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いぶきネットの四季


 いつも伊吹嶺HPを閲覧していただきありがとうございます。

 このコーナーは、令和3年1月からインターネット部員が行った吟行を俳句と写真を添えて紹介してきました。
 令和6年からはそれを改め、いぶきネット句会員の吟行や俳句の周辺、自由な話題を文章にしたものを掲載していきます。皆様、閲覧をよろしくお願いいたします。閲覧していただいて、俳句への興味関心がさらに高まるならば幸いです。   インターネット部長  新井酔雪

・令和6年~:いぶきネット句会員の吟行記や随筆
・令和3年~5年:インターネット部員の吟行記
・平成24年~29年:伊吹嶺の師である沢木欣一先生と細見綾子先生
           伊吹嶺創刊者である栗田やすし先生の3名の俳句に関する随筆


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令和8年7月

  今年も夏がやってきた

 
今年も夏がやってきた。
 昭和12年7月、盧溝橋での衝突を発端とする日中戦争が始まった。名古屋の第三師団は8月23日上海の郊外に上陸。第三師団の9月末までの戦死者は1080名、戦傷者3589名と伝えられる。
 私の父の兄はこの戦闘で戦死した。出兵直前の演習を綴った伯父の俳句が私の手元にある。

  七月二十三日在郷軍人千種連合分舎耐熱行軍演習

   集合
  
はひ出でし南瓜のつるや明初める
  樹々の風教官来るや夏の朝
  当番の雑嚢配る明易し


   出発
  
街道やあらぬ所の青き柿

   実弾射撃
  
白々と雲の峰ある的場かな
  砂礫降る観的壕の暑さかな
  交代の兵駆け行くや木下闇
  片蔭に積まれし弾丸や雲の峰 *弾丸:<タマ>とルビ
  谷沿ひに伝令来るや雲の峰


   昼休み
  
残飯の流れ沈みつ夏の川
  料理屑流れて来るや夏の水
  用水の水満々とつばくらめ
  青すすき兵住む軒に頭刈る
  糸とんぼ迷ひ込みたる葭簀茶屋


   戦闘行軍
  
枝道のつくる所や雲の峰
  日盛りや薊を折つて行く子供
  竹藪に立ちし埃や花あざみ
  水錆の浮きし青田や雲の峰
  水錆の畦溢るるや田草取
  捨苗の道々乾く暑さかな
  炎天や砂上に伏せし兵の列
  標柱や兵皆仰ぐ雲の峰
  尖兵の列びし銃や青すすき
  赤旗の水に沈みぬ田草取

  
水鳥のつと飛立ちし青田かな

   小休止
  
炎天の虻恐るるや叉銃哨
  日盛りの樹叢に立ちし保哨かな


   帰路
  
行軍の列に舞ひ込む蛍かな
  赤青のシグナル磴や夏の月
  山の家の破れ垣根や夏の月
  尾根を越す雲一片や夏の月


   解散
  
夏の月東を拝むさわやかに

  船橋光秋上等兵
 昭和十二年八月支那事変出兵
 九月一日上海除宅にて戦死二十三才

 父のもう一人の兄は終戦直前にフィリピンの孤島で戦死している。父は無事帰還して今の私がいる。(松井徒歩)

  
父伯父の半紙の句帳お風入  徒歩3句
  箱庭や地雷は多分ないだらう
  八月や大本営といふ記憶



令和8年6月

  伊賀市 上野公園(上野城、芭蕉記念館、俳聖殿)

 令和8年2月28日、三重県伊賀市の上野城下町の上野公園を訪れた。まずは芭蕉翁記念館へ行く。入口正面に大きな旅姿の芭蕉翁が迎えてくれた。上野市駅前に現在建てられている像の原型だ。
 展示室に入ると―「俳聖」になった芭蕉―という企画展が開催中であった。芭蕉はいくつかの俳号があり、その変遷が順にわかりやすく展示されていた。少しご紹介する。
 1644年に伊賀に生まれ長じて、「宗房」 (むねふさ、そうぼう)に始まり、この道で生きる決意をして江戸に立ち、「桃青」、そして終の住処となる深川に移り、「芭蕉(ばせを) 」を併用。
 ここから、新しき境地を求めての旅へ出る。1684年「野ざらし紀行」1689年「奥の細道」の旅に出る。5年後大坂でなくなる。享年51歳。芭蕉7回忌の頃から、俳聖という呼称が広がった。
 こうした資料は真筆を含めてデジタル化されている。「秘蔵の国 伊賀」と検索することでスマホ、パソコンから見ることができる。
 記念館を出て3分ほど歩くと松尾芭蕉が旅に出た姿をイメージした八角堂の俳聖殿に着く。中を覗くと伊賀焼の陶製の芭蕉翁坐像が暗闇にうっすらと見えた。
 俳聖殿を出るとすぐに威容を誇る伊賀上野城が姿を現す。白い城壁は、別名「白鳳城」と呼ばれるゆえんだ。お城を入るとすぐ深さ9メートルもある「忍び井戸」があった。頑丈な金網が張られていた。伊賀流忍者の里であれば納得である。また、城作りの名人藤堂高虎による城なので防御は鉄壁だ。城の外に出て日本一高いとされる「高石垣」の長い武者返しにも守りの堅さを思った。
 公園を出て、伊賀伝統伝承館「伊賀くみひも組匠の里(くにのさと)へ行った。体験コーナーもあった。雛祭を前に帯締などの和装小物の展示のなかで、豊かな色彩のお雛様につい長居してしまった。
 上野公園の周辺には芭蕉生家がある。次回はぜひ訪れたいところだ。周辺には芭蕉が好んだとされる和菓子、伊賀焼、伊賀牛の店などがあり楽しめる。(恒川知子)

   
やはらかな芭蕉の筆や春灯  知子5句
   雲晴れて俳聖殿に雀の子
   陶ぬくし暗みに御座す芭蕉像
   立ち竦む伊賀の城壁濠青し
   目鼻なき組紐の雛伊賀の里


   


令和8年5月

  木曽福島

 木曽路の山あいに抱かれた木曽福島の駅に降り立つと、人影はまばらで、駅前には数軒の店があるばかりである。時間さえもゆるやかに流れているかのようだ。
 駅前から続く緩やかな坂道を下ると、谷を渡る風が頬をかすめ、その風に導かれるように歩いていくと、木曽川に沿って白壁の家々や古い商家がひっそりと並んでいる。そして、幾重にも重なる山々が谷の奥へと続いている。その景色を前にすると、旅の時間がふっと緩み、心が静かにほどけて、やがて「福島関所」の石垣が姿を見せる。
 「入り鉄砲に出女」と恐れられた厳しい取り締まりの気配が、今もどこかに残っているようだ。資料館の薄暗い展示室に足を踏み入れると、昔の旅人の息遣いがふっと近づいてくる。峠越えの緊張、荷物の重さ、道中の不安、そのすべてが時を越えてそっと寄り添ってくる。
 時代をさかのぼれば、この地は木曽義仲ゆかりの地でもある。山深い木曽に根を張り、時代を動かした武将の気配が、今なお静かに息づいているようだ。
 さらに歩けば、高瀬家の重厚な門が目に入る。江戸の商家の空気がそのまま残り、土間の匂いがどこか懐かしい。島崎藤村の姉・園が嫁いだ家でもあり、藤村ゆかりの資料が静かに並ぶ。展望台に立てば、木曽谷の町並みが一望できる。
 良質な水に恵まれたこの地では酒造りも盛んで、七笑酒造をはじめとする蔵元が、山の恵みを今に伝えている。四月の蔵開きには、土地の空気と水が醸す香りが町に満ちる。
 木曽福島の旅は、派手さとは無縁だ。歴史ある関所や町家、豊かな山々と清らかな水に育まれた、そうしたさまざまな魅力がやさしく調和し、心安らぐ町である。ゆっくりと歩きながら、その奥深い味わいを感じてみたくなる場所である。(玉井美智子)

   
春山の色あはあはと木曾の酒      美智子
   やまぶきや義仲墓所に伊那の酒    美智子



令和8年4月

  松阪周辺

 松阪に行ったことがないという句友もいて、桜の咲く頃に是非行ってみようということになりました。JRのお得な切符、土日祝日のみ利用可の青空フリー切符を使い、5人で勇んで出掛けました。
 名古屋駅に着いて、乗り換えのために階段を降りると、たくさんの駅員や警備員がいて、何か物々しい様子です。「何か事件でもあったのかねえ」と言いながら、快速みえ号に乗るホームに上がっていくと、若い外国人や日本人が各乗車口に4列になって並んでいて、ホームには人が溢れていました。「ええ!こんなはずでは・・」と内心思いながら、近くの人に伺うと「今日は鈴鹿サーキットでF1日本GP決勝がある」とのこと。背中のリュックを胸元に回し、何とか後尾に並んだが、車内は学生時代の満員電車さながらの状態でした。その大集団は、臨時停車駅の「鈴鹿サーキット稲生駅」で下り、車内はガラガラになりましたが、松坂や伊勢に出掛ける際には、鈴鹿サーキットのレース情報を調べることも必要なのだと学びました。
 そんな大集団の中にいたせいか、松阪駅に降りたときには、駅周辺が閑散として、拍子抜けしました。まず、駅前の観光情報センターに寄り、松阪城址周辺の地図を求めました。センターでは丁寧な説明を頂き、「無料でガイドをしますのでいかがですか」と言っていただいたが、やんわりと断りました。5人で伊勢街道を西に向かい、豪商ポケットパークの来遠像の前で記念写真を撮りました。三越伊勢丹ホールディングスから寄贈されたライオン像で、背中に跨がると願いが叶うとされていますが、背中の温もりを掌に感じたまま、満足しました。近くの松阪もめん手織りセンターで、松阪もめんの機織りを見学し、買い物もしました。

 松阪城の築城は天正16年(1588)、豊臣秀吉より日野城6万石の蒲生氏郷が123千石を与えられました。氏郷は城下町としての発展を目指し、旧領の近江商人(日野商人)を町の中心部に呼び寄せ、日野町として楽市楽座を設けて、商都松阪の礎が築かれました。
 その中の一軒、木綿問屋として発展した旧長谷川治郎兵衛家を見学させてもらいました。増築・新築を繰り返しながら、大きな屋敷となり、国の重要文化財に指定され、現存する古い商家としては、国内ベスト10に入るとされています。長谷川家の主人は余暇には茶道や和歌・俳句などの文芸活動を嗜み、茶道の千宗室や国学者の本居宣長らに学びながら、彼らのスポンサーとして金銭的な支援を行っていたそうです。吟行当日は、長谷川邸の離れ座敷でお茶会があるということで、茶道の達人や和装の人がたくさん集まっていました。また、長谷川家の向かいには本居宣長旧宅跡があり、宣長とは交流も深まっていたであろうと推測されました。

 松阪城址は2日前より「さくらまつり」に入っており、満開の桜見学の人でたいへん賑わっていました。私たちは、高い立派な石垣を見上げつつ、天守台ではなく、本居宣長記念館に向かいました。本居宣長旧宅の2階は、宣長が53歳のときに改築、4畳半の書斎で「鈴屋」と名付けられました。勉強に疲れたら、鈴の音を聞いて、リフレッシュしたことが名前の由来だそうです。鈴屋に亡くなる72歳まで毎日登っていたという箱階段が置いてあり、勉学への執念が感じられました。記念館には遺族より寄贈された16千点の資料が収蔵され、中でも44巻の『古事記伝』の版木には目を見張るものがありました。

