令和6年11月
徳川茶会
毎年秋になると徳川美術館では、徳川茶会が催される。
今年は10月13日から11月4日のあいだの土曜日、日曜日、祝祭日の8日間の日程で行われる。
日頃はガラス越しにしか見ることができない、茶碗、茶入れなど茶道具を直に手に取り濃茶やお薄を頂くことができる貴重なひとときである。
私は初日の10月13日(日)に席をとり秋の一日をゆっくり過ごすことにした。
本席は「餘芳軒」と名の付いた広間でお濃茶を頂く。掛軸は〈藤原定家の自筆の書状〉・・・読むのは難しい。しかし特徴のある定家の筆跡はどことなく丸っぽくて親しみのある字である。
茶入れは大名物と言われる〈唐物〉の丸壺、茶杓は〈武野紹鷗)作。手に取るのに緊張が走る。釜は<芦屋釜>水指は<青磁>と名品が続く。
年に一度のこの茶会は、毎回ほどよい緊張と同時にゆっくりと時間の流れに身を置いて過ごす。非日常を感じることも心の洗濯と自ら称して楽しんでいる。
濃茶がすめば、後は気楽なお薄と美味しいお料理を楽しむ。その後は、源氏絵巻等秋の展示品をゆっくり鑑賞して満足の一日を終えた。(酒井とし子)
本席は定家の書状秋日和 とし子
秋草の野にあるやうに茶会かな とし子
令和6年10月
琵琶湖大花火大会
8月8日バスツアーで、琵琶湖の花火大会へ行ってきました。最近は、テレビでみるだけだったので、思い切って申し込みました。名古屋駅を12時半に出て、途中、「ラコリーナ近江八幡」で休憩。
大津駅には17時頃着き、駅の周り、道筋は浴衣姿の人、花火大会へ行く人で溢れていました。臨時駐車場でバスをおり、20分位添乗員の後を歩き、琵琶湖競艇場の臨時観覧席で弁当を食べ、時間になるのを待ちます。だんだん、あたりも暗くなり、風も心地良い時間となりました。
19時半、知事の挨拶があり、プロローグの3号玉が揚がります。
春 夏 秋 冬 テーマにあわせたスターマインが揚がります。周りの観客の驚きと感動の声が聞こえます。
グランドフイナーレの水中スターマインで、あっという間の1時間が過ぎました。
帰り道も又渋滞、その道すがら、車いすの高齢の女性が、家族の人に「今年も見られた。見ると、又来年もと思う位感動するね」と話すのが聞こえてきました。
高速道路も渋滞で、名古屋には日付が変わって着きました。疲れたけれど、花火を体感でき、満足した1日でした。(野崎雅子)
揚げ花火湖に極彩うつしけり 雅子
揚がる度歓声あがる大花火 雅子
爆音の水面揺るがす揚げ花火 雅子
令和6年9月
戸隠奥社
長野県長野市にある戸隠山のふもとには、奥社、中社、宝光社、九頭龍社、火之御子社の五社からなる戸隠神社がありますが、その中の奥社へ、今年5月行ってきました。奥社は昨年、伊吹嶺関東支部の吟行旅行で訪れたり、年に1度は訪れるなじみ深い場所。参道入り口から、奥社までは約2キロの距離で、ちょうどよい散歩コースでもあります。大鳥居をくぐると、早速老鶯の鳴き声が迎えてくれました。美しい鳴き声は思わず真似をして答えたくなります。
老鶯を真似る口笛橅林 ひろ子
参道両脇には、細いせせらぎが続いています。ミズバショウは終わっていましたが、リュウキンカやニリンソウ、エンレイソウが咲いていていました。ほどなく茅葺屋根で朱塗りの随神門が見えてきました。
随神門屋根の青羊歯日を集む ひろ子
ここまででほぼ道のりの半分。この先景色は一変し両側に400年余りの杉並木が続きます。緑は濃さを増し、虻も出現。背に木洩れ日が差し輝いていました。
木洩れ日や虻の背中の黄金色 ひろ子
徐々に道が登り坂になり汗もかき始めました。倒木に生えている苔が美しい緑色を放ち、杜鵑の鳴き声に励まされながら、さらに急登を頑張って登ると、万緑を背にした白壁の奥社にたどり着きました。
柏手を打つ万緑に響かせて ひろ子
参道の古木から自然のパワーを感じながらの往復は、とても清々しいです。参拝を終え鳥居を出ると、熊笹のソフトクリームや、戸隠蕎麦のお店があるのでそれを励みに歩くことも楽しいものです。(奥山ひろ子)
