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いぶきネットの四季


 いつも伊吹嶺HPを閲覧していただきありがとうございます。

 このコーナーは、令和3年1月からインターネット部員が行った吟行を俳句と写真を添えて紹介してきました。
 令和6年からはそれを改め、いぶきネット句会員の吟行や俳句の周辺、自由な話題を文章にしたものを掲載していきます。皆様、閲覧をよろしくお願いいたします。閲覧していただいて、俳句への興味関心がさらに高まるならば幸いです。   インターネット部長  新井酔雪

・令和6年~:いぶきネット句会員の吟行記や随筆
・令和3年~5年:インターネット部員の吟行記
・平成24年~29年:伊吹嶺の師である沢木欣一先生と細見綾子先生
           伊吹嶺創刊者である栗田やすし先生の3名の俳句に関する随筆


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令和6年5月

  ホーチミン

 コロナ禍前の話で恐縮ですが、記憶に残る旅として紹介させていただきます。セントレアからベトナム航空直行便で約6時間、ホーチミンへ。乗務員さんはほとんどベトナムの方のように見えたが、日本語も達者なようでひとまず安心。機内食は薄味のベトナム料理?らしく高齢の夫婦も満足。
 ホーチミン市は南部に位置しベトナム最大の商業都市。1975年のベトナム戦争終結まではサイゴンと呼ばれ、南ベトナムの首都。かつてのフランス統治下の影響を受け「東洋のパリ」と呼ばれる街並みと経済成長での高層ビル、雑多なバイク渋滞などが混在する。

 2日目ホーチミン市内観光(統一会堂〜サイゴン大教会〜

中央郵便局〜ベンタイン市場〜ティエンハウ廟)街には人が
溢れ、車よりバイク天下の道路。日本製?バイクに4人乗り   越南へ先づ機内食うろこ雲 みつ子
まで認められているようで市民の大切な足。店舗、ホテル、
レストラン等は勤労者で溢れ、人手不足で少数精鋭を求められる日本と比べて活気がある。ホーチミンで「元気」貰ってきた。食事は中華よりあっさり、薄口で堪能。そして日本の女性一人旅が多いのにびっくり。ベトナムはもう、女一人旅が出来る観光地になっていた。雨季のスコールは大したことなく夕立程度で、すぐ止んでしまうし、雨の降っている時間を上手く利用して博物館見学やティタイムに当てられる等、卒のない日程が組まれていた。

     
     旗なびく統一会堂天高し みつ子 
  スコールはスイーツ付のティタイム みつ子

  
   宵闇を照らすライダー勇ましき みつ子      ベンタイン市場の活気秋の宵 みつ子

 最終日メコン川・ミトー観光〜フットマッサージ〜 水上人形劇鑑賞〜 空港へ 昼食は ミトーで「エレファントイヤーフィッシュ」の唐揚げを春巻で巻いて。 往路フライトは 7割乗車でした が帰路は満席。半分程度はベトナム人で、勤労や研修ビザでの来日のようでした。(伊藤みつ子)

     
   
空澄みて波打つ赤きメコン河 みつ子    トロピカルフルーツ三昧秋うらら みつ子

      
   
エレファントイヤーフィッシュの姿揚げ      コミカルな伝統水上人形劇


令和6年4月

  俳句の背景

  
野水仙群れてダム湖へなだれ咲く  もきち

 コロナ禍による旅行の自粛を解放5年ぶりに再開。車を止めたので各駅停車でのんびりと房総半島を一周してきました。見返り美人図で名高い菱川師宣の生地である鋸南町は、水仙の群生地として知られ、江戸時代には江戸の武家屋敷や町家に売られ、「元名水仙」と呼ばれ親しまれてきました。町内には江月水仙ロード、をくずれ水仙郷、佐久間ダム湖親水公園の三大群生地があり、今回は佐久間ダム湖親水公園に行きました。親水公園は農業用ダムとして大崩地区に造られた佐久間ダム湖の湖畔に整備され、水仙はダムの法面に植栽、湖畔の斜面いっぱいに咲き誇り、甘い香りに身も心も包まれました。