  
花はさくら、桜は、山桜の、葉あかくてりて、ほそきが、まばらにまじりて、
  花しげく咲たるは、又たぐふべき物もなく、うき世のものとは思はれず
  
                         (『玉勝間』「花のさだめ」)


 宣長は桜の中でも、とりわけ山桜を愛したとのこと。記念館を出るとそこには、赤く細い葉を付けた山桜が咲いていて、感慨深く感じました。(長崎マユミ)

     
宣長の好みし鈴や山桜    ひとみ
     春慶の田楽箱に春灯     純
     豪商の庭広々と楓の芽    みなみ
     鈴屋の二階明るし松の芯   マユミ
     鈴屋の庭をよぎれる初の蝶  一 古


    


令和8年3月

  近江の歌枕 醒ヶ井・己高山・塩津山

  醒ヶ井
 以前に歌枕としての「伊吹」を書いたときに、「霊力偉大な伊吹山の神が征伐に来た日本武尊を返り討ちにしてしまった」という話にふれていますが、その日本武尊が傷ついた身体を癒したのが「居覚めの清水」で、すなわち「醒ヶ井」の謂れであるとの伝承があります。

 
 むすぶ手ににごる心をすすぎなば浮世の夢やさめが井の水
         十六夜日記  阿仏尼(あぶつに)


 両手に掬った清らかな水で、迷いに濁った心を洗うことができるならば、儚いこの世への執着を断って醒ヶ井の名のように覚醒することができるだろうに。
 作者の阿仏尼は鎌倉中期の歌人。十代の失恋から衝動的に仏門に入ったと言われています。のちに藤原定家の息子である為家(ためいえ)と結ばれます(後妻?側室?)。
 為家の死後、正妻?前妻の子との遺産争いのために鎌倉まで行く道中で書かれたのが「十六夜日記」です。ちなみに、歌道の家としては正妻の子の家系が二条家、阿仏尼の子の家系が冷泉家となりました。「浮世の夢」にはそんな背景があったのかも知れません。
 醒ヶ井の地は古くから、東山道の宿駅として知られ、江戸期には中山道の宿場町となりました。多くの人がここを通り歌を残しています。有名なものを数首あげて置くことにします。

  
旅やどりゆめ醒ヶ井の方ほとり初音のたかし鶯の端     能因法師
  わくらばに行きて見てしか醒ヶ井の古き清水にやどる月影  源 実朝
  水上は清き流れの醒ヶ井に浮世の垢をすすぎてやみん    西行法師


 現代になってしまいますが

  
谷かげに残る紅葉美しく虹鱒おどる醒ヶ井の里

という、昭和天皇の御製もあります。

   
己高山

  
衣手に余呉の浦風さえさえてこだかみ山に雪ふりにけり
      金葉和歌集  源 頼綱


 衣の袖に余呉の湖から吹く風が冷え冷えと染みわたってくると思っていたら、己高山にはもう雪が降ってしまったのだなあ。
 己高山(こだかみやま)は長浜市木之本町にあります。標高922.6mとそれほど高くはありませんが、近江の国の鬼門にあたるところから、古く山岳信仰の霊場として栄えていました。己高山七ヵ寺の本坊であった鷄足寺を始めとする寺院跡等が残っています。余談ですが、己高山の登山口にあたる古橋は、関ヶ原の合戦に敗れた石田三成が隠れ潜んでいた所ですが、匿われていた家の婿が密告したために捉えられてしまいます。その後、入婿は冷遇されることとなり、古橋には婿入りするなとの言い伝えが残っているそうです。
 作者の源頼綱は清和源氏の嫡流、鬼退治で有名な源頼光の孫にあたります。摂津の国の多田に住んだので、摂津源氏、多田源氏と呼ばれ、頼綱みずから多田歌人と称することもあったようです。当時の有力歌人、能因法師や源俊頼などとも親交がありました。

  
楽浪(さざなみ)やこだかみ山に雲晴れてあしりの沖に月落ちにけり  俊恵法師

 己高山にかかっていた雲が晴れて、くっきりと顔を出した月が足里(あしり)の沖に沈んで行ってしまったなあ。 「さざ波」は淡海(おうみ)にかかる枕言葉、足里は当時の地名で古橋のあたり(鷄足寺周辺)ではないかとされています。己高山を詠んだ歌は「木高み」の連想からか風や雲などを詠むことが多いようです。
 作者の俊恵法師は源俊頼の息子で十代で父と死別し仏門に入りました。白川にあった自身の僧房に多くの歌人を集めて、しばしば、歌会、歌合せを行ったと伝わっています。また、歌論にも優れ、弟子の1人が歌論書「無名抄」を著した鴨長明でした。

   
塩津山

  
塩津山うち越え行けばわが乗れる馬そ爪づく家恋ふらしも
   万葉集巻三-365 笠朝臣金村(かさのあそみかなむら)


 塩津山を何とか越えて行くと、私の乗っている馬が躓いてしまう。どうやら今頃、家人が私のことを恋しがっているらしいよ。
 馬が躓いたのだから、家を恋しがっているのは馬ではないかと思うところですが、当時は馬が躓くのは家人が思っている徴だという俗信があったようです。
 塩津山は塩津港から、沓掛を通って敦賀へ向かって越えて往く山地の総称で、峠の名称から深坂越えとも呼ばれています。古代から敦賀は大陸との玄関口でもありました。都から北陸に向かうには、大津から湖西の沿岸を北上し、海津、大浦、塩津の湖北三津のいずれかに上陸して陸路を進むことになります。塩津湾は現在よりも大分深く入り込んでいて敦賀へは最短距離にありましたので、主要な街道となっていました。
 作者の笠金村は万葉集の主要な歌人の1人ですが、その割には経歴が分かっておらず、生没年不詳、官職歴不詳です。元正天皇、聖武天皇の行幸に随行して歌を詠んだことが知られています。

  知りぬらむゆききにならす塩津山世にふる道はからきものぞと  紫式部集 紫式部

 輿を舁く人夫達が「なほからき道なりや(やはりつらい道だなあ)」と言うのを聞いて、いつも行き来して慣れ親しんでいるはずの塩津山の道が辛いのと同じようにこの世の中を生きてゆくのも辛いものだと判ったことでしょう。
 塩津山の塩から、塩辛い、辛きを引き出し、世にふる(年を経る)と道を通る(経る)を掛けています。
 作者の紫式部は源氏物語の作者、時の関白、藤原道長とも親交があったと言われています。NHK大河ドラマ「光る君へ」でも描かれていましたが、この歌は父の藤原為時が越前守に任命され、一緒に付いて行った道中でのものです。式部24歳くらいの頃のことです。それにしては、「世の中は辛いものだと判ったことでしょう」、などと人生経験もさほどない未婚の娘にしては随分と上から目線ではないかという批判もあります。しかし、どうも作者の意図は掛け言葉を使った洒落た物言いの方にあったのではないかと思われます。(浜野秋麦)


令和8年2月

  弥勒寺の豆撒き

 名古屋では大須観音、笠寺観音など盛大な節分会が開催される寺がありますが、私は故郷の東海市の弥勒寺の豆撒きに参加しています。弥勒寺は小高い山の上にある知多四国霊場(知多四国めぐり)第83番の札所です。寺は西暦749年、行基によって開基されたという説、815年建立説があり、関ヶ原の戦いの前に本尊と仁王像を残して焼失、その後尾張二代藩主の寄進により再建されました。表門入口には大きな木製の仁王像があり、平安末期から鎌倉初期の仁王像と記録に残っているそうです。この仁王像が老朽化し、新しい仁王像が2005年の愛・地球博の折、市民パビリオン内で製作されました。仁王門を新しく建てて弥勒寺には新旧4体の仁王像があります。

 
仁王門をくぐり、木々の緑が豊かな緩やかな坂を上ると寺があり、善男善女が入口で並んでいます。豆撒き券(有料)を手に、順番を待ち、30人位ずつ廊下で輪袈裟をかけてもらい、入場します。ご祈祷の後、外にある「鬼」の看板に向って「鬼は~そと」、堂内に掲げてある「福」を描いた額に「福は~うち」を連呼し豆を撒きます。後列から頭上へ豆が飛んできて、時には髪に豆が飛び込んだり、襟首に入ってしまったり、賑やかで面白い光景となります。田舎風ではありますが、素朴でほのぼのとした豆撒きです。

 豆撒きの後、破魔矢とお札をいただき、空籤なしの籤引きがあります。一等は日本酒一升で、当たれば万々歳です。コロナ禍以前は、籤引きの後、広間で人参ご飯のお斎を振る舞ってもらいました。コロナ禍で一時豆撒き式は中止になりましたが、再開し、人参ご飯はパックで持ち帰りになりました。

 寺には丸太を藁で巻いて組んだ門が立ててあり、柊の小枝がぎっしりと挿してあるので自宅用に一本貰えます。また、近年は近くのコンビニが「恵方巻」を販売に来るので、時には土産に買って、さあ、明日から春になる!という気持ちで帰途につきます。

 今回豆撒きの文章を書くにあたり、母が詠んだ豆撒きの句を調べました。この場をお借りして、母の句も紹介させていただきます。
                     (伊藤範子)

   
齷齪と愚かに生きて豆を撒く   百合子
   節分会弥陀に預ける邪気一つ   百合子

   豆撒きて僅かに減りし身の穢れ  百合子
   鬼の面お多福の面追儺寺     範 子
   晴れ晴れと響く太鼓や節分会   範 子


  


令和8年1月

  鏡島弘法・小紅の渡し

 JR岐阜駅からバスに乗り15分、鏡島弘法前のバス停で降りる。バス停から2分で鏡島弘法。正式名称は瑞甲山乙津寺というが、鏡島弘法の方が通りがよい。
 この寺は行基菩薩が天平10(738)に草庵を開創して、自ら十一面千手観音像を彫刻して安置したときに始まる。その後、弘法大師が当地に滞在、寺を乙津寺と名づけ、七堂伽藍塔などを造営した。別名梅寺というのは、弘法大師が地面に挿した杖が梅の木となり、枝葉が出たという話が由来。毎月21日の縁日には、地元の多くの人々で賑わうという。

 着いてすぐに栗田やすし先生のお父様のお墓にお参りした。その後境内を見て回った。
 本尊の十一面千手観世音菩薩立像は国の重要文化財で、天平時代(700年代)に作られた。喜怒哀楽を表した頭上のお顔と千の苦難を救う手は、どんな悩みも受け止めてくれそうである。
 木造毘沙門天立像は、平安時代の中後期(900年代)の弘法大師の作と伝えられる。お顔は凛々しく、左手に古代中国の武器戟げきを持ち、右手は宝塔を持たずに腰に手をあてる鞍馬寺様式の像は全国的にも珍しい。
 木造韋駄天立像は鎌倉時代(1200年代)の作。日本では最古級で屈指の大きさを誇る。韋駄天は、お釈迦さまの遺骨を盗んだ鬼神を追いかけて取り戻した俊足。そして、お釈迦さまの食べ物を集めるために奔走した。お参りすると食べ物には困らないとのこと。
 大師堂の前には大念珠下がっていて、それを回してからお参りした。大師堂の南側に重軽石があり持ち上げてみた。願いが叶うときはすっと持ち上がり、そうでないときは重く感じるそうだ。
 新四国八十八ヶ所霊場は88体の石仏が並んでいて、指折り数えながら屋根付きの通路を渡った。
 最期に駐車場の所にある公民館前の塩谷鵜平句碑を見た。山茶花が咲く中、「曼殊沙華いよいよ長良川のいろ」と流れるような句碑の文字。この文字は師である河東碧梧桐の揮毫にあこがれてのこと。
 その他にも十二支守本尊、七福神、涅槃仏、弘法大師梅の杖などがあった。鏡島弘法は見所たくさんの寺だった。