令和6年8月
近江の歌枕 淡海・鳰の海
以前に、よもやま通信として近江の歌枕について何回か書かせていただきました。続編として何処を取り上げようかと想いを巡らせていたところ、最大の歌枕である琵琶湖がまだであったことに気が付きました。「滋賀には琵琶湖しか無い」と、言われるくらいの存在ですが、典拠とする和歌は意外と少ないようです。その広さの故に捉えどころが無く、それよりも周辺の景勝地にポイントを絞った方が鮮明な印象を与えられるからなのでしょうか。
淡海の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのに古思ほゆ 万葉集巻三266 柿本朝臣人麻呂
淡海の海の夕波に遊ぶ千鳥よ、お前が鳴くとしみじみとした気分になって昔のことが想い起こされてならない。
と、解説するまでもなく、この歌はおそらく万葉集で最も著名な歌の一つであろうと思われます。ここに思い出される「古」は大津京の有った時代に他なりません。作者の人麻呂は持統・文武天皇朝の宮廷歌人ですから、関係の深い近江朝廷を偲ぶのは職務の一環とも考えられます。万葉第一の歌人と呼ばれ、後世「歌聖」と讃えられた才が存分に発揮され、格調高く歌い上げられています。
天智天皇の大津京は、近江神宮の南東、錦織の地にありました。この歌もそのあたりを訪れて詠まれたものと推測されますが、広大な湖辺のどこかで想念を巡らせただけだったのかも知れません。柿本人麻呂は生没年不詳で経歴も定かではありませんが、出身地としては大和、近江、石見の諸説があり、近江であったとしたら更に想像が膨らむところです。
鳰の海や霞のをちに漕ぐ船の真帆にも春の景色なるかな 新勅撰集春歌 式子内親王
あゝ、琵琶湖を覆っている霞の中を漕いでゆく船のしっかりと広がった帆にも春の情趣が満ちていることだなあ。
歌の眼目は「まほにも春の景色なるかな」というところでしょう。「まほ」は「真穂」との掛詞になっていて、完全に、まったくの意味が含まれ、当然「真帆」でもある訳です。また、「まほ」を「帆」の掛詞としている用例から、源氏物語「早蕨」の薫君の歌「しなてるや鳰の湖に漕ぐ船のまほならねどもあひ見しものを」の本歌取りとなっていて、王朝文化の雰囲気を取り入れたものと解釈されています。
作者の式子内親王は後白河天皇の皇女、加茂斎院に卜定されたこともあり、生涯独身であったと云われています。一般には源平合戦として知られる治承・寿永の乱の端緒となる挙兵を行った以仁王は同母弟です。和歌の師は藤原俊成で、その子の定家とも親交がありました。理知的で、巧緻な技法のうちに詩情を湛えた詠みぶりは新古今の歌風を代表する歌人と評されています。
鳰の海や月の光のうつろへば波の花にも秋は見えけり 新古今集 秋歌上 藤原家隆
湖を煌々と照らす月の光で花が咲いたように見える波頭も月光の移ろいに秋の気配が感じられることだ。
と、拙訳では心もとなく意味不明の気味ですが、そこは新古今の歌ですから本歌があります。「草も木も色変われどもわたつ海の波の花にぞ秋なかりける」(古今集秋下・文屋康秀)草も木も秋の色に変わっているけれど波の花の色は変わらず季節感はないではないか、というのです。これに対して家隆は移ろう月の光によって秋が見えている、と云っているのです。
作者の藤原家隆は新古今和歌集の選者の一人で、定家とはライバル関係にあった存在でした。歌人としての実力は、「家隆は末代の人丸(柿本人麻呂)にてさぶらふなり」(古今著聞集)と評価されているほどのものです。歌の師は定家の父の俊成で、先の式子内親王と同じです。さらに「(俊成の兄である)寂蓮法師の婿となった」とありますから、因縁浅からぬものがあったようです。
鳰の海を詠んだ歌は、まだいくつかあるのですが、「歌枕としての琵琶湖を解説する」などという試みは、かなり無謀なことであったと悟りましたのでこの辺で終わりとします。(浜野秋麦)
令和6年7月
修学院離宮