  声揃へ走る渚や寒稽古       もきち

 安房鴨川温泉に1泊、翌朝女房と海岸を散策していると、渚をランニングの男女の高校生たちを目にし、思わず1句浮かびました。

  見はるかす黄一色や花菜畑     もきち

 安房鴨川駅から徒歩で約20数分の「菜な畑ロード」までウォーキング。約1万坪の田畑を黄色い菜の花が埋め尽くす早春の風物詩を表現するのに多言は不要、「黄一色」に尽きます。摘んだ菜の花を家に飾り旅の思い出にしました。(森田もきち)


令和6年3月

  あねかえし

 今日は5月9日。ラジオ体操を終えて、いつものようにローカルニュースを流しながら朝食の準備をしていたら、
「下呂市萩原地区の伝統菓子『あねかえし』の発売が今日から始まりました」
との言葉が耳にとまった。(萩原地区だって?)と思わずつぶやいた。
 その日、私たちは名古屋からJRの特急ひだに乗って飛騨萩原まで行き、馬瀬川温泉に泊まることにしていた。1泊2日の小旅行である。宿の車が駅まで迎えに来てくれる。
 ニュースによれば、『あねかえし』とは蒸した米粉に蓬をまぜた生地で餡を包んだ萩原町の伝統和菓子であり、生地をひっくり返してこねて作る。「こねる」ことを地元の言葉で「あねる」と言うので『あねかえし』というとのこと。蓬の摘めるこの季節限定の菓子なのだそうだ。朝食時にこの話を夫に伝えたら、
「じゃあ帰りにでも寄って買ってこよう。これも何かの縁だから」
ということになった。
 飛騨萩原駅に着いて列車を降りた時には本降りの雨。駅前で迎えの車に乗った。馬瀬川沿いの道を走って『美輝の里』に到着。ここは寝風呂やジャグジーはもちろん、サウナ、打たせ湯、露天風呂など15種の風呂の楽しめる温浴施設でもある。今は亡き母を連れて息子と一緒に車で来た時もあった。今回は列車の旅を楽しむことにしたのだ。
 激しく降っていた雨も夜半には上がり、部屋の窓からは満天の星空が眺められた。普段住んでいる名古屋では、人工の光に遮られて夜空に星は数えるほどしか見られない。頭上には壮大な宇宙が広がっていることに気付かずに暮しているのだ。だから、天の川を含む星空の輝きに圧倒されてしまった。しかも、河鹿の鳴き声も聞こえてくる・・・

         
闇夜透くせせらぎ淡し河鹿笛  妙好
         
天頂へ沸き立つ夏の天の川   妙好


 翌日は宿の車で飛騨萩原駅まで送ってもらった。昔懐かしい木造駅舎である。この地は『飛騨街道萩原宿』と言い、江戸時代は天領として栄えたところだそうだ。
 駅近くの高台にある諏訪神社はかつての城趾で、石垣や堀の一部が今でも残っている。境内では地元の人々がゲートボールを楽しんでいた。騒がしい本殿前を避けて、木立に囲まれた小さな社のある場所に行き、石に腰を下ろしてお握りを頬張った。
 その後、飛騨街道を歩いて和菓子屋『かつぶん』へ。近づくと、『新草あねかえし』と書かれた木組みの看板が見えてきた。見知らぬ町でふと親しい人に出会ったような懐かしさがこみ上げてきた。
 しかし、近づくと看板の左下隅に「売り切れ」の文字。思わず夫と顔を見あわせた。
 だが、店の前には人影がある。何やら紙包みを持った人もいる。うろうろしていると、店の人が見慣れぬ私たちに声をかけてくれた。そこで、こう話しかけた。
「私たち名古屋から来ました。出かけて来る前にラジオで萩原の『あねかえし』のことが話題になっていたので寄ったのですが」
「すみません。今日の分は予約で売り切れてしまいました」
「では他に売っているところはありませんか。この機会に飛騨萩原の名物を味わってみたいと思ったものですから」
「この近くではうちしか作っていないので・・・」
「そうですか。残念ですが仕方ないですね」
 その時である。店の前に停まっていた車の中から若い女性が降りてきた。そして、
「もしよかったらこれどうぞ」
と紙包みを差し出してくれたのだ。
「これは自分の家用のあねかえしで、箱入りじゃないんですけれど」
 思いがけない言葉に私は口ごもってしまった。
「でも・・・」
「私たちは地元ですから、またの日に買えますから。どうぞ・・・」
 車の中にいくつもの箱が積んであるのが目に入った。
「お使い物にする分はここに取ってありますのでだいじょうぶです」
 予約でまとめて買ってあちこちに配るらしい。自分の家用に買ったひと包みを譲ってくれるようだ。ありがたい申し出であった。今日手に入らなければ私たちは『あねかえし』のなんたるかも知らずに終わってしまう。(おそらく一生食べることもないだろう・・・)
「じゃあお言葉に甘えさせていただきます。おいくらですか」
 ところが、その女性はお代を受け取ろうとなさらない。運転席のご主人らしき方もその言動に頷いておられる。
「すみません。ではお名刺をいただけますか。名古屋に帰ってからお礼をしたいので」
「いいえ、お気遣いなさらずに。どうぞよい旅をなさってください」
 さわやかな笑みを残して車で去って行かれた。
 帰りの特急ひだの座席に腰を下ろし、暮れゆく景色を眺めながら頂いた包みを開いた。それは思ったより小ぶりの、二つ折りにした生地に餡を包んだ上品なお菓子であった。
 口に含むとさわやかな蓬の香りが広がった。(長谷川妙好)