 寺を後にして北側へ10分ほど歩くと、長良川の小紅の渡しに着く。渡し場には白旗(現在はインターフォン)が用意されていてその旗を振った。すると向こう岸の渡船小屋に待機していた船頭さんが舟に乗ってやってくる。そして、私たちがいる岸に舟を寄せた。長良川は鈍色。乗り込むと心配していた雨が降り始めた。(新井酔雪)

   
山茶花の散つてばかりや鵜平句碑  国枝隆生
   冬灯すお堂の闇に多聞天      安藤一紀
   鈴の緒の冬のしめりや観音堂    松原和嗣
   旗振れば船頭来たり冬の川     新井酔雪



     


令和7年12月

  源氏川のほとりに咲く、彼岸花の群生地 -常陸太田市新宿町-

 茨城県北部の山間に位置する常陸太田市。NHKの朝の連続ドラマ「ひよっこ」のロケ地にもなっています。
 その中心街近くを、八溝山系より流れ出す久慈川の支流である小さな源氏川が流れます。その静かな流れに寄り添うように、秋の訪れとともに彼岸花が一斉に咲き誇ります。

 川沿いの土手や畦道には、約300万本の彼岸花の燃えるような紅が連なり、まるで地を這う炎の帯のようになります。緑の草むらに映えるその色は、どこか儚く、そして力強く、見る者の心に深く刻まれます。

 源氏川の桃源橋から新宿橋までの川沿い約750メートルにわたって咲く彼岸花は、地元のボランティア「源氏川の彼岸花を保存する会」によって丹念に育てられたもので、毎年9月下旬から10月上旬にかけては鑑賞会も開催されます。

 赤く染まる土手は、炎の帯のように風景を彩り、緑の草地、黄金色の稲穂、高く澄んだ青空、そして川のせせらぎと調和して、常陸太田ならではの秋の情景を描き出します。

 この群生地は、地元の人々にとっては季節の移ろいを告げる風物詩であり、訪れる人々にとっては、静けさと美しさが交錯する特別な場所です。

 源氏川のせせらぎと、彼岸花の群れが織りなす風景の中に立つと、ふと胸に去来するのは、命の儚さと季節の移ろい。群れ咲くことで、かえって寂しさが際立つ・・・そんな感覚を呼び起こすのも、彼岸花ならではの魅力でしょう。(渡辺慢房)

   
むらがりていよいよ寂しひがんばな  日野草城


令和7年11月

  関東吟行案内「両国」

 両国は大相撲の国技館が在る所、または花火大会などを通して皆さんご存じと思います。それ以外にも多くの見所があり、吟行地として魅力があると思うので、今回は「両国」を紹介します。
 両国の地名の由来は、武蔵国と下総国の間に流れる隅田川を結んだ両国橋から取られた名前です。昔、1656年の明暦の大火の際、橋も無く、多くの人々が亡くなったため、江戸幕府が大橋を建設しました。この大火は振袖火事として後世に言い継がれています。

 両国へは東京駅から山手線で二つめの秋葉原で総武線に乗換え、二つめで両国に着く。
 相撲やその他の催し物のないときは、国技館も閑散としている。その隣が江戸東京博物館だが、現在は立替え休館中。これらの建物を見ながら東(錦糸町方面)へ20分ほど歩くと、また風変わりな建物が右手に見えてくる。これが、2016年に出来た「すみだ北斎美術館」だ。北斎は波の表現で有名であるが、この辺が生誕の地だそうで、生家などは何もないが美術館には多くの作品が展示されており是非寄って欲しい。

   大浪を潜ぐるサーファー北斎忌     光晴

 また、この近辺、少し裏道に入れば多くの相撲部屋がある。この雰囲気も味わいたい。
 ぶらぶらと北西の横網町公園に向かう。よくヨコヅナチョウと間違える方がいるが、相撲の町ではあるがヨコアミなので間違えないで読んでほしい。
 この公園の一角は東京都慰霊堂となっており、関東大震災と東京大空襲の犠牲者を慰霊する聖堂となっている。堂にはその惨状を描いた多くの絵画や写真が飾られている。聖堂前の花壇も大きく一年中見事である。

   
昼灯す慰霊の燭や夕立雲        光晴

 西(隅田川方面)の交差点の向かいに旧安田財閥の安田庭園がある。これも元禄時代に築造された回遊式庭園で見応えがある。これより国技館通りを南に下がり、ガードを潜れば鼠小僧次郎吉の墓がある回向院にぶつかる。回向院は無縁寺と言われ、先に述べた明暦の大火によっ亡くなった人々を葬ったのが起こりとされる。回向院の裏手を左(東)に出れば、少し先に忠臣蔵の吉良邸跡があり、首洗い井戸などが残されている。1214日には、写真のような義士祭も行われる。

   吉良邸に首洗ひ井戸龍の玉       光晴

 この辺も幾つかの相撲部屋がある所だ。また、近くには芥川龍之介文学碑や勝海舟の生誕地などもあるので、探してもらいたい。だいぶ歩き回って疲れたら、駅の南側には多くのちゃんこ鍋屋が軒を連ねている。好みに合いそうな味の本場のちゃんこを探すのも一興だろう。

 吟行してみたいと思われた方は関東支部の誰かに相談されれば、私以外でも一緒にご案内できる人間が必ず見つかると思います。そんな日を楽しみに筆を置きます。なお、文中俳句は伊吹集、風光集に採録されたものから抽出しました。(武藤光晴)


令和7年10月

  水の都大垣を歩く -芭蕉を訪ねて- 
 大垣 ― この名を耳にすると、私はまず松尾芭蕉を思い出す。
 『奥の細道』の長い旅を終えた「むすびの地」。川の流れとともに、旅人の息づかいが今も静かに残る町である。
 市内を流れる水門川沿いには、「ミニ奥の細道」と名付けられた散策路が整えられている。川辺には『奥の細道』ゆかりの二十二基の句碑が並び、己の感性を試すように句を批評しながら巡るのも楽しい。途中にはベンチやトイレ、夏の日差しを和らげるミストまで備わり、川風を感じながら一句をひねるには申し分ない環境だ。
 最初に迎えてくれるのは、旅の書き初めの一句

   
行く春や鳥啼き魚の目は泪  芭蕉

 春の終わり、鳥は鳴き、魚の目にも涙が宿る。旅の始まりと別れが同居するような、この町らしい序章である。

 大垣は濃尾平野の西北端に位置し、西と北を山に守られている。その地下には、揖斐川・木曽川・長良川の伏流水が豊かに蓄えられ、至る所で自噴水が湧き出している。尽きることなく湧きいでる水こそが、大垣を『水の都』にしてきた。市内では冷たい湧き水を汲む人々の姿が日常にあり、夏になると、その水にくぐらせた透明な水まんじゅうが店先を涼やかに彩る。
 城下町の面影をとどめた大垣城、四季折々の彩り豊かな公園、そして昭和レトロの香り漂う街並み、いずれも吟行の題材として心をくすぐる。町全体が俳句を愛し、句会を開く場所にも事欠かない。
 個人で訪れるなら、まずJR大垣駅南口の観光案内所で「観光マップ」を受け取りたい。「ミニ奥の細道周遊マップ」に従い、愛宕神社を出発し、水門川沿いに栗屋公園、貴船神社、八幡神社、圓通寺を巡る。寺を過ぎたあたりで川を離れ、郷土館や大垣城に立ち寄ったのち、再び川へ戻れば、やがて奥の細道の結びの地。そして国名勝「おくのほそ道の風景地 大垣船町川湊」。
 川辺には、長旅を終えた芭蕉と門弟・向井去来の立像が並ぶ。芭蕉はここで去来らと別れ、伊勢へ向かう舟に乗ろうとしている。
 その別れに際し詠まれた『奥の細道』の結びの句は、この「ミニ奥の細道」の締めくくりの句としても刻まれている。

   
蛤のふたみに別れ行く秋ぞ  芭蕉

 秋の終わり、2つに割れた蛤の殻が別々の海へ流れていくように、それぞれが新たな道を歩み出す情景が、水面に静かに重なってゆく。
 帰路は、美濃路を辿って駅まで歩くのもよし、バスに揺られて戻るのもよし。片道わずか3kmほどの道のりだが、その間にはいくつもの季節と時代が行き交う。
 大垣 ― ここは、歴史と文化、水の恵み、そして俳句を愛する人々の温もりに包まれ、一歩ごとに芭蕉の句が芽吹き、川のせせらぎとともに、心が静かにほどけていく町である。(松原和嗣)


令和7年9月

  俳句とパソコンと私

 私にとってパソコンは俳句に欠かせない道具である。道具と言えば聞こえはいいが、私の方がパソコンに使われているのが実際のところだ。8月の下旬にパソコンが壊れて修理に出した。直って戻ってくるまでの4週間はパソコンのない生活で、テレビを見たり本を読んだりとゆったりしたものだった。

 もともと私はパソコンに限らず機器に疎い。まだ現役で学校に勤めていたとき、パソコンを購入したのは校内で私が最後だった。(当時パソコンは支給されず自前だった)それが教育委員会に提出する書類がEメールでということになった。つまり外圧によって、嫌々パソコンに関わることになったのである。

 初めは、自分が作った俳句を、日付、天候、作ったときの状況とともに季節に分けてパソコンに記録するだけだった。そして、俳句が上手くなりたいと思いいぶきネット句会に入会し、伊吹嶺のホームページから毎月投句と選句を行い、その投句一覧や選句結果、句会報をEメールで受け取っていた。伊吹嶺ホームページと関わるようになったのは、前インターネット部長の国枝隆生さんから、部長職を引き継いだときからである。ホームページビルダーというソフトを使って、サーバーと接続し記事を掲載している。今でも記事をアップするときは、うまく掲載できるかドキドキしている。

 作った俳句、オンライン句会、伊吹嶺ホームページ、運営委員会・同人会・ネット部、ジュニア俳句、合同句集・周年記念の出版物など、どれもこれもパソコンなしではできない仕事である。パソコンは便利な道具であるが、パソコンのせいで忙しくなっているともいえる。パソコンを発明した人が少し恨めしい。(新井酔雪)



令和7年8月

  近江の五個荘

 平成29年と今年の5月、京都句会で近江の五個荘を吟行しました。

 五個荘は、近江商人発祥の地として知られ、「三方よし(売り手よし、買い手よし、世間よし)」の精神を重んじた彼らの豪壮な屋敷が数多く残されています。

 JR東海道線の能登川駅で下車し、バスで10分ほどの「金堂」は屋敷町の外れに位置します。平成29年には青田が広がり、今年は一面の青々とした麦畑が印象的でした。

 どの屋敷も広い敷地と立派な蔵を備え、中には細い水路に囲まれた趣のある屋敷も見受けられます。戦前、大いに発展した商家が多いようですが、今そこでどのような暮らしが営まれているのか、興味が尽きません。

 芥川賞候補にもなった作家の外村繁邸と朝鮮半島で百貨店を開き『百貨店王』と呼ばれた三中井一族の中江準五郎邸を見学しました。

 周辺には、役行者ゆかりの石馬寺、西国三十三所巡りの観音正寺、そして安土城址も近く、見どころの多い地域です。(松井徒歩)