5月初旬、京都句会に参加した翌日修学院離宮へ出かけた。修学院離宮を訪ねるのは初めてである。京都句会の方からバスの路線系統、降車場、道順を教えてもらい、修学院道バス停から川沿いの道を歩くと、京都も少し郊外に来たという印象である。離宮は江戸時代初期に御水尾天皇によって建てられた山荘で、比叡山麓に借景を活かした広大な敷地に下離宮、中離宮、上離宮と呼ばれる建物と庭園がある。
ガイドの先導で、3か所の離宮を巡る。参観者のうち3分の1くらいは外国人旅行客で、音声ガイドを利用していた。3つの離宮への道は松並木で繋がっており、途中には棚田が広がっていた。松並木のところでは松の剪定が行われていた。シートを何枚も敷いて1本の松を庭師が5人がかりで手入れをしていた。
剪定や松一本に五人来て 範子
下、中、上離宮へと巡っていくにつれ小高い台地になるため、何か所か石段を上ることもある。脚力には自信がなく心配だったのだが、帝がお渡りになった道である。それほど急な石段はなく、どこも歩きやすかった。離宮にはそれぞれ意匠を凝らした部屋があった。ここで和歌を詠んだり客人を持て成していたのだろうか。上離宮から眺める風景は特に素晴らしい。庭園には楓が多く植えてあり、青楓が目に優しかった。秋には見事な紅葉になることだろう。
架け替へし小橋の木の香夏近し 範子
萍の友禅めくよ離宮池 範子
紅葉の頃にもぜひ行きたいものだと思いながら、修学院離宮をあとにした。修学院離宮から徒歩5分ほどのところに赤山禅院があり、ここも京都句会の方に薦めてもらって訪れた。延暦寺の別院の一つで、京都御所の表鬼門を守護する方除けの寺として、また七福神巡りとして有名な寺院だそうだ。拝殿の屋根に京都御所の猿が辻という場所と呼応して猿が安置してあるとのこと。ゆっくり巡り、赤山禅院を後にして修学院離宮道のバス停へ向かった。この日の歩数計は15000歩で、私にしてはよく歩いたなあと思う1日だった。(伊藤範子)
令和6年6月
近頃の若者は
年取ってくるとなぜか分別くさくなり、若者との価値観の違いが受け入れにくくなる。つい「近頃の若者は」と口に出し、この後は良い感じのしない言葉が続く。しかし、私は最近この常套句を返上したいと思うことがいくつかあったので紹介したい。
1つは、この3月の下旬のこと。小雨が降る肌寒い日曜日だった。夫と私は、16時からのコンサートにどうにか間に合うように、高速道路を急いでいた。ところが、車の調子が変だ。なにやらボンネットの辺りでバタバタと不吉な音がする。しかも、左側の隙間からうっすら白煙が上がっているではないか。窓を開けるときな臭い匂いがする。
急いで都市高速を降り、交差点手前の右折車線に入った処で、とうとう車は動かなくなった。15万キロ乗っている。エアコンに不具合があることは分かっていた。しかし、これはちょっとおかしい。触ると火傷しそうなボンネットを開けたら、給水バルブが外れていた。
JAFに電話すると、別件が終わらず、後30分はかかるという。車から降りて安全な処で待つように指示があり高速の高架下で、2人してつくねんと立っていた。これはコンサートは無理だなとしょんぼりしていると、傍の横断歩道から、赤い傘をさした女子大生らしい人が我々の方にやって来た。
「大丈夫ですか?助けを呼ばれましたか?」と、優しく声を掛けてきた。JAFを待っていると伝えると安心した様子で帰って行った。ところが、10分程して同じ傘が横断歩道を渡っている。『あれさっきの子だね、どうしたんだろう?』と主人と見ていると、彼女はまたこちらに来た。
「これ、どうぞ使って下さい。」と、ホッカイロを2枚ずつ、おまけに饅頭まで、はにかみながら差し出してくれたのだ。思いがけないことで躊躇したがせっかくの気持ちだ、有難く頂戴した。彼女はお返しされるのを避けるように大きな声で「さようなら」と言って足早に立ち去った。あっという間で、彼女の名前も聞いてなかったことやチケットをあげればよかったと後から気づいた。
