間ない動きに目を奪われている間にも、さらに暗くなった空を遅れてきた群れが旋回し着水する。こうして沼はほぼ覆いつくされてしまった。限りがないと思われていた騒ぎも、ようやく終えて落ち着いたが、ざわめきが治まり眠りにつくまでには今しばらくかかりそうだ。

 此処へ来る雁の多くはマガンである。雁の番(つがい)の絆は強く一生添い遂げ、その夫婦と子供たちを中心とした家族が集団の基礎単位であり、いくつかの家族が集まって群れを作る。沼に降りた家族は寄り添いながら子どもが眠り夫婦が眠りにつくだろう。そんなことを思いながら、カンテラの灯に促され沼を離れた。

 マイクロバスに乗り込み、しばらく冬田の道を走っていると、道脇の田に激しく動くものが見えて車が止まった一羽の雁が懸命に羽をバタつかせては飛ぼうともがいているのだった。傷ついているのか、数メートルを動くだけで力尽きてしまう。何度も繰り返すのだが飛び立てない。やがて車は再び走り出し、運転手が言った。「そのうち狐が来て・・・かわいそうだけど・・・」車内は驚きの声の後、沈黙がつづいた。 

 バスがすっかり暗くなったデコボコ道を揺れながら走ると、ヘッドライトも揺れながら道端の枯草を浮かび上がらせていた。


詩吟と漢詩             鈴木未草             2021.11月            

 詩吟を習い始めて十年近くになる。最初は絶句と呼ばれる四行詩だった。漢詩は高校以来見たことがなく難しそうだったが、テキストには全て書き下し文が載っていて記号で音程が分かるようになっていた。つまずきながらも勉強するうち、少しずつ漢詩の良さが分かってきた。

 私の好きなのは、スーパースターの李白である。そのオーバーで率直な表現が豪胆な生き様と相まって心躍らせ、また、泣かせるのである。単なる風景描写でも、まるで映画を見ているような気分になるのである。その代表的なものが「白帝城」。唐詩を代表する四絶句の一つである。

 早朝に白帝城を舟で出て江陵まで下る様子を詠じたものだが、白帝と彩雲で色の対照、千里と一日で数、両岸に悲しげな猿の鳴き声を聞きながら、軽い小舟が幾重にも重なる山の間を過ぎゆく軽重、朝と夕暮れの時刻の対照などを折り込んで構成されている。見事である。

 李白の詩はどれも素晴らしいが「春夜聞笛」「贈汪倫」「峨眉山月」は特に好きで、詩吟の大会でも歌った。そして、好きな詩句は習字の作品に選び、イメージしながら書くのである。まさに一粒で二度おいしい。詩吟をやって名詩に触れる事ができてほんとに良かったと思う。


大和葛城を散策            野上千俊               2021.10月  

   …古代のロマンを探る

 約四十年前大阪市内から奈良に移り住み、初めて群生する彼岸花の美しさを知りました。奈良では明日香の彼岸花が有名ですが、私は葛城一帯に延々と続く彼岸花の赤い帯に強く心を打たれました。葛城には数多くの古寺や古社があります。それらは九月には彼岸花の紅い帯で繋がり、この帯が道案内をしてくれます。しかし、葛城の彼岸花を鑑賞に訪れる人は少なく残念でなりません。花といえば、葛城山には一目百万本と形容されるほど壮大な躑躅群が自生しており、五月には山の斜面が見事に赤く染まります。

さて、この葛城地方には「葛城古道」が葛城山、金剛山の東麓を南北に通っています。近鉄御所駅からバスに乗り換え、猿目橋停留所を降りるとそこが古道の入り口です。古道はここから終点の風の森停留所まで南へくねくねと約十km続きます。葛城、金剛の両山は神宿る山として古くから崇められており、この一帯は神々の里として神話の舞台になっています。古道の周辺には古事記や日本書紀に登場する数多くの文化遺産や遺跡があります。また、この地は大和王権成立以前より鴨氏や葛城氏の支配地として大いに栄えていました。国宝指定と云った際立つものはありませんが、方々にて古代のロマンを感じることができます。 

前置きはこれ位にして、さあ古道を北から南へ歩きましょう。道中には見所が多いため終点までは五、六時間かかります。ここでは独断と偏見で次の四カ所を案内させていただきます。

 

九品寺(くほん寺)

聖武天皇の勅願により行基が開創した古刹です。九品寺はサンスクリット語で、その意味は布教でいう上品・中品・下品で人間の品格をあらわしています。これら三つの品の中にも上中下があって全部で九つの品があるので九品と名づけられています。本尊の木造阿弥陀如来像は平安期の制作で重要文化財に指定されています。また、本堂の裏の鬱蒼とした森の中に立つ千八百体の石仏には圧倒されます。これらは南北朝時代、南朝軍として戦った地元兵の供養のため村人が奉納したと云われています。

 

一言主神社(ひとことぬし神社)

全国にある一言主神社の総本社で深い森の中にあります。一言主大神と雄略天皇の関わりが古事記や日本書紀に出ています。本殿への石段を上ると大きな銀杏の木が目に飛び込んできます。樹齢千二百年の「乳銀杏」と呼ばれるご神木で高さは二十m以上あります。銀杏の幹に乳房のような気根がいくつもあることが名前の由来です。創建年代は不明ですが、平安時代の延喜式神名帳には由緒ある神社として名神大社に列せられています。境内には松尾芭蕉の句碑「猶見たし花に明行く神の顔」が建っています。

 

高天彦神社(たかまひこ神社)

参道の老杉は天を衝くばかりの威容を誇り、神社には荘厳な雰囲気が漂います。祭神は葛城氏の祖神である高皇産霊神(たかみむすびのかみ)で背後の美しい円錐型の山白雲嶽がご神体です。瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)は天照大神の子と高皇産霊神の娘との間に生まれていることからこの地に相応しい神と云えます。創建年代は不明も延喜式神名帳には古くより霊験が著しい名神大社とあります。神社へと向かう途中、田畑が広がるだけの何の変哲もない台地の中に、ポツンと「史跡高天原」の石碑が建っています。ここから瓊瓊杵尊が高千穂の嶺に下ったと云うのです。

 

高鴨神社(たかがも神社)

弥生期より祭祀を行う日本最古の神社の一つで、鴨氏の氏神社です。境内にある摂末社は十八にものぼり、桧皮葺きの本殿は室町時代の建造物で重要文化財に指定されています。祭神は大国主命の子である阿遅志貴高日子根命(あぢしきたかひこねのみこと)です。京都の上賀茂、下鴨をはじめ全国にある賀茂社の総本社です。延喜式神名帳には霊験あらたかで、あの大神神社(おおみわ神社)と同格の最も格式の高い名神大社とあります。境内入口の鳥居の横に釣鐘堂があります。神仏習合の名残のようです。鳥居を出ると古道終点の風の森停留所へは約十五分です。



つばめ               有井真佐子           2021.9月
                   

 つばめが今年も飛んで来た。主人が永眠し一人暮らしになると、生きているものが身近にいれば、心が明るく元気が出る。

我が家は古民家で明り取りとして土間の通路は裸電球。そのためのコードも丸出しだ。これが燕にとっては格好の止まり木になっているようだ。一昨年来た燕はその前に来た燕の巣に濡れた土を継ぎ足し巣作りした。今は田んぼの畦も全部ではないがプラスチック製のもので代用しているのを時おり見かける。濡れた土が不足していて燕は苦労しているようだ。

話は違うが、今年の燕にはもっと驚かされた。裸電球とコードを利用して泥で丸い小さな巣を作ったのだ。あの大きさで燕の子を育てられるのかなと思った。人間の世界でも少子化が進んでいるが燕にも?

その為か、あまり賑やかなピイチクのさえずりを聞かないうちに燕は飛び立って行った。

              つばめつばめ泥が好きなる燕かな   綾子

             巣燕の寝る時は皆寝るらしき     綾子



コロナ禍に思う           関根切子            2021.8月 

 今月のネット句会に投句された長谷川妙好さんのお句、『沁み渡る「みるく世の謳」慰霊の日』。恥ずかしいことに私はこの「今年の平和の詩」の存在を知りませんでした。ネットで全文を読み、涙が零れました。心に沁み渡る詩でした。

 十五年近く仕事で高齢者のお宅を訪問していますが、戦争を体験された方がたくさんいらっしゃり、時に戦時下の話を伺うことがあります。どなたの体験も衝撃的な内容なのですが、静かに語られるその話は悲しみも怒りもなく、まるで思い出話をしているかのようです。

 揚子江で船が沈み、マストにしがみついて一人助かった話。グアム島で捕虜となり、通訳をさせられた話。その方のお兄さんは人間魚雷の訓練生だったとのこと。順番が来る前に終戦となり、今もお元気だそうです。挺身隊として浜辺で砂鉄を採りながら東京に向かう爆撃機を見ていた話。幼い弟と空襲を逃げ回り、翌日に白鬚橋を死体をよけながら帰った話。家は焼け落ちていたそうです。泣きながら行った学童疎開のこと。玉音放送に泣いた女学生の頃の話。三年九ヶ月に及ぶ戦時下を人々はどんな思いで暮らしていたのでしょうか。

 そして今コロナ禍を私達は不安と不満の中に暮らしています。感染し亡くなられた方、仕事を失った方がたくさんいます。感染者はまた増加していて、医療の逼迫が危ぶまれています。その一方で町中には人が溢れ、物が溢れオリンピックが始まり、変わらぬ生活を続けているのも事実です。

 私達は感染を防ぐ方法を知っていて、ワクチンも用意されています。明日命がなくなるわけではないのです。私は今が戦時下でないことを本当に感謝しています。毎日を恙なく暮らせることに感謝せずにはいられません。

上原美春さんの「平和の詩」最後の一文です。

 みるく世を創るのはここにいるわたし達だ


 西の湖だより             浜野秋麦          2021年7月
           

 以前に、琵琶湖の内湖のことを書かせていただいたことがあります。続き、という訳ではありませんが今回は、西の湖のことを少し書こうと思います。

 昨年のコロナ禍以来、不要不急の外出もままならず、週一で近江八幡に通うだけになってしまいました。田舎町とはいえ飲食の場での感染が多いのは変わりなく、気楽に食堂、喫茶店に入る気にはなりません。勢いコンビニで買い物をして車の中での飲食ということになります。しかし、コンビニの駐車場ではあまりにも味気ない。どこか落ち着いて景色の良いところはと考えるうち、彦根から近江八幡へ向かう途中、安土辺りで少し寄り道をすると、西の湖のほとりに出られることに思い至りました。

 西の湖は、現存している琵琶湖の内湖としては、最大のもので二平方キロ強の広さがあります。今は全て農地となってしまった大中の湖の南側、安土城址の西側に小中の湖と並んであります。(小中の湖も干拓されています)西の湖が残ったのは、干拓の当時淡水真珠の養殖が盛んであったことも一因と言われています。西の湖は葭原に囲まれた浅い湖で、鮒、鯉、鰻はもとよりモロコ、スジエビ等の漁が盛んで周辺七つの村で漁が行われていました。今でも豊かな自然が残っており、葦簀の原料となる葦の刈取り、製品化が行われている唯一の地域です。

 こうして、食事や休憩のためとは言いながら、日常とは違った風景の中に滞在するのは、ミニ吟行の気分にもなります。実際この頃の作句は西の湖周辺が多くなりました。

 さて、西の湖のほとりに出るには二通りの道筋があります。一つは伊庭内湖(干拓以前は大中の湖の一部)のほとりを通って大中の干拓堤の上を丸山の辺りに出る道です。湖の端に当たるので眺望は少し狭くなりますが、集落の中に入るとどことなく漁村の雰囲気が残っています。

 

 西の湖の入江深きに浮寝鳥     秋麦

 湖越しにサイロ見ゆるや春の風   秋麦

 

 もう一つは、朝鮮人街道(江戸時代に朝鮮通信使が通ったことからこの名があります。中山道に並行して湖岸近くを走っています。)を安土駅のあたりから大中の方面に北上します。道沿いに小さな港、福祉関係の公共施設などがあり、こちらが湖の表玄関と云えます。港に突き出した半島のような一画は昭和の末に別荘地として開発されたところで、小洒落た住宅が並んでいます。

 

冬空にパラグライダー湖黙す    秋麦

 西の湖の小波白し行々子      秋麦

当分は、こうした一人吟行の状態が続くのでしょうか。句友諸氏と賑やかに吟行できる日が早く戻ってくるように祈っています。

 