令和6年2月

  一年を振り返って

 俳句と出会ったのは小学校の授業だったかと記憶している。高校では古典文学を学習したのであるが、全く授業についていけず赤座布団が定位置だった。ラグビーボールを追いかけてグランドを走り回り、語学的・文学的素養とは無縁の毎日を送っていたのである。時は流れ所帯を持ったのを契機に、飛騨高山に地縁を得た。妻の実家である。書棚には能村登四郎全句集、林翔「光年」、歳時記などの俳句に関わる書物が並んでいた。母が俳壇「沖」の会員として俳句に親しんでいたのである。一人居となった母の様子を伺いつつ月一のペースで高山に通ううちに、私は自ずとこれらの俳句本をつまみ読みするようになっていた。文才の乏しい私にとって俳句は意味難解の短詩なのだが時間潰しにはなった。そんな私でも母の残した句帳を紐解けば沁み入るように胸に迫るのである。母の性格や飛騨の冬路を老身一つで生きる暮らし振りを知っているからであろうか。心中の襞を推し量り目頭が熱くなった。自分もいつの日か枯淡の境地を詠う俳句を作れるようになりたいと思うようになったのである。母の俳句をここに紹介する。
   初夢や亡夫との旅のつづきをり    美知
   ひとつづつ灯の消へゆきて虫の国   美知
   風邪ひくなはなれ住む子の便りかな  美知
   深々と北向く窓の雪明り       美知


 俳句を始めるに際し、伊吹嶺を選んだ理由は、中部地区に拠点があり、句会が多彩で、インターネット部が存在したこと。余生の過ごし方を模索しながら、ボケ防止にも役立つと思い令和5年1月に入会し、いぶきインターネット句会に所属した。70の手習いである。入会に際しては瀬戸市の矢野孝子さんに随分世話になり、この場を借りてお礼申し上げる。
 まず、俳句の「俳」について調べてみた。「たわむれ・わざおぎ。道化・曲芸」とある。ならば肩肘を張らず、気楽に言葉に遊ぶことが俳句の本意だと早合点。適当に言葉を選び組み合わせ、1つ季語を入れて完成させるものと、安直に考えてしまった。当初は三段切れ、「や切れ」と「けり」の併用、文語文法の誤用などミスの連続だった。ネット句会においてミスはコメント欄に文字で指摘訂正され、それを目視できるのが良い。俳句初心者には最良のシステムだと思う。俳句にも野球やマージャンのように一定のルールが存在する。ルールをわきまえなければ、「俳」に成らないのだ。俳句の基本は新井酔雪部長から4か月に渡り丁寧にご指導していただいた。それが少しずつ骨格、礎と成りつつあるのではないかと思っている。心から感謝を申し上げる。
 11月に八丁味噌蔵と岡崎公園のオフ句会に出席させていただき、新井部長やネットの皆様に初めてお会いでき、河原地主宰や栗田先生にも面通しができ、とても有意義な1日となった。河原地主宰の冒頭の挨拶の中に句の評価ポイントとして「物事をしっかりと写生できているか、その中に如何に気持ちを乗せているか」という言葉が有った。作句上の核心を突く言葉だと思いました。「即物具象」は概念として捉えてみるが、禅問答のようで、難解である。河原地主宰の言葉は「即物具象」をかみ砕いて解りやすく言い換えられた言葉だと思えるのだが、間違いだろうか。客観写生の中にどうやって気持ちを注入するか。ハードルは高い。近々の後期高齢者に乞うご指導!(兼松啓広)