   
南吹くけふは軽めの腕時計   松井徒歩6句
   観音のお山遙かに麦の波
   洗ひ場に鯉の出入りや緑さす
   傘雨忌や蔵の小窓の内の闇
   内蔵の床軋みたる端午かな
   止め石にむべの花散る零雨かな


   


令和7年7月

  岩崎城の戦い

    

 岩崎城址は、名古屋市の東隣、日進市の丘陵地にある平山城であった。
 現在、城址には城門や天守閣を備えた資料館があるが、実際には、土を掘ったり盛ったりした上に、柵を等を設けた中世の一般的な城であったと推測されている。そのなかでも岩崎城は中世の城郭の特徴である空堀や土塁、井戸、土橋、櫓跡などが保存され貴重な史跡と認められている。特に空堀は、幅が最大16m、深さは最大5m。ダイナミックな城郭だったことが体感できると、城好きには評価され人気があるという。
 1584年4月9日5時、岩崎城は、尾張と三河の境付近にあることから、戦国時代に名を残す戦場になった。

 岩崎城は家康方である出兵中の兄に代わり、秀吉方七千名に戦いを仕掛けたのは、小兵
300名の16歳の弟、丹羽氏重であった。一刻でも早く岡崎城を攻めたい秀吉方は、当初、岩崎城を素通りするつもりであったが、明け方、岩崎城から放たれた銃弾が大将の馬に的中し恥をかかされたと激怒し、総攻撃をすることに。城内は地獄絵の様相を呈し氏重を含め300人討死の激闘、落城であった。
 この戦は秀吉方を足止めさせ、結果として家康を勝利へ導き一目置かれる存在になるきかけとなった、日本史上に残る小牧長久手の戦いの一局、岩崎城の戦いである。


   夏つばめ若き武将の戦跡   秀子

 家康は後に「一番の戦功者は、秀吉勢を足止めさせた岩崎城代、丹羽氏重である。」と氏重の功績を称え、その兄、丹羽氏次に三千石を加増し三葉葵紋入りの小袖や陣羽織など数々の褒美を与えた。(大阪城天守閣に保管)
 わずか3~4時間ほどの攻城時間であったが、その激しさを物語るような岩崎城落城にまつわる民話が語り継がれている。

民話 その1
  梅雨の時期になると、城近くの雑木林から雨音と共に「ろくろく六坊(字名)なむあみだ
  ぽこぽこぽこぽこ なむあみだ」地本の人たちは、「城のまわりには木魚ガエルが住んで
  いる」と言い伝えがある。

民話 その2 
  討ち死にした城兵は地元住民によって供養されました。それでも火の玉が目撃され、城兵
  はまだ成仏できてないと噂されるようになりました。そこで、菩提寺の和尚が石碑を立て
  改めて供養しました。今も、合戦日の4月9日には、城下に暮らしている有志で、兵の慰
  霊碑の前で追善供養が行われている。

 NHKの大河ドラマ「どうする家康」以降、城を訪れる人がふえたようであるが、家の近くにある岩崎城趾は私にとっては困ったときの俳句工房になっている。
 この日も足音に驚いたかキジバトが空堀の枯葉を蹴散らして飛び立っていった。土塁代わりにされたといわれる古墳に柔らかい春日が注いでいた。

   石積みの羨道抜ける若葉風  秀子


    

 余談になりますが、今年3月2日、愛知県のお城イベント「にっぽん城まつり 2025」で実施された「愛城」投票で岩崎城が1位になったと、会場の吹上ホールで発表された。とはいうものの、関係者一同まで「なんで!?」と思ってしまったという。知名度を誇る名古屋城、国宝の犬山城、小牧城、岡崎城等々・・・あげたらキリがない愛知の城の中での「位」だからです。
 追っかけができるほど市民に愛されている城好きな学芸員の活動。岩崎城刀劇隊による岩崎城の戦い、真摯な剣術道場のこども、ボランティアガイド等様々な人々の多面的な応援があってこそとか。(野島秀子)
                  
                   


令和7年6月

  日常の中にある非日常 ~牧場と茶摘み畑・公園散策

 私が現在在住する桑名市は、例えばナガシマスパーランドやなばなの里、長島温泉などその名を知る方も多いと思われる。そうした観光・行楽の場として非日常に溢れた場所である。しかしながら、生活者として桑名市に住む中で、桑名市、また近隣にある四日市市の魅力は、当然ながらそれだけではないことを実感している。

 仕事や家族と向き合う時間も必要であることから、なかなか遠出をしての吟行などが叶わず、もどかしい現状はあるが、数少ない休暇には短い時間であっても家族を連れて、近隣を訪ね、散策すする。散策先は観光・行楽地とは違う、歴史や実の生活が感じられる場所が望ましいと考えている。
 その際には「日常の中にある非日常」を探し、書き留めておくよう努めている。散策に訪れた現地で納得のいく句を得ることができなかったとしても、書き留めたことやその時の体験を自身に引き付け、悩みながら推敲を重ねる中で、後々思わぬ一句が得られることもある。また、作句と鑑賞は両輪であり、句座を共にする仲間の句を鑑賞する際に、鑑賞の幅を広げる糧になるものと信じている。以下、両市の魅力ある場所を紹介したい。


  四日市市ふれあい牧場

 同市の水沢地区は鈴鹿山脈のふもと、降水量も多く三重県有数の、かぶせ茶(茶葉を刈り取る2週間ほど前に茶畑を黒い覆いでかぶせ、味わいを深める製法)の生産地である。そうした恵まれた自然環境の中で、ポニーや山羊、兎などの小動物ともふれあうことができるのが四日市市ふれあい牧場である。

  牧場より望む茶畑とコンビナート(写真)

       

 現在、茶摘みは機械化されており、手摘みを目にする機会はほぼ無いが、同牧場の周辺にある四日市市茶業振興センターでは、製茶の歴史や伝統的な茶摘みの様子の説明を受けたり、製茶道具の見学をすることができる。

   若芝の日を吸ひ背を伸ばしけり   のびる
   手さばきの揃ふ親子の茶摘かな   のびる


  九華公園(桑名城址)

 桑名城の本丸跡と二の丸跡を整備して造られた公園。同公園には桑名城の石垣や堀、砲台、天守閣跡など遺構の一部が残されている。また、時期に応じて桜やつつじ、花菖蒲などを楽しむことができる、市民憩い場のひとつである。公園周辺には、六華苑、住吉神社、七里の渡しなど見どころが多く、自然と歴史、生活とが共存する街だと感じる。

  公園休憩所より望む堀と橋(写真)        辰巳櫓跡の砲台(写真)

       

   砲口の黒く光りて木下闇    のびる


令和7年5月

  奥浜名の龍潭寺

 2017年放映のNHK大河ドラマ『女城主 直虎』。主人公に魅せられドラマに夢中だった私は、浜松市細江町気賀に設けられた、大河ドラマ館を熱い思いで訪れた。そのときに直虎ゆかりの龍潭寺、井伊谷宮を回ったが、龍潭寺の小堀遠州作の庭園に圧倒された。

 もう一度見てみたいと思い、4月7日、車で出かけた。高速を走れば、蒲郡から1時間で着くところだが、中日本高速道路のETCシステム障害が発生していたので、一般道の本坂トンネルを通って向かったので、2時間ほどかかった。しかし、桜満開の時期で、行きの道中のあちこちで花見を楽しませてもらった。龍潭寺の大門は修復工事中で、臨時の回廊から向かった。大門の再建は出来ていたが、参道の敷石を復元する作業中で、石の裏に書かれた数字を見ながら、3人で熱心に話し合っていた。きっと、敷石は江戸時代のままの位置にきちんと収まるのだろう。

 龍潭寺の歴史は古く、奈良時代の行基菩薩開創と寺伝にある。平安時代井伊氏の元祖井伊共保が生まれ、井伊氏は遠江の有力武士として、保元物語にその名を連ねている。鎌倉時代は、源頼朝に仕え、南北朝時代には後醍醐天皇皇子、宗良親王を井伊城に迎え北朝軍と戦った名門である。龍潭寺に隣接する井伊谷宮は宗良親王をご祭神とする宮で、和歌に秀でていた親王は当時の歴史資料としても貴重な歌集「李花集」を残している。

 
 なげかじな忍ぶばかりの思い出は身の昔にも有りしものかな
                            宗良親王


 24代井伊直政は徳川家康に仕え、井伊の赤鬼と恐れられる活躍をした。その直政を後見人として養育したのが、22代井伊直盛の一人娘井伊直虎、女城主直虎である。龍潭寺の南渓和尚の計らいで、女城主として井伊家を支え、お家断絶の危機から救った。後に直政は徳川四天王の筆頭に出世し、関ヶ原合戦の後、彦根に移っている。幕末の井伊直弼大老は開国の偉業を成し遂げている。龍潭寺はその千年余り、40代の祖霊を祀る井伊氏の菩提寺として、歴史を今日に伝えている。

 庫裡で受付を済ませ、本堂へ。本堂の廊下は鴬張りで、静かに歩くとより音が響く仕掛けになっていた。本堂の前庭は補陀落の庭と言われ、浜名湖を模した石庭になっている。

 桜吹雪が舞い、幻想的な風景を楽しみながら進むと、左甚五郎作の一刀彫の龍が梁に掛かっていた。のたうつような迫力のある龍でしめ縄が張ってあった。朱塗り楼閣の開山堂を回り、井伊家千年40代の御位牌を祀る御霊屋(みたまや)へ。御霊屋は10段の階段を上り、寺内では一番高い位置にあった。本堂の裏庭は小堀遠州作の禅寺の庭園で、江戸時代初期に造られた池泉鑑賞式庭園。四季折々の変化に富み、昭和11年には国の名勝記念物に指定されている。

 長座布団を敷いた鑑賞席が設けられ、石が表現する禅寺の庭の案内放送を、鶯の鳴き継ぐ中でゆっくりと聞くことができた。庭園の苔むす石が仁王石とか守護石とか亀出島などと説明されると、そのように見えてくるのは不思議だったが、今でも多くの来観者が訪れる所以なのだと納得した。


 書院には、大老井伊直弼が龍潭寺に立ち寄った際の席がそのまま設けてあった。直弼の座った視線の先には井伊家の位牌を祀っている御霊屋があり、懇ろに手を合わせたとの書き込みがあった。

 外に出て、仁王門を潜ると、樹齢400年余りの梛の木の大木がご神木として祀られていた。直政公の無事成長を願って、後見人の直虎が植えたと伝わっている。直虎は龍潭寺内の塔頭に母と一緒に暮らし、生涯を閉じたそうだ。その後、井伊家の墓所、井伊谷宮と回り、帰路に向かったが、龍潭寺はやっぱり見どころいっぱいの地であった。(長崎マユミ)

   
苔庭に一人静の白清し    マユミ
   直虎の墓に日の斑や春落葉  マユミ


令和7年4月

  補陀落山寺

  熊野三山
 20年ほど前の古い話で誠に申し訳ないが、西国三十三所観音霊場をマイカーにて巡礼した。特別な発願のためではなく気まぐれな物見遊山。3年余りもの歳月を費やして満願を達成しました。巡礼の途中で目ざとく神社仏閣などを見つけては寄り道をしてしまうのだが、この道草が余禄として無類の楽しみになっておりました。一番札所は那智の青岸渡寺。熊野古道、熊野三山は世界遺産なので、先ず、熊野本宮大社と旧社殿跡大斎原(おおゆのはら)を参詣し、三軒茶屋で(めはり寿司)を食す。高菜の漬物が巻いてあり、鄙びた癖のある味覚が食欲をそそる。新宮の熊野速玉大社を参詣の後、那智青岸渡寺へ向かった。この時、青岸渡寺で受けて参った熊野牛王符(八咫烏の魔除け護符)を紹介しておく。古来より裏に起請文を書いて誓約書として使われた。