北海道の思い出                森田もきち          2021年6月
 

    鈴蘭や小樽に絶えし鰊群来    もきち

 

 今年は例年よりも早く庭の一隅に鈴蘭が咲きました。鈴蘭は入社四年目、昭和三十四年最初の転勤地小樽を懐かしく思い出させ、 かつ母親の愛情をしみじみ感じさせる想い出の花です。

小樽、東京、大阪を経て昭和四十八年横浜に転勤。その春実家に帰ると庭に鈴蘭が咲いています。八王子に鈴蘭は夢の花なので吃驚して母に聞くと「お前が札幌から送ってくれた切り花だよ」との事。当時札幌の独身寮に居たので日曜日には札幌市内を散策。五番館デパートとJALの企画で鈴蘭の切り花を航空便で地方に発送していたのを利用、実家に送った鈴蘭を母が鑑賞後庭に挿したのが根付いて毎年咲いているとの事。数株を横浜の社宅の庭に移植。その鈴蘭が今我が家の庭の鈴蘭なのです。札幌から八王子、横浜、そして千葉へ。六十二年経過の鈴蘭。時の流れを感じます。

 

  リラ咲くや白壁映ゆる時計台     もきち            

 鈴蘭に北海道時代が懐かしくなり、アルバムを引き出し当時を偲びました。カラー写真が始まった頃で、若手社員にはカラーフィルムが高価で簡単にシャッターは押せず、アルバムも殆どは白黒写真です。その貴重なカラー写真に札幌の時計台があります。

時計台は北大の前身である札幌農学校の施設として初代教頭であるクラーク博士の構想に基づき明治十一年に建設され、現在は札幌市を代表する名物スポットとして観光客を集めています。


                            

後ともよろしくお願いいたします    三浦かどか        2021年5月
   

 伊吹嶺に入会して約二年。物をじっくり観察するというたちでもないし、ひらめきというものに恵まれてもいない私は毎月五句作るのに精一杯である。「たくさん作ってたくさん捨てよ」なんて言われても、たくさんできないのだし、せっかく作った俳句を捨てるなんて、もったいなくて私にはどうしてもできない。その上、推敲が苦手で切字「や」を使うのにとても勇気がいる。そんな自分は俳句には向いていないと今頃になってつくづく思う。有名な人の俳句を読んで楽しんでいるのが読書好きの私には一番ふさわしいのかもしれない。

そんな私がどうして俳句を始めようとしたのか。第一に、日本語が好きだから。第二に、趣味の琴のような道具が要らないし、どこでもできるから。しかし俳句はそんな生易しい物ではなかった。ただ、ネット句会でみんなの意見や感想を聞くのが楽しみで、やめる勇気も出ないでここまで来てしまった。

しかし、そうこうしているうちに、思いがけないことが起きていた。アメリカ在住の娘とスカイプで時々俳句について話しているのを聞いていた二人の孫たちが俳句に興味を持ち、作り始めたのだ。そして兄の方は去年今年と海外子女教育振興財団への多数の応募作品の中から選ばれ、賞状とメダルを贈られたのだ。

   たんぽぽの綿毛日本へとんで行け     (兄小二の時)

   僕はクジラ弟はイルカ夏のゆめ         (兄小三)         

 また偶然、現地校でも英語で俳句を作る授業があったとかで、小一の弟は英語の俳句を先生に褒められたと言ってその後英語での句作に夢中になっている。

 

Little falling leaf used to be green, now red crunch, I stepped on you    (弟小一) 

 私にはこれらの俳句のよしあしは全然わからないのだが、孫たちは俳句らしきものを作るたびに「おばあちゃん見て。」とメールをよこす。おまけに私と娘の会話を聞いていた兄の方は、意味もわからないくせに生意気にも
「おばあちゃん、僕のこの俳句、具象?」などと聞いて来る。これでは「おばあちゃんは俳句やめようかと思っているの」とは言えなくなってしまった。こんな具合なので、孫たちに背中を押されながら、もうしばらくは私なりに頑てみようと今は覚悟を決めている。

皆様、どうぞ今後ともよろしくお願いいたします。


三泊四日           長谷川妙好            2021年4月  
                          

 旅行ではない。日赤での入院日数である。

 昨年末いつものようにベランダに洗濯物を干しに出た。冬晴れの青い空が広がっていた。ただしいつもより冷えていた。干している途中に胸に痛みがあり、あれっと思ったが最後まで干した。部屋に戻っても痛みは消えない。床暖房に胸を押しつけ暖めた。冷や汗がでてくる。慌てて蒲団に入った。一時間たっても胸の動悸と冷や汗が止まらない。その上吐き気がしてきて嘔吐と下痢。これは普通ではないと思い夫に休日急病診療所に連絡してもらった。その日は日曜日であった。車で中村区の診療所に向かった。折からのコロナ対策で玄関の外での診察であった。その場で日赤病院への紹介状を書いてもらい日赤に向かった。すぐに対応してもらえた。顔面蒼白で血圧が七十からなかなか上がらなかったらしい。電気ショック治療をする前になんとか元に戻った。その際医師から「不整脈です。カテーテルアブレーションという治療法があるので正月に家族とよく相談してください」と言われた。帰って夫とネット検索して調べた。精神科医をしている息子とも相談した。「僕の専門外だから循環器の医師の指示に従った方がいいよ」とのこと。正月明けに診察に行くとまたカテーテル治療を勧められた。心臓の不調などそれまで一度も経験したことがなかったし、自覚したこともなかったのでずいぶん迷ったが手術を受けることにした。

   入院の前夜音なく雪しぐれ    妙好

節分の日に入院。翌日の立春に手術。若いころ盲腸の手術をして以来の手術である。午後から宇宙船のような手術室に入った。局部麻酔で手術の様子も先生達の会話もみんな聞こえる。拘束ベルトで締め付けられているのでどこも動かせない。太ももから血管にカテーテルを入れ高周波通電で焼き切るとか。最初に不整脈を起こした原因部位を探るため人工的に不整脈を起こす。ドンドーンと胸にくるのでこれがけっこうきつい。その後通電。「○○ボルト三十秒通電」「ストップ」との声が同時にかかる。四人もの先生がモニターで見守ってくださっている。先生達の相談内容も聞こえてくる。「通電三十秒」「再度三十秒」「もう少し長めに」「四十秒」と試行錯誤の様子も聞こえてくる。最初はまな板の鯉状態で冷静であったが、四時間にも及ぶと緊張状態が途切れ精神が疲弊してくる。先生を信頼していても「ストップ」の声が一瞬遅れたらどうなるんだろうとよからぬ想像がよぎる。最後に再度人工的に不整脈を起こし、原因部位が取り除けているか確認する。

何はともあれ手術は終わった。手術後も出血の心配があるので一晩中右足を拘束されたが無事退院できた。

    退院の朝耀ふ花ミモザ      妙好

晩学で俳句を初めて四年が過ぎた。楽しさも難しさも少しずつわかってきた。せっかく手術していただいたのだからあと少し俳句に関わっていたいなと思う今日このごろである。



十年日記           野崎雅子             2021年3月

 五年前に九十三歳で逝った父は、若い時から日記を書く習慣があり、私も文字が書けるようになってから、暮になると本屋で日記を買ってもらっていた。毎日きちんとというより、思いついたときに書いていた。白紙のページは「この日は書くことがなかった日」と、気楽に思っていた。

 日記を書く事は自分の習慣になり、暮になると自分で日記を買っていた。

 それは結婚してからも続いた。一日の終わりに日記を開き、今日の出来事、思いを書くと気持ちが落ち着いた。四十歳の時、生活情報誌「通販生活」を購読していたが、その中に「十年日記」があった。毎年日記を買う事も楽しみのひとつでもあったので、十年も一冊なんて味気ないと迷ったが、買った。

 一ページが十年分に分割されているので、今迄にくらべると、メモ程度の書く量で、最初ものたりなかったが、慣れると気楽でよかった。

 もう少しで十年という頃に「通販生活」から、次の「十年日記」の申し込み用紙が届いた時は驚いたが、迷わず注文した。

この様にして、四十歳代、五十歳代、六十歳代の日記を書き終えたが、昨年は「通販生活」からの葉書が届かない。

 行きつけの本屋に行き、「十年日記」がないか聞くと、「丸善」にあると、調べてくれた。

 早速出掛けると、日記のコーナーに、いつもの黒色カバーと赤のカバーの「十年日記」

が並んでいた。私は迷わず赤の「十年日記」を求めた。もしかして書き終える事はできないかもという気持ちも過ったが、それならそれでもと思い買った。

 「十年日記」をつけてみてわかった事は、改めて人間は自然の中で生きているということ。というのは、その季節になると出かけたくなる所が、毎年同じ頃になり出掛けている。又思いにより時間の経過の感じ方が違うという事を確認できる。

 今年も、もう二月になった。今白紙の所にどんな出来事を、言葉を埋める事になるのか楽しみである。


山コロナ禍の中で       新井酔雪          2021年2月

 思えばコロナウイルスに振り回された一年だった。そして、今年もその影響から逃れることができないでいる。

「伊吹嶺」の各行事、各支部の行事も規模を縮小しての開催。各支部の新年俳句大会もしかりである。中でも制度が変わってから、初めての愛知支部の「俳句鍛錬会」の無期限延期は残念であった。また、インターネット部主催の「オフ句会」も下見までしながら無期限延期となった。

 そんな中、「いぶきネット句会」と「HP句会」は、当然のことながら通常通りに実施されている。インターネットの力である。しかし、「伊吹嶺」の各句会においては、無期限休止したところ、インターネットを利用した句会に切り替えたところなどがあった。

 インターネット部の成果を挙げれば、「オンライン句会」を立ち上げたことである。今年になって、「夏雲システム」を導入し、名前を「葵ネット句会」と改めた。「夏雲システム」というのは、投句一覧や選句一覧、選評などを自動的に作成する無料のサイトである。

 わたしごとになるが、自身の生活も一変した。午前中は学校、これは変わらない。午後の生活が変わった。毎日行っていた水泳と散策ができなくなった。飲みに行くこともできない。お蔭でコロナ太りで、医者から糖質カットを言い渡された。

 作句の方は大きな変化はない。散策で一句、季語で一句、週刊百科「日本の街道」の写真で一句、俳句のトレーニング本で一句を目指す毎日。それが散策でなく、身辺詠に替わったぐらいである。目標は達成できるときもあれば、できないときもある。

 コロナ禍に関わる句も詠もうと思うができずにいる。しかし、「いぶきネット句会」を見ると直接コロナ禍を詠んだ句、またはその匂いのする句を見ることができる。「伊吹嶺」誌も同様である。

 逞しいものである。こんなコロナ禍の状況の中でも、それを題材に詠もうというのである。俳人はただでは起きない。病気になったら、病気になった句を詠む。自分も身内が亡くなったときも作句していたし、卒業式の典礼をしながら句を詠んでいた。工夫すればどこでも句は詠める。

 コロナウイルスの影響で外に出られないので、いつも戸外に出て作句する方はなかなか大変である。しかし、コロナのせいで句が詠めないのではなく、何とか工夫して詠むようにしたいものである。作句のスタイルをこの際変えていくことも必要ではないかと考えている。そして、今思うのはコロナウイルスの影響を受けない「いぶきネット句会」のありがたさである。そして、これからも皆様とともに俳句の道を歩んでいきたと考えている。

 



山仲間の旅          鈴木未草             2020年12月
 

 人にはあまり言えないが、この秋青森に旅行に行った。政府の許可もあり、酸ヶ湯温泉二泊の旅。直前まで迷ったが、年に一度の私たちの大事なイベントなのだ。私たちとは大学のワンダーフォーゲル部同年女子五人。初めての合宿でベソをかいた仲間だ。

 幹事は持ち回りで、随分前から計画を練る。実際今回も一年前に宿を予約した。コースは幹事にお任せだが、温泉は必ず入れることになっている。

 旅行では必ずハプニングが起きる。財布をトイレに置き忘れたり、部屋の鍵があかなくなったり。一番の思い出は屋久島だ。縄文杉も海中温泉も良かったのに、その後台風が居座ったのだ。ホテルに缶詰めでやっと船が出ると聞き夜明け前からフェリーの乗り場で並んだが満員。今度は空港へ走り尻尾に付く。残り一名の座席を譲ってくれた友達。結局全員乗れて無事帰ることができ嬉しかったこと。