ホッカイロは冷え切った手に暖かかったし、中央分離帯のコンクリートに座って口にした饅頭は甘くておいしかった。JAFは、それから30分以上たってやっと来た。コンサートは流れ、車は廃車となる散々な日だったが、彼女のことは今思い出しても涙がじわっと溢れて来る。
もう1つ忘れられないのは、1年ほど前、横浜へ日帰りした時のことだ。私の所謂「押し」の単独ショーがあり、取れないと思われていたチケットが当選し、行ったことのないアリーナへ1人で出かけた。行きは完璧に予習して、予定通りに無事たどり着き、ショーは素晴らしく、九州から来たという隣席の知らない人と盛り上がり大満足だった。問題は帰路だった。
どこかで事故があったらしく、ダイヤが乱れ、乗り換えが分からず、私は聞いたことのない小さい駅で降りた。頭が混乱していた。駅員も見当たらない。
多分これかなと勝手に見当をつけて、その時ホームに止まっていた電車に乗り込んだ。ドアの近くに立っていた若いサラリーマンふうの人に、「この電車は新横浜に行きますか?」と訊いたら、「行きませんよ」という答え。仕方なくその電車を降り、ホームの電光掲示板の訳の分からない時刻表を見上げていた。
すると、さっきの男性がそばに来て、いっしょに掲示板を見て、「この時間で一番早く行けるのは、〇〇番線の電車ですよ。この階段を上って向かいのホームに行けば乗れますよ。」と丁寧に教えてくれた。その間にこの人が乗っていた電車はホームを出て行った。彼は私のために一電車見送ったのだ。私はとにかく急いで階段を上り、振り返りながら「ごめんなさい」と「ありがとう」を繰り返した。都会の人は冷たいという先入観があったが、こんなに親切な人もいるんだと泣きそうになった。
私は新横浜で無事新幹線に乗ることができた。
この2つの事例で十分だと思う。実は前例のJAFの若者も素晴らしい対応と人間性を見せてくれたのだが、長くなるので割愛する。私は声を大にして言いたい。「近頃の若者は、(老人に)親切で機転が利き、しかも見返りを求めぬ素晴らしくできた人たちである。」と。(鈴木未草)
令和6年5月
ホーチミン
コロナ禍前の話で恐縮ですが、記憶に残る旅として紹介させていただきます。セントレアからベトナム航空直行便で約6時間、ホーチミンへ。乗務員さんはほとんどベトナムの方のように見えたが、日本語も達者なようでひとまず安心。機内食は薄味のベトナム料理?らしく高齢の夫婦も満足。
ホーチミン市は南部に位置しベトナム最大の商業都市。1975年のベトナム戦争終結まではサイゴンと呼ばれ、南ベトナムの首都。かつてのフランス統治下の影響を受け「東洋のパリ」と呼ばれる街並みと経済成長での高層ビル、雑多なバイク渋滞などが混在する。
2日目ホーチミン市内観光(統一会堂〜サイゴン大教会〜
中央郵便局〜ベンタイン市場〜ティエンハウ廟)街には人が
溢れ、車よりバイク天下の道路。日本製?バイクに4人乗り 越南へ先づ機内食うろこ雲 みつ子
まで認められているようで市民の大切な足。店舗、ホテル、
レストラン等は勤労者で溢れ、人手不足で少数精鋭を求められる日本と比べて活気がある。ホーチミンで「元気」貰ってきた。食事は中華よりあっさり、薄口で堪能。そして日本の女性一人旅が多いのにびっくり。ベトナムはもう、女一人旅が出来る観光地になっていた。雨季のスコールは大したことなく夕立程度で、すぐ止んでしまうし、雨の降っている時間を上手く利用して博物館見学やティタイムに当てられる等、卒のない日程が組まれていた。
旗なびく統一会堂天高し みつ子 スコールはスイーツ付のティタイム みつ子
宵闇を照らすライダー勇ましき みつ子 ベンタイン市場の活気秋の宵 みつ子
最終日メコン川・ミトー観光〜フットマッサージ〜 水上人形劇鑑賞〜 空港へ 昼食は ミトーで「エレファントイヤーフィッシュ」の唐揚げを春巻で巻いて。 往路フライトは 7割乗車でした
が帰路は満席。半分程度はベトナム人で、勤労や研修ビザでの来日のようでした。(伊藤みつ子)