  
補陀落山寺
 青岸渡寺の帰りに神秘的な寺名に惹かれ、ふらりと補陀洛山寺に立ち寄った。訪れる人もなく閑散としている。事前の下調べもせず後で知ったことだが、補陀洛とは南方の観音浄土のこと。ここは補陀洛渡海の出帆基地の寺である。天台宗の青岸渡寺の別院であり、境内地は熊野三山の構成資産の一部として世界遺産になっているが、本堂は小ぢんまりとして意外と新しい。仁徳天皇の治世の古刹ですが1808年の台風で大伽藍は消失し、長い間、仮本堂のみとなっていたが、1990年にようやく室町様式の本堂が再建された。熊野三所権現を祀る熊野三所大神社が隣接しており、神仏習合の名残りを留めている。本尊は十一面千手千眼観世音菩薩である。

  補陀洛渡海~生きながら小舟で観音浄土をめざす
 補陀洛渡海とは捨身行により南にあるとされる観音浄土へ即身成仏せんとする仏教儀礼である。本堂の左側の脇堂に渡海船のレプリカが収蔵されている。全長6m位の和船に杉皮葺の切妻造りの屋形が設けられ四方を鳥居が囲む。南無阿弥陀仏と書かれた小さな帆が付けてある。1か月分の食料と水と燈心油を渡海船に積み込み、渡海上人が乗船すると入り口は外部から板戸で釘打ちされる。北風が吹く夕方、2艘の伴船で曳航され沖へ出ると艫綱を切る。後は太平洋の風と海流に任せる不帰の船出である。補陀洛山寺には平安時代から江戸時代までに25回ほど、渡海の記録がある。

  金光坊事件
 補陀洛山寺には正式な約定ではないのだが、不文律な掟として住職が61歳になると渡海することが慣習となっていた。永禄8(1565)、心用意の出来ぬまま渡海した金光坊は途中で船を脱出し板子につかまって島の荒磯に漂着した。それを時化で島に留まっていた侍僧や役人に発見され、助を希う金光坊を寺の掟に従い、むりやり入水させてしまった。この事件が契機となり掟が見直され住職が61歳で生きて渡海することはなくなった。その代わり僧が物故した後に海に水葬される慣習となった。この島は現在、金光坊島(こんこぶじま)と呼ばれている

   補陀洛へ沖つ船浮く月の道  よし広

  平維盛・渡海上人の供養塔
 供養塔は寺の裏山にある。本堂の左脇の参道を進むと鬱蒼とした木立の中に苔に覆われた石碑群が現れる。左の写真の通り墓塔が無くなってしまって、台座だけのものも散見される。渡海上人の御霊を思うと哀れみを誘うが、これも歴史の爪痕というべきだろう。因みに、慰霊祭は毎年行われている。石碑群は3段になっていて最上段の左端が平維盛の供養塔である(下の写真)。平維盛は富士川の戦いと俱利伽羅峠の戦いで敗れ、平家一門の都落ちの伏線になった。その後、高野山で出家し、熊野三山を参詣し、那智の沖の山成島で入水したとされる。平家物語第十巻には、寿永3(1184)328日の平維盛入水について『浜の宮と申す王子の御前より一葉の船に棹さして万里の蒼海にうかび給ふ』と記載されている。また、補陀洛山寺にも5人目の渡海として記録されている。
 平維盛の入水の知らせは都にも届き、建礼門院右京大夫はその死を悼む歌を詠んでいる。(兼松啓広)

  春の花の色によそへし面影の空しき波の下に朽ちぬる
  悲しくもかかる憂き目をみ熊野の浦わの波に身しずめけり
                                    建礼門院右京大夫集


令和7年3月

  天草のイルカウォッチングと島が丸ごと博物館の御所浦島

 少し遠いですが、熊本県天草をご紹介します。
 天草は熊本県南西部に位置し、天草上島と天草下島および御所浦島など大小120の島々で構成されていて、九州本土と天草五橋と呼ばれる5つの橋で結ばれています。藍より青い海と青い空、緑深い山々など豊かな自然に恵まれています
 天草下島の北端にある通詞(つうじしま)と、その周辺の海にはイルカたちのエサである魚介類がとても豊富で、古くから野生のミナミハンドウイルカが一年を通して生息しています。どの季節に行っても高い確率で遭遇する事ができます。
 通詞島の港を出て10分も経たないうちにイルカに出会います。出航すると、ゆっくりと進む船の周りをイルカたちがまるで船と遊ぶように並走したりもぐったり、ときにはジャンプしたり楽しそうに泳いでいます。イルカとの距離の近さと数の多さには感動します。春に行った時には赤ちゃんイルカを真ん中に親子仲良く泳ぐ姿に癒されました。
(※イルカウォッチングの船は、天草・南島原の各所から出港しますので乗り場によって出港時間・所要時間・料金がかわります)
 もう一つのおすすめは御所浦島です。恐竜・巻貝・爬虫類・大型哺乳類などの化石がたくさん見つかっています。御所浦と橋でつながっている牧島のアンモナイト館の中央のガラスをのぞくと、真下にアンモナイトの化石があります。この化石は名前を『ユ-パキディスカス』といい、九州最大級で約8500万年前の地層に入ったままの状態で直径が約60cmもあるそうです。

 それからニガキ化石公園には、大小20個以上、最大1.8mもある石に、一億年前の浅い海にすんでいた貝などの化石がびっしりと入っています。野外展示されていますし、実際に化石に触れることもできます。

 御所浦恐竜の島博物館には、天草地域で発見された貴重な化石を中心に世界の恐竜の全身骨格なども含め、約2,000点の標本が展示されています。恐竜からイルカまで、天草の約1億年の歴史に触れることができる博物館です。御所浦は島が丸ごと博物館です。化石や恐竜に興味がある方島探検に行かれませんか。(玉井美智子)

      

   恐竜の痕跡探す秋の浜     美智子
   星流るアンモナイトの眠る島  美智子


令和7年2月

  国宝天守を巡る

   木曾川を見おろして城冴え返る 綾子

 生まれてから高校卒業まで住んだ家の近くに末盛城(名古屋市千種区)という城跡がありました。戦国時代に築城され、お城そのものはなくなっているものの空堀跡が結構残り、そこには第二次世界大戦時に掘られた防空壕もありましたので子供時代は絶好の遊び場所になっておりました。もちろん親や学校からは防空壕で遊ぶことは固く禁じられておりましたが・・・
 本格的な天守を備えたお城の思い出は、名古屋市民ゆえやはり名古屋城になります。小学校の遠足で初めて見ることとなりましたが、コンクリ建てで再建された城は、エレベーターでビルに上るような感覚でした。母からは名古屋城が空襲で焼け落ちる瞬間を見ていたことなどをよく聞かされました。また、焼失前に天守へ登るには、薄暗い中、梯子のような急階段をいくつも這うようにしていかなければならなかった話は何度も聞かされました。しかし、再建された実際に見た再建後の妙に明るい名古屋城とのギャップが大きかったため、本来のお城がイメージできずにおりました。
 実際に古い城の天守へ登ったのは、なんと60歳を過ぎ男組吟行で犬山城へお誘いいただいたときが初めてとなりました。古城の天守へ登るには母から聞いていたとおり「薄暗い中、急階段を這う」ごときものでありました。

 ご存じのとおり、犬山城は古くからの城の天守が現代まで保存されております。こうした城は「現存天守」と呼ばれて、現在、①弘前城(青森県)②松本城(長野県)③丸岡城(福井県)④犬山城(愛知県)⑤彦根城(滋賀県)⑥姫路城(兵庫県)⑦松江城(島根県)⑧備中松山城(岡山県)⑨丸亀城(香川県)⑩松山城(愛媛県)⑪宇和島城(愛媛県)⑫高知城(高知県)の12城のみとなります
 江戸時代初期には3000近くの城があったそうですが、1615年に江戸幕府による「一国一城令」により170まで激減。さらに明治時代になり、軍事用に使用できる城以外は廃城することとなり、昭和に入る頃には20のみ残されていました。それも、空襲や失火で失われ、現在の12城のみとなってしまいました。今でこそ唯一無二の建造物として日本が世界に誇る文化財と考えられていますが、今残っている城はそれぞれが奇跡のように細い糸の先に輝いています。
 今後決して増えることの無い現存天守、すべてが国の重要文化財に指定されていますが、その中でも松本城、犬山城、彦根城、姫路城、松江城の5天守は「世界文化の見地から価値の高いもので、類ない国民の宝」として国宝に指定されています(国宝五天守)。国宝指定の条件が公開されているわけではありませんが、個人的には規模感ではなかろうかと思っています。

   残雪の遠嶺を四囲に深志城 春水

 自分自身の健康寿命を考えると、犬山城のような梯子階段を登れるのも残り僅かではないかと、急に焦る気持ちが湧いてまいりました。昨年初めに国宝五天守をコンプリートしようと思い立ち、すでに訪れたことのある犬山城以外へ年内に登城しようと決意いたしました。猛暑と海外旅行客の多い時期をなるべく回避し仕事にも支障のないようにした結果、3月に松本、残りは11月にという計画を立案いたしました。
 3月下旬の松本は結構雪に降られました。その分観光客は少なく、開門前に並んだため天守へも一番にたどり着くことができました。現存天守の中では唯一の平城(平地に建てられた城⇔山城)ですが、周りを満々とした水堀に囲まれています。訪れた日は風もなく、雄大な雪山を背景にして城の影が水面に映りこむ、ため息の出るような美しさを味わうことができました。
 晩秋の3城訪問計画は諸事情によりなんと車で一気に行くこととなってしまいました。もう旅情もへったくれもなく国宝天守コンプリートへの執念のみに突き動かされ大変な強行軍となりました。それぞれの城への感想も大変薄いものとなってしましますが、まずは彦根城。ご存じ井伊氏の居城ですが、外観では破風の多さがその美しさにつながっております。琵琶湖近くに建てられていますので天守から湖面を望むことができます。行った日はあいにくの雨で見晴らしもイマイチでした。
 
彦根から姫路に車で移動、その日のうちに姫路城へ。駅近くの宿の駐車場に車を停め城まで歩きましたが、まずは姫路城の威容に驚愕いたしました。駅から続くアーケード街を抜けるとすぐにお城が目に飛び込んできますが、第一印象は「でかい、遠い」。それまで見てきたお城とは大きさが全くちがいます。また姫山という標高50メートルの山の上に石垣を載せ、さらに城郭が建てられているためその姿に圧倒されます。彦根から運転しっぱなしの身には本当にあの城のてっぺんにたどり着けるのだろうかと絶望的になりました。
 翌日、中国山地を突っ切って松江へ。途中、重文の天守である備中松山城へ寄る手もあったのですが、このお城は本格的な山城でちょっとした登山を覚悟という情報があったため断念いたしましたが、後々の疲労を考えると行かなくて本当に良かったと思っています。最後に松江城を訪れましたが、この日の松江はこちらでいう「しぶち」のような雨が降り続いており、見晴らしも悪かったため城からの風景の印象はあまり思い出せませんが、石垣が非常に美しい城でした。国宝指定は2015年と一番遅くなりましたが、ごれは長年行方不明となっていた祈祷札(天守完成年が記される)が関係者の執念で発見されたことによるものということです。