 何事も終わってみればいい思い出になる。思い返して句作をするのも楽しみだ。先回の尾道では俳句ポストがあり、皆に勧められ投句したものが入選した。

 

  島々に届く鐘の音秋の風     未草

 

 山仲間だからではないが、人生それぞれ山あり谷ありだった。同じテントで寝て、同じ焦げ飯を食べ、同じ山道を歩いた仲間。気心もよく知っていて、いつもは笑いが絶えないが、大変な時はそっとして置いてくれ、ここはという時はそれとなく忠告してくれて有難いと思う。

 

  割り林檎皮ごとかじる山仲間   未草



いま気が付いたこと        三浦かどか        2020年11月                                              

 私は日本語学校の講師です。外国人に日本語を教えていると、思ってもみなかった色々な場面に遭遇します。

例えば、台風の後、校舎が雨漏りしたことがありました。「あまもり」「雨漏り」と職員は大あわてでした。しかし学生たちはなぜか気まずそうにしています。あとで聞くと「あまもり」はネパール語で「お母さんが死んだ」ということだと知ってびっくりしました。でもそれは違う言語だからまああり得ることとして納得いきます。しかし、日本人の私たちが普段なんとも思わず使っている表現に、外国人が戸惑ってしまうものがたくさんあることに驚きます。外国人に日本語を教えるには、文法より歌や標語などから入るのがよい、ということで、リズムも歌詞も易しいと思われる「三百六十五歩のマーチ」が選ばれることが多いようです。ところが、これが問題なのです。
「幸せは歩いて来ない」…これはわかります。でも「だから歩いて行くんだね」…
「幸せはどこへ歩い行くのですか?」
 また、短い易しい標語を教えるつもりで、「消したはず消えたはずでは燃えるはず」を出してしまうと、大変です。誰が何を何が?と、質問が出て教室中大騒ぎです。日本語独特の主語の省略は私たちが思っている以上に外国人にとって難しいようです。

 それに加えて日本語の「てあげる」も厄介です。「買ってあげる」は結局もらっていいの?「買って来てあげる」は?「貸してあげる」と言われたら返すんでしょ? 等々。

 最後に私自身の失敗談です。授業を少しでも面白くしようと安易に考えて、かっこいいことを言ってしまい、とんでもない誤解を招いてしまったことがあります。授業では自分たちの夢を話しあうことがあります。ある日学生たちから、「先生の夢は何ですか。」と聞かれ、私はこの時とばかりに自分の夢について話し出しました。「私は長い間日本語教師をしていますが、いつも授業が終わると、あれやこれやと反省することばかりです。なかなかその日の授業について満足することができません。ですから、いつか授業が終わって教室を出る時、『ああ、今日はいい授業ができたな』と満足出来たら、その日のうちに講師室に戻る階段から転がり落ちて死んでもいい。これが私の夢です。」そう話すと何人かの生徒が思わず、「危ない。先生、気をつけて!」と叫びました。そして驚いたことに次の日に学校へ行くと「三浦先生の夢は学校の階段から落ちて死ぬことだって」という噂でもちきりでした

 私は今、この文を書きながら考えています。外国人を教えることと、俳句を詠むことは通じるものがあるのではないかと。自分ではわかっているつもりで使っている表現が、相手にわかってもらえなかったり、誤解されたりするのは、説明が足りなかったり、省略の仕方がまずかったりするから、つまりは自分よがりで、相手のことを考えていないからなのではないか。

 これからは、自分の句を推敲するとき「季語はある?仮名遣いは大丈夫?」だけでなく、「これで皆にわかってもらえる句になったかな」と真剣に考えるようにしなければなりません。正直言って今まで、俳句に対してあまり積極的になれなかった私ですが、今回、思いがけなく「よもやま通信」を書かせていただいたおかげで、大事なことに気が付きました。有難うございます。



                                 
俳句弾圧不忘の碑          高橋佳代          2020年10月        

 

   戦争が廊下の奥にたつてゐた

               渡辺 白泉

 

 反戦の句として、あまりにも有名なこの句の作者は戦前の悪法である治安維持法の違反容疑で特高警察により検挙された。容疑となったのは掲句と「銃後といふ不思議な町を丘で見た」等の作句である。一九三三年プロレタリア作家小林多喜二に虐殺をもたらした治安維持法は一九四〇年から一九四三年にかけて新興俳句にも及んだ。四十四人が検挙され尋問や拷問を受け、十三人に懲役二年の刑が科せられた。

 

    戦争をやめろと叫べない叫びをあげている舞台だ

           栗林一石路

 

 この作者も二年の獄中に耐えた。戦後「新俳句人連盟」初代幹事長となった一石路は信州青木村出身だが、その青木村と山を隔てた現在の長野県上田市古安曽に『無言館』がある。いぶきネット句会の皆さまは既に訪れたことがおありかテレビ等でご存知だろうが、『戦没画学生慰霊美術館・無言館』は訪れた人々の心を打つとともに不戦の思いを強く抱くミュージアムとして広く知られている。無言館のある丘を下る同じ敷地内の林の中に『俳句弾圧不忘の碑』が立つ。八十年前、戦時下に弾圧された俳人たちを顕彰し、犠牲と苦難を忘れないことを誓うために、投獄された十三人を含む十七人の句が刻み込まれてある。呼びかけ人たちの奔走により多くの方々の浄財を集めて実現した碑だ。

 平成三十年二月二十五日建立の黒御影石に刻まれた文字は、金子兜太氏揮毛による。除幕式に出席を強く望まれていた氏の車椅子のための仮設スロープが木の匂いを放っていた。しかし、除幕式数日前、奇しくも多喜二忌と同じ二月二十日、金子兜太氏は黄泉へと旅立たれた。愛弟子であるマブソン青眼氏は記念碑建立呼びかけ人代表として師の意志を継ぎ「表現の自由を守る決意の表れ」としての記念碑の意義を式の挨拶で語られた。

 

   ナチの書のみ堆し独逸語かなしむ

                 古家 榧夫

 

   大戦起るこの日のために獄をたまわる

                 橋本 夢道

 

   徐々に徐々に月下の俘虜として進む

                 平畑 静塔

 

 不忘の碑に隣接し、同日開館の『檻の俳句館』には、碑に刻まれた俳人たちの句と似顔絵が監獄の鉄格子を模した柵越しに展示されている。『無言館』館主の窪島誠一郎氏は「彼らは表現することの死を強いられた。『檻の俳句館』には『無言館』と同じ意義がある」と言われた。

   降る雪に胸飾られて捕へらる

                 秋元不死男

 

   戦闘機ばらのある野に逆立ちぬ

                 仁智 栄坊

 

   英霊をかざりぺたんと座る寡婦

                 細谷 源二

 

 「忘れるな。戦争がどれだけ人間を人間でなくしてしまうか。戦争の始まりには必ず表現の自由の否定がある」と生前、金子兜太氏は『檻の俳句館』館主となるマブソン氏に伝えた。政治的な発言や政治的な匂いの俳句を嫌う傾向がみられる昨今の風潮を危惧しての言葉だった。

 

   暁の銃声しみじみと敵だ

                 波止 影夫

 

   墓標立ち戦場つかのまに移る

                 石橋辰之助

 

   往く人の母は埋もれぬ日の丸に

                 井上白文地

 

   出でて耕す囚人に鳥渡りけり

                 嶋田 青峰

 

   機関銃眉間ニ殺ス花ガ咲ク

                 西東 三鬼

 

    憲兵の怒気らんらんと廊は夏

                 新木 瑞夫

 

 彼らの遺した俳句を前にしてマブソン氏はこうつぶやかれた。「もしかすると、かつて弾圧された若き俳人たちは、私達よりも心が自由だったかもしれない。現代の私達こそ見えない檻の中で生きているのではないか」と。さらに、「上からの圧力よりも下からの圧力は、より恐ろしい」とも。コロナ禍の今、社会に「自粛警察」と呼ばれる人々が出現したことから考えると、忖度や自制の枷を表現の世界にまで及ばせているのは、権力者によるものではなく、私たち自身の内奥にあると言えるかもしれない。

 

   血も草も夕日に沈み兵黙す

                 三谷  昭

 

   秋は戦線の空にもあるか

                 中村 三山

 

   一兵士はしり戦場生まれたり

                 杉村聖林子

 

 『俳句弾圧不忘の碑』『檻の俳句館』の周辺は四季折々の自然美が素晴らしい。その中で、表現の自由について考えることは、私達の心を深めるのに役立つのではないか。是非俳人の方にはお勧めしたい。

 最後に、新興俳人の数少ない女性の句を記す。彼女には検挙の記録はない。夫を失い、一九四〇年一月の作品を最後に消息不明であるが、残された句には女性ならではのレジスタンス魂が見られ、胸に迫るものがある。

 

   戦死せり三十二枚の歯をそろへ

                 藤木 清子

 

 

  追 記 「檻の俳句館」 火曜日休館

 参考資料 日本レジスタンス俳句撰

            (マブソン青眼)


私と俳句                  鶴 翔          2020年9月

                                 
     天国はもう秋ですかお父さん      小学生 作者不詳 

 この句と私の出会いは七十の手習いのNHK俳句教室でのことであります。不幸にして父親を亡くした子供の亡き父に対する清らかな恋慕の情の句です。丁度今頃、夏休みも終わりの頃の句と思われます。

作者は小学生。名前はこの句を教えてくれたNHK俳句教室の先生もご存じありませんでした。先生は車のラジオで聞かれたそうであります。

俳句教室四・五ケ月経った頃、我々生徒が俳句用の語彙を知らない、ボキャブラリーが貧弱でとか俳句の出来ない理由を言い訳していると、先生はこの句を黒板に書きだしました。一瞬にして教室の空気が変わったのを覚えています。何かこの句にむつかしいボキャブラリーや語彙がありますか?

あれから六年、子どもの頃から「好きやすの飽きやす」と先生や友人からも言われ、八人兄弟の八番目、何をやるにも中途半端、三年と続いたものはありませんでしたが、俳句は現在もそれなりに続いております。

元勤務会社の九州支店天神町の最上階の会議室をOB風を吹かせ無料で借りた十二名のOB俳句会に参加しています。元会社の俳句部の元部長を頭にいただき、月に一度、三時集合、三句出し、二時間句会、五時から十時過ぎまで飲み屋での反省会。これが我々の句会ですが今は飲み屋の方は自粛気味であります。

今、自分も含め仲間の老化著しく何時まで続けられるかが課題であります。



般若寺(別名:コスモス寺)のご案内   野上千俊      2020年8月          

奈良には花の名所と云われる社寺が多くあります。白毫寺の椿と萩、春日大社の藤、長谷寺や当麻寺の牡丹、岡寺の石楠花、松尾寺や霊山寺の薔薇、矢田寺の紫陽花、元興寺極楽坊の桔梗、般若寺のコスモス等が良く知られています。社寺ではありませんが、吉野の桜、月ヶ瀬や賀名生の梅、藤原宮跡の菜の花やコスモス、明日香や葛城古道の彼岸花、平城宮跡の山茶花にも多くの観光客が訪れます。

今回案内させていただく般若寺(はんにゃじ)は奈良きたまちの北部にある真言律宗のお寺です。東大寺の転害門から北へ約一㎞の処にあります。寺の歴史は古く、飛鳥時代に開創され、天平七年(七三五年)聖武天皇が平城京の鬼門を守るため大般若経を塔の基壇に収め卒塔婆を建てられたのが寺名の起こりとされています。平安期には学問寺として千人の学僧を集め栄えていましたが、治承四年(一一八〇年)の平家による南都焼討にあ伽藍は焼失しました。鎌倉時代になり十三重石宝塔をはじめ七堂伽藍が再建され寺観は旧に復しました。その後室町後期の戦乱による衰退、江戸期の復興、明治の廃仏毀釈と栄枯盛衰を経ながらも、真言律の法灯をかかげ今日に至っています。

 廃仏毀釈により境内は現在の二千坪となりしたがそれ以前は三万六千坪の広さを誇っていたそうです。本堂には本尊の文殊菩薩騎獅像(重文)が安置されています。鎌倉期建立の楼門(国宝)、高さ十四メートルの十三重石宝塔(重文)や石造笠塔婆(重文)は貴重な建造物としてしばしばテレビや新聞に登場しています。