空澄みて波打つ赤きメコン河 みつ子 トロピカルフルーツ三昧秋うらら みつ子
エレファントイヤーフィッシュの姿揚げ コミカルな伝統水上人形劇
令和6年4月
俳句の背景
野水仙群れてダム湖へなだれ咲く もきち
コロナ禍による旅行の自粛を解放5年ぶりに再開。車を止めたので各駅停車でのんびりと房総半島を一周してきました。見返り美人図で名高い菱川師宣の生地である鋸南町は、水仙の群生地として知られ、江戸時代には江戸の武家屋敷や町家に売られ、「元名水仙」と呼ばれ親しまれてきました。町内には江月水仙ロード、をくずれ水仙郷、佐久間ダム湖親水公園の三大群生地があり、今回は佐久間ダム湖親水公園に行きました。親水公園は農業用ダムとして大崩地区に造られた佐久間ダム湖の湖畔に整備され、水仙はダムの法面に植栽、湖畔の斜面いっぱいに咲き誇り、甘い香りに身も心も包まれました。
声揃へ走る渚や寒稽古 もきち
安房鴨川温泉に1泊、翌朝女房と海岸を散策していると、渚をランニングの男女の高校生たちを目にし、思わず1句浮かびました。
見はるかす黄一色や花菜畑 もきち
安房鴨川駅から徒歩で約20数分の「菜な畑ロード」までウォーキング。約1万坪の田畑を黄色い菜の花が埋め尽くす早春の風物詩を表現するのに多言は不要、「黄一色」に尽きます。摘んだ菜の花を家に飾り旅の思い出にしました。(森田もきち)
令和6年3月
あねかえし
今日は5月9日。ラジオ体操を終えて、いつものようにローカルニュースを流しながら朝食の準備をしていたら、
「下呂市萩原地区の伝統菓子『あねかえし』の発売が今日から始まりました」
との言葉が耳にとまった。(萩原地区だって?)と思わずつぶやいた。
その日、私たちは名古屋からJRの特急ひだに乗って飛騨萩原まで行き、馬瀬川温泉に泊まることにしていた。1泊2日の小旅行である。宿の車が駅まで迎えに来てくれる。
ニュースによれば、『あねかえし』とは蒸した米粉に蓬をまぜた生地で餡を包んだ萩原町の伝統和菓子であり、生地をひっくり返してこねて作る。「こねる」ことを地元の言葉で「あねる」と言うので『あねかえし』というとのこと。蓬の摘めるこの季節限定の菓子なのだそうだ。朝食時にこの話を夫に伝えたら、
「じゃあ帰りにでも寄って買ってこよう。これも何かの縁だから」
ということになった。
飛騨萩原駅に着いて列車を降りた時には本降りの雨。駅前で迎えの車に乗った。馬瀬川沿いの道を走って『美輝の里』に到着。ここは寝風呂やジャグジーはもちろん、サウナ、打たせ湯、露天風呂など15種の風呂の楽しめる温浴施設でもある。今は亡き母を連れて息子と一緒に車で来た時もあった。今回は列車の旅を楽しむことにしたのだ。
激しく降っていた雨も夜半には上がり、部屋の窓からは満天の星空が眺められた。普段住んでいる名古屋では、人工の光に遮られて夜空に星は数えるほどしか見られない。頭上には壮大な宇宙が広がっていることに気付かずに暮しているのだ。だから、天の川を含む星空の輝きに圧倒されてしまった。しかも、河鹿の鳴き声も聞こえてくる・・・
闇夜透くせせらぎ淡し河鹿笛 妙好
天頂へ沸き立つ夏の天の川 妙好
翌日は宿の車で飛騨萩原駅まで送ってもらった。昔懐かしい木造駅舎である。この地は『飛騨街道萩原宿』と言い、江戸時代は天領として栄えたところだそうだ。
駅近くの高台にある諏訪神社はかつての城趾で、石垣や堀の一部が今でも残っている。境内では地元の人々がゲートボールを楽しんでいた。騒がしい本殿前を避けて、木立に囲まれた小さな社のある場所に行き、石に腰を下ろしてお握りを頬張った。
その後、飛騨街道を歩いて和菓子屋『かつぶん』へ。近づくと、『新草あねかえし』と書かれた木組みの看板が見えてきた。見知らぬ町でふと親しい人に出会ったような懐かしさがこみ上げてきた。
しかし、近づくと看板の左下隅に「売り切れ」の文字。思わず夫と顔を見あわせた。
だが、店の前には人影がある。何やら紙包みを持った人もいる。うろうろしていると、店の人が見慣れぬ私たちに声をかけてくれた。そこで、こう話しかけた。