   古女房の尻見て登る冬の城 春水

 とにもかくにも国宝五天守は全て登城いたしましたので、次は現存天守の残り7を目指したいと思っております。弘前城がなかなか難関でしょうか。あとは何とか健康なうちに木造再建された名古屋城を登ってみたいものです。ちなみに再建されると名古屋城の天守の高さは姫路城を5メートルほど上回ることとなります。 (小木曽春水)


令和7年1月

  討入り吟行

 関東支部菊坂句会では毎月第2土曜日に吟行付き定例句会を開催しています。

 12月の第2土曜日は折しも赤穂浪士討入りの日(実際は旧暦なので1月13日)。我々も総勢10名がいざ吉良邸へと向かったのであります。とは言え現在吉良邸はなく、東京都指定旧跡として墨田区両国3丁目になまこ壁に囲まれた「吉良邸跡」がこぢんまりと残っているだけです。黒塗りの門を入ると正面に吉良上野介の座像。その左には「みしるし洗いの井戸」があり、「吉良家家臣二十士の碑」が建っています。座像の右手には薄紅色の山茶花が散り敷き、井戸端の冬紅葉が日に照らされてひときわ鮮やかです。この日、吉良邸跡には句帳を持った幾組もの義士たちが訪れていましたが、菊坂義士団は早々に吉良邸を引き揚げ、「前原伊助宅跡」や義士達が渡った「一之橋」などを巡って、両国駅前のちゃんこ屋へと向かったのでした。


 吉良上野介の座像は、愛知県西尾市吉良町の華蔵寺に現存する座像そっくりに制作したものだそうで、私が抱いていたイメージとは全く違ってお顔はまるく、柔和なお姿でした。忠臣蔵では悪役に仕立てられましたが、三河の吉良では新田の開拓や塩業の発展に尽力するなど領民に慕われるお殿様だったとのこと。赤い馬に乗って領内を巡回したという「吉良の赤馬」の絵が邸内にひっそりと飾ってありました。(関根切子)

   まる顔の吉良の座像に冬日差       切子
   討ち入りの日や着ぶくれの俳諧師     切子
   山茶花の吉良邸跡に散るばかり      切子


令和6年12月

  琵琶湖博物館・賤ケ岳

 
1020日・21日、久しぶりの12日の家族旅行。琵琶湖東岸の草津から湖北へ「さざなみ街道」をゆく。草津の滋賀県立琵琶湖博物館で小半日過ごす。烏丸半島の森の中に博物館がある。ジオラマや実景標本や体験を通して琵琶湖の歴史や人々の暮らしを知ることができた。特に国内最大と言われている淡水生物の水族館は、トンネル状の大型水槽があり圧巻だった。そとの樹冠トレイルには展望台があり、そこからは琵琶湖大橋を見ることができた。

  
対岸に比良の峰々天高し       知子
  大橋や色なき風の湖(うみ)真青   知子


 2
日目は、長浜市にある「賤ヶ岳」へ。
 標高421m、リフト6分で山頂付近。振り返ると小谷城跡の山、そのうしろにひときわ高く伊吹山、平野部には虎御前山(信長が小谷 城攻略の陣を敷いた山)が見えた。登ること15分で賤ヶ岳山頂だ。ここは羽柴秀吉と柴田勝家が織田信長の後継者を争った天下分け目の戦いの場だ。勝っても負けても両軍の犠牲者は多大だ。戦没者を慰霊する碑や祠が立っている。

  
合戦の一山霊地秋惜しむ       知子
  合戦の祠にかぶと野紺菊       知


 それにしても、絶景とはこのことを言うのだろうか。北側には余呉湖、南側には琵琶湖と紺青の水。そんな余呉湖を眼下にボランティアの方がパネルを使い講談さながら合戦の様子をリアルに語ってくれた。

  
古戦場湖(うみ)を分かつや赤とんぼ 知子

 帰路は、長浜市の「湖北野鳥センター」に立ち寄る。設置された望遠鏡で羽根を休めている水鳥をしばらく観察。滋賀県の鳥であるかいつぶり(鳰)は、渡り鳥かと思っていたが、留鳥だそうだ。ここでは滋賀県全体で約350種類の野鳥の70%以上を見ることができるそうだ。湖北は野鳥にとって居心地がよい地のようだ。(恒川知子)

  水鳥の群に黄昏れきてゐたり     知子
  深秋や旅の終りのカフェオーレ    知子

      


令和6年11月

  徳川茶会

 
毎年秋になると徳川美術館では、徳川茶会が催される。
今年は1013日から114日のあいだの土曜日、日曜日、祝祭日の8日間の日程で行われる。

 日頃はガラス越しにしか見ることができない、茶碗、茶入れなど茶道具を直に手に取り濃茶やお薄を頂くことができる貴重なひとときである。

 私は初日の1013日(日)に席をとり秋の一日をゆっくり過ごすことにした。
本席は「餘芳軒」と名の付いた広間でお濃茶を頂く。掛軸は〈藤原定家の自筆の書状〉・・・読むのは難しい。しかし特徴のある定家の筆跡はどことなく丸っぽくて親しみのある字である。
 茶入れは大名物と言われる〈唐物〉の
丸壺、茶杓は〈武野紹鷗)作。手に取るのに緊張が走る。釜は<芦屋釜>水指は<青磁>と名品が続く。

 年に一度のこの茶会は、毎回ほどよい緊張と同時にゆっくりと時間の流れに身を置いて過ごす。非日常を感じることも心の洗濯と自ら称して楽しんでいる。

 濃茶がすめば、後は気楽なお薄と美味しいお料理を楽しむ。その後は、源氏絵巻等秋の展示品をゆっくり鑑賞して満足の一日を終えた。(酒井とし子)

   
本席は定家の書状秋日和     とし子
   秋草の野にあるやうに茶会かな  とし子


            


令和6年10月

  琵琶湖大花火大会

 8月8日バスツアーで、琵琶湖の花火大会へ行ってきました。最近は、テレビでみるだけだったので、思い切って申し込みました。名古屋駅を12時半に出て、途中、「ラコリーナ近江八幡」で休憩。

 大津駅には17時頃着き、駅の周り、道筋は浴衣姿の人、花火大会へ行く人で溢れていました。臨時駐車場でバスをおり、20分位添乗員の後を歩き、琵琶湖競艇場の臨時観覧席で弁当を食べ、時間になるのを待ちます。だんだん、あたりも暗くなり、風も心地良い時間となりました。

 
 19
時半、知事の挨拶があり、プロローグの3号玉が揚がります。
 春 夏 秋 冬 テーマにあわせたスターマインが揚がります。周りの観客の驚きと感動の声が聞こえます。
 グランドフイナーレの水中スターマインで、あっという間の1時間が過ぎました。

 帰り道も又渋滞、その道すがら、車いすの高齢の女性が、家族の人に「今年も見られた。見ると、又来年もと思う位感動するね」と話すのが聞こえてきました。
 高速道路も渋滞で、名古屋には日付が変わって着きました。疲れたけれど、花火を体感でき、満足した1日でした。(野崎雅子)

     
揚げ花火湖に極彩うつしけり  雅子
     揚がる度歓声あがる大花火   雅子
     爆音の水面揺るがす揚げ花火  雅子


令和6年9月

  戸隠奥社

 長野県長野市にある戸隠山のふもとには、奥社、中社、宝光社、九頭龍社、火之御子社の五社からなる戸隠神社がありますが、その中の奥社へ、今年5月行ってきました。奥社は昨年、伊吹嶺関東支部の吟行旅行で訪れたり、年に1度は訪れるなじみ深い場所。参道入り口から、奥社までは約2キロの距離で、ちょうどよい散歩コースでもあります。大鳥居をくぐると、早速老鶯の鳴き声が迎えてくれました。美しい鳴き声は思わず真似をして答えたくなります。

   
老鶯を真似る口笛橅林  ひろ子

 参道両脇には、細いせせらぎが続いています。ミズバショウは終わっていましたが、リュウキンカやニリンソウ、エンレイソウが咲いていていました。ほどなく茅葺屋根で朱塗りの随神門が見えてきました。

   
随神門屋根の青羊歯日を集む  ひろ子

 ここまででほぼ道のりの半分。この先景色は一変し両側に400年余りの杉並木が続きます。緑は濃さを増し、虻も出現。背に木洩れ日が差し輝いていました。

   
木洩れ日や虻の背中の黄金色  ひろ子

 徐々に道が登り坂になり汗もかき始めました。倒木に生えている苔が美しい緑色を放ち、杜鵑の鳴き声に励まされながら、さらに急登を頑張って登ると、万緑を背にした白壁の奥社にたどり着きました。

   柏手を打つ万緑に響かせて  ひろ子

 参道の古木から自然のパワーを感じながらの往復は、とても清々しいです。参拝を終え鳥居を出ると、熊笹のソフトクリームや、戸隠蕎麦のお店があるのでそれを励みに歩くことも楽しいものです。(奥山ひろ子)


  


令和6年8月

  近江の歌枕 淡海・鳰の海

 以前に、よもやま通信として近江の歌枕について何回か書かせていただきました。続編として何処を取り上げようかと想いを巡らせていたところ、最大の歌枕である琵琶湖がまだであったことに気が付きました。「滋賀には琵琶湖しか無い」と、言われるくらいの存在ですが、典拠とする和歌は意外と少ないようです。その広さの故に捉えどころが無く、それよりも周辺の景勝地にポイントを絞った方が鮮明な印象を与えられるからなのでしょうか。

  淡海の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのに古思ほゆ  万葉集巻三266  柿本朝臣人麻呂

 淡海の海の夕波に遊ぶ千鳥よ、お前が鳴くとしみじみとした気分になって昔のことが想い起こされてならない。
 と、解説するまでもなく、この歌はおそらく万葉集で最も著名な歌の一つであろうと思われます。ここに思い出される「古」は大津京の有った時代に他なりません。作者の人麻呂は持統・文武天皇朝の宮廷歌人ですから、関係の深い近江朝廷を偲ぶのは職務の一環とも考えられます。万葉第一の歌人と呼ばれ、後世「歌聖」と讃えられた才が存分に発揮され、格調高く歌い上げられています。

 天智天皇の大津京は、近江神宮の南東、錦織の地にありました。この歌もそのあたりを訪れて詠まれたものと推測されますが、広大な湖辺のどこかで想念を巡らせただけだったのかも知れません。柿本人麻呂は生没年不詳で経歴も定かではありませんが、出身地としては大和、近江、石見の諸説があり、近江であったとしたら更に想像が膨らむところです。

  鳰の海や霞のをちに漕ぐ船の真帆にも春の景色なるかな  新勅撰集春歌  式子内親王

 あゝ、琵琶湖を覆っている霞の中を漕いでゆく船のしっかりと広がった帆にも春の情趣が満ちていることだなあ
 歌の眼目は「まほにも春の景色なるかな」というところでしょう。「まほ」は「真穂」との掛詞になっていて、完全に、まったくの意味が含まれ、当然「真帆」でもある訳です。また、「まほ」を「帆」の掛詞としている用例から、源氏物語「早蕨」の薫君の歌「しなてるや鳰の湖に漕ぐ船のまほならねどもあひ見しものを」の本歌取りとなっていて、王朝文化の雰囲気を取り入れたものと解釈されています。

 作者の式子内親王は後白河天皇の皇女、加茂斎院に卜定されたこともあり、生涯独身であったと云われています。一般には源平合戦として知られる治承・寿永の乱の端緒となる挙兵を行った以仁王は同母弟です。和歌の師は藤原俊成で、その子の定家とも親交がありました。理知的で、巧緻な技法のうちに詩情を湛えた詠みぶりは新古今の歌風を代表する歌人と評されています。