さて、この二千坪の境内には所狭しと花が咲きます。般若寺は別名コスモス寺と呼ばれるだけあって、夏咲コスモスは八種五万本、秋咲コスモスは二十種十五万本植えられています。寺作成の花ごよみには次のように記載されています。

  水仙(十二月~二月)

  山吹(四月)

  紫陽花(六月)

  夏咲コスモス(六月)

  秋咲コスモス(九月~十月)

 しかし花はこれだけではなく、梅、椿、桜、シャガ、牡丹、睡蓮、花菱草、鉄線花、百日紅、彼岸花、山茶花、蠟梅等と実に盛りだくさんで、一年中何かの花に出会える寺としても知られています。

 また、庭にはたくさんの石仏が立ち並んでおり、この石仏を愉しませるかのように色々な花が咲くのです。

この般若寺の境内には次のような句碑が建っています。

   般若寺に返り咲く八重山吹や  多津良

  秋の日の十三塔や日は西に    素十

  ちちろ虫十三塔をつつみ鳴く   一邑

  唐びとが月をろがみし笠塔婆  秋桜子

  双び立つ花野の寺の笠塔婆   日月子

  般若寺の釣鐘細し秋の風     子規

  外向に立たせる諸仏鵙高音    玉骨

  般若櫃うつろの秋のふかさかな  青

  大塔宮在せし寺や百日紅     小牛

  般若寺やほとけの庭に秋ざくら  明奎

  散りたまる花や般若の紙の向き  去来

 

六月に寺を訪ね夏咲のコスモスを写真に撮りましたが、秋咲コスモスの時期にこの寺を訪ねるのがお勧めです。秋咲コスモスが庭狭しとばかりに咲き誇る姿は何度見ても圧倒されます。奈良公園・東大寺に来られる折には少し足を伸ばし般若寺に立ち寄ってみてください。この般若寺を詠んだ拙句で案内を終えさせていただきます。

   コスモスの波に揉まるる石地蔵  千俊

  般若寺の花に紛るや猫の恋    千俊

 尚、般若寺へ直接行かれる場合はJR・近鉄とも奈良駅より青山住宅行バスに乗り、般若寺停留所で下車し徒歩三分です。拝観料は大人五百円で、車の方には無料の広い駐車場が用意されています。


 

ステイホーム         長谷川妙好       2020年7月
       
 

 皆さんはコロナによるステイホーム中、どのように過ごされたでしょうか。時々出かける旅行にも行けず、習字教室もコーラスも休講、友達との平家物語の勉強会と称するおしゃべり会も中止。伊吹嶺句会もお休みでした。その間今まで家では見ることの少なかった映画をアマゾンプライムビデオで見ることになりました。古いけれどすばらしい何本かの日本映画に巡りあえました。

 まずは『怪談』。岸惠子さんが日経新聞『私の履歴書』で書いておられたので興味を持ちました。小泉八雲原作の中から選ばれた四編のオムニバス作品。起承転結の「転」に当たる部分の第三話『耳なし芳一の話』が圧巻でした。中村嘉津雄さんの芳一がよかった。能舞台を見ているような様式美がすばらしく第十八回カンヌ国際映画祭で審査員特別賞を受賞したとのこと。納得でした。

 次は『黒部の太陽』。一昨年黒部を旅したこともあり、小樽の裕次郎記念館には大きなスチール写真があって、映画の存在は知っていましたが、不思議と今まで見る機会がありませんでした。画面には石原裕次郎、三船敏郎、宇野重吉など、今は亡き懐かしい顔ぶれがありました。しかも迫力満点の感動作でした。1968年公開ですが全く古さを感じません。黒部の風景を思い出しながら楽しみました。それに出演者の名前が五十音順で表示されていたことに驚きました。娘は映像関係の仕事をしています。エンドロールに出す出演者の名前の順番で、「なんでうちの○○はあの人の後なのよ」みたいなクレームが所属事務所から入ることがあって、「調整が大変」と言っていました。あれだけの有名人が多く出ている映画の順番を現在のやり方で決めるのは無理だろうなと思った次第です。
50音順は、「全員の力で作り上げた作品なのだ」という心意気の証とも受け取れました。

 最後は『武士の献立』。前二作と違って比較的新しく、2013年の作品です。その数年前に映画館で見た『武士の家計簿』より楽しめました。上戸彩さんが凜とした姉さん女房役で、本当に素敵でした。

 ステイホーム中でもなければ多分巡り会うことのなかったであろう映画の話です。


キジバトの観察          伊藤範子       2020年6月         

 我が家にキジバトが営巣したのは三度。一度目はウバメガシの中だった。しかし営巣に気付いた夫がキジバトの留守中巣を取り払ってしまい、卵も落ちていたのを見てがっかりした。翌年、二度目は枝葉が伸びていたイスノキに営巣した。この時は、二個の卵のうち一個、無事ヒナが孵り、親鳥が留守の間に写真やヒナの動画も撮り、巣立ちをこの目で確かめることもできた。

 イスノキを刈り込んでから今年まで、その後キジバトが巣を作ることは無かった。去年、近所のお屋敷の人が庭を売却して新築の家が十一軒建った。営巣に困ったからだろうか、今年四月十九日、リビングの前のカラタネオガタマの木の中にパタパタと簡素な巣を作った。卵は二個。コロナによる自粛生活の最中でもあり、毎日キジバトを観察するのが楽しみになった。

抱卵の交代時間が同じだったことにも驚いた。朝は遠くで相方が鳴くと、七時頃夜の当番が巣を離れて飛んでいった。その後交代要員が、オガタマの隣のシラカシの枝に止まり、周りを注意深く見てから七時半にサッと巣へ入っていく。午後は四時に交代。ネットで検索すると、昼はオス、夜はメスが抱卵すると分かった。メスの方が抱卵の時間が長くて疲れるだろうに、と思ったものだが、夫が「それは夜の方が安全で、メスが昼間自由に餌を食べ、栄養を取れるようにとのオスの配慮ではないか」と言った。なるほど、レディーファーストを実践しているのかなと思った。「キジバトは夫婦で仲良く子育てをするので、家にキジバトの巣があると、夫婦円満や家内安全など幸運を招く」とネットで見たことにもちょっと嬉しい気持ちになっていた。

毎日、「今交代した」「羽の模様でどちら向きに坐っているか分かる」「今東向きに坐っている」などと、普段はお互い喋ることもあまり無いのに夫婦の会話が増えてきた。

孵化まであと一日か二日という五月三日。「早朝カラスが一羽襲いかかり、一対一で抵抗していた」と聞いたので急いで覗くと卵はあったものの、当番が居なくなっていた。戻って来たので安心したが、その日はカラスが心配で、一日窓際でマスクを作りながら、何度も庭に出てみた。昼、カラスが今度は二羽で襲いに来た。「コラ!」と追い払ったが、当番は逃げ、卵は一個掠め取られていた。一対二では勝ち目は無かった。カラスも仲間を連れて来るなんて、やっぱり頭が良いのかとも思った。

空白の時間があったものの、ちゃんと戻ってきて、午後六時頃、またカラスが二羽で襲いにかかった。気配にすぐさま表へ出たので追い払えた。暗くなった頃そっと見に行くと、残りの一個を守っている。「あぁ良かった。鳥目で夜は敵が来ないから、ゆっくりおやすみ」と心の中で呟いていた。

翌朝「キジバトがいない」と夫が言う。驚いて見に行くと、卵も無く空っぽの巣を残して去っていた。残念!夜明けとともに攻撃されたのだろう。カラスも生きるためなのだ、自然の摂理なのだと思うほかなかった。その後、デーデーポッポーが聞こえると、思わず外に飛び出し、何処にいるのか探している私がいた。二、三日経ったある日、鳴き声に外へ出ると、二羽のキジバトが寄り添うように電線に止まっていた。キーちゃんとポーちゃんだった私はしばしの間、空を見上げていた。

  身じろぎもせず抱卵の鳩坐る   範子  



横井也有             野崎雅子       2020年5月                  

 毎年3月に、愛知芸術協会主催の「尾張名古屋のおもしろ文化史」と称して、徳川美術館学芸員、名古屋市博物館学芸員等識者の先生の講演会が、名古屋市中区栄の長円寺会館ホールで行われる。

今年も、元名古屋市博物館学芸員の山本祐子先生の「横井也有と『鶉衣』」を、早々に申し込み楽しみにしていた。

ところが、1月末頃から新型コロナウイルス禍で、様々な教室が閉鎖されているのでどうなるか心配していた。二回の講座のうち第一回の3月9日は、会場の係の方々の細心の配慮で無事行うことができた。

横井也有は、1702年尾張国名古屋で出生。上級の尾張藩士用人寺社奉行八代宗勝、九代宗睦の文化的ブレーン。53歳で、病気の為依願隠居し、俳諧と琵琶を楽しんだ。*

特に芭蕉を崇拝していて、

  よし野にて桜見せふぞ檜の笠      芭蕉 

   香は今もさくら見せたるひの木笠   也有 

    ふるさとやへその緒になく年の暮  芭蕉   

    友とせむ臍もの言はば秋の暮     也有  

    と、詠んでいる。

山本先生が、「也有は博学で、それでいて気さくな人柄で、何か困った事があった時、也有に相談してみたらと思いますね。」と、言われたのが印象に残った。

名古屋市植物園に「也有園」がある。何度か行っているが、講演を聞いて改めて行ってみたくなった。四月十日から休園すると聞き、急ぎ四月九日に出掛けた。

新緑の中、桜の花が舞い、ミツバツツジ、山吹、しゃがの花等咲いていて、也有の句が添えられていた。

新型コロナウイルスが一日も早く終息して、講演を聞いたり、植物園の散策を楽しめる日が来るのを切に望む。  

 

過ぎたるものは          浜野 秋麦     2020年4月   

 例年であれば、Jリーグは序盤戦、野球中継も始まっている頃です。スポーツ中継のなくなったテレビ局はさぞ番組編成に苦労をしていることでしょう。そんな中で、某国営放送の大河ドラマは出だしこそ躓きましたが、順調に進んでいるようです。「麒麟が来る(明智光秀)」ということで戦国時代ものでは必ず舞台になる長浜・彦根を素通りして、岐阜や大津がメインになるようです。

同じ戦国期の敗軍の将として、長浜・彦根にかかわりの深い人物を挙げるならば、まずは「石田三成」の名が浮かびます。三成を語るときに必ず引用されるのが、「治部少(三成)に過ぎたるものが二つあり島の左近に佐和山の城」という落首(狂歌?)です。嶋左近(清興)は筒井順慶の重臣であった名将で、三成が知行の半分を差し出して召し抱えたとされています。関ヶ原合戦での勇猛な闘いぶりが、多く伝承されていますから、文治派である三成の弱点を補うのに最適な人材であったと言えるかも知れません。

さて、もう一つの「佐和山の城」です。彦根城の東ほぼ一キロにある佐和山全体に幾多の曲輪、防塁を設けた大きな山城であったようです。数年前に、自治会で「町ウオーキング」を企画して登ったことが有りますが、なかなかに難攻不落な行程でした。

彦根駅からですと暫く米原方面に進んだのち東側に線路を越え、佐和山の西の麓、龍潭寺の境内から山に入ります。鬱蒼とした林の中の急坂を登って切通しに出ます。ここから南方向に、両側が切岸のように急峻な尾根筋を通って西の丸跡、本丸跡と進みます。本丸跡はそこそこの広さ(三十×八十メートルほど)の空地になっています。本丸の下には隅石垣と千貫井戸が残されており、落城の時に奥女中が身を投げたとされる女郎谷も見渡せます。道が整備されているのは、大体この辺りまで、大方は林と藪で猿の群れに行き会うこともありました。

関ケ原の戦のあと佐和山城は井伊直政に与えられますが、井伊家では、金亀山(彦根山)に新たな城を構えることとなり、ある限りの資材を移送しています。一説には、徳川家康に対抗した敵の総帥の城として、徹底的に破却されたとも伝えられ、石垣でさえ隅石垣が僅かに残るのみです。

現在の登り口は、龍潭寺にあり、城の搦め手だったのではないかと考えられています。この辺りには、井伊神社、龍潭寺、清凉寺と並んでおり、天守の真西の辺りには三成屋敷跡という場所もあります。(井伊家の菩提寺となっている清凉寺は嶋左近の屋敷跡と伝えられています)。こちら側からは、松原内湖を介して琵琶湖に通じていました。