「私たち名古屋から来ました。出かけて来る前にラジオで萩原の『あねかえし』のことが話題になっていたので寄ったのですが」
「すみません。今日の分は予約で売り切れてしまいました」
「では他に売っているところはありませんか。この機会に飛騨萩原の名物を味わってみたいと思ったものですから」
「この近くではうちしか作っていないので・・・」
「そうですか。残念ですが仕方ないですね」
その時である。店の前に停まっていた車の中から若い女性が降りてきた。そして、
「もしよかったらこれどうぞ」
と紙包みを差し出してくれたのだ。
「これは自分の家用のあねかえしで、箱入りじゃないんですけれど」
思いがけない言葉に私は口ごもってしまった。
「でも・・・」
「私たちは地元ですから、またの日に買えますから。どうぞ・・・」
車の中にいくつもの箱が積んであるのが目に入った。
「お使い物にする分はここに取ってありますのでだいじょうぶです」
予約でまとめて買ってあちこちに配るらしい。自分の家用に買ったひと包みを譲ってくれるようだ。ありがたい申し出であった。今日手に入らなければ私たちは『あねかえし』のなんたるかも知らずに終わってしまう。(おそらく一生食べることもないだろう・・・)
「じゃあお言葉に甘えさせていただきます。おいくらですか」
ところが、その女性はお代を受け取ろうとなさらない。運転席のご主人らしき方もその言動に頷いておられる。
「すみません。ではお名刺をいただけますか。名古屋に帰ってからお礼をしたいので」
「いいえ、お気遣いなさらずに。どうぞよい旅をなさってください」
さわやかな笑みを残して車で去って行かれた。
帰りの特急ひだの座席に腰を下ろし、暮れゆく景色を眺めながら頂いた包みを開いた。それは思ったより小ぶりの、二つ折りにした生地に餡を包んだ上品なお菓子であった。
口に含むとさわやかな蓬の香りが広がった。(長谷川妙好)
令和6年2月
一年を振り返って
俳句と出会ったのは小学校の授業だったかと記憶している。高校では古典文学を学習したのであるが、全く授業についていけず赤座布団が定位置だった。ラグビーボールを追いかけてグランドを走り回り、語学的・文学的素養とは無縁の毎日を送っていたのである。時は流れ所帯を持ったのを契機に、飛騨高山に地縁を得た。妻の実家である。書棚には能村登四郎全句集、林翔「光年」、歳時記などの俳句に関わる書物が並んでいた。母が俳壇「沖」の会員として俳句に親しんでいたのである。一人居となった母の様子を伺いつつ月一のペースで高山に通ううちに、私は自ずとこれらの俳句本をつまみ読みするようになっていた。文才の乏しい私にとって俳句は意味難解の短詩なのだが時間潰しにはなった。そんな私でも母の残した句帳を紐解けば沁み入るように胸に迫るのである。母の性格や飛騨の冬路を老身一つで生きる暮らし振りを知っているからであろうか。心中の襞を推し量り目頭が熱くなった。自分もいつの日か枯淡の境地を詠う俳句を作れるようになりたいと思うようになったのである。母の俳句をここに紹介する。
初夢や亡夫との旅のつづきをり 美知
ひとつづつ灯の消へゆきて虫の国 美知
風邪ひくなはなれ住む子の便りかな 美知
深々と北向く窓の雪明り 美知
俳句を始めるに際し、伊吹嶺を選んだ理由は、中部地区に拠点があり、句会が多彩で、インターネット部が存在したこと。余生の過ごし方を模索しながら、ボケ防止にも役立つと思い令和5年1月に入会し、いぶきインターネット句会に所属した。70の手習いである。入会に際しては瀬戸市の矢野孝子さんに随分世話になり、この場を借りてお礼申し上げる。