  鳰の海や月の光のうつろへば波の花にも秋は見えけり  新古今集 秋歌上  藤原家隆

 湖を煌々と照らす月の光で花が咲いたように見える波頭も月光の移ろいに秋の気配が感じられることだ
 と、拙訳では心もとなく意味不明の気味ですが、そこは新古今の歌ですから本歌があります。「草も木も色変われどもわたつ海の波の花にぞ秋なかりける」(古今集秋下・文屋康秀)草も木も秋の色に変わっているけれど波の花の色は変わらず季節感はないではないか、というのです。これに対して家隆は移ろう月の光によって秋が見えている、と云っているのです。

 作者の藤原家隆は新古今和歌集の選者の一人で、定家とはライバル関係にあった存在でした。歌人としての実力は、「家隆は末代の人丸(柿本人麻呂)にてさぶらふなり」(古今著聞集)と評価されているほどのものです。歌の師は定家の父の俊成で、先の式子内親王と同じです。さらに「(俊成の兄である)寂蓮法師の婿となった」とありますから、因縁浅からぬものがあったようです。

 鳰の海を詠んだ歌は、まだいくつかあるのですが、「歌枕としての琵琶湖を解説する」などという試みは、かなり無謀なことであったと悟りましたのでこの辺で終わりとします。(浜野秋麦)


令和6年7月

  修学院離宮

 5月初旬、京都句会に参加した翌日修学院離宮へ出かけた。修学院離宮を訪ねるのは初めてである。京都句会の方からバスの路線系統、降車場、道順を教えてもらい、修学院道バス停から川沿いの道を歩くと、京都も少し郊外に来たという印象である。離宮は江戸時代初期に御水尾天皇によって建てられた山荘で、比叡山麓に借景を活かした広大な敷地に下離宮、中離宮、上離宮と呼ばれる建物と庭園がある。
 ガイドの先導で、3か所の離宮を巡る。参観者のうち3分の1くらいは外国人旅行客で、音声ガイドを利用していた。3つの離宮への道は松並木で繋がっており、途中には棚田が広がっていた。松並木のところでは松の剪定が行われていた。シートを何枚も敷いて1本の松を庭師が5人がかりで手入れをしていた。

   
剪定や松一本に五人来て     範子

 下、中、上離宮へと巡っていくにつれ小高い台地になるため、何か所か石段を上ることもある。脚力には自信がなく心配だったのだが、帝がお渡りになった道である。それほど急な石段はなく、どこも歩きやすかった。離宮にはそれぞれ意匠を凝らした部屋があった。ここで和歌を詠んだり客人を持て成していたのだろうか。上離宮から眺める風景は特に素晴らしい。庭園には楓が多く植えてあり、青楓が目に優しかった。秋には見事な紅葉になることだろう。

   
架け替へし小橋の木の香夏近し  範子
   
萍の友禅めくよ離宮池      範子

 紅葉の頃にもぜひ行きたいものだと思いながら、修学院離宮をあとにした。修学院離宮から徒歩5分ほどのところに赤山禅院があり、ここも京都句会の方に薦めてもらって訪れた。延暦寺の別院の一つで、京都御所の表鬼門を守護する方除けの寺として、また七福神巡りとして有名な寺院だそうだ。拝殿の屋根に京都御所の猿が辻という場所と呼応して猿が安置してあるとのこと。ゆっくり巡り、赤山禅院を後にして修学院離宮道のバス停へ向かった。この日の歩数計は15000歩で、私にしてはよく歩いたなあと思う1日だった。(伊藤範子)


   


令和6年6月

  近頃の若者は

 年取ってくるとなぜか分別くさくなり、若者との価値観の違いが受け入れにくくなる。つい「近頃の若者は」と口に出し、この後は良い感じのしない言葉が続く。しかし、私は最近この常套句を返上したいと思うことがいくつかあったので紹介したい。

 1つは、この3月の下旬のこと。小雨が降る肌寒い日曜日だった。夫と私は、16時からのコンサートにどうにか間に合うように、高速道路を急いでいた。ところが、車の調子が変だ。なにやらボンネットの辺りでバタバタと不吉な音がする。しかも、左側の隙間からうっすら白煙が上がっているではないか。窓を開けるときな臭い匂いがする。
 急いで都市高速を降り、交差点手前の右折車線に入った処で、とうとう車は動かなくなった。15万キロ乗っている。エアコンに不具合があることは分かっていた。しかし、これはちょっとおかしい。触ると火傷しそうなボンネットを開けたら、給水バルブが外れていた。
 JAFに電話すると、別件が終わらず、後30分はかかるという。車から降りて安全な処で待つように指示があり高速の高架下で、2人してつくねんと立っていた。これはコンサートは無理だなとしょんぼりしていると、傍の横断歩道から、赤い傘をさした女子大生らしい人が我々の方にやって来た。
 「大丈夫ですか?助けを呼ばれましたか?」と、優しく声を掛けてきた。JAFを待っていると伝えると安心した様子で帰って行った。ところが、10分程して同じ傘が横断歩道を渡っている。『あれさっきの子だね、どうしたんだろう?』と主人と見ていると、彼女はまたこちらに来た。
 「これ、どうぞ使って下さい。」と、ホッカイロを2枚ずつ、おまけに饅頭まで、はにかみながら差し出してくれたのだ。思いがけないことで躊躇したがせっかくの気持ちだ、有難く頂戴した。彼女はお返しされるのを避けるように大きな声で「さようなら」と言って足早に立ち去った。あっという間で、彼女の名前も聞いてなかったことやチケットをあげればよかったと後から気づいた。
 ホッカイロは冷え切った手に暖かかったし、中央分離帯のコンクリートに座って口にした饅頭は甘くておいしかった。JAFは、それから30分以上たってやっと来た。コンサートは流れ、車は廃車となる散々な日だったが、彼女のことは今思い出しても涙がじわっと溢れて来る。

 もう1つ忘れられないのは、1年ほど前、横浜へ日帰りした時のことだ。私の所謂「押し」の単独ショーがあり、取れないと思われていたチケットが当選し、行ったことのないアリーナへ1人で出かけた。行きは完璧に予習して、予定通りに無事たどり着き、ショーは素晴らしく、九州から来たという隣席の知らない人と盛り上がり大満足だった。問題は帰路だった。
 どこかで事故があったらしく、ダイヤが乱れ、乗り換えが分からず、私は聞いたことのない小さい駅で降りた。頭が混乱していた。駅員も見当たらない。
 多分これかなと勝手に見当をつけて、その時ホームに止まっていた電車に乗り込んだ。ドアの近くに立っていた若いサラリーマンふうの人に、「この電車は新横浜に行きますか?」と訊いたら、「行きませんよ」という答え。仕方なくその電車を降り、ホームの電光掲示板の訳の分からない時刻表を見上げていた。
 すると、さっきの男性がそばに来て、いっしょに掲示板を見て、「この時間で一番早く行けるのは、〇〇番線の電車ですよ。この階段を上って向かいのホームに行けば乗れますよ。」と丁寧に教えてくれた。その間にこの人が乗っていた電車はホームを出て行った。彼は私のために一電車見送ったのだ。私はとにかく急いで階段を上り、振り返りながら「ごめんなさい」と「ありがとう」を繰り返した。都会の人は冷たいという先入観があったが、こんなに親切な人もいるんだと泣きそうになった。
 私は新横浜で無事新幹線に乗ることができた。

 この2つの事例で十分だと思う。実は前例のJAFの若者も素晴らしい対応と人間性を見せてくれたのだが、長くなるので割愛する。私は声を大にして言いたい。「近頃の若者は、(老人に)親切で機転が利き、しかも見返りを求めぬ素晴らしくできた人たちである。」と。(鈴木未草)


令和6年5月

  ホーチミン

 コロナ禍前の話で恐縮ですが、記憶に残る旅として紹介させていただきます。セントレアからベトナム航空直行便で約6時間、ホーチミンへ。乗務員さんはほとんどベトナムの方のように見えたが、日本語も達者なようでひとまず安心。機内食は薄味のベトナム料理?らしく高齢の夫婦も満足。
 ホーチミン市は南部に位置しベトナム最大の商業都市。1975年のベトナム戦争終結まではサイゴンと呼ばれ、南ベトナムの首都。かつてのフランス統治下の影響を受け「東洋のパリ」と呼ばれる街並みと経済成長での高層ビル、雑多なバイク渋滞などが混在する。

 2日目ホーチミン市内観光(統一会堂〜サイゴン大教会〜

中央郵便局〜ベンタイン市場〜ティエンハウ廟)街には人が
溢れ、車よりバイク天下の道路。日本製?バイクに4人乗り   越南へ先づ機内食うろこ雲 みつ子
まで認められているようで市民の大切な足。店舗、ホテル、
レストラン等は勤労者で溢れ、人手不足で少数精鋭を求められる日本と比べて活気がある。ホーチミンで「元気」貰ってきた。食事は中華よりあっさり、薄口で堪能。そして日本の女性一人旅が多いのにびっくり。ベトナムはもう、女一人旅が出来る観光地になっていた。雨季のスコールは大したことなく夕立程度で、すぐ止んでしまうし、雨の降っている時間を上手く利用して博物館見学やティタイムに当てられる等、卒のない日程が組まれていた。

     
     旗なびく統一会堂天高し みつ子 
  スコールはスイーツ付のティタイム みつ子

  
   宵闇を照らすライダー勇ましき みつ子      ベンタイン市場の活気秋の宵 みつ子

 最終日メコン川・ミトー観光〜フットマッサージ〜 水上人形劇鑑賞〜 空港へ 昼食は ミトーで「エレファントイヤーフィッシュ」の唐揚げを春巻で巻いて。 往路フライトは 7割乗車でした が帰路は満席。半分程度はベトナム人で、勤労や研修ビザでの来日のようでした。(伊藤みつ子)

     
   
空澄みて波打つ赤きメコン河 みつ子    トロピカルフルーツ三昧秋うらら みつ子

      
   
エレファントイヤーフィッシュの姿揚げ      コミカルな伝統水上人形劇


令和6年4月

  俳句の背景

  
野水仙群れてダム湖へなだれ咲く  もきち

 コロナ禍による旅行の自粛を解放5年ぶりに再開。車を止めたので各駅停車でのんびりと房総半島を一周してきました。見返り美人図で名高い菱川師宣の生地である鋸南町は、水仙の群生地として知られ、江戸時代には江戸の武家屋敷や町家に売られ、「元名水仙」と呼ばれ親しまれてきました。町内には江月水仙ロード、をくずれ水仙郷、佐久間ダム湖親水公園の三大群生地があり、今回は佐久間ダム湖親水公園に行きました。親水公園は農業用ダムとして大崩地区に造られた佐久間ダム湖の湖畔に整備され、水仙はダムの法面に植栽、湖畔の斜面いっぱいに咲き誇り、甘い香りに身も心も包まれました。

  声揃へ走る渚や寒稽古       もきち

 安房鴨川温泉に1泊、翌朝女房と海岸を散策していると、渚をランニングの男女の高校生たちを目にし、思わず1句浮かびました。

  見はるかす黄一色や花菜畑     もきち

 安房鴨川駅から徒歩で約20数分の「菜な畑ロード」までウォーキング。約1万坪の田畑を黄色い菜の花が埋め尽くす早春の風物詩を表現するのに多言は不要、「黄一色」に尽きます。摘んだ菜の花を家に飾り旅の思い出にしました。(森田もきち)