これに対して、大手筋は東側、東山道に向かっており、城下町が開かれ、侍屋敷も軒を連ねていたと考えらますが、調査はされておらず、範囲や規模も分かっていません。

本丸は五層の天守閣であったと伝えられていますが、内部は質素な造りで中世の山城の域を出なかったようです。あるいは、大手筋方面に立派な御殿が構えられていた可能性も無いとは言えませんが、城全体の規模と云い施設と云い、十九万石余の大名にとって「過ぎたるもの」と言えるようなものでは無かったように思えます。

残されるのは、佐和山の地政学的な価値です。眼下に東山道を望み、湖上の交通も一望できます。京都と中部・北陸を結ぶ要衝といえます。政権の最重要ポイントとも言える難攻不落の城を、切れ者とはいえ武将ならざる経済官僚に与えるのは過ぎた処遇ではないか、という世評を感じ取っての落首だったのではないでしょうか。

三成に関する連歌でもないかと、調べてみたのですが、見つかったのは辞世の句のみでした。

  筑摩江や芦間に灯すかがり火と

     ともに消えゆく我が身なりけり

 筑摩江は鍋冠祭りの筑摩神社の辺りの入り江で、戦前までは入江内湖が広がっていました。

 



「松根東洋城」大隆寺に眠る   宇都宮えみ     2020年3月 

 宇和島藩主伊達家の菩提寺である、大隆寺を散策したとき、東洋城の句碑を目にしてはじめて、私は、俳人松根東洋城を知りました。

東洋城は、明治十一年二月二十五日東京築地で生れ、父は、伊達藩城代家老松根図書の長男、松根権六、母は、宇和島藩主伊達宗城の次女、敏子です。

裁判官であった父の赴任先である、松山中学五年生の四月、英語の教師として漱石が来任します。そして、漱石が熊本五校の教師となってからも、句を送り、添削の指導を受けていました。

第一高等学校に入学後は、根岸の子規庵へ通い始め、ホトトギス例会や碧梧桐庵会への出席も欠かしませんでした。

東京帝国大学へ入学してからは、漱石庵に通い、一高の俳句会を指導していましたが、腸チフスを病み、休学したのち、京都帝大に復学しています。

明治三十九年宮内省に入り、それより式武官、区内書記官、帝室会計審査官を歴任しました。

子規歿後の俳壇は、定型と非定型とに二分されその非定型の碧梧桐の「俳三昧」に対抗し、虚子と「俳諧散心」を興します。

定型を代表するものは「ホトトギス」と「国民俳壇」で、虚子はこの二つを掌握していましたが、小説に専念することになり、虚子より「国民俳壇」の選を引き継ぎました。

大正四年二月、芭蕉を宗とする俳諧を道として、芭蕉の求め続けた道「芭蕉直結」を旗印として、東洋城は「渋柿」を創刊します。

天皇のご沙汰により俳句を三句奉答し、俳句とは何かとのご下問に「渋柿のごときものにては候へど」と答え、その感慨から俳誌を「渋柿」としたことはよく知られています。

表紙の渋柿の文字は、一・二号が活字、第三号からは、夏目漱石の題簽となり、大正、昭和、平成、令和と創刊以来一号も欠けることなく、一世紀を迎え、受け継がれていることには、驚かされます。

東洋城は、桐生、岩手、東京、松山、宇和島など各地で「俳句道場」を催し、俳句の指導にあたりました。門下生の話として、「俳句道場」を開始する前に座禅を組み精神統一を図った、句会中は膝を崩すことを許されなかった、弟子を叱る声は別棟まで聞こえたなど、俳句の上では厳しい指導をしましたが、こと俳句を離れると人間味溢れる師であったようです。

俳壇引退後は芸術院会員に任命され、昭和三十九年八十六才で、孤高の人生を静かに終えています。

大隆寺を訪れたのは松の内も過ぎたばかりでしたが、墓前には一本の南天が揺れていて、その艶やかな赤い実を見ていると、碑の「黛を濃うせよ草は芳しき」の句が、鮮やかに浮かんできました。


京都の紅葉を訪ねて     森田もきち    2020年1月

 

 座卓より望む紅葉や瑠璃光院

 京都の紅葉の穴場を探す眼が、瑠璃光院の名で止まりました。                      山と渓谷が織りなす風光明媚な八瀬の地にひっそりと佇む瑠璃光院は、知られざる隠れた名刹でしたが、歴史的建物・文化財保護の為、春の新緑の時季・秋の紅葉の時季と季節限定で一般公開されるようになり、多くの参詣者を集めているとの事。一万二千坪の広大な寺域に建つ格調高い数寄屋造りの書院は、京数寄屋造りの名人と称された中村外二、自然を借景とした庭園は、佐野藤右衛門一統の作と伝えられます。典雅な中にも匠の技が光る書院の二階から座卓越しに「瑠璃の庭」を望むと、今を盛りの紅葉が額絵のようであり、畳二畳ほどの磨き抜かれた黒檀の座卓に、色を深めた紅葉が照り映え、漆黒に浮かんだ深紅の紅葉の映像に心を奪われました。

 黒檀の座卓に映る紅葉かな


 大原三千院の近く、声明による念仏修行の道場として創建され、紅葉の穴場と探した勝林院(魚山大原寺)住職の坊としての宝泉院、 僧坊としての実光院を拝観後、時間が余ったので四年ぶりに三千院にも寄りました。

 前回は桜の時季でしたが今回は心残りないほど全山紅葉に包まれ、紅葉の降り来る中おさな六地蔵の微笑ましい幼顔に心も和むのでした。

降り注ぐ紅葉明かりや稚児地蔵

 


 
着物と習い事     鈴木 未草        2019年12月   

                     

 十五年ぐらい経つだろうか。ある日和ダンスを開けたら、一度も手を通していない着物が染みだらけだった。両親が私の嫁入りの時持たせてくれた着物だ。これを見たらなんと思うだろうか。申し訳ない気持ちで一杯だった。

 程なく着付け教室に通い、何とか一人で着られるようになった。となると、何処かに着ていきたい。展覧会、音楽会、狂言の鑑賞会、友人との食事会等々。それでも、物足りず、着物を着られるであろう習い事を探した。市民講座で日程が合うのが、詩吟だった。

 最初は聴いたこともない旋律に戸惑ったが、何とか声も出るようになり、初めての大会に出た。もちろん、着物を着て。ところが、会場を見渡すと着物を着ている人は全体の一割にも満たず、がっかりした。それでも、大会があるごとに着物で出ている。

 仕事をやめると、更に選べる習い事が出てきた。茶道は特に季節にあった着物を選ぶのが楽しみだ。他にもいくつか習い事が増えているのだが、皆何処かで繋がり、日本文化の奥深さを感じている。

そして、もうこの世にいないが、貧しい中で嫁入りの着物を揃えてくれた両親に感謝している。



 

無言の証人       有井真佐子        2019年11月               

つに折れた水晶の印鑑は爆心地から約600メートルの堺町で瓦礫の中から見つかった。折れた片方は「吉岡」と刻まれていた。印鑑入れは圧力に押されたのか、金具の上下がくっ付いてベルトのパックルのようになっていた。持ち主は1945年、当時31才だった吉岡正二、私の父である。広島県警察部の国民動員課に勤めていた。

8月6日の日は自宅を出て横川駅(広島市西区)を降りた後消息不明に。一週間後、産後間もない母(私、真佐子を7月5日に出産)に代わり義理の兄たちが大八車を引いて捜し回った。手掛かりを求めてかかりつけだった堺町の「伊藤内科胃腸病科医院」へ向かったが建物は跡形もない。待合室だったと思われる場所を掘ると印鑑、印鑑入れ。割れた眼鏡レンズ、眼鏡の枠。焼け焦げて針が飛んだ時計。遺骨の一部。全て父のものと断定。よく見つかったと思う。父は私達の元に帰って来たかったのだろう。

遺骨と遺品は実家の仏壇に大切に保管、供養してきたが母も亡き今、私が願い出て世界の大勢の人に戦争の怖さを訴え、後世に伝えていきたく遺品は広島市の原爆資料館に寄贈した。


近江の歌枕       浜野 秋麦          2019年10月           

 もう二・三年前のことになりますが、所属している茶道流派(遠州流)の全国大会が長浜市でありました。ご承知の方も多いと思いますが、流祖、小堀遠州は長浜の生まれで、大名としての領地(小室藩)も現在の長浜市(旧浅井町)にありました。この記念すべき大会に何とか流祖に直接かかわる道具だてをと皆で準備しました。

 その中の一つが濃茶席の床に使われた軸「小堀遠州公筆六首詠草」でした。和歌に素養があり、多くの道具に和歌にちなんだ歌銘を付けている遠州公が、大津から領地に向かう船上で詠まれた六首であろうと推量されています。お茶席では伴頭(はんとう)が道具の説明をするのですが、この時は、念を入れて六首すべてを解説しようということになりました。三首目

   ゆる木の森

 入日さすこずゑのさきの秋かぜに

     ゆる木のもりの宮のさびしさ

予行演習の時に、この「ゆる木の森」について伴頭役が枕詞と解説していました。陰から「それは、歌枕ですよ。」と訂正を入れましたが、一般的には枕詞と歌枕の混同は珍しいことではないようです。

俳人方には釈迦に説法のようですが、辞書には、枕詞は「特定の語の上にかかって修飾または口調を整えるのに用いることば」とあります。頭につくから枕なのでしょう。(落語では落ちに関係ある解説などを冒頭に入れ込むことを「枕を振る」などと云います。)ちなみに、「さざ波」は志賀にかかる枕詞です。

歌枕の方は「古歌に読み込まれた諸国の名所」というのが一般的だと思うのですが、「歌を詠むときの典拠とすべき枕詞、名所など」という解釈もあるので複雑です。ちなみに「ゆる木の森」を典拠とする古歌は

 高島やゆるぎの森の鷺すらも

ひとりは寝じと争ふものを

(古今六帖)

ゆるぎの森の解説には「与呂伎(よろぎ)神社あたりを中心とした森」と出ていますから遠州公が「宮のさびしさ」と詠まれた宮は与呂伎神社と見てよいと思います。高島市安曇川町青柳(旧東万木[ひがしゆるぎ])に現存しています。

 そんなことがあったので、歌枕に興味を持ち、近江の歌枕を調べてみますとたちどころに四・五十は出てきます。

京の歌枕でも主なものは六・七十ですから、なかなかの数と驚くほかはありません。長年、近江に住んでいるので大体の場所は行ったことがあったり、思い浮かべたりすることが出来るのですが、中には、こんな所がと思うようなところもあります。

近江の歌枕の例として「朝妻」をとりあげてみます。JRの米原駅から、ずっと西に行った湖岸に位置します。天野川の川口に当たり、古代から湖東の港として栄えたところです。

恋ひ恋ひて夜はあふみの朝妻に

君もなぎさといふはまことか

藤原為忠(新続古今集)

蛇足ながら拙句

 朝妻の湊塞ぎて鴨の陣      秋麦

現在、朝妻は南に隣接する「筑摩」と合わせて朝妻筑摩の字名になっています。筑摩もまた著名な歌枕で、鍋冠祭りの筑摩神社のあるところです。

 近江なる筑摩の祭りとくせなむ

      つれなき人の鍋の数見む

伊勢物語第百二十段

 今度、近江の地に吟行にいらした時には歌枕巡りなどいかがでしょうか。


 

プレバト俳句を見て     武藤 光晴          2019年9月

 
みなさんもご覧になったことがあろうかと思うが、テレビに「プレバト」と言う俳句の番組がある。芸人達に俳句などの腕を競わせ、才能を査定し、順位を付けるものである。

 判定者は俳句甲子園などで有名な夏井いつきさんである。彼女の気取らない、的確な指示は俳句初心者の心に深く染みこむと思われる。回数を重ねて出演している、何人かの常連は、仲間の俳句にも的確な鑑賞を行い、進化の後を見ることが出来る。

  基本はバラエティー番組であるから、あまり、とやかくは言えないが、俳句を庶民の生活の中へ根付かせるチャンスを作ってくれていることに感謝せねばならないと思う。何かの拍子で趣味に俳句を嗜んでいることに話が及べば、「プレバト」を話題にする人々が実に多い。