  高山を少し紹介。

  
  飛騨国分寺大銀杏:国の天然記念物 樹齢:約1250年以上 樹高:約28m 樹周:約10

   匂ひたつ千古の銀杏千々散らふ  啓広
   黄落の音やはらかや大銀杏    啓広

        藤匂ふ町家ゆかしき飛騨格子  啓
  高山上三之町 久田屋:郷土料理店 軒庇の藤蔓


令和6年1月

  憧れの地 吉野

 夏休みの終り頃、妻が友達と2泊3日の旅行に行くというので、私も一人旅をしようと思い立った。頭に浮かんだのは憧れの地、吉野。吉野と言えば、歴史のある聖地、修験道、役行者、金峯山寺、大海人皇子、後醍醐天皇、千本桜、吉野葛。

 名古屋から近鉄に乗り吉野へ。目指すは金峯山寺。
 近鉄吉野線は吉野川沿いを走る。車窓から吉野川を見ると多くの鮎釣りがいた。時々釣り人が竿を立てて、釣った鮎を寄せる姿が見られた。ふと父を思い出した。父は鮎釣りが好きだった。「お前にも鮎釣りを教えてやる」と言っていたが、その約束は果たせず、今は鬼籍に入っている。

   囮鮎流す糸の張り吉野川  酔雪2句
   
釣竿の撓る光や鮎の川

 吉野駅を降りて南へ200m。ロープウェイに乗る。下を見ると、ゴンドラの小さな影が青い山に張り付き、滑るように斜面を上っていた。春なら下は山桜でいっぱいであっただろう。もっと景色を楽しみたかったが、5分もしないうちに吉野山駅に着いてしまった。

 降りるとミンミンゼミの声がした。岡崎にはミンミンゼミはいない。もう一度聞こうと立ち止まっていたが、声はなかった。金峯山寺に向かって歩く。案内図を見ると600mほどだ。

 吉野山駅を出てしばらく歩くと金峯山寺の総門である黒門があり、そこから旅館、飲食店、みやげ物店などの並ぶ上り坂の参道を行くと、途中に大きな銅鳥居(かねのとりい)があった。扁額には発心門と書いてあり重々しく迫力があった。この鳥居をくぐる者の覚悟を問うているような感じがした。

 そして、吉野山駅から10分ほどのところに仁王門。残念なことにその仁王門は修理中。その先の小高くなった敷地に本堂(蔵王堂)が建っていた。蔵王堂の前に立つと、その大きさに圧倒された。東大寺の大仏殿に次ぐ大きさだとか。

 蔵王堂の中に入る。中は涼しく香の匂いが立ち込めていた。内陣にはご本尊の金剛蔵王大権現3体を納めた厨子があった。本尊は秘仏で、決められた日にしか公開されない。しかし、脇に本尊の写真が掲示してあった。青い肌をした怖い顔の仏様で、高さは7mぐらい。実物はかなりの迫力だろう。

 蔵王堂を出ると、ミンミンゼミの声。見晴らしの良い所に移り、周りの山々を見る。ミンミンゼミの声は山の中腹あたりからしていた。(新井酔雪)


   本殿が我に被さる蝉の声    酔雪2句
   みんみんの峪の深さや蔵王堂


     

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