令和6年3月

  あねかえし

 今日は5月9日。ラジオ体操を終えて、いつものようにローカルニュースを流しながら朝食の準備をしていたら、
「下呂市萩原地区の伝統菓子『あねかえし』の発売が今日から始まりました」
との言葉が耳にとまった。(萩原地区だって?)と思わずつぶやいた。
 その日、私たちは名古屋からJRの特急ひだに乗って飛騨萩原まで行き、馬瀬川温泉に泊まることにしていた。1泊2日の小旅行である。宿の車が駅まで迎えに来てくれる。
 ニュースによれば、『あねかえし』とは蒸した米粉に蓬をまぜた生地で餡を包んだ萩原町の伝統和菓子であり、生地をひっくり返してこねて作る。「こねる」ことを地元の言葉で「あねる」と言うので『あねかえし』というとのこと。蓬の摘めるこの季節限定の菓子なのだそうだ。朝食時にこの話を夫に伝えたら、
「じゃあ帰りにでも寄って買ってこよう。これも何かの縁だから」
ということになった。
 飛騨萩原駅に着いて列車を降りた時には本降りの雨。駅前で迎えの車に乗った。馬瀬川沿いの道を走って『美輝の里』に到着。ここは寝風呂やジャグジーはもちろん、サウナ、打たせ湯、露天風呂など15種の風呂の楽しめる温浴施設でもある。今は亡き母を連れて息子と一緒に車で来た時もあった。今回は列車の旅を楽しむことにしたのだ。
 激しく降っていた雨も夜半には上がり、部屋の窓からは満天の星空が眺められた。普段住んでいる名古屋では、人工の光に遮られて夜空に星は数えるほどしか見られない。頭上には壮大な宇宙が広がっていることに気付かずに暮しているのだ。だから、天の川を含む星空の輝きに圧倒されてしまった。しかも、河鹿の鳴き声も聞こえてくる・・・

         
闇夜透くせせらぎ淡し河鹿笛  妙好
         
天頂へ沸き立つ夏の天の川   妙好


 翌日は宿の車で飛騨萩原駅まで送ってもらった。昔懐かしい木造駅舎である。この地は『飛騨街道萩原宿』と言い、江戸時代は天領として栄えたところだそうだ。
 駅近くの高台にある諏訪神社はかつての城趾で、石垣や堀の一部が今でも残っている。境内では地元の人々がゲートボールを楽しんでいた。騒がしい本殿前を避けて、木立に囲まれた小さな社のある場所に行き、石に腰を下ろしてお握りを頬張った。
 その後、飛騨街道を歩いて和菓子屋『かつぶん』へ。近づくと、『新草あねかえし』と書かれた木組みの看板が見えてきた。見知らぬ町でふと親しい人に出会ったような懐かしさがこみ上げてきた。
 しかし、近づくと看板の左下隅に「売り切れ」の文字。思わず夫と顔を見あわせた。
 だが、店の前には人影がある。何やら紙包みを持った人もいる。うろうろしていると、店の人が見慣れぬ私たちに声をかけてくれた。そこで、こう話しかけた。
「私たち名古屋から来ました。出かけて来る前にラジオで萩原の『あねかえし』のことが話題になっていたので寄ったのですが」
「すみません。今日の分は予約で売り切れてしまいました」
「では他に売っているところはありませんか。この機会に飛騨萩原の名物を味わってみたいと思ったものですから」
「この近くではうちしか作っていないので・・・」
「そうですか。残念ですが仕方ないですね」
 その時である。店の前に停まっていた車の中から若い女性が降りてきた。そして、
「もしよかったらこれどうぞ」
と紙包みを差し出してくれたのだ。
「これは自分の家用のあねかえしで、箱入りじゃないんですけれど」
 思いがけない言葉に私は口ごもってしまった。
「でも・・・」
「私たちは地元ですから、またの日に買えますから。どうぞ・・・」
 車の中にいくつもの箱が積んであるのが目に入った。
「お使い物にする分はここに取ってありますのでだいじょうぶです」
 予約でまとめて買ってあちこちに配るらしい。自分の家用に買ったひと包みを譲ってくれるようだ。ありがたい申し出であった。今日手に入らなければ私たちは『あねかえし』のなんたるかも知らずに終わってしまう。(おそらく一生食べることもないだろう・・・)
「じゃあお言葉に甘えさせていただきます。おいくらですか」
 ところが、その女性はお代を受け取ろうとなさらない。運転席のご主人らしき方もその言動に頷いておられる。
「すみません。ではお名刺をいただけますか。名古屋に帰ってからお礼をしたいので」
「いいえ、お気遣いなさらずに。どうぞよい旅をなさってください」
 さわやかな笑みを残して車で去って行かれた。
 帰りの特急ひだの座席に腰を下ろし、暮れゆく景色を眺めながら頂いた包みを開いた。それは思ったより小ぶりの、二つ折りにした生地に餡を包んだ上品なお菓子であった。
 口に含むとさわやかな蓬の香りが広がった。(長谷川妙好)


令和6年2月

  一年を振り返って

 俳句と出会ったのは小学校の授業だったかと記憶している。高校では古典文学を学習したのであるが、全く授業についていけず赤座布団が定位置だった。ラグビーボールを追いかけてグランドを走り回り、語学的・文学的素養とは無縁の毎日を送っていたのである。時は流れ所帯を持ったのを契機に、飛騨高山に地縁を得た。妻の実家である。書棚には能村登四郎全句集、林翔「光年」、歳時記などの俳句に関わる書物が並んでいた。母が俳壇「沖」の会員として俳句に親しんでいたのである。一人居となった母の様子を伺いつつ月一のペースで高山に通ううちに、私は自ずとこれらの俳句本をつまみ読みするようになっていた。文才の乏しい私にとって俳句は意味難解の短詩なのだが時間潰しにはなった。そんな私でも母の残した句帳を紐解けば沁み入るように胸に迫るのである。母の性格や飛騨の冬路を老身一つで生きる暮らし振りを知っているからであろうか。心中の襞を推し量り目頭が熱くなった。自分もいつの日か枯淡の境地を詠う俳句を作れるようになりたいと思うようになったのである。母の俳句をここに紹介する。
   初夢や亡夫との旅のつづきをり    美知
   ひとつづつ灯の消へゆきて虫の国   美知
   風邪ひくなはなれ住む子の便りかな  美知
   深々と北向く窓の雪明り       美知


 俳句を始めるに際し、伊吹嶺を選んだ理由は、中部地区に拠点があり、句会が多彩で、インターネット部が存在したこと。余生の過ごし方を模索しながら、ボケ防止にも役立つと思い令和5年1月に入会し、いぶきインターネット句会に所属した。70の手習いである。入会に際しては瀬戸市の矢野孝子さんに随分世話になり、この場を借りてお礼申し上げる。
 まず、俳句の「俳」について調べてみた。「たわむれ・わざおぎ。道化・曲芸」とある。ならば肩肘を張らず、気楽に言葉に遊ぶことが俳句の本意だと早合点。適当に言葉を選び組み合わせ、1つ季語を入れて完成させるものと、安直に考えてしまった。当初は三段切れ、「や切れ」と「けり」の併用、文語文法の誤用などミスの連続だった。ネット句会においてミスはコメント欄に文字で指摘訂正され、それを目視できるのが良い。俳句初心者には最良のシステムだと思う。俳句にも野球やマージャンのように一定のルールが存在する。ルールをわきまえなければ、「俳」に成らないのだ。俳句の基本は新井酔雪部長から4か月に渡り丁寧にご指導していただいた。それが少しずつ骨格、礎と成りつつあるのではないかと思っている。心から感謝を申し上げる。
 11月に八丁味噌蔵と岡崎公園のオフ句会に出席させていただき、新井部長やネットの皆様に初めてお会いでき、河原地主宰や栗田先生にも面通しができ、とても有意義な1日となった。河原地主宰の冒頭の挨拶の中に句の評価ポイントとして「物事をしっかりと写生できているか、その中に如何に気持ちを乗せているか」という言葉が有った。作句上の核心を突く言葉だと思いました。「即物具象」は概念として捉えてみるが、禅問答のようで、難解である。河原地主宰の言葉は「即物具象」をかみ砕いて解りやすく言い換えられた言葉だと思えるのだが、間違いだろうか。客観写生の中にどうやって気持ちを注入するか。ハードルは高い。近々の後期高齢者に乞うご指導!(兼松啓広)

  高山を少し紹介。

  
  飛騨国分寺大銀杏:国の天然記念物 樹齢:約1250年以上 樹高:約28m 樹周:約10

   匂ひたつ千古の銀杏千々散らふ  啓広
   黄落の音やはらかや大銀杏    啓広

        藤匂ふ町家ゆかしき飛騨格子  啓
  高山上三之町 久田屋:郷土料理店 軒庇の藤蔓


令和6年1月

  憧れの地 吉野

 夏休みの終り頃、妻が友達と2泊3日の旅行に行くというので、私も一人旅をしようと思い立った。頭に浮かんだのは憧れの地、吉野。吉野と言えば、歴史のある聖地、修験道、役行者、金峯山寺、大海人皇子、後醍醐天皇、千本桜、吉野葛。

 名古屋から近鉄に乗り吉野へ。目指すは金峯山寺。
 近鉄吉野線は吉野川沿いを走る。車窓から吉野川を見ると多くの鮎釣りがいた。時々釣り人が竿を立てて、釣った鮎を寄せる姿が見られた。ふと父を思い出した。父は鮎釣りが好きだった。「お前にも鮎釣りを教えてやる」と言っていたが、その約束は果たせず、今は鬼籍に入っている。

   囮鮎流す糸の張り吉野川  酔雪2句
   
釣竿の撓る光や鮎の川

 吉野駅を降りて南へ200m。ロープウェイに乗る。下を見ると、ゴンドラの小さな影が青い山に張り付き、滑るように斜面を上っていた。春なら下は山桜でいっぱいであっただろう。もっと景色を楽しみたかったが、5分もしないうちに吉野山駅に着いてしまった。

 降りるとミンミンゼミの声がした。岡崎にはミンミンゼミはいない。もう一度聞こうと立ち止まっていたが、声はなかった。金峯山寺に向かって歩く。案内図を見ると600mほどだ。

 吉野山駅を出てしばらく歩くと金峯山寺の総門である黒門があり、そこから旅館、飲食店、みやげ物店などの並ぶ上り坂の参道を行くと、途中に大きな銅鳥居(かねのとりい)があった。扁額には発心門と書いてあり重々しく迫力があった。この鳥居をくぐる者の覚悟を問うているような感じがした。

 そして、吉野山駅から10分ほどのところに仁王門。残念なことにその仁王門は修理中。その先の小高くなった敷地に本堂(蔵王堂)が建っていた。蔵王堂の前に立つと、その大きさに圧倒された。東大寺の大仏殿に次ぐ大きさだとか。

 蔵王堂の中に入る。中は涼しく香の匂いが立ち込めていた。内陣にはご本尊の金剛蔵王大権現3体を納めた厨子があった。本尊は秘仏で、決められた日にしか公開されない。しかし、脇に本尊の写真が掲示してあった。青い肌をした怖い顔の仏様で、高さは7mぐらい。実物はかなりの迫力だろう。

 蔵王堂を出ると、ミンミンゼミの声。見晴らしの良い所に移り、周りの山々を見る。ミンミンゼミの声は山の中腹あたりからしていた。(新井酔雪)


   本殿が我に被さる蝉の声    酔雪2句
   みんみんの峪の深さや蔵王堂


     

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