  ただ、結社に学ぶ我々にとって、全く問題がないわけではない。貴方は何段なんですか、とか師範の免状をお持ちなんですね、とか聞かれる事が多い。

  私はその度に俳句は順位を競う物ではないし、句会では、参加者の誰の一句でも、みんなで、その一句をより良い物にするための話し合いをする場であり、その事こそが、最大の仕事なのです。私は少し古くから親しんでいるので、中心になってお手伝いをしています、と。

 また、これはいろいろな意見もあるとは思うが、俳句は本来、「古事記」や「日本書紀」頃から広く庶民に愛好されてきた、五七調のリズムを踏まえた歌謡の一つであり、このリズムを出来るだけ尊重して十七文字に纏めるべきで、九八等の破調は安易に、全体で十七文字だと言うだけで作って欲しくはないと思う。勿論、破調により作者の思いを込めることも可能であるから、一概には言えぬ事ではある。ただ番組内では少し安易な添削が多いように思う。

 折角テレビで俳句の話題性が大きくなっている今、現在の俳句仲間の枠を飛び出して、積極的に俳句を話題とし、一人でも多くの人に関心を持って貰いたいものだ。

  自然の営み、人の営み、その喜怒哀楽を俳句で詠いみんなが共有できる世界。それは世界の平和にも貢献できるのではなかろうか。そんな夢を見て、弛まず努力もして過ごして行きたいと思います。



娘の出産        宇都宮 えみ          2019年8月


 お産の兆候は見られるが、病院に行くまで休ませてくれと言って、娘がやって来たその日は、五月のさわやかな晴天だった。

ソファに横になった娘に布団を掛けながら、これから娘を待ち受けているであろう、逃げ場のない、難儀な痛みを、自らの体験に重ね合わせ、ひたすら落ち着けと自分に言い聞かせた。

私は、そっと庭に出た。青空に桃の花が映え柿の若葉と相まって、何とも美しい。ふと下を見ると、雑草も日差しを浴びて輝いている。

とっさに屈みこんだ私の手は、雑草を引き抜いていた。娘の大事な日なのに、雑草とはいえ引き抜いたりしていいのか、と思いながらも手は、その作業を止めようとはしなかった。むしろ、生まれてくる子の命と引き換えの、神への捧げ物でもあるかのように、不安とは反対に手は、静かに規則正しく動いていた。

半時ばかり続けた後、不安は胸の奥へと押しやられ、いつもの自分を取り戻していた。

その夜、娘は、元気な男の子を出産した。

 不思議なことに、翌朝の庭には、何も変わった様子は見られず、草を引き抜いたらしいあとかたも、どこにも残ってはいなかった。


 

京都の桜を訪ねて     森田 もきち        2019年7月
  
   

のどけしやおかめの像にほほ笑む娘

 京都の早咲きの桜の穴場を探す眼が大報恩寺(千本釈迦堂)の枝垂れ桜の文字で止まりました。昨年の秋、上野の東京国立博物館で「快慶定慶の御仏」として快慶の弟子行啓作の本尊秘仏釈迦如来座像、定慶作の六観音菩薩像、快慶作の十大弟子立像等鎌倉彫刻の名品が展示された特別展がありましたが、それが千本釈迦堂だったのです。これも機縁と同寺を訪れました。同寺本堂は鎌倉時代初期の創建時のままの姿で、京都(京洛)最古の木造建築物として国宝に指定されています。同寺境内の中央には阿亀桜の名で親しまれている大きな枝垂桜が満開を迎え、傍らに阿亀像があります。阿亀は本堂建築工事の大工の棟梁の妻で、夫の工事失敗を助言で救いながら事実が知れたら夫の恥と上棟式を前に自害した物語が、全国のおかめ信仰の発祥となったことを初めて知りました。本堂内にはおかめの面が多数展示されています。
 

  白川にぽつくりの音夕桜

 祇園白川通りは白川沿いに四十本の桜が続き、石畳の道、白川の流れ、料亭の灯り、舞妓さんの芸事上達を祈ってお参りする辰巳大明神、巽橋など京都らしい風情を味わえる場所とのことです。「かにかくに祇園はこひし 寝るときも枕の下を水のながるる」と詠んだ吉井勇の石碑がありました
                          



孫と俳句交流?       野上 千俊            2019年6月

令和最初のよもやま通信のためかなり緊張しています。肩の力を抜いてと呟きながらパソコンと向き合っています。

私は三年前ゴルフ場で右手首を骨折しペンを持てなくなったため作句を一旦断念しました。とはいえ俳句への関心は捨て難く左手でパソコンを操作しながらネット上に掲載されている句を読むことに専念していました。何かの拍子に[俳句・名句]を検索したところ、【俳句をやらない人でも知っている十五の名句】を見つけました。ここには芭蕉の『古池や』『閑さや』『夏草や』の三句、蕪村の『菜の花や』『春の海』の二句、さらに子規の『柿くへば』、素堂の『目には青葉』、草田男の『降る雪や』、嵐雪の『梅一輪』、捨女の『雪の朝』、千代女の『朝顔に』がありました。驚いたのは一茶の句が『痩蛙』『我と来て』『目出度さも』『是がまあ』と四句も掲載されていたことです。

 芭蕉よりも一茶の句が多いのは意外でしたが、一茶の句は読んで楽しく、平易な言葉で分かり易く、また暖かさを感じます。さらにテーマも身近なため親近感が湧きます。こういうことから一茶の句は多くの人の記憶に残るのでしょう。一茶の人気に刺激を受け分かり易い句作りを目指しているのですが、添削していただくといつも己の未熟さを思い知らされます。

 さて、この五月の連休中に家に泊まりに来ていた六年生の孫娘が『古池や』『菜の花や』『柿くへば』の三句を暗誦したので聞いてみると、担任の先生が俳句好きでこの三つは分かり易い有名な俳句なので覚えておきなさいと云われたそうです。俳句が好きかと私が尋ねると「別に」、これ以外の句はと聞くと「先生は蝉の声の句が一番好きで教えてもらったが忘れた」との返事。私がその句は『閑さや岩にしみ入る蝉の声』ではと云うと「そうだったと思う」とのことでした。この孫娘に一茶の『雀の子そこのけそこのけ御馬が通る』『名月をとつてくれろと泣く子かな』を教えたところすぐに暗誦しました。孫娘は「俳句の内容を頭の中で絵に描けば言葉はすぐに覚えられる」と自慢げに話しました。これら『古池や』『菜の花や』『柿くへば』『雀の子』『名月を』の句はいずれも詠まれている情景が浮かんでくる句であり、そのため俳句に興味のない孫娘でもすぐに覚えられたのだと知りました。一方、『閑さや』の句は情景が掴めないため覚えられなかったと思います。 

 孫娘に私が詠んだ『手を広げ通せんぼする案山子翁』を身振りをまじえて聞かせたところすぐに画用紙にその絵を描き始めました。さらに、帰り際には「また夏に来るので絵に描けるような俳句を作っておいて」と頼まれました。次に来た時には自分が云ったことを忘れている可能性がありますが、読み易く、情景が目に浮かぶような句を詠んでみようと思います。孫娘とこうした俳句を通しての楽しい時間を少しでも長く持てれば良いなあと思うこの頃です。



向島百花園          関根 切子         2019年5月                                               
     
 梅の実の転げしままや百花園        

 東京都墨田区にある「向島百花園」は江戸時代、文人墨客によって作られた庭園で、東京ドーム五分の一個ほどの庭に、おそらく百花をこえる草花・樹木が処狭しと植えられている。

 ただ百花を植えるにはあまりにも狭いため樹木は一本ずつ、草花は数株ずつ。さながらノアの方舟植物版と言ったところである。案内板によると樹木は七十数種類。草花は数知れず。竹林(と言えるかどうか)には筍が一、二本頭をのぞかせている。藤棚、通草棚、糸瓜棚、葛棚に瓢簞棚。池もあるので水生植物や湿地に咲く花、菖蒲田もある。

 草木にはすべて名札が付いていて、植物図鑑を見るように園内を歩くことが出来るのだが、春も半ばを過ぎると、方舟に乗せてもらえなかった植物たちが一斉に茂り始める。杉菜、蓬、西洋たんぽぽ、からすの豌豆、姫じょおん、などなど。頭上の樹木は芽吹いたばかりで日差しはたっぷり届き、土も肥えていて、踏みつけられることもない。方舟の乗り心地はとても良いのだろう。樹木が茂り日当たりが悪くなると、今度はどくだみが勢力を広げてくる。百花園は不法乗船の植物で溢れかえってしまう。

 園内には作業小屋があって、数人の庭師がいる。彼らは剪定や棚の補修、草花の植え付けなど丁寧に仕事をしているが、雑草はあまり取らない。杉菜もどくだみも黙認している。

 これは文人墨客たちの案外粋な計らいなのかもしれない。庶民的で、文人趣味豊かな庭として、その計らいを庭師たちは継承しているのではないかと私は勝手に思っている。

      花影に庭師の昼餉百花園          切子


      

如 庵         酒井とし子           2019年4月      

 犬山市は人口七万人余りの小さな町です。その小さな町に国宝が二つあります。一つは犬山城、もう一つが「如庵」です。如庵は名鉄犬山ホテルの敷地内の有楽苑の中にある茶室です。この如庵、実は今年の三月より保存修理のため二〇二一年秋頃まで入場することが出来ません。

ご存じのように入場門の前にはわがやすし句碑と綾子句碑の師弟句碑が隣り合っています。

    木曽川を見下ろして城冴え返る     綾子

      流燈会われも流るる舟にゐて     やすし

この如庵は流転の茶室といわれています。織田信長の弟の織田有楽により一六一八年(元和四年)京都建仁寺に建立されました。一八七三年(明治六年)祇園の有志に払い下げられ、正伝院に移築。その後、明治四十一年東京三井本邸に移築されます。次に戦火を逃れるためか昭和十二年には神奈川県大磯の三井家別荘に移築、昭和二十六年国宝に指定されました。その後昭和四十七年に名古屋鉄道に売却されて現在犬山を安住の地として現在にいたっています。

普段は茶室の内部は見学できませんが、月一度程の見学会では二畳半台目(三畳余り)のお茶室を見る事が出来ます。

またお正月の一月一日から六日までの六日間、如庵に隣接している書院にて初釜が催され、晴れ着姿の華やかな雰囲気の中お茶席を楽しむ大勢の人で賑わいます。お薄のあとホテルに移動してお雑煮とおせちのお接待を受けることが出来ます。このお雑煮は名古屋風といいますか、もち菜と角餅のみのシンプルなお雑煮です。

丸餅と具沢山のお雑煮で育った私ですが犬山に移り住んで四十五年余り今はこの名古屋風のお雑煮が我家の味となっています。

お雑煮をいただいた後は犬山城隣の針綱神社へ詣で、新年の無事を願うという習慣を毎年過ごしておりました。

犬山市民にとってはこの犬山城と如庵、針綱神社は観光の見どころであると同時に生活にも非常に密着しています。

この私のお正月恒例の行事もしばらくはお休みということで少し淋しいことですが、有楽苑の再開を今から楽しみに待とうと思っています。



俳句のある暮し       長谷川妙好                 2019年3月

 ネット句会にいれていただいて、ちょうど二年になる。最初のころは三句切れもわからず、句会の際にはとんちんかんな質問をしたりして、ずいぶん場を乱したのでないかと恐縮している。俳句に全く縁のなかった私が今ではすっかり俳句のある暮しになっていて自分でも驚いている。

娘曰く「よかったね。老後の楽しみが増えて」まさにその通りである。

先月熱海に旅行した。頼朝と政子がデートしたという伊豆山神社に登ると風が強かった。境内に奉納された絵馬がカラカラと鳴っていた。「絵馬カラカラと風に鳴り」が浮かんだ(そのまんまなんですけど)。季語は何にしようかと考え、センター試験も終わったことだし受験絵馬も多かったので、絵馬の鳴る音を合格の鐘の音になぞらえ「春近し」がいいかなと。推敲の結果、

      春近しカラカラと鳴る受験絵馬   妙好

 センター試験といえば私は問題が新聞に掲載されると、毎年国語だけ解いてみる。年々点数が下がって今年は特にひどかった。新聞の細かい字を読むのに骨が折れる。

以前息子に「何点だったよ」と自慢したら、「会場のあの堅い椅子に座って制限時間内に解くのとは訳が違うよ」と言われた。確かに食卓でお茶を飲みながらのんびり解くのとは違って当たり前か。自慢することでもなかったなと反省した。