まず、俳句の「俳」について調べてみた。「たわむれ・わざおぎ。道化・曲芸」とある。ならば肩肘を張らず、気楽に言葉に遊ぶことが俳句の本意だと早合点。適当に言葉を選び組み合わせ、1つ季語を入れて完成させるものと、安直に考えてしまった。当初は三段切れ、「や切れ」と「けり」の併用、文語文法の誤用などミスの連続だった。ネット句会においてミスはコメント欄に文字で指摘訂正され、それを目視できるのが良い。俳句初心者には最良のシステムだと思う。俳句にも野球やマージャンのように一定のルールが存在する。ルールをわきまえなければ、「俳」に成らないのだ。俳句の基本は新井酔雪部長から4か月に渡り丁寧にご指導していただいた。それが少しずつ骨格、礎と成りつつあるのではないかと思っている。心から感謝を申し上げる。
11月に八丁味噌蔵と岡崎公園のオフ句会に出席させていただき、新井部長やネットの皆様に初めてお会いでき、河原地主宰や栗田先生にも面通しができ、とても有意義な1日となった。河原地主宰の冒頭の挨拶の中に句の評価ポイントとして「物事をしっかりと写生できているか、その中に如何に気持ちを乗せているか」という言葉が有った。作句上の核心を突く言葉だと思いました。「即物具象」は概念として捉えてみるが、禅問答のようで、難解である。河原地主宰の言葉は「即物具象」をかみ砕いて解りやすく言い換えられた言葉だと思えるのだが、間違いだろうか。客観写生の中にどうやって気持ちを注入するか。ハードルは高い。近々の後期高齢者に乞うご指導!(兼松啓広)
高山を少し紹介。
飛騨国分寺大銀杏:国の天然記念物 樹齢:約1250年以上 樹高:約28m 樹周:約10m
匂ひたつ千古の銀杏千々散らふ 啓広
黄落の音やはらかや大銀杏 啓広
藤匂ふ町家ゆかしき飛騨格子 啓広
高山上三之町 久田屋:郷土料理店 軒庇の藤蔓
令和6年1月
憧れの地 吉野
夏休みの終り頃、妻が友達と2泊3日の旅行に行くというので、私も一人旅をしようと思い立った。頭に浮かんだのは憧れの地、吉野。吉野と言えば、歴史のある聖地、修験道、役行者、金峯山寺、大海人皇子、後醍醐天皇、千本桜、吉野葛。
名古屋から近鉄に乗り吉野へ。目指すは金峯山寺。
近鉄吉野線は吉野川沿いを走る。車窓から吉野川を見ると多くの鮎釣りがいた。時々釣り人が竿を立てて、釣った鮎を寄せる姿が見られた。ふと父を思い出した。父は鮎釣りが好きだった。「お前にも鮎釣りを教えてやる」と言っていたが、その約束は果たせず、今は鬼籍に入っている。
囮鮎流す糸の張り吉野川 酔雪2句
釣竿の撓る光や鮎の川
吉野駅を降りて南へ200m。ロープウェイに乗る。下を見ると、ゴンドラの小さな影が青い山に張り付き、滑るように斜面を上っていた。春なら下は山桜でいっぱいであっただろう。もっと景色を楽しみたかったが、5分もしないうちに吉野山駅に着いてしまった。
降りるとミンミンゼミの声がした。岡崎にはミンミンゼミはいない。もう一度聞こうと立ち止まっていたが、声はなかった。金峯山寺に向かって歩く。案内図を見ると600mほどだ。
吉野山駅を出てしばらく歩くと金峯山寺の総門である黒門があり、そこから旅館、飲食店、みやげ物店などの並ぶ上り坂の参道を行くと、途中に大きな銅鳥居(かねのとりい)があった。扁額には発心門と書いてあり重々しく迫力があった。この鳥居をくぐる者の覚悟を問うているような感じがした。
そして、吉野山駅から10分ほどのところに仁王門。残念なことにその仁王門は修理中。その先の小高くなった敷地に本堂(蔵王堂)が建っていた。蔵王堂の前に立つと、その大きさに圧倒された。東大寺の大仏殿に次ぐ大きさだとか。
蔵王堂の中に入る。中は涼しく香の匂いが立ち込めていた。内陣にはご本尊の金剛蔵王大権現3体を納めた厨子があった。本尊は秘仏で、決められた日にしか公開されない。しかし、脇に本尊の写真が掲示してあった。青い肌をした怖い顔の仏様で、高さは7mぐらい。実物はかなりの迫力だろう。
蔵王堂を出ると、ミンミンゼミの声。見晴らしの良い所に移り、周りの山々を見る。ミンミンゼミの声は山の中腹あたりからしていた。(新井酔雪)
本殿が我に被さる蝉の声 酔雪2句
みんみんの峪の深さや蔵王堂
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