       老眼のセンター試験鐘氷る     妙好

 三月には私の俳句歴も三年目に入る。石の上にも三年という言葉もあるのでとりあえず三年は続けようと思っていたがなんとか続けられそうである。みなさまどうかこれからもよろしくご指導ください。


平 凡             野崎雅子         2019年2月
             
                      

 年末のテレビの特別番組で、長寿の方々が若かりし過去の自分に呼びかけるという企画があった。

 印象に残った人は、九十歳の女性が「二十歳の自分に。年とったら、楽になれると思っていたのに、いまだに畑仕事をしているよ。」という人。

 又、七十五歳の女性は「二十五歳の時、両親に結婚するのを反対されたけど、私は今もお互いに愛し合い、この結婚は正解だったと言いたい。」という人。

 私は、自分が二十三歳の時、親友が恋愛に悩んでいて、よく当たるという銀座の占い師のところについてきてと言われ、出掛けた時の事を思い出した。

 占い師は、五十代の細面の優しい眼差しの男性だった。筮竹と手相と生年月日で占った。

 親友は「波乱万丈な人生を送る。今付き合っている人とは結婚しない。華やかな職業で世界中駆け巡る。」と言われた。

ついていくだけのつもりの私も、みてもらった。私は「浮き沈みのない平穏な人生。今付き合っている人と結婚する。相性はよい。子供は一人。」と言われた。

 それから四十余年たち、親友は、私が名古屋に来てから知り合ったイギリス人と結婚した。そしてジュエリーデザイナーとして学校で教えたり個展をやって活躍している。私は、名古屋にきて専業主婦で、子供も一人。

 あの時、これからの人生平々凡々なんてつまらないと、落胆した自分に言いたい。平凡だけど、大好きな犬を結婚したから切れ目なく飼うことができている。こんな生活をかけがいのないものと思っていると。



の片隅に      有井真佐子                       2018年12月         

 大きな病には縁遠かったのに齢を重ねて免疫力がおちたせいなのか、総合病院に何回かお世話になった。手術を受ける前は手術の事が気になり、そればかりを考えているのだが、調子が良く一週間ばかり経って退院が告げられると途端に現実に戻る。

俳句はどこで足踏みしているのだろうか、日記代わりに病院での事を俳句で残しておきたい等々。

  梅雨深し患部を照らす無影灯 

  点滴の管が絡みぬ春遠し    真佐子

病室が五階で窓側だった時は外の窓ガラスを蜘蛛の子が這っていた。

  蜘蛛の子の戻らぬままに暮れてをり   真佐子

また早朝窓からJRの電車が見え学生がグループで駅へ向かっていた。

   風薫る始発電車にサッカー部    真佐子

この時はこの光景に元気をもらった。

  看護士の白衣まぶしき四温かな   

  リストバンド外し退院薔薇芽ぐむ  

  しみじみと柚子湯でさする手術痕    真佐子

日記代わりにと拙い俳句だが、病院では家事をする事も無く集中できたので詠む事ができたのかと思う。


伊良湖岬       安藤 一紀                         2018年11月

家に居て俳句が出来ないのでもっぱら外に出ることにしている。九月末人伝に伊良湖で「鷹柱」が始まったと。早速鷹の渡りの場所、伊良湖岬の先端にあたる「恋路が浜」に行ってみる。

 灯台はこの先一里鷹を見に  一紀

 当日は前夜の雨は上がって晴天で、鷹見が初めての私には絶好の「渡り日和」と思われた。

正午前に「恋路が浜」駐車場に到着。間違いなく渡りの現場らしい雰囲気があり、バードウオッチャーらしき人達50人位が双眼鏡や図鑑、鳥を数えるカウンターや情報を入れるためのスマホを下げてたむろし、三脚に取り付け撮影準備万端の望遠レンズのカメラの放列と高価な装備に圧倒される。家族連れを思わせる関東や関西ナンバーの車、キャンピングカーなども散見される。

「今朝は既に20羽のサシバが、鳥羽方面の伊勢湾に渡った」その場の鷹見の宿の亭主の話。「ピークは台風が去って雨が上がる来週の朝」と、今年の鷹の渡りはまだまだこれからだと解説。期待を持たせるが、今日はこれからどうなのかそれが知りたいが、はっきり良いとも悪いとも言わない。それから約二時間真っ青な秋の空を見上げたが鳶が5、6羽旋回しているだけで、一向に鷹の渡りを思わせる様子は見られない。鳶の笛が虚しさを募らせるばかり。

午後三時今日の渡りを諦めて伊良湖岬からフェリーで鳥羽に渡る帰路に就く。

鷹ゐつて広さ際立つ秋の空   一紀

今回は(鷹が渡った後で)空振り。暗いうちに恋路が浜に着いて夜明の岬の空を監視する、寒さ対策をするなど準備不足。費用を換算すると一句八千円を猛省。


 十五夜        関根切子            2018年10月

  同人になったら指導者として句会を持ちなさいと言われた。まだまだ指導できる器量ではないし、句会を持てるわけはないのだが、実は一年前から週に二回、九十三歳の女性に俳句を教えている。彼女は一人暮らし。足の筋力を回復したいとのことで、私がリハビリに訪問して知り合った。

 彼女の部屋にデイサービスで書いた習字の作品がたくさん貼ってあり、とても上手だったので私が褒めて、そこから俳句のことにも話が及んだのだと記憶している。

 彼女は短歌をたしなんでいて(なんと彼女の母は柳原白蓮と親交があったとのこと)、それで俳句にも興味が湧いたらしい。

 教えていると書いたが、実は何も指導はしていない。私が訪問するといつも二十句くらい出来ていて、選句と選評を急かされる。ちょっと的外れなことを言うと突っ込まれるし、季語についてもうんちくがあり、かなり手強い。ただ九十三歳だけにアナログ人間で、私の電子辞書を驚異に思っている(電子辞書もいまやアナログだが・・・)。

私の知識は電子辞書がないと相当にあやしいことはすでに見抜かれているが、彼女は大人であり、指導者としての私をそれとなく立ててくれる。情けないかぎりである。

 先週の二人の席題は「月」。彼女の部屋から見る十五夜の月は雲間にとても明るかった。

   名月や一人暮らしの十二階     切子

   コスモスを咲かせ迎へを待つてをり 切子

 (この句は怒られました。ちなみに彼女の夫は秋山清という詩人だったそうです。)


白 鳥       鈴木 未草            2018年9月

 習字の先生に、「今回は〈文字で遊ぶ〉をテーマにして作品を作って下さい。」と言われた。さて、どうしようかと悩んだ。私は小さい頃から字が下手で、しょうもなく書道塾に通っている。上手な方は、それこそ跳ねるように、または流れるように筆を操られるだろう。私には無理だ。そこで、思いついたのが、〈鳥が飛んでいる形に文字を埋める〉というもの。書くのは牧水の有名な歌『白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ

書いた作品を持っていくと、「下手に思い切り変な字で」という注文だった。あと、もう一羽居ると遠近感が出るということなので、『幾山河越へ去り行かば寂しさのたへなむ国ぞ今日も旅ゆく』でもう一羽作った。字も全体の形も、思い切り変だった。

さて、作品展初日会場を見渡すと、そんな作品は私だけ。他の方のは例年通り、美しく優雅な作品ばかりだった。でも私の気持ちに恥ずかしさはなく、なんだかすっきり晴れ晴れしたものだった。

 俳句でも同様かもしれない。美しい句を作りたい、あこがれの先生方のように上手な句が作りたいという思いがあっても、素養のない私には、なかなか道は険しい。苦肉の策で、どこかで見たような言葉を継ぎはぎした句にしかならない。恥ずかしく思う。しかし、下手なごつごつした句でも、自分の気持ちに寄り添った作品を作った時の方が気持ちは晴れやかだ。

先生方、相変わらず独りよがりの不器用な生徒ですが、よろしくご指導お願いします。


湖の風景     浜野 秋麦            2018年8月 

               
 
 ネット句会でも琵琶湖の情景を詠まれた句がしばしば見られます。吟行に来られたのだな、と思うと特別な関心が起こります。

湖岸の景色は、一度として同じということはありません。道路や家々、田圃や畑といった、風景の構成要素は変わらないのですが、木々の彩りや作物の生育状況など、当然ながら季節を追って変化していきます。

わけても、湖そのものが留まることなく表情を変えていきます。ザックリと表現すれば、春の柔らかな碧、夏の深いブルー、秋の穏やかな水色、冬の重たい鈍色。その日の天候、風の強弱にもより、白い波頭を見せたり、縮緬皺のようなさざ波であったり、鏡のような平らかさであったりと千変万化です。雪を被った連山に取り囲まれた冬晴れの湖も美しいですが、薄霧に包まれて天まで続いている幻想的な湖も捨てがたい風情があります。

以前にこの欄で「内湖のはなし」を書かせていただきましたが、一般的な説明と安土周辺の大中之湖や西之湖だけでした。今回は我が家から北上すると最も身近にある内湖、曽根沼とその周辺を紹介します。曽根沼は南側にある荒神山と一体となって整備され(琵琶湖国定公園に取り込まれ)、緑地公園となっています。

荒神山は標高二八四mの独立峰でこのあたり(旧愛知郡)で唯一の山です。少年自然の家、子供センター、体育館、球場もあり休日には賑わっていますが、この頃、どこから来たのか猪が繁殖して被害も出ているようです。山頂には荒神山神社が有り、中腹には三、四世紀のものと云われる古墳もあります。昨年近くで発掘された稲部遺跡と共にかなり大きな勢力の豪族の本拠地であったと推測されています。こうしたことから、本来、「高神山」であったのでは、との説もあります。

曽根沼緑地は、舗道が整備され、桜、椿などの植栽があり、遠足、ピクニックで賑わっていたのですが、子供の水死事故があってから訪れる人が少なくなってしまったようです。沼自体もブルーギルばかりが増えて釣り人は減ってしまいました。しかし、冬場には多くの鴨類を間近に見ることができます。春の岸辺から見上げる荒神山の山桜も見事なものです。

どうぞ、また吟行にいらして下さい。



愛知県立森林公園         川崎みちこ      2018年7月

 私の住む尾張旭市には尾張旭市北部と一部名古屋市守山区にまたがる八百万坪ほどの広い森林公園があります。

昭和八年愛知県議会で可決、翌年開園。昭和十三年の読売新聞には全国一の広さを持つ森林公園が三百万県民の理想郷として開園、厚生体力局技師田村博士を迎えて県知事が駕籠に乗って視察したとの記事があります。

この公園には運動公園として乗馬施設、テニスコート、弓道場、野球場など、一般公園としてボート池、児童遊園地、野外演舞場、里山広場などがあり、公園の面積のほぼ半分を有料(一回二百十円)の植物園が占めています。森歩き、野の花めぐり、自然ウォッチングなど種々のイベントも開催され県民の憩いの場となっています。

植物園には一般公園から入る正門と北門、南門があり、南門は我が家から一キロほどの場所にあるので休日の暇な時間に運動と気分転換と吟行を兼ねて入園しています。

南門から入るとすぐに貸農園があり、二坪ほどの区画に季節の花や野菜が植えられています。以前ナタマメが植えられていたことがあり、巾二センチから五センチ、長さ二〇センチから五〇センチ、その剣のような長いさやを興味深く眺めたものでした。

しばらく歩くといくつかの分かれ道となり左にゆくと湿原があって秋には一面にシラタマホシクサが可憐な花をつけ風に揺らいでいます。今の湿原にはモウセンゴケやコバノトンボソウ、カキランなどがみられます。

そこを過ぎるとふるさとの森で、全国各県の代表的な花木が植えられており、京都の北山杉、新潟の雪椿、愛知のハナノキなどいながらにして見ることが出来ます。森の中には縦横に小道があり郷土の森にゆけばナンバンギセルやウマノスズクサのような珍しい植物を見ることが出来ます。

ボランティアの人たちが雑草を取り除き、名札を付けて見やすいようにしてくれているので植物園のマップを見て歩けば容易に見つけることが出来ます。水生園には花ショウブ、半夏生、山アジサイが見ごろです。

中央の展示館には今植物園で見られる花の写真やその場所、この園に住む鳥や動物の写真やはく製が展示されています。植物園の北側の大きな池には羽を広げると二メートルにもなるオオワシの若鳥が二四日間滞在したとの記録と写真があり、ニホンカモシカやコハクチョウ、クマタカなども来たことがあったと記載されています。

春には梅、桜、つつじなどの花を、夏には緑の深い森の中でセミや小鳥の声を聴きながらの避暑、秋は様々な木々の紅葉、木の実の降るさまなどを、冬には雪景色、枯草、ハダカ木など季節の移り変わりを見られるのは楽しいことです。

こんな自然豊かな環境に住むことが出来てとても幸せなことですが、なかなか思うように句を作ることが出来ないのが悩みの種です。


 
芝不器男記念館を訪ねて    宇都宮えみ      2018年6月

 愛媛県北宇和郡松野町にある「芝不器男記念館」は、不器男の生家でもある。不器男は、明治三十六年四月十九日、父・来三郎、母・キチの五男として生まれた。

庄屋の面影を残す、木造二階建ての記念館には、一階の土間や座敷を中心に、不器男の俳句に関する資料や日記帳、直筆の短冊など、ゆかりの品々が展示されている。

代表作家として活躍した、俳誌『天の川』や、『ホトトギス』に始めて掲載され、高浜虚子が鑑賞した句「あなたなる夜雨の葛のあなたかな」に関する記述もあり、当時に思いを馳せる。

 芝家では、度々句座が開かれており、当時の句座の資料には、家族それぞれの俳号も載せられている。父・来三郎(号 蜻州) 兄・悌吉(号 王国洞) 兄嫁・梅子(号 楳子) 姉・妙(号 蘭香女) 兄・馨三(号 豺腸子)などを、興味深く拝見する。

 不器男は俳号ではなく、「不器男」の命名は、『論語』の「子曰、君子不器」(子曰く、君子は器ならず)によるものだと、記念館の担当者から説明を受ける。

昭和三年不器男は、太宰文江と結婚した。庭先で撮影された、紋付き袴の新郎と、引き振袖に角隠しの新婦の写真にも目を留める。

 昭和五年二月二十四日、不器男は病魔に侵され、永眠。享年二十六。

 松野町では、早世した俳人芝不器男をしのび、俳句大会が開催されている。六十四回目となる今年の大会では、愛媛大学の青木亮人氏の「芝不器男の余白と緩急の凄さ」と題した講演が行われた。

 その時の資料から、不器男の句のいくつかを紹介してみたい。

◆天才の余韻◆

永き日のにはとり柵を越えにけり

人入つて門のこりたる暮春かな

春の月砂絵の童らにさしそめぬ

◆表現の余白、緩急◆

ふるさとや石垣歯朶に春の月

昼ながら杉に月ある河鹿かな

寒鴉己が影の上におりたちぬ

◆余韻、緩急、余白◆

夕釣や蛇のひきゆく水脈あかり

 『天の川』で活躍し、『ホトトギス』でも注目された、句歴四年の不器男の俳句を、今でも新しいと感じるのは、私だけだろうか。

   あなたなる夜雨の葛のあなたかな  不器男


『ホトトギス』に初めて掲載され、「この句は作者が仙台にはるばる着いて、その道途を顧み、あなたなる、まず白河あたりであろうか、そこで眺めた夜雨の中の葛を心に浮かべ、さらにそのあなたに故国伊予を思う、あたかも絵巻物の表現をとったのである。」と高浜虚子の名鑑賞で、一躍有名になった。



井手の里        森田 もきち               2018年5月

 京都の桜の穴場を探していると、JR奈良線奈良駅の五つ手前の玉水駅を下り、井手の里を一望できる高台にある地蔵禅院の絢爛な枝垂れ桜が眼に留まりました。京都府の天然記念物に指定されており、京都円山公園の枝垂れ桜の兄弟木に当たるとのことです。崖の上に鐘楼があり、そこから枝垂れ桜が下方に崖に沿い枝を広げていました

  鐘の鳴る崖よりしだれ桜かな   もきち

 井手の里は、奈良時代万葉集の撰者の一人であった左大臣橘諸兄が治め別荘のあった地で、井手の里を愛した橘諸兄は玉川の堤に美しい山吹を植えました。また古来より蛙の名所として知られ、井手を詠んだ和歌の中でも蛙に関するものは八十三首に及び、鴨長明の無名抄にも記されています。このように井手の里は古来ヤマブキとカワズの名所として知られ、歌枕として多くの和歌に詠まれました。

 里を流れる井手の玉川は、木津川の支流で両側の桜は桜の名所として知られ、古来多くの歌に詠まれた日本六玉川の一つとも言われています。堤には三々五々歌碑が立ち、詠み人としては紀貫之、後鳥羽院、藤原俊成、定家など、源実朝の名前もありました。因みに八王子が故郷の私も、小学校時代遊んだ多摩川が調布(砧)の玉川として六玉川の一つだということを初めて知りました。

  花の雲井手玉川の歌碑巡り    もきち


古典を読む   長谷川妙好              2018年4月

 子育て中に友人達と古典を読み始めて四十年近くになる。最初は子供の教育に役立つかもと思い遠山啓先生の水道方式の本などを読み始めたが、そのうち古典を読もうと言うことになった。大学時代に源氏物語を読み通さなかった悔いが残っていたからである。

 一か月に一度集まって、子供が幼稚園に行っている間に源氏物語を読み進めた。子供の発熱、友の転勤等なかなか進まなかった。結局十年以上かかって五十四帖をやっと読み終えた。まだまだ読みきったという気がしなかったので二回目に挑戦した。二回り読み通すのにゆうに二十年以上はかかったと思う。

 そのころにはすでに子供の手は離れていたが親の介護等新たな問題が出てきた。それでも枕草子、徒然草、方丈記と読み進めた。今は平家物語に挑戦している。

現在は新たな問題として互いの病気、不調、連れ合いの病気等出てきたが何とか細々と続けている。古典に触れ続けたこともさることながら、四十年近い友との信頼関係はなにものにも代え難い宝物となっている。

 昨年からそれまで全く興味のなかった俳句を晩学の身で始めた。ネット検索をしていぶきネット句会に入れていただいた。古典を読み続けてきたからといって歴史的仮名遣いや古文法が出来ているわけじゃない。毎回投句するたび冷や汗の連続である。毎回丁寧に添削していただいて本当に感謝している。

 平家物語を読んでいると、十三世紀のあのころも二十一世紀の今も人は争い、結局賢くなっていないなと痛感する。


 

 俳句と私     野上千俊           2018年3月

 私が俳句に興味を感じたのは五十年以上も昔で高校二年の時でした。古文担当の教師から芭蕉の「荒海や」の句や蕪村の「菜の花や」の句を例に「わずか十七の文字で大宇宙を描写している、これは究極の芸術だ。」と聞いた時です。

 両俳人の句に関心を持ったもののこの時点では自ら句を詠む気はありませんでした。ところが大学二年の冬に事情が変わりました。

 うっすらと雪が残る朝にのろのろと街を走る車を眺めていると突然「雪景色初めて通る乳母車」が頭に浮かび、この句を面白半分で毎日新聞に投句したところ掲載されました。  これに意を強くして作句に挑みましたが一向に句ができずいつしか俳句への関心も消えてしまいました。

 次に句を詠もうと思ったのは三年前で、何かゴルフ以外の趣味をと考えた結果でした。詠むには勉強が必要と思いNHK学園の俳句通信講座を受講しました。半年間基本を学んだ後、一年弱入門コースで投句の添削指導を受けました。しかし、ゴルフ中に右手首を骨折し文字が書けなくなり、学園にインターネットでの投句を相談するも無理と分かり、やむなく受講継続を断念しました。この講座において添削していただいた句の中で「母逝きし日に木犀のはらはらと」が気に入っています。

 右手首の事情からネットでの投句・添削が可能なところを探しました。そんな時伊吹嶺のホームページを見て直ちに加入をお願いしました。今月で入会後一年が経過しますが、この間添削を通して丁寧に指導していただき感謝の連続です。添削いただいた句で一番の気に入りは「夕映えを過ぎる白鷺朱に染まる」です。竜田川を飛び立った白鷺が夕日を浴び赤く輝いていた光景が思い出されます。

 これからも何とか頑張って投句を続けますので添削をよろしくお願いいたします。




春の月     川崎みちこ    2018年1月

 まだ新芽の伸び始めていない早春の夕暮れ、裏道を車で走って帰るととても大きな月を見ることがあります。薄いクリーム色の大きな月が目前の藪の中から昇ってくるのを見ると手を伸ばせば触れることが出来そうな気がしてきます。多分浅い靄がかかっていてそれがレンズの役目をして大きく見えるのだろうと思います。

  外にも出よ触るるばかりに春の月 中村汀女 

この句はこのような月を見たときのものなのでしょう。

 夏の星

 若いころ燕岳に登った時、山腹の山小屋で満点の星空は圧巻でした。山小屋の屋根と周りの木々に囲まれた狭い空に大粒の星がぎっしりと詰まっていてうす赤色、ほの白いもの、青白く光るものなどさまざまな光を放って輝いているのです。屋根の上に登って手を伸ばしたら大きな星がつかめそうな気がしました。

 秋の雲

 秋の良く晴れた日に山の中腹あたりを歩いていて、少し疲れて山小屋の縁先に腰かけて見上げる空、真っ青な空に白い雲がゆっくりとうごいて、目の前の色づき始めた木々の上をかすめるように行くとき、その雲に手が届くほどに感じるときです。こんな雲を見ていると心地よい幸せに包まれてゆくような気がします。

 山小屋は手の届くほど鰯雲   川崎みちこ

 砂漠の星

 初日の出を見ようと真っ暗な砂漠の中に案内された時のこと、朝の日が昇る前のひとときを大きな満点の星空を見上げるとき、計り知れない神秘に包まれているような気持になります。空に透明な大巨大なお椀のようなものが被さっていて、そこに無数の小さな星が巨大な半円を描いて隙間がないほどに輝いているのです。地球が丸いということを実感するひと時です。

 宇宙はこんなにも広くあまたの星があって地球はそれらに包まれているのだということ、この感動をどのように表現したら的確なのか、言葉が見当たりません。

 以上、私の数少ない経験の中から取り留めのないことを書かせていただきました。読んでいただけたら幸いです。


思わぬ発見     安藤一紀    2018年1月

吟行予想だにしなかった「思わぬ発見」をする。それが実に面白く、タイミングよく言葉を見つけ俳句となって選を受けることもある。
十二月最初の吟行をネット仲間と行うことができた。その時の思わぬ発見を羅列してこの吟行を紹介します。その日は、名古屋市中心部の「鶴舞公園」から東隣りの「名古屋工業大学」「郡道」の四人の吟行。キーワードは十二月、公園、大学構内、旧街道。公園の名称は「つるま」となっているが、「つるまい」と呼ぶ人も多いとか。開設以来110年の歴史を持ち、戦後に進駐軍の接収にあった暗い時期を除き、緑豊かな憩いの場、スポーツやレクリエーションの場所として、広く市民に親しまれ俳句にも詠われてきた。吟行の集合場所が鶴舞公園の図書館であったので、温かい図書館で一、二句作ることを目論んで定刻一時間前に到着する。ところが、図書館は休館日。時雨雲の下、兎にも角にも一句と玄関前に佇んで付近を見渡す。すると、今まで気が付かなかった目前の茂みに等身大の老人座像が目に止る。風化が進んで側面の解説が読み辛いが、目元が優しく凛凛しいお顔で無性に親しみを感じる。石像は、日本で最初の理学博士伊藤圭介で名古屋市が誇る偉大な人物だったことが解る。

落葉積む翁坐像の膝の上    和嗣

園内には有形文化財も多く、その一つ「普選記念壇」が図書館の直ぐ傍にある。日当たりのよい階段状の野外劇場で、普段は将棋愛好家が駒を持ち寄って「少年の秘密基地的特別な場所」となっていた。吟行に来て見ると、将棋指しの姿は無く、麻雀に興ずる高齢者が囲む三卓と、後ろで黙って観戦する同年輩ばかりで「唖然」とする。

翁らの野外麻雀冬うらら  一紀

公園の片隅にひっそりと建つ像のない異様な台座(構造物)がある。説明書きにより、名古屋出身の内閣総理大臣加藤高明の銅像があったが、供出され台座だけが残ったものだと解る。

供出の像無き台座冷まじき   一紀

台座の場所からボート遊びの出来る竜ケ池が見える。近づくと周辺で巷で話題の「ポケモンGO」により、訪れた大勢の異様な行列に出くわし、「どっきり」。公園散策を譲り、大学構内、郡道へと吟行場所を移した。